Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition

第19篇 ローズヴェルトのニューディール(下)――拡張が抑制と均衡にぶつかるとき

Han Qin (秦汉) · 鑿構周期律 · アメリカ大統領シリーズ — 第19篇、全26篇 · 2026年
この篇の目次

一 拡張が抑制と均衡にぶつかるとき

前篇の結びで述べたように、この「構」に組み込まれた古くからの権力分立は、ニューディールがもたらした未曽有の行政権拡大に、激しく反撃することになる。圧倒的な勝利で再選されたばかりの大統領が、自分の政策を繰り返し退けてきた最高裁判所そのものの改造に乗り出すのである。1937年の最高裁改組危機は、ニューディールの拡張が制度の境界に突き当たり、押し返され、後退を余儀なくされたことを、最も鮮明に示す出来事だった。

まず、この危機がどの地点で起きたのかを押さえておこう。ローズヴェルト個人の政治的威信も、所属政党の優位も、まさに頂点にあった。1936年の大統領選で彼が獲得した選挙人票は523。落とした州はメインとヴァーモントの二つだけだった。第75議会の発足時、下院では民主党が334議席を占め、共和党はわずか88議席である。つまり、改組案を正式に提出したとき、彼は大統領が手にできる政治的資源を、ほとんどすべて握っていた。その絶頂にいた大統領が、この危機では結局、引き下がらざるをえなくなったのである。

争いの核心は、よくある大統領と野党の対立より、はるかに深いところにあった。大統領は、自分への歯止めとなる独立機関の作動条件を変えようとした。そこへ立ちはだかったのが、彼自身の党が支配する議会であり、広範な世論の圧力であり、党内で独立した立場を貫く人々だった。この点はとりわけ重要である。反対したのは共和党だけではない。下院司法委員長のサムナーズ、上院で反対運動を率いたリベラル派のウィーラーなど、民主党の有力者もいた。上院司法委員会の、敵意を隠さない報告書は、この法案は不要で、効果もなく、しかも憲法原理からのきわめて危険な逸脱だと断じた。法案は裁判所を議会と大統領の意志に従属させる、とも明言していた。

この危機が最も深く示しているのは、この「構」の抑制と均衡が、紙に書かれたまま動かない規則の束ではなく、生きた力だということだ。大統領の権勢が最も盛んなときにも、その力は湧き上がる。しかも、大統領自身の党の内側からさえ湧き上がり、境界を踏み越えた拡張を、もとの憲法の枠内へ力ずくで押し戻すことができるのである。

二 危機の背景と火種

改組計画の直接の背景には、1935年から1936年にかけて、最高裁がニューディールの中核をなす法律を相次いで打ち倒したことがあった。前篇で扱ったシェクター判決は、全国産業復興法が大統領にあまりに広範な規制権限を与えており、問題の取引もすでに一州内の活動に属していると判断した。バトラー判決は、農業調整法の加工税と補助金の仕組みが、憲法の認める連邦の権限を逸脱しているとした。そして1937年初頭には、さらに重要なニューディールの施策、とりわけワグナー法と社会保障制度にも、いつ違憲の判断が下るかわからない危険が迫っていた。ローズヴェルトにとって、もはや数本の法律が残るか消えるかという話ではない。ニューディール全体が憲法のもとで生き延びられるかどうかが、問われていたのである。

当時の最高裁は、しばしばこんな政治的配置で描かれた。「四騎士」と呼ばれる筋金入りの保守派4人に、「三銃士」と呼ばれるリベラル派3人が対抗する。その間に立つヒューズ長官とオーウェン・ロバーツ判事が、勝敗を分ける票を握っていた。ローズヴェルトは1937年3月9日の炉辺談話で、きわめて率直に問題を語った。最高裁はもはや単なる司法機関ではなく、「第三の院」、立法府の上に立つ立法機関になってしまった、と非難したのである。そして、最高裁から憲法を救い、最高裁自身から最高裁を救うために、国は行動しなければならない段階に来たと訴えた。したがって、この衝突は最初から、どちらが正しくどちらが間違っているかだけの争いではなかった。同じ「構」の内側で、拡張を続ける行政・立法と、そこに限界を設ける司法が、いったい誰が一線を越えているのかをめぐって、正面からぶつかったのである。

三 改組案の仕組みと建前

1937年2月5日、ローズヴェルトは司法再編案を議会に提出した。中心となる仕組みはこうだった。連邦裁判官が満70歳に達し、在職期間も10年以上となったうえで、その両条件を満たしてから6か月以内に辞職も退職もしなければ、大統領は裁判官をもう1人追加で任命できる。最高裁の定員は、この方法で9人から最大15人まで増やせることになっていた。9人という定員は憲法ではなく法律で定められており、増員そのものが直ちに違憲となるわけではない。

表向きの理由は、大きく二つあった。一つは裁判の効率と未処理事件の滞留である。裁判所の人員を補強し、より迅速に判決を出せるようにしなければならない、と大統領は強調した。もう一つは司法哲学の刷新だった。計画は、司法の「動脈硬化」を防ぐ処方箋だというのである。しかし、掲げた理由と実際の政治目的の隔たりは、当時から広く見抜かれていた。今日の研究による説明も歯切れがよい。ローズヴェルトの動機は明白だった。最高裁内部の思想的な勢力配分を変え、ニューディールの法律をこれ以上覆させないようにすること。それが狙いだった。

だからこそ、ヒューズ長官の反撃は痛烈だった。上院司法委員会に宛てた書簡で、長官は、最高裁は仕事を十分に処理できており、大統領が言うような深刻な事件の滞留は存在しないと強調した。さらに、判事を増やしたからといって効率が上がるとは限らないとも指摘した。増えるのは、審理に参加し、協議し、議論し、説得され、判断を下さなければならない判事の数でもあるからだ。この反撃は、ローズヴェルトが国民に最も売り込みやすかった実務上の理由を突き崩した。効率化の衣を剝がれた争いは、権力分立と司法の独立をめぐる正面衝突として、再び姿を現したのである。

このシリーズの枠組みに引きつければ、改組案がこの「構」の神経を逆なでしたのは、組織の設計をいじることで、独立した抑制機関の判断の向きを変えようとした点にある。もしこの手が通っていたら、きわめて危険な先例ができていた。議会の多数を握った大統領なら誰でも、最高裁の判決が気に入らなければ判事を増やし、裁判所を自分の決定に判を押すだけの機関に変えられることになる。その先例の恐ろしさが、もともとニューディールを支持していた多くの人々にも警戒心を抱かせた。彼らが案じたのは、目前の数本の法律が存続するかどうかだけではなかった。この一手によって、「構」の根幹をなす権力分立が、二度と元に戻らないほど壊されるのではないか、ということだった。

四 反撃と法案の死

反撃は速く、しかも一方向からではなかった。下院ではサムナーズが法案の進行を事実上せき止め、ホワイトハウスは主戦場を上院へ移さざるをえなくなった。ところが上院でも、反対者は保守派だけではない。共和党議員に加えて、民主党リベラル派のウィーラーがいた。今日の研究には、上院で法案を葬る戦いを率いたのは、まさにこのリベラル派の民主党員だったと、はっきり記されている。この点を強調しておかないと、1937年の争いを、今日よく見る二大政党の衝突に縮めてしまう。ローズヴェルトを止めたのは一枚岩の野党ではなかった。権力分立への共通の危惧を抱いた、党派をまたぐ人々である。その中には、政策ではニューディールを支持するリベラル派さえ含まれていた。

この事実は、繰り返し強調する値打ちがある。抑制と均衡とは、いつも保守派が改革を妨害するために使う道具なのだ、という単純な思い込みを、最もよく打ち砕くからだ。1937年の現実は、その逆だった。ローズヴェルトを阻んだ人々の中には、ニューディールの最も熱心な支持者もいた。彼らは大統領の経済政策を支持しながら、最高裁を改造するという手段には断固として反対した。権力分立を守る立場は、個々の政策への賛否から独立して成り立つのである。ニューディールの法律に生き残ってほしいと願いながら、その代価として司法の独立を差し出すことは拒む。両者は十分に両立する。目的と手段を分けて吟味する、この判断力こそが、この「構」の抑制機能を働かせるための一つの前提なのだ。

議会の手続きにもまれ、推進する側の政治的な余力が削られるなかで、法案はついに息絶えた。1937年6月、上院司法委員会は厳しい批判を盛り込んだ報告書を出し、法案の否決を勧告する。7月22日には、上院が70対20で、すでに大幅に薄められていた案を委員会へ差し戻した。最高裁改組に関する部分には、事実上の死亡宣告だった。多くの研究が、これをローズヴェルト第2期の最も深刻な政治的敗北の一つとみなしている。わずか数か月前、圧勝して再選を果たしたばかりの大統領が、権力の頂点にいながら、この「構」に古くから備わる抑制と均衡の壁に激突したのである。

五 最高裁の転換

危機のさなか、もう一つ、有名だが一筋縄ではいかない出来事が起きた。いわゆる「時宜を得た転向が9人を救った」である。改組をめぐる論争が続くなか、最高裁は二つの重要判決を相次いで下した。1937年3月29日のウェストコースト・ホテル対パリッシュ判決は、ワシントン州の最低賃金法を支持した。これは、かつての契約の自由という法理を、硬直的に適用する姿勢を事実上捨てるものだった。続く4月12日の全国労働関係委員会対ジョーンズ・アンド・ラフリン・スチール社判決は、ワグナー法を合憲と認めた。一州内で行われる活動であっても、州際通商と密接かつ実質的な関係があれば、連邦議会は規制できると確認したのである。

ただし、この「時宜を得た転向」がいつ、なぜ起きたのかについて、今日の歴史研究は、広く流布してきた物語を大きく修正している。ここを曖昧にすると、もはや成り立たない劇的な筋書きに引きずられてしまう。研究によれば、パリッシュ事件の合議で票が投じられたのは、すでに1936年12月19日だった。この時点では4対4で、病気療養中のストーン判事が復帰してから5票目が加わった。一方、ローズヴェルトが改組案を公表したのは1937年2月5日である。つまり、ロバーツは改組計画が出る前に、すでに最低賃金法を支持する票を投じていた。意見書が公表されたのは、その後の3月29日だった。

さらに、ロバーツがなぜ転じたのかについても、少なくとも三つの説明を並べて検討できる。どれか一つだけを、決めつけて選ぶべきではない。伝統的な外部要因重視の説明は、政治的圧力と、1936年の選挙後の世論を重く見る。それに対し、修正主義の立場には、これらの判決はロバーツがもともと持っていた法的な考え方や、事件ごとの違いを区別する論理によって、かなりの程度まで説明できるとする研究がある。定員増の脅しだけで片づけるわけにはいかない、というのである。そして中間に位置するのが、ある計量的な研究だ。1936年開廷期のロバーツには、判断の傾向が明確に変わる境目があったと認める一方で、パリッシュ判決は2月5日の計画によって直接引き出されたのだという素朴な筋書きは、明確に退けている。この三つを重ねて見るほうが、「最高裁は屈服した」の一言で済ませるより、はるかに史実に近い。

この転換を本シリーズの枠組みから見ると、危機の結末は、単純な勝ち負けよりずっと含蓄のあるものになる。行政が最高裁を支配下に収めて決着したのではない。それでは抑制と均衡が崩れる。最高裁がニューディールを阻み続けたわけでもない。それでは拡張そのものが行き詰まる。実際に起きたのは、最高裁自身の法理が変わり、すでに成長していた行政・規制国家を受け入れたということだった。この「構」は、その構成部分のどれかを押し潰して対立を解いたのではない。一つの部分である司法が憲法の読み方を改め、自らの独立を保ったまま、拡張を収める余地をつくったのである。いかにもこの「構」らしい収め方だった。一方が他方を完全に圧倒して終わるのではなく、双方の微妙な調整によって新たな均衡が生まれ、争いはひとまず区切りを迎えた。

六 景気後退、党内粛清、大統領権力の限界

最高裁改組の失敗によって、ローズヴェルトがまず失ったのが憲法をめぐる主導権だったとすれば、続く1937年から1938年の景気後退は、彼の経済政策への自信をさらに打ち砕いた。今日の研究は、この不況を1937年5月から1938年6月までと区切り、20世紀でも三指に入る深刻な景気後退と位置づけている。おおよその指標を挙げれば、実質GDPは約10%減少し、失業率は20%に達し、鉱工業生産は32%落ち込んだ。原因を財政緊縮だけに求める説明は、現在の経済史研究の主流ではない。金融と財政の収縮が重なったのである。預金準備率の引き上げ、1936年から財務省が行った金流入の不胎化、そして1937年に始まった社会保障の給与税徴収が、そろって総需要を圧迫した。政府の景気刺激策を早く引き揚げすぎたことは、のちに政権幹部にとって重要な教訓となる。1938年には、ローズヴェルトは赤字支出の拡大へ、はっきりと傾いていた。

1938年の党内粛清の試みも、大統領による自党支配の限界を、改めて浮き彫りにした。6月24日の炉辺談話で、ローズヴェルトは民主党の予備選挙に、より積極的に介入する意向を公言した。反ニューディールの保守派民主党員を、党の中枢から追い出そうとしたのである。今日の研究によれば、タイディングズら保守派10人が標的になったが、落選したのは結局1人だけだった。ほかの大半はワシントンへ戻り、しかも大統領への敵意を一段と強めていた。この出来事の重要さは、振る舞いが無礼だったかどうかにはない。選挙でどれほど巨大な信任を得ても、大統領は政党を、自分の行政命令がそのまま通用する延長部分にはできない。その事実を示した点にある。

1938年の中間選挙を経て、この限界はさらに明瞭になった。民主党の下院議席は、第75議会の334から、第76議会では262へと減った。今日の研究は、最高裁の改組と、その後の保守派民主党員の粛清を試みたことが、いずれもこの選挙での民主党の損失につながったと明言している。同時に、最高裁改組の失敗は、保守連合の形成とも結びついていた。南部民主党と共和党が手を結ぶのを後押ししたのである。本シリーズの見方に戻れば、ここに現れたのは前篇で触れた伏線だった。ニューディール連合の最も深い矛盾、すなわち南部民主党の票に頼らざるをえないという事情が、ここで、ニューディールの前進を実際に食い止める保守の力へと転じ始めたのである。

七 それでも広がる行政国家

しかし、これで行政国家の拡張が止まったわけではない。むしろ逆だった。司法の歯止めを外すことに失敗したローズヴェルトは、大統領を取り巻く行政能力の制度化へと向かい、こちらでは、より大きな成功を収めた。1937年のブラウンロー委員会の有名な結論は、「大統領には助けが必要だ」だった。1939年の行政機構再編法は、法律上の制限と議会の審査のもとで、大統領に行政再編計画の提出権限を与えた。同年4月25日に提出された第1号再編計画は、7月1日に発効した。これにより大統領行政府(EOP)が設置され、予算局など、行政を管理する腕に当たる組織も、大統領の直接の統制下へ移された。議会への説明で、ローズヴェルトは明快に述べている。大統領1人で、三、四十もの主要機関を直接扱うことはできない。道は再編しかない。行政上の責任を果たすには、それに必要な組織と機構が、大統領の手元になければならない、と。

歴史の皮肉は、まさにここにある。最高裁の改組は潰れた。だが、大統領制を取り巻く行政装置は、いっそう強固に築かれた。この皮肉を本シリーズの枠組みで読み解くと、この「構」の抑制と均衡が持つ、きわめて重要な性質が見えてくる。それは、何もかも一律に止める単純なスイッチではない。ある方向では、たとえば裁判所を取り込む企てに対しては、行政の拡張を強力に阻止できる。ところが別の方向では、たとえば議会の授権のもとで大統領が自分の行政機構を組み替える場合には、その内部で進む集権化を抑えにくい。この「構」は、最も重要な一線を守った。独立した抑制機関を、行政が支配下に置くことは認めなかった。そこには成功がある。しかし同時に、巨大な行政国家が授権の範囲内で自らを再編し、より集権的で、より制度化された大統領の機構を築いていく動きには、同じ強さの歯止めをかけなかった。そこには、力の及ばない領域があったのである。

この効き方の偏りは、シリーズ全体を通じて覚えておく必要がある。同じ抑制と均衡でも、拡張の形が違えば、防御力には雲泥の差が出る。最高裁改組のように、特定の抑制機関をむき出しの形で直接攻撃すれば、この「構」は激しい免疫反応を起こす。攻撃の意図が、あまりにも露骨だからだ。ところが、特定の抑制機関を狙わず、授権のもとで行政そのものを大きく、より集権的にしていく拡張には、同じような抗体が働きにくい。行政機構の再編がその例である。そして長い目で見れば、こうした静かな内側からの集中こそが、派手な権力奪取の試みよりも深く、この「構」の権力配置を変えてしまう可能性がある。

八 結び

1937年前後のこの時期をシリーズ全体のなかに置き直すとき、何より覚えておくべきなのは、本篇を貫く判断である。拡張は抑制と均衡に突き当たった。それでも、その網の目を抜けて、成長を続けた。

1937年の最高裁改組危機を、旧制度の残りかすがローズヴェルトを打ち負かした話にしてはならない。彼は権力の頂点で、この「構」の抑制の仕組みそのものを変えようとした。そこに議会、党内の独立性、世論の論争、そして最高裁自身の転換が重なり、彼をもとの憲法の枠内へ押し戻したのである。この危機ほど、抑制と均衡が生きた力であることを明瞭に示した出来事はない。その力は、弱い大統領が現れるのを待って作動したのではなかった。選挙人票523を手に圧勝したばかりの大統領の前でさえ、彼自身の党の内側から、党派を越えた権力分立への危惧のなかから、同じように湧き上がった。そして、司法を支配下に収めようとする試みを、力ずくで押しとどめたのである。

ただし、この勝利には限界があり、その効き目にも偏りがあった。ここが、本篇から決して落としてはならない、もう半分の話である。この「構」は最も大切な一線を守り、判事の増員によって独立した抑制機関を崩すことを、行政に許さなかった。だがその一方で、議会の授権を得た巨大な行政国家が自らを組み替え、より集権的で、より制度化された大統領の機構を築く動きには、同じ強さの歯止めがかからなかった。最高裁の改組は失敗しても、大統領行政府はできた。行政国家は縮むどころか、装備をさらに整えたのである。抑制と均衡は、何でも食い止める壁ではない。目の細かな部分と粗い部分のある網だ。司法の独立への直接の侵害という越境は、しっかりと捕らえる。その一方で、行政機構それ自体の肥大という別の拡張は、網の目をすり抜けていく。

ここでも、この「構」がつねに抱える緊張に立ち戻る。行政権の拡張は、次々と生まれる余項を制度が引き受けるために欠かせない道具である。同時にそれは、抑制の枠をいつ振りほどくかわからない危険な力でもある。この「構」には、前者だけを残し、後者を取り除くことはできない。できるのは、拡張と抑制が繰り返し引き合うなかで、動き続ける境界を、何度も引き、また引き直すことだけだ。1937年、司法の独立に接する境界は守れた。だが1939年までには、行政組織に接する側で、その境界が大きく前へ押し出されていた。この「構」のなかでは、拡張と歯止めのせめぎ合いに、最終的な勝者はない。互いの形を変え続ける、終わりのない力比べである。そしてこの先、ヨーロッパでは戦争が勃発しようとしていた。装備をいっそう整えたばかりの行政国家に、かつてない規模で力を振るう舞台が迫っていた。