Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition

鑿構周期律 · アメリカ大統領シリーズ — 第10篇、全26篇

第10篇:ジョンソンと南部再建――誰がこの共同体を定義するのか

Han Qin(秦汉) · 2026年
この篇の目次

一 核心に入ったばかりの余項が、再び縛られる

前回の最後に述べたように、リンカーンは「すべての人は平等である」という約束を、ようやく国家の核心に据え、自らの約束として引き受け直した。ところが、その書き換えは、彼の暗殺によって、それに敵意を抱く後継者の手に渡ってしまう。1865年から1868年にかけて、この構が経験したのは、引き受けたばかりの負債をまだ返す間もないうちに、早くも逆向きの力に引き戻されるという事態だった。

ジョンソン時代の数年間が構造のうえで何を意味したのか。それをつかむには、南部がいかに復興したかという一本道の物語から、いったん離れる必要がある。この時期の核心は、南部をどう復興させるかではなく、奴隷制が廃止されたあと、この国の政治共同体の一員になれるのは誰か、という問いにあった。長く周縁へ追いやられていた余項が、突如として、憲法の次元で正面から答えなければならない核心の問題になったのである。黒人法、解放民局、公民権法、憲法修正第14条、1867年の再建法、そして1868年の弾劾。六つの別々の出来事に見えるが、実際には一つの構造的な衝突が、形を変えながら展開していた。

このシリーズの言葉でいえば、最も深いところにあった余項が、核心に入った途端、再び縛り直されていく過程である。前回、この構は戦争と憲法を通じ、何世代も先送りしてきた約束を初めて正面から引き受け、奴隷という身分そのものを廃止した。しかし、負債を自分のものと認めることと、それを返し終えることは別である。今回は、返済の第一歩を踏み出したところへ、旧秩序がたちまち反撃に転じ、中心に引き上げられたばかりの余項を、ふたたび周縁へ押し戻そうとする過程を追う。この反撃と、それに対する反撃が争っていたのは、結局のところ一つのことだった。この共同体を構成するのは誰なのか、それを定義する権利は誰にあるのか。

二 戦時の連合に押し上げられた人物

この衝突を理解するには、まずジョンソンという人物がどこに立っていたのかを知る必要がある。彼は貧しい家に生まれ、正規の教育をほとんど受けず、若いころは仕立屋をしていた。1864年、リンカーンは支持票のバランスを取り、戦争を支持する民主党員を引き入れるため、共和党単独ではなく「国民連合」の名を掲げて再選を目指し、ともに選挙を戦う副大統領候補にジョンソンを選んだ。当時のジョンソンは、全国でもとりわけ目立つ戦争支持派の民主党員の一人と見なされていた。つまり、彼が大統領の座に就くことになったのは、共和党の再建綱領と初めから考えが一致していたからではない。戦時の連合政治が生んだ人選の結果だった。

ジョンソンの政治的な複雑さは、戦時中に奴隷制廃止を支持するようになったものの、それが主として黒人の平等という理念から出ていたわけではない点にある。そこには、大農園の貴族たちへの敵意と、奴隷を所有しない白人の利益を守るという姿勢が色濃く入り交じっていた。彼の論理では、奴隷制を廃止したからといって、黒人にも政治的平等を認めるべきだという結論には直結しない。従来の選挙権はもともと白人男性のものであり、黒人をただちに選挙政治へ参加させれば、かえって人種間の戦争を招くというのである。階級の面では大農園勢力に反対しながら、人種を超えた権利の平等は決して受け入れない。これが彼の立場を支える基本構造だった。

その人種観は、公にされた文書にもはっきり表れている。公民権法案を拒否した際、彼は、この法律は黒人をひいきしていると不満を述べた。1867年の年次教書では、議会主導の再建を、国の半分が「アフリカ化」されかねない危険なものと非難している。現代の主流の歴史研究で彼への評価が大きく下がった理由は、政治手腕の拙さだけではない。奴隷制が終わったあとも、黒人の政治的平等が戦後秩序の当然の一部であることを、頑として認めようとしなかった。そのことこそが決定的だった。

このシリーズの枠組みに戻ると、ジョンソンの立ち位置には、構造そのものの皮肉が見えてくる。この構は、莫大な犠牲を払って、最も深い余項をようやく核心へ引き上げた。にもかかわらず、一発の銃弾という偶然によって、その指導権は、まさに逆の衝動を体現する人物へ渡ってしまった。ジョンソンが代表していたのは、奴隷制が廃止されたあとも自らの支配を続けようとする、古い白人の共和国のあがきである。彼は一人だけ孤立した悪人ではない。現実に存在する、強大な構造的な力の体現者だった。その力が望んだのは、中心へ引き上げられたばかりの余項を、もう一度もとの位置へ押し戻すことだった。

三 大統領主導の再建――定義する権利を先に握る

リンカーンが暗殺されたとき、第38議会はすでに閉会しており、第39議会が開会するのは1865年12月だった。この数か月にわたる制度上の空白を使い、ジョンソンは、いわゆる「大統領主導の再建」をほぼ一方的に進めた。1865年5月29日、彼は大赦の布告を出し、反乱に参加した人々の大多数に恩赦を与え、奴隷およびすでに没収手続きが始まっていた財産を除いて、財産権を回復させた。同時に暫定州知事を任命し、忠誠を誓う有権者を集めて新憲法をつくり、州政府を再建する権限を各州に与えた。ノースカロライナ州に対する命令を見ると、新しい政治秩序に参加できるのは、1861年以前の同州の有権者資格を満たし、かつ忠誠を誓った者に限る、と明記されている。これによって、自由を得たばかりの黒人は、事実上、再建の政治から締め出された。

この方針の構造的な要点は、寛大だったことそれ自体にはない。「戦後の政治共同体を定義する権利は誰にあるのか」という問題を、まず大統領と南部の白人エリートに委ねたことにある。憲法に基づく選挙で選ばれ、議員を受け入れる権限と憲法改正の権限を持つ議会には委ねなかったのである。議会の共和党員が怒ったのは、かつての南部連合の人々を広く赦したからだけではない。南部の新政府が、黒人の権利をほとんど認めないまま、議会での完全な代表権を取り戻そうとし、しかも元南部連合のエリートを大勢、国政の中心へ送り返そうとしていたからだった。

そこで第39議会は、開会するや南部各州の代表の議席を認めず、再建合同委員会を設置した。ジョンソンが先回りして握った「定義する権利」を、議会の手へ取り戻したのである。ここからわかるのは、この構の規則には、あらかじめ処理の仕方が決まっていない隙間がつねに残るということだ。そして危機のときには、その隙間が、本来ならもっと代表性の高い機関が行使すべき権限を、先に奪い取るために使われうる。

四 黒人法――自由を旧制度へ押し戻す

大統領主導の再建が生んだ、最も直接的で、ひときわ大きな火種となった結果の一つが、黒人法だった。ミシシッピ州の黒人法は、一方では黒人が訴訟を起こし、個人の財産を持つことを認めながら、他方では市や町の外で土地を借りることを禁じた。自由な黒人は全員、適法な住居または仕事を持ち、その書面による証明を持っていなければならない。1か月を超える労働契約は書面で結ぶ必要があり、労働者が契約満了前に職を離れれば、その年にすでに稼いだ賃金を没収され、官吏に逮捕されて、もとの雇い主へ連れ戻されることもあった。さらに厳しかったのが、徒弟と浮浪に関する条項である。裁判所は、養う者のいない黒人の未成年者を強制的に徒弟にすることができ、その引き受け先として元の奴隷所有者が優先された。適法な仕事を持たない成人は、浮浪者と認定され、罰金や拘禁を科されかねなかった。

サウスカロライナ州の黒人法も、同じくらい露骨だった。労働契約を結んだ有色人をそのまま「奉公人」、雇い主を「主人」と呼び、農場での労働時間は日の出から日没までとされた。裁判官は、いわゆる不服従、怠惰、無礼を理由に奉公人へ体罰や罰金を科し、ただちに職場へ送り返すことができた。黒人が職人、技術者、店主などとして独立して生計を立てようとすれば、地区の裁判官に1年限りの免許を申請し、毎年、高額な手数料を払わなければならなかった。

このことが、この枠組みで持つ意味は深い。前回述べたとおり、修正第13条は奴隷という身分そのものを廃止した。それは、この構が最も深い余項を正面から引き受ける第一歩だった。しかし黒人法は、奴隷制を廃止しても、その余項を閉じきれたわけではないことを、すぐに示した。旧秩序は、もはや人を財産として所有することはできない。そこで手口を変えた。労働契約、浮浪罪、職業免許を使い、自由を、ほとんど自由のない状態にまで再び押し縮めたのである。ここにあるのは、これまで繰り返し述べてきたことだ。余項には二面性があるため、それを完全に吸収することはできない。一つの形を廃止しても、ただちに別の形で現れてくる。

五 解放民局――奴隷から市民への移行に初めて関わる

自由がこうして再び狭められるのに対し、連邦が持っていた主な是正手段は解放民局だった。1865年3月3日にこの局を設置した際、議会は、食料や衣類、医療の提供、学校の開設、労働契約の監督、そして没収地や放棄された土地の管理を、その任務として与えた。局は救済を行うとともに、学校を運営し、契約を監督し、土地問題に対処した。黒人による学校づくりを助け、婚姻が法的に認められるようにし、離散した家族を捜し、法律面と医療面の援助も提供した。

だが解放民局は、当初から二つの制約を受けていた。一つは資源と執行力の限界、もう一つは大統領の敵意である。ジョンソンは1866年2月、最初の存続延長法案に拒否権を行使した。議会は修正して再提出したが、彼は7月にもう一度拒否した。ただし今度は上下両院が拒否を覆すことに成功し、1866年の法律が成立した。これによって、局の活動はさらに2年間延長された。

だから解放民局は、奴隷から市民への移行に連邦が初めて大規模に関わった仕組みであると同時に、連邦の力の限界を示す存在でもあった。教育、救済、婚姻、法律援助を確かに前進させたが、十分な軍事力はなく、土地の再分配も成し遂げられなかった。この枠組みに戻せば、解放民局は、この構が余項の存在を認めるだけでなく、それに対する負債を本当に返そうとした最初の試みだった。黒人が十全な市民になるための制度をつくろうとしたのである。しかし、その限界こそが、この負債を返すことの難しさを物語っている。余項を認めるだけなら、憲法の一文でできる。だが本当に返済するには、この構が当時まだ到底備えていなかった、国家としての実行能力が必要だった。

六 公民権法と修正第14条――平等を憲法の核心に書き込む

定義する権利を取り戻そうとする議会の努力は、まず立法に表れた。1866年公民権法は、アメリカで生まれ、外国の権力に服していない者を、課税対象ではない先住民を除き、すべてアメリカ市民と定めた。そして、人種や肌の色にかかわらず、これらの市民には白人と同じく、契約を結び、訴訟を起こし、証言し、財産を相続、購入、賃借、保有、譲渡する権利があり、身体と財産について法律による平等な保護を受ける権利がある、と規定した。ジョンソンはこの法案を拒否し、拒否理由を記した教書で、黒人をひいきするものだと不満を述べた。上院は1866年4月6日、33対15で拒否を覆し、下院も4月9日、122対41で続いた。これは、戦後の議会と大統領の対立における一つの分水嶺だった。

しかし議会は、通常の法律だけではこの成果を確かなものにできないと、すぐに気づき、憲法改正へ向かった。修正第14条は、節ごとに見なければならない。第1節は、合衆国で出生または帰化し、その管轄に服する者の市民権を確立し、各州が合衆国市民の特権または免除を奪うことを禁じた。また、適正な法の手続きなしに何人からも生命、自由、財産を奪うことを禁じ、各州に法の平等な保護を求めた。第2節は総人口に基づいて下院の議席配分を計算し直す一方、成人男性市民に選挙権を認めない州については、反乱への参加その他の犯罪を理由とする場合を除き、その代表枠を比例的に減らすとした。つまり、黒人男性一般の選挙権を、それ自体で直接保障したわけではなかった。第3節は、かつて一定の公職に就いて憲法を支持すると宣誓しながら、その後反乱に加わったり敵に援助を与えたりした者の公職就任を禁じた。ただし、議会の両院がそれぞれ3分の2で同意すれば、その制限を解除できた。第4節は連邦の公債の有効性を確認するとともに、南部連合の債務と、奴隷の解放に伴う損失補償の請求を否認した。

修正第14条の歴史的な意味は、少なくとも三つある。第一に、黒人は合衆国市民になれないとしたドレッド・スコット判決の核心を、正面から覆したことだ。第7篇で述べたように、最高裁はあの判決によって、黒人の排除を憲法解釈に刻み込もうとした。ところが今度は、この構が向きを変え、一つの憲法修正条項によって、その判決を根底から覆したのである。第二に、平等な市民権を、政治上の論争から憲法の核心へ押し進めたこと。第三に、その後、現代アメリカ憲法のなかでもとりわけ生きた働きをする条項になったことだ。平等保護と適正手続きに関する現代の判例史は、ほとんどどこをたどっても、この条項を避けて通れない。

ただし、ここでは一つ、話を広げすぎない範囲できちんと指摘しておかなければならない。修正第14条が選挙権の境界を引き直すとき、その第2節は、「男性」という言葉を初めて明文で憲法に書き込んだ。つまり、この構が人種という軸に沿って、誰が投票できるのかを激しく争うそのさなか、性別という軸に沿った排除は、手つかずのまま残ったばかりか、根本法にいっそう明確に刻まれたのである。この二つの軸は、まだ果たされていない同じ約束の、異なる側面だった。

七 中間選挙から急進的再建へ――定義する権利を議会が取り戻す

1866年は、再建の主導権が大統領から議会へ移る決定的な年となった。ジョンソンは修正第14条と議会の方針を阻むため、北部でいわゆる周遊演説に繰り出し、いくつもの州を回った。かつて南部連合に属した州への寛容な政策を弁護し、議会の政敵を攻撃し、修正第14条を批判したのである。しかし、この遊説はまったくうまくいかなかった。クリーブランドでの演説では公衆の面前で口論を繰り広げ、政治家としての信用をさらに傷つけた。

1866年の選挙結果は、大統領主導の再建に、ほぼ終止符を打った。共和党は上下両院で圧倒的多数を確保し、ジョンソンの拒否を難なく覆せるようになった。これは、よくある中間選挙の揺り戻しではない。「再建のあり方を定義する責任は誰にあるのか」という問いについて、国民があらためて権限を託す選挙だった。この構が大統領の行きすぎを正したのは、どれか一つの権力部門が一方的に力を振るったからではない。ずっと手放さずにいた、開かれた仕組みによってである。それが選挙だった。

この政治状況のもと、議会は1867年、一連の再建法を成立させた。最初の法律は、テネシー州を除く旧南部連合諸州には合法的な州政府が存在しないと宣言し、それらを五つの軍管区に分け、アメリカ軍の統治下に置いた。各州が議会での代表権を取り戻すには、人種、肌の色、以前の身分を問わず、21歳以上の男性市民によって憲法制定会議の代表を選出しなければならない。州憲法はこれらの人々の選挙権を保障し、州議会は修正第14条を批准する必要があった。1867年の再建立法によって、黒人の位置づけは、社会の労働力をどうするかという問題から、再建の正当性を成り立たせる要素へと、はっきり引き上げられた。

八 弾劾――共同体を構成するのは誰か、二つの権力部門が根底から対立するとき

ジョンソンの弾劾は、大統領の権力と議会の抑制が、極限までぶつかり合った一例である。1867年3月、議会は大統領の拒否を覆して在職権法を成立させ、上院の同意なしに行政の高官を解任する大統領の権限を制限した。1867年8月、議会の閉会中に、ジョンソンは陸軍長官スタントンへ辞職を求め、拒まれると職務を停止した。1868年1月、上院がこの措置を認めなかったため、スタントンは復職する。ところが2月21日、ジョンソンは再びスタントンの解任を命じた。これが直接の引き金となり、2月24日、下院は126対47でジョンソンの弾劾を決議し、続いて11項目の弾劾条項をまとめた。上院での裁判は1868年3月5日に始まった。主要な三つの条項について行われた採決は、いずれも35対19にとどまり、有罪に必要な3分の2に、わずか1票届かなかった。

有罪とならなかったことの憲法上の意味について、歴史研究には長く二つの解釈が並び立ってきた。一つは、この裁判によって、議会が弾劾を、政策が合わなければ大統領を罷免できる道具に変えてしまうことを防いだ、という解釈である。決定的な場面で一部の上院議員が造反したのは、大統領という職と、権力分立による制度の均衡を守るためだった、と見る。もう一つは、大統領職を守ったという話だけでは、再建の現実が見えなくなる、という解釈だ。被告席にいたのは、抽象的な「大統領」ではなかった。黒人の市民権を阻み続け、議会主導の再建を損ない、南部白人の反動的な秩序のために時間を稼いでいた、具体的な大統領だったのである。この二つの解釈は並べておくのがよく、読者に代わってどちらか一つを選ぶ必要はない。

だが、この枠組みに照らして弾劾が本当に浮かび上がらせるのは、さらに深い問題である。この弾劾は、何を確立し、何を確立しなかったのか。戦後再建を妨げた大統領の責任を問うことはできない、という原則を確立したわけではない。在職権法そのものの合憲性に、いささかの疑いもないと確定したわけでもない。実際に示されたのは、政治的な衝突が極限まで激しくなっても、上院はなお、弾劾事由である「重大な犯罪および軽罪」の基準と、単なる政策上の意見の相違とを、区別しうるということだった。同時に、もう一つのことも明らかになった。大統領と議会が、「この国の共同体を構成するのはいったい誰か」という最も根本的な問いで真っ向から対立したとき、憲法の文言がひとりでに穏やかな答えを用意してくれるわけではない。衝突はむしろ、制度が耐えられる限界近くまで押し進められるのである。

九 結び

ジョンソンと再建の数年間を、このシリーズのなかに置き直したとき、何より覚えておきたいのは、全篇を貫くこの見立てである。最も深い余項は、核心へ入った途端、逆向きの力によって再び縛られた。

前回、この構は戦争と憲法を通じ、何世代も先送りにしてきた約束を、初めて正面から引き受けた。今回明らかになったのは、引き受けたあとの第一歩から、誰がこの共同体を定義するのかをめぐる激しい争いに陥ったということだ。一方には、ジョンソンと、彼が代表する古い白人秩序があった。大統領主導の再建と黒人法によって、中心へ引き上げられたばかりの余項を、周縁へ押し戻そうとした。他方には議会があった。南部の議員の受け入れを拒み、大統領の拒否を覆し、公民権法、修正第14条、1867年の再建法を通じて、黒人の平等な市民権を、一歩ずつ再建の条件に組み込んだ。黒人法が示したのは、奴隷制を廃止しても余項を閉じることはできず、それはただ顔を変えて再び現れるということだった。そして議会の反撃が示したのは、この構が大統領の行きすぎを正すやり方は、やはり従来と変わらないということだ。選挙という公開の裁定により、抑制と均衡を再び働かせ、一方が先に奪った、共同体を定義する権利を取り戻すのである。

このシリーズの言葉で正確に言うなら、この数年間には、引き受けることと縛ることが同時に進んでいた。この構は余項を核心へいっそう深く書き込んでいく一方、旧秩序から必死に引き戻されてもいた。両方の力が同時に働き、どちらも相手を完全には圧倒できなかった。これこそ、閉じることができないという事態の、もう一つの姿である。旧秩序はその余項を周縁へ押し戻しきれず、新秩序も、その余項に対して平等の約束を完全に果たすことはできなかった。余項は、両陣営のどちらにも決着をつけられない膠着のなかにとどまった。その膠着は、一度の弾劾、そして幾度もの拒否権行使とその覆しという形を取り、公然と展開し続けたのである。

次に見るのは、この争いがワシントンの政権中枢から、ふたたび南部の大地へ広がっていく過程だ。一人の戦争の英雄がホワイトハウスに入り、選挙権を得たばかりの黒人を連邦の武力で守り、恐怖を武器に巻き返しを図る暴力組織に対抗しようとする。だが、経済恐慌、結果をめぐって争われる大統領選挙、そして次第に尽きていく北部の意志が重なり、この再建は一つの取引によって、ひっそり幕を閉じることになる。グラントからヘイズへ。書き換えが、いかに後退を強いられ始めるのか。その物語である。