第20篇 戦時下のルーズベルト――同じ戦時国家が生んだ二つの顔
この篇の目次
一 同じ戦時国家の二つの顔
前篇の末尾で述べたように、再編法によって装備を整えたばかりの行政国家は、真珠湾の砲火を境に、かつてない総動員へと踏み出していく。1939年のヨーロッパでの開戦から1945年のルーズベルトの死まで。この六年間で本当に重要なのは、アメリカが参戦したという事実だけではない。アメリカの「構」が、総力戦という条件のもとで、初めて全面的に世界へと投射されたことだ。
まず、この六年間を構造の面からどう捉えるかを示しておこう。一方でルーズベルトは、「四つの自由」によって戦争の目的を普遍主義の政治言語で語り、武器貸与法、大西洋憲章、国際連合の設立準備を通じて、半ば孤立していた大国アメリカを、世界秩序を設計する国へと押し出した。他方、総力戦は連邦の行政国家を空前の規模へと膨らませた。戦時生産、物価と賃金の統制、諜報と宣伝、徴税と徴兵、それを支える金融。これらが一体となって巨大な動員機構を形づくった。本篇で何より慎重に見なければならないのは、この二つの方向の関係である。互いに無関係な光と影なのではない。ルーズベルトが一方では善行を、他方では悪事を働いた、という話でもない。同じ戦時国家から、二つの顔が同時に生まれたのである。
この見方を本連載の流れに戻してみると、その重みがはっきりする。ウィルソンは第一次世界大戦に民主主義の名で参戦しながら、国内では異論を抑え、人種の序列を維持した。あの亀裂を初めて世界大に押し広げたのだった。第二次世界大戦のルーズベルトは、その亀裂をさらに鋭く、さらに深いものにした。「四つの自由」を掲げ、アメリカの価値を、世界のどこにいる人にも等しく保障されるべき権利として宣言した。まさにそのとき、同じ戦時国家が、日本にルーツを持つ11万人以上を、その血筋だけを理由に西海岸から強制的に立ち退かせ、拘禁していた。うち三分の二はアメリカ市民だった。本篇で明らかにしたいのは、この二つ、国外へ向かう普遍主義と、国内での最も危険な排除が、別々の出来事ではないということだ。同じ戦時機構の、同じ原動力から、同時に生まれた二つの顔なのである。
二 中立から関与へ
この戦時国家を理解するには、まず孤立から関与へと向かった道筋を見る必要がある。1930年代のアメリカの出発点には、強い孤立主義の空気があった。大恐慌と第一次世界大戦の記憶が、ともに世論と政策を孤立主義へと押しやっていた。議会は1935年、1936年、1937年と相次いで中立法を制定し、武器の禁輸、融資や海運の制限によって、ヨーロッパとアジアの紛争にアメリカを近づけまいとした。しかし1939年にヨーロッパで戦争が始まると、ルーズベルトは中立の意味を、いかなる介入もしないことから、連合国を限定的に支援することへと少しずつ書き換えていく。中立法の改正で、交戦国は現金で代金を払い、自国で運ぶ「キャッシュ・アンド・キャリー」方式による物資購入を認められた。続いて1940年の駆逐艦と基地の交換協定、そして1941年の武器貸与法へと進んだ。武器貸与法の政治的な働きは、まさにここにあった。アメリカ自身は直接戦う準備ができておらず、国民の多数もなお参戦に反対していた。それでもナチス・ドイツを打ち破るための決定的な支援を提供できたのだ。戦争を通じて、アメリカは30か国以上と武器貸与協定を結び、約500億ドルの援助を送った。
国内の反対勢力も弱くはなかった。「アメリカ・ファースト」の旗のもとに集まった世論は、参戦の危険、行政権の拡大、イギリスへの援助を、いずれもルーズベルトが国を戦争へと導く道だと見ていた。ここには構造上の重要な論点がある。孤立主義を単純な善悪の問題にしてはいけない。この「構」の内側に確かに息づいていた、アメリカの一つの伝統として捉えるべきだ。海外への関与、常備軍の拡大、行政権の集中、そして大戦争によって共和国の性質そのものが変わってしまうことへの危惧である。この伝統は、本連載の出発点にいたワシントンへとつながる。彼は告別演説で、ヨーロッパの長年にわたる政治的なもつれに巻き込まれないよう警告していた。そして実際、孤立主義者の懸念は大きな部分で的中した。この戦争は、大統領を中心とする巨大な戦争国家を「構」の中枢に据え、それはもはや後戻りのできない変化だった。1941年8月の大西洋憲章は、この転換の要となる。ルーズベルトとチャーチルの会談後に発表された共同声明である。制度史の視点から見れば、1941年とは、アメリカが国内で用いていた価値の言葉を、国際秩序の言葉へと外に押し広げた年だった。
三 四つの自由と真珠湾
本篇で読み解くべき言葉の核心は、1941年1月6日の一般教書演説で示された「四つの自由」にある。ルーズベルトは、安全なものにしようと私たちが努めている未来に、人間の四つの基本的な自由に立脚した世界を望む、と語った。言論と表現の自由。誰もが自分の仕方で神を礼拝する自由。欠乏からの自由。そして恐怖からの自由。しかも、それは世界のあらゆる場所にいる人々の自由である。これは単なる美辞麗句ではない。アメリカの戦争準備も、イギリスへの援助も、戦後秩序の構想も、すべてを普遍主義の言葉のなかに置いたのだ。
この表現が本連載にとってとりわけ重要なのは、建国期の自然権の言葉にそのまま戻ったわけではないからだ。経済危機と世界大戦を経て、自由の中身が新たに組み直されている。最初の二つ、言論と宗教は、なじみ深い市民的自由である。それに対し、後の二つ、欠乏からの自由と恐怖からの自由は、安全と物質的な生活を、この「構」の価値を語る言葉に組み入れた。「四つの自由」の後半二つは、それ自体がニューディールの言葉なのだ。ニューディールは、経済の余項を引き受ける際に、人々の暮らしの安全を約束した。ルーズベルトは今、その約束を普遍的な人権へと練り上げ、世界に向けて宣言したのである。こうして見れば、「四つの自由」は内政と外交の合流点だった。国内で育ち、社会的リスクを引き受けるようになったニューディール国家が、その価値と自己理解を、初めて世界秩序を語る言葉として外へ送り出したのだ。
その漸進的な道筋を、一気に公然たる戦争へと転じさせたのが真珠湾だった。1941年12月8日の議会演説で、ルーズベルトは冒頭の一文を自ら書き直し、「汚名とともに永遠に記憶される日」とした。同じ段落で、アメリカは突然、しかも意図的に攻撃されたと述べ、演説の最後には宣戦を求めた。演説後、上院は全会一致で宣戦を支持し、下院で反対したのはジャネット・ランキンただ一人だった。1941年の初め、ルーズベルトは「四つの自由」によってアメリカの対外目標を普遍化した。年末の真珠湾攻撃後には、あの「汚名の日」の演説によって、卑劣な不意打ちに対する自衛と報復という形で、戦争の正当性を定めたのである。両者は矛盾しない。だが、その響きは違う。前者は世界秩序を語る言葉であり、後者は戦争に人々を動員する言葉だった。そしてこの二重の語り口は、まもなく国内で進む日系アメリカ人の排除と、いっそう鋭い対照をなすことになる。
四 総力戦と行政国家の膨張
戦時の行政権拡大は、漠然と語るよりも、具体的な機関と手段を並べたほうがよく見える。1942年1月16日、大統領令によって戦時生産局が設置され、連邦の戦時調達と生産計画を総合的に指揮することになった。戦争の中盤には、その上に戦時動員局が置かれ、その下には戦時労働力委員会、物価管理局、戦時食糧局などの専門機関が広がり、巨大な連邦動員網を形づくっていた。この拡大は、アメリカ経済を直接に変えた。1939年の不変価格で測った国民総生産は、1939年の886億ドルから1944年の1,350億ドルへと増加した。戦争関連の生産は、1943年には国民総生産の40%に達し、失業率は1944年に民間労働力人口の1.2%まで下がった。アメリカ経済史上、最低水準に近い数字である。「平常への復帰」によって先送りされ、ニューディールによって和らげられながらも、ついに完治には至らなかった大恐慌を終わらせたのは、結局、戦争の総動員だった。
租税国家のあり方も質的に変わった。連邦個人所得税の課税対象となる申告件数は1939年の約400万件から1945年の約4,300万件へと増え、連邦税収は1941年には87億ドルにすぎなかったものが、1945年には約450億ドルに達した。国内総生産に占める連邦税収の割合も、約8%から20%以上へと上昇した。また、戦況、戦争政策、戦争目的への理解を国内外に広める役目を担った戦時情報局は、事実上、連邦政府の公式宣伝の中枢となった。1942年6月13日に発足した戦略諜報局は、前年に設けられた情報調整官室(COI)を引き継ぎ、集約的な諜報活動をさらに発展させた。この二つの流れは、特に指摘しておく必要がある。のちの国家安全保障国家がどこから生まれたかを、最もはっきり示す前史だからだ。
ここまでを本連載の枠組みに戻せば、これは行政権をめぐる長い流れの、これまでの頂点に当たる。ジャクソンの民意による授権から、リンカーンの戦時緊急権へ、さらにセオドア・ルーズベルトの「受託者理論」を経て、フランクリン・ルーズベルトのニューディールの行政国家へ。総力戦は、その行政の身体を空前の規模にまで膨らませた。ただし、この拡大をどう評価するかについて、歴史研究の見方は一様ではない。制度史の研究はしばしば、戦時国家を連邦の能力が飛躍した決定的な転機と見る。一方、市民的自由の歴史を研究する立場は、もともと抑制と均衡に服すべき行政権が、戦争によって、国家安全保障の名のもとに市場、社会、個人の権利へと踏み込みやすくなったことを重く見る。どちらの視点も成り立つ。肝心なのは、動員が有効に機能したことと、権力への歯止めが少なかったことを、同じものとして扱わないことだ。
五 日系アメリカ人の強制収容
本篇の中心に置くべき事例は、間違いなく日系アメリカ人の強制収容である。その前に、まず言葉の使い方を明らかにしておかなければならない。当時の政府が用いた「疎開」「移転」「再定住」といった言葉は、実態を意図的に穏やかに見せる婉曲表現だった。強制と不正義を見えなくしてしまう。だからこそ、今日のパブリック・ヒストリーでは、「強制立ち退き」「集団追放」「拘禁」といった、より正確な言葉への置き換えが求められている。
事実と仕組みを確認しよう。大統領令9066号は、1942年2月19日に署名された。注意すべきなのは、その文面では日系アメリカ人を名指ししていないことだ。陸軍長官と軍当局に軍事区域を指定する権限を与え、その区域から一部の者であれ全員であれ排除できる、としたのである。だが西海岸での実施は、たちまち日本にルーツを持つ人々全体の排除へと変わった。デウィット将軍はこの命令に基づき、11万人以上の日系アメリカ人を強制的に立ち退かせた。そこにはアメリカ生まれの市民だけでなく、その親である一世も含まれていた。数字を押さえておけば、西海岸から強制的に退去させられたのは11万人以上、そのおよそ三分の二がアメリカ市民である。収容先の実態も、「移転センター」といった言葉で覆い隠してはならない。粗末なタール紙張りのバラックに四、五世帯が同居することもあり、周囲には有刺鉄線、監視塔、武装した監視兵がいた。賃金は通常、月額最高19ドルだった。突然の移動によって、多くの家族が住居、農場、商店、設備、預貯金を失った。
軍事上の必要性を論じる際には、当時の裁判所が政府の主張をどう受け入れたのかという問題と、のちの公式調査や研究がそれをどう否定したのかという問題を、分けておかなければならない。1982年の政府委員会の調査報告は、きわめて明快な結論を示した。この拘禁は軍事的必要によって正当化されるものではなく、その歴史的原因は、人種的偏見、戦争による集団的ヒステリー、そして政治指導の失敗だった。現在の政府の見解も、主流の歴史研究も、この結論を引き継いでいる。さらに、これほど大規模な集団拘禁を正当化できるようなスパイ活動や破壊活動に日系アメリカ人が従事したと裏づける文書上の証拠はない、と明らかにしている。
この出来事を本連載の枠組みに置けば、戦時の「閉じようとする衝動」が国内で取りうる、最も極端な姿だったことがわかる。リンカーンは南北戦争で人身保護令状の効力を停止し、ウィルソンは第一次世界大戦で防諜法を用いて数千人の反戦者を訴追した。いずれも戦争の圧力のもとで、異論や疑わしい者を押しつぶし、内部を閉じ切ろうとする衝動が現れたものだった。だが日系人の拘禁は、そのどちらよりも遠くへ進んだ。抑圧の対象は、もはや具体的な行為でも言論でもない。ある集団全体の血筋そのものだったからだ。個別の審理も、具体的な証拠も要らない。血筋だけを理由に、その人も家族もまとめて追い立て、閉じ込めた。この「構」が戦争のなかで、血筋だけを基準に敵味方を分ける、純粋な排除の論理に最も近づいた瞬間だった。
六 コレマツ判決とエンドウ判決
この拘禁を司法がどう扱ったか。それは、この「構」の司法史で最も危うい局面の一つだった。1944年12月18日、連邦最高裁はコレマツ対合衆国事件で、6対3の多数により、排除命令に違反したコレマツの有罪判決を維持した。ブラック判事は多数意見で、特定の人種集団の市民的権利を制限する法律は、すべて直ちに疑いの目で見られるべきだと記した。その一方で、忠誠を尽くす者とそうでない者を速やかに見分けることはできないという軍と議会の判断を、裁判所は否定できないとし、その集団的排除命令を認めたのである。言い換えれば、コレマツ判決の歴史的な意味は、露骨な人種主義の原則を新たに発明したことにはない。厳しく吟味すると宣言しながら、行政と軍の判断を、ほとんど歯止めをかけずに追認したことにある。口では疑ってみせながら、実際には通してしまったのだ。
後世により大きな影響を残したのは、反対意見だった。マーフィー判事は、この排除が人種主義という醜い深淵へ転落していると指摘し、実質的な裏づけを欠く軍事的必要の主張によって、個人から憲法上の権利を奪うことはできないと強調した。ジャクソン判事は、さらに先を見据えた警告を発した。裁判所がこのような命令に理屈を与えて正当化すれば、それは「弾を込めた武器」のように法のなかに残り、将来、どんな権力者でも取り出して使える先例となる、と。この警告は、本連載にとってとりわけ重要だ。この「構」が何度も陥る危険を、正確に言い当てているからである。行政の緊急権は、ひとたび司法のお墨つきを得て制度化されると、先例として長く潜み続ける。そして、次の権力者が手に取るのを待つのだ。
ところが、同じ日のエンドウ判決は、別の道を選んだ。政府自身が忠実かつ遵法的だと認めているアメリカ市民を、戦時転住局が拘禁し続ける権限はない、と裁判所は判断した。西海岸の排除命令の撤回は、この判決の前日、1944年12月17日にすでに発表されており、1945年1月2日に発効した。拘禁体制は終わりに向かい始めた。コレマツ判決とエンドウ判決が並んで存在することは、司法の姿勢が一貫していたことを示してはいない。同じ裁判所が非常事態のもとで、軍の判断をどこまで認めるのか、市民の拘禁をどこで止めるのかという境界を、不安定に扱っていたのである。
戦後の修復は、三つの層に分けられる。第一は司法の層だ。1983年、原判決の誤りを正す特別な手続きによって、コレマツの有罪判決は取り消された。決定的だったのは、当初の裁判で政府が、軍事的必要性に関する証拠を隠したり、誤解を招く形で示したりしていたことだった。第二は政治と立法の層である。1988年の市民的自由法は、この不正義を正式に認め、生存者に謝罪し、資格を満たす生存者一人につき2万ドルを支給することとした。レーガンは署名に際し、この法律で最も大切なのは財産ではなく名誉だ、と語った。第三は憲法をめぐる記憶の層だ。2018年のトランプ対ハワイ州事件で、ロバーツ首席判事は、コレマツ判決は下されたその日から甚だしく誤っており、憲法のもとにある法のなかにその居場所はない、と記した。ここでも、法律が約束したことと、実際に実施されたことを分ける必要がある。1998年までに、この補償事業では8万1,974人に総額16億ドルを超える支払いが行われた。この数字が教えるのは、国が過ちを認めたからといって、損なわれたものを元どおりにできるわけではないということだ。
七 第442連隊とダブルV
日系アメリカ人の軍務は、この歴史の最も鋭い皮肉の一つをなしている。1943年2月1日に第442連隊が編成され、アメリカ本土の収容所からも志願者が加わった。ハワイ出身者による第100大隊が連隊に編入されたのは、その後の1944年である。部隊の規模と従軍期間に照らせば、この連隊はのちにアメリカ軍史上最も多くの勲章を受けた部隊となった。延べ約1万4,000人が従軍し、名誉勲章21個、パープルハート勲章9,486個を獲得した。この兵士たちを最も端的に言い表すなら、彼らは二つの戦争を戦っていたのだ。一つはドイツとの戦争。もう一つはアメリカ国内の偏見との戦争である。この皮肉は、本連載の底を流れる一本の線につながっている。第8篇では、黒人兵士たちが、自分たちにまだ平等を与えていない連邦のために戦った。そして今、アメリカ本土出身の日系兵士の多くは、自分たちの家族を収容所に閉じ込めている国のために戦ったのだった。
黒人アメリカ人の戦時体験には、国外に掲げる普遍主義と国内の排除との、もう一つの緊張が表れている。「ダブルV」とは、国外ではファシズムに勝利し、国内では市民としての平等を勝ち取る、という二重の勝利を意味する。黒人社会が、それまでにない形で戦争への協力と社会の前進を求める声を結びつけようとした、その努力を表す言葉だった。戦争は、アメリカ内部の人種序列を自動的に取り払ったわけではない。むしろ、その存在をいっそう鮮明にした。アメリカが民主主義と自由のために戦うというのなら、と黒人市民はその言葉を国に突き返したのである。この流れのなかで、制度を動かした最も重要な出来事は、ランドルフがワシントンへの大行進を予告したことだった。1941年、国防産業での人種差別を受け、ランドルフら黒人指導者は、大統領に差別を終わらせる命令を出すよう要求した。応じなければ10万人の黒人をワシントンに集め、デモを行うと迫ったのだ。ルーズベルトはついに6月25日、大統領令8802号に署名した。国防産業と政府の雇用において、人種、信条、皮膚の色、出身民族を理由とする差別を禁じ、苦情を受け付ける公正雇用慣行委員会を設けた。ただし、多くの歴史家は、この委員会の力は弱く、とりわけ南部では効果が限られたと見ている。
この物差しが繰り返し姿を現すこと自体、本連載の最も大切な主張の一つを裏づけている。なぜ、この「構」は最も深い余項を封じ込め、自らを閉じ切ることができないのか。その根本的な理由の一つは、建国の文書に普遍主義の約束を書き込んでしまったことにある。ひとたび書かれ、宣言された約束は、宣言した者だけのものではなくなる。誰もが使える道具となり、排除された者なら誰でも手に取れる物差しになるのだ。ルーズベルトが「四つの自由」を掲げたのは、対外戦争に人々を動員し、アメリカの事業に道義的な正当性を与えるためだった。しかし彼は、その物差しを誰が使うかまで決めることはしなかったし、できもしなかった。恐怖からの自由、欠乏からの自由を全世界に約束した、そのそばから、国内の黒人たちはまったく同じ言葉を用いて問い始めた。では、なぜ自分たちは今も、人種隔離がもたらす恐怖と欠乏のなかで生きているのか、と。
八 任期、ヤルタ、世界秩序
ルーズベルトの三期目と四期目は、それ自体が制度史上の事件である。ワシントンが始めた二期までという伝統は、ルーズベルトが1940年に三選、1944年に四選を果たすまで破られなかった。1940年に先例を破ると決めたことは、ヨーロッパでの開戦とフランスの陥落に直結していた。そのため支持者は戦時の指導体制の継続性を強調し、反対者は大統領の地位が長期化し、ひいては終身のものになることを危惧した。1940年代のアメリカには伝統がなかった、というのではない。危機のなかで伝統が破られ、その後、あらためて制度になったのだ。憲法修正第22条は1947年に議会で発議され、1951年に発効した。大統領への当選は原則二回までとされ、他者の任期を引き継いで二年を超えて務めた者は、一回しか当選できないと定められたのである。この、破ることと立て直すことの一往復に、「構」が伝統をどう扱うかが表れている。極限の危機では慣行を破ることもある。しかしその後、この「構」は成文の規則を設け、例外が常態に変わるのを防ごうとする。
戦後秩序をめぐって、ヤルタは歴史研究でも特に論争の多い外交上の分岐点である。1945年2月のヤルタ会談で、米英は日本を倒すにはなお長い苦戦が必要になるかもしれないと考えていた。そのため、ソ連の太平洋戦争への参戦を大きな戦略的利益と見なし、満州、南樺太、千島列島に関する一定の権益をソ連が得ることに同意した。この点をめぐって、後世にはいくつかの代表的な歴史像が生まれた。伝統的な冷戦史観は、ヤルタをルーズベルトがスターリンに譲りすぎた場として描くことが多い。修正主義の解釈は、1945年の力関係を重視し、すでに赤軍が東ヨーロッパにいた以上、譲歩は単なる甘さではなかったと見る。さらに後のポスト修正主義は、冷戦の起源を複数の当事者の相互作用として理解しようとする。もう一つ同じくらい重要なのは、ヤルタと国連の設立準備が並行して進んでいたことだ。1945年4月から6月にかけて、50か国の代表がサンフランシスコで国連憲章をまとめた。ルーズベルト政権は、かつてウィルソンが国際連盟で味わった失敗を避けるため、意識的に両党の支持を取りつけようとした。ルーズベルトの死後、トルーマン政権下の1945年7月28日、上院は89対2で憲章の批准に同意した。ルーズベルトは明らかに、ウィルソンの経験から学んでいた。孤高を貫いて孤立する同じ轍を踏まず、自ら両党と上院を、戦後秩序の設計に引き入れたのである。
九 結び
ルーズベルトの戦時の六年間を本連載の流れに戻すと、最も心に留めておくべきなのは、本篇を貫くあの見方である。国外へ向かう普遍主義と、国内での最も危険な排除は、同じ戦時国家が同時に生み出した二つの顔だった。
どちらの顔も現実であり、言葉の飾りではない。国外へ向けた顔は確かに実在した。ルーズベルトは「四つの自由」を通じて、この「構」の価値を、世界のどこにいる人にも保障されるべき普遍的な権利として宣言した。大西洋憲章と国連の設立準備を推し進め、半ば孤立していた大国を世界秩序の設計者へと変えた。ウィルソンの失敗に学び、両党の支持を求めたことで、後継者がこの世界秩序の構想を引き継ぎ、アメリカが国際連盟に加わらなかった轍を踏まずに済むための土台を築いた。国内に向けた顔もまた、紛れもない現実だった。同じ戦時国家が行政権を空前の規模へと拡大し、歯止めの弱まったその権力が結んだ最も苦い実が、日系アメリカ人の強制収容だった。血筋だけを理由に11万人以上を一括して拘禁した、純粋な排除の論理に限りなく近い国家の行為である。この二つは、別々に採点できる功績と過失ではない。同じ戦時機構の、同じ原動力から生まれた二つの顔なのだ。戦争は、人心を動員し、自らに道義的な正当性を与えるために、「四つの自由」のような普遍主義の言葉を必要とした。その一方で、国家安全保障の名のもとに、ある集団全体を敵と見なす排除を野放しにした。
ここでもまた、本連載で最も深いあの亀裂に行き着く。建国の文書に記された「すべての人は平等である」という言葉と、この「構」が実際に行う排除とのあいだには、建国以来、一度も閉じていない亀裂がある。ルーズベルトの戦時に、それはかつてない幅にまで押し広げられた。一方の端には、「四つの自由」が全世界に権利を約束する、最も高い理想を掲げた普遍主義がある。もう一方には、日系人の拘禁に見られる、血筋だけで市民の権利を奪う、最もむき出しの排除がある。そして最も深刻なのは、その両端を引き離したのが、同じ一対の手だったことだ。普遍主義を全世界へと押し広げた戦時国家こそが、国内で集団拘禁を実施した戦時国家にほかならなかった。
だが、その亀裂こそが、この「構」が閉じることを拒んでいる証でもある。ジャクソンの「弾を込めた武器」という警告、マーフィーの「醜い深淵」という反対意見、無期限の拘禁に歯止めをかけたエンドウ判決、第442連隊が血で勝ち取った名誉、普遍主義を用いて国に問いを突き返したダブルV運動、そして数十年を経て実現した、拘禁に対する国家の正式な謝罪と補償。それらはすべて、排除された余項と、裏切られた理想の言葉が、最も暗い時代にも本当には消えていなかったことを物語る。1945年4月12日、ルーズベルトはジョージア州で脳出血により死去した。同じ日、トルーマンはホワイトハウスで就任の宣誓を行った。戦時であり、かつてない長期にわたって在職した大統領が任期途中で亡くなったにもかかわらず、権力の継承は数時間で完了した。この点は、本連載にとってきわめて重要である。ニューディールと戦争によって大統領の地位が空前の大きさに膨らんでも、この「構」の古くからある継承の仕組みは、変わらず働いていたのだ。「構」の最も深い力は、特定の強い指導者にあるのではない。最も強い指導者が死んだ後でさえ、誰か一人の人間に依存することなく、権力を穏やかに次へ渡していける。その構造にこそある。