第17篇 常態への回帰――先送りを決着と取り違える
この篇の目次
一 常態を閉合と見なす
改革と戦争と理想主義に疲れ果てた国は、振り返って「常態」と呼ばれるものに飛びつく。だが、光の当たらなかった余項は、繁栄という表皮の下でなお蓄積を続ける。やがて未曽有の崩壊が、その覆いを再び剥ぎ取るまで。1921年のハーディング就任から1933年のフーヴァー退任までの12年間は、まさにこの構に訪れた、一見静かな休止期だった。水面下では、そのあいだも力が溜まり続けていた。
まず、この時期を構造からどう捉えるかを明らかにしておこう。ハーディング、クーリッジ、フーヴァーの三つの共和党政権は、戦時動員、非常時の行政、そして革新主義時代の国家の膨張を経たのち、憲法に則った平常の暮らしを取り戻す政権として自らを語った。しかし、その「復元」の言葉の下で、農業、金融、労働、移民、社会秩序をめぐる未解決の緊張は、この10年を通じて溜まり続けていた。閉じられたというより、先送りされていたのである。ハーディングの1920年の大統領候補指名受諾演説も、共和党の勝利に、代議制による人民の政府の回復、戦時の専断政治の終結、安定の確保と常態への回帰を託していた。
ハーディングのいう「常態への回帰」を正確に捉えるには、それが語られた場面に戻らなければならない。これは漠然とした気分の表現ではない。戦時の権力集中、行政の肥大化、ウィルソン流の国際主義に対する、はっきりとした反動だった。1920年7月、マリオンでハーディングは語った。戦争のさなか、あらゆる歯止めが取り払われた。民主主義の名の下に、われわれは専断政治を築いた。だから最初に果たすべき約束は、代議制による人民の政府を取り戻すことだ、と。国内での憲政の回復、超国家的な約束から距離を置くこと、集団が政治に持ち込む要求への警戒。この組み合わせが、「常態」というイデオロギーの核をなしていた。
ここで本シリーズの枠組みに戻ると、本篇の主題が見えてくる。前の二篇で見たように、革新主義時代の構は、経済の余項を取り込むために、規制という身体を生やした。それによって、大統領の権力も行政国家も、それまでにない大きさに達した。「常態への回帰」は、その逆向きの運動である。革新主義時代に行われた余項の取り込みを取り消し、限定された政府と自発的な行動に支えられた、昔の状態へ構を戻そうとした。だが、後退しても余項に決着はつかない。できるのは先送りだけだ。ここに、この枠組みの要点として見逃せないものがある。常態への回帰は、余項を扱ううえで、ほとんど前例のない方法を持ち込んだ。忘却である。当初の主な方策は、余項を正面から認めることでも、公然と暴力に訴えることでも、新たな仕掛けを発明してそこに収めることでもなかった。もう問題ではなくなったことにして、公共の議題から、国家が目を向ける範囲から、丸ごと外してしまう。だが余項は、目をそらしたからといって消えてはくれない。
二 ハーディングと復元の第一段階
ハーディング政権には、閣僚人事の質の高さと、縁故の庇護の下で育つ腐敗に対する、驚くほどの脇の甘さが同居していた。国務長官にヒューズ、財務長官にメロン、商務長官にフーヴァーといった人物を起用する一方で、後に「オハイオ・ギャング」と呼ばれる側近たちに取り囲まれてもいた。この集団の多くは後に政府を欺いた罪に問われ、一部は刑務所に入ることになる。
最も重大だったのが、ティーポット・ドーム事件である。1922年4月、内務長官フォールは、ワイオミング州のティーポット・ドームにあった海軍の石油備蓄用油田を、競争入札も行わず、石油業者ハリー・シンクレアにひそかに貸し付けた。さらに、カリフォルニア州の別の備蓄用油田も、エドワード・ドヒニーの会社に貸し付けた。上院の調査が後に焦点を合わせたのは、ドヒニーからフォールへの、10万ドルという不審な貸付金だった。結局フォールは、重罪で有罪判決を受け、投獄された最初の元閣僚となった。この醜聞には制度上の意味もある。1927年のマクグレイン対ドーハティ事件をはじめ、関連する裁判は、議会が証言を強制できる権限の確立に寄与したのである。
ハーディングが在任中に亡くなったことで、この一連の出来事は、いっそう劇的で、割り切れないものになった。1923年、「理解の旅」と名づけた視察旅行の途中で病に倒れ、8月2日、サンフランシスコで死去する。枠組みに引き寄せて見れば、ここには常態への回帰がもたらした最初の皮肉がある。この構は、筋の通った、正常な政府を取り戻すはずだった。ところがハーディングの手で蘇ったものは、むしろジャクソン時代の、官職を側近への褒美にする古い慣行にいくらか似ていた。革新主義時代の専門的な行政運営を引き剥がしても、その下から清廉な政府が現れるとは限らない。現れるのは、縁故の庇護と腐敗に、もっと侵食されやすい政府かもしれないのだ。
三 クーリッジ、実業界のための政府、偏った繁栄
後を継いだクーリッジは、この復元事業の教義を、最も明快な形で示した。彼の最も有名な言葉は、しばしば不正確に引用される。1925年1月17日の演説で実際に述べたのは、「アメリカ人民の主要な仕事は、商売である」という言葉だった。財務長官メロンの主導によって成立した1921年、1924年、1926年の一連の税法は、戦後には73%にも達していた最高限界税率を、1925課税年度には25%にまで引き下げた。
1920年代の繁栄は本物だった。この10年をただの幻だったかのように語るのは、歴史を取り違えている。ラジオ、道路、航空、科学研究、公衆衛生、自動車の急速な普及、家庭の電化、映画、そして耐久消費財をますます中心に据える消費経済。これらが織りなしたのは、現実の経済成長と大衆文化の時代だった。ただし、その繁栄の偏りこそ、本篇で問うべき核心である。農業は、いわゆる「狂騒の20年代」に、ついぞ仲間入りできなかった。近年の研究が描く当時のアメリカ農民は、長引く農業不況のただなかにいる。農産物相場は1920年以降に崩れ、破産や抵当流れの圧力は、1929年をはるかにさかのぼる時点から高止まりしていた。だからこそ、農業救済に対するクーリッジの姿勢は、健全な繁栄という単純な物語に対する、何より重要な反証となる。議会はマクナリー=ホーゲン農業救済法案を二度可決した。クーリッジは1927年と1928年、その二度とも拒否権を行使した。長期の生産過剰と農産物価格の低迷に対処する連邦の仕組みを、受け入れなかったのである。
労働と所得分配に関する証拠も、同じ方向を指している。近年の研究によれば、この時期、労働組合は衰退し、企業は御用組合や、いわゆる福祉資本主義を広めた。戦後に盛り上がったストライキの波も引いていった。調査対象となった製造業では、1923年を100とすると、1929年の生産量は110に達していたのに、労働者が受け取る賃金の購買力は94.4にとどまっていた。別の研究では、最富裕層の上位1%や5%が全体の所得に占める割合は、1920年代後半のほうが1939年よりも高かったとされる。ここからは、慎重ではあっても、確かな判断が導ける。繁栄は、政治的な力を生むには十分な広がりを持っていた。しかし、社会的にもマクロ経済的にも安定していられるほど、均衡の取れた繁栄ではなかった。
四 排斥、排外的な自国民優先主義、強制される秩序
1920年代にこの構が取り戻した「常態」は、より排他的な常態でもあった。1924年移民法、いわゆるジョンソン=リード法は、出身国別の割当制度を採用した。1890年の国勢調査に記録された、各国生まれの米国在住者数の2%を、その国の査証発給枠とする。これは、古くから移住してきた北欧・西欧出身者を優遇し、南欧・東欧からの入国を減らすために組まれた計算式だった。近年の研究が明らかにしているように、同法は入国資格を帰化資格と結びつけ、法律が認める限られた例外を除き、帰化資格がないとされたアジアからの移民を排除した。その根本の目的は、アメリカのいわゆる「同質性」を守ることにあった。この法律を、日常的な移民規制の一つとして片づけてはならない。戦後の排外的な自国民優先主義に深く根を張り、人種と民族によって人を選別する法令だったのである。
クー・クラックス・クラン、すなわちKKKの二度目の全国的台頭も、同じことを物語っている。近年の研究によれば、KKKは1920年代に全国規模で頂点を迎えた。この第二次KKKは南部だけの運動ではなく、国じゅうに広がり、会員は推計300万から800万人に達した。また研究は、その標的がアフリカ系アメリカ人に限られなかったことも強調している。カトリック教徒、ユダヤ人、移民、そして「100%のアメリカ主義」の外にいると彼らが見なした、あらゆる人々が狙われた。禁酒法も、ここに位置づけられる。その社会的意味は酒の規制をはるかに超えており、一つの国家事業だった。国立公文書館の資料は、禁酒法が日常生活の暴力を増やし、公然と法に逆らう動きを助長し、組織犯罪を強めたことを明確に指摘している。構造に目を向けるなら、要点はここにある。道徳を規制しようとする意志に、乏しい執行能力が組み合わさった結果、生まれたのは巨大な非合法の秩序だった。社会の結束が取り戻されたわけではない。
この節をシリーズの枠組みに戻してみると、常態への回帰の、ことに重要な一面が浮かび上がる。この構は、経済という軸では後退しながら、境界と人種という軸では、みずから進んで締めつけを強めた。つまり、常態への回帰は、初めから中立的な撤退などではなかった。経済権力への拘束を緩める一方で、誰がこの国に属してよいのか、その線引きは厳しくする。一方を緩め、一方を締める。この二つは、一見すると矛盾しているようで、実は同じ「常態」のイメージを共有していた。そのイメージの中で、正常なアメリカとは、市場が自由に動き、古くからの北欧移民の子孫が主導する、同質的な白人社会だったのである。
五 繁栄から崩壊へ
1928年の大統領選挙で、共和党の語る「新しい時代」の物語は頂点を迎えた。フーヴァーは、技師として、戦時の食糧管理者として、ヨーロッパ救済の組織者として、そして行動力のある商務長官として築いた大きな名声を背に、選挙戦に臨んだ。演説では、責任を各地方に分散させ、機会の平等と経済の自由を保障する、独自のアメリカ的制度を擁護した。父権的な統治と国家主導の社会主義には警戒せよと説き、それまでの7年半の成果をたたえ、アメリカは歴史上のどんな社会よりも、貧困の根絶に近づいているとまで主張した。
1929年10月の株価大暴落は、最もよく知られた断絶の瞬間である。だが、それだけで恐慌の全体を説明することはできない。近年の研究では、1929年10月28日の「暗黒の月曜日」は、ダウ工業株平均が13%近く下落した日として記される。そして大暴落の後に、一連の金融危機が続いたことが重視される。より広く研究を見渡せば、真の転換点は1929年8月に置かれ、1930年から1933年にかけての銀行恐慌と、連邦準備制度の政策の過ちが、収縮をさらに深めたとされている。崩壊の深さを示す確かな数字は、目を覆いたくなるものだ。標準的な公的失業統計による年平均失業率は、1929年が3.2%、1930年が8.7%、1931年が15.9%、1932年が23.6%、1933年が24.9%。銀行の崩壊も数字で捉えられる。公的な歴史統計によれば、連邦預金保険が発効するまでのこの4年間に、9,000行を超える銀行が営業を停止した。1931年に預金者が失った金額だけで、1921年から1929年までの損失総額を上回っていた。
原因を論じるなら、主要な説明を一つに押し込めず、並べて見るのがよい。マネタリズムの立場は、1928年から1929年にかけての連邦準備制度の引き締めと、貨幣供給の減少や銀行の崩壊を防げなかったことに責任を求める。ケインズ的な説明は、特に大暴落後の支出の急減と、総需要の弱さを重視する。信用経路に着目する研究は、そこに別の要素を加える。金融の崩壊は、貨幣の量だけでは捉えられない影響を持つ。銀行と借り手がともに傷つけば、信用供与の摩擦が、貨幣数量だけで説明できる以上に不況を増幅する。一方、国際史の研究者は、金本位制、賠償金、戦債、そしてデフレの国際的な波及を説明の中心に据える。本シリーズの主線に立ち戻れば、大恐慌の意味は、いずれか一つの経済的説明に尽くされない。具体的な仕組みが貨幣にあろうと、需要にあろうと、国際関係にあろうと、構造上、大恐慌とは、常態への回帰が丸10年にわたって先送りしてきた経済の余項が、全面的に、破局的に帰ってきた出来事だった。
六 見直されるフーヴァー像
近年の研究がこの時期の理解に加えた、最も重要な修正は単純である。フーヴァーは、文字どおり何もしなかった大統領ではない。大暴落が起きると実業界の指導者たちに行動を促し、それから3年間、実を結ばなかったとはいえ、危機を和らげようと努めた。問題は単なる消極性ではなく、動員できる国家の能力の乏しさと、連邦の介入が広く認められる範囲の狭さにあった。その思想上の境界を、フーヴァー自身の演説がはっきり示している。1931年2月、彼はこう述べた。問題は、人々が飢えるべきかどうかではない。救済は慈善、互助と自助の精神、そして地方政府を通じて行うべきであり、慈善のために連邦が予算を出すべきではないのだ、と。
実際、フーヴァーは公共事業を拡大した。1930年12月の一般教書では、失業を抑えるための公共事業予算を議会に求めた。議会はこれを受け、推計450万人という失業に対応するため、公共事業に1億1,600万ドルを計上した。フーヴァーはまた、1932年1月の復興金融公社の設立を支持した。銀行や鉄道会社に、後にはその他の機関にも、緊急融資を行うためだった。1932年7月の緊急救済建設法は、同公社が各州への救済融資に3億ドル、事業収入で返済できる公共事業への融資に15億ドルを充てることを認めた。いずれも、大恐慌以前の連邦政府の慣行から見れば、前例のない踏み越えだった。フーヴァーをひたすら自由放任の人として描く古い戯画が、もはや成り立たないのは、このためである。
だが、この見直しにも限界がある。フーヴァーの介入は現実のものだった。しかし彼には、連邦政府が個人を直接救済すれば、人の品性を損ない、地方の責任を弱め、アメリカの統治を支える憲法上の均衡を崩してしまうという、固い信念があった。そこに介入の限界もあった。だから彼の本当のジレンマは、余項に真に応答しようとすれば、フーヴァーであることをやめなければならない、という点にあった。この常態の秩序を、死なせなければならないのだ。そしてそれは、次の人物と、まったく新しい秩序を待って、初めて成し遂げられることだった。フーヴァーの失敗は、性格の問題というより、構造の問題である。自発性、地方の責任、限定的な連邦介入。この常態の論理を、彼は伸ばせる限界まで伸ばした。それでも、大量失業と飢餓を防ぐ第一の保障者として連邦政府を捉え直し、人々を納得させることは、ついにできなかった。
七 ボーナス・アーミー
この失敗が、目に見える姿を取り、政治的にも凝縮されて現れたのが、ボーナス・アーミー事件だった。第一次世界大戦の退役軍人たちは、軍務に対する追加補償を約束した証書の即時換金を求めて「ボーナス遠征軍」を結成し、1932年、ワシントンへやって来た。彼らは人種の隔てなく暮らす野営地を設け、やがてそこには1万1,600人を超える退役軍人と、その家族が身を寄せた。議会が即時支払いを拒否し、そのまま休会に入ると、フーヴァーはマッカーサー将軍に一団の排除を命じた。近年の研究によれば、フーヴァーは武力の使用をできるだけ抑えるよう指示していた。だがマッカーサーは兵士、戦車、催涙ガスを伴って進撃し、野営地を焼き払った。政治的な帰結についても、研究の指摘は明快である。多くのアメリカ人は、退役軍人への虐待の責任をフーヴァーとその政治的同盟者たちに帰した。選挙で支払う代償は重かった。
この場面は、常態の秩序がどう失敗したかを、ほとんど余すところなく縮図にしている。先送りされてきた経済の余項が、飢え、絶望した退役軍人という姿で国家の中枢に集まったとき、この秩序が差し向けたのは救済ではなく、兵士と戦車と炎だった。ここには、第13篇のプルマン・ストライキから続く線が見える。経済的な対立が激しくなると、この構はしばしば、中立の仲裁者としてではなく、秩序の側に立つ強制力として介入する。そして、焼かれた野営地では人種を越えて人々が暮らしていたという事実に、さらに鋭い皮肉が宿る。移民法とKKKによって、この国が人々を人種の線に沿って選り分けていたのと同じ時代に、行き場を失った退役軍人たちは、絶望の中でその線を越え、肩を並べた。そこで彼らを待っていたのは、自国政府の戦車だった。
八 結び
ハーディング、クーリッジ、フーヴァーの12年間を本シリーズの中に置いて、最も深く刻んでおくべきなのは、本篇を貫くこの判断である。常態への回帰は、先送りを決着と取り違えた。
この10年について、歴史から最も確かに言えるのは、「1920年代は幻だった」ということではない。現実の成長があり、現実の技術革新があり、戦後の行政の縮小も、安定を求める願いも、紛れもなく存在した。同時に、農業不況、分配の歪み、排外的な法律、息を吹き返した自国民優先の運動、投機的な金融もまた、「常態」という言葉の下で蓄積を続けていた。つまり、常態への回帰がもたらしたのは閉合ではなく、先送りである。未解決の緊張を表舞台から下ろしただけで、解決したわけではない。そもそも、それによって解決できるものではなかった。
先送りされた余項が大恐慌として帰ってくると、常態の秩序の限界は、隠しようもなく露わになった。フーヴァーの悲劇は、まさにそこにある。自発性、地方の責任、限定的な連邦介入という常態の論理を、彼は可能な限り押し広げ、信用を支える手段を工面し、公共事業を起こし、抵当流れを和らげようとした。だが危機が求めていたのは、その論理が根本的に認めることのできない仕事だった。大量失業と飢餓を防ぐ第一の保障者として、連邦政府そのものを定義し直すことである。したがって、彼の失敗は彼一人のものではない。常態への回帰という構想全体の失敗だった。限定政府という昔の状態に戻るだけでは、この構は経済の余項を、いつまでも戸外に締め出しておくことはできない。そのことが証明されたのである。
この12年は、忘却という道が行き止まりであることを、最も痛ましい形で示した。余項など存在しないふりをすればするほど、その内に溜まる力は大きくなる。ついに噴き出したとき、求められる対応も、いっそう激しいものになる。常態への回帰は、最小の代価で、最も居心地のよい現状を保とうとした。だが、先送りが長すぎ、蓄積が深すぎたために、この構の歴史で最も激しい転換を招いてしまった。小さな代価を惜しんだ末に、大きな代価を払う。これこそ、忘れることで閉じようとする試みの宿命である。次に登場するのは、車椅子の大統領と、まったく新しい言葉だ。