Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
鑿構周期律 · アメリカ大統領シリーズ — 第03篇、全26篇

第3篇 ジェファソン――厳格解釈論者の逆説

Han Qin (秦汉) · 2026年
この篇の目次

前篇の最後に残した逆説に、ここで正面から向き合おう。トマス・ジェファソンが大統領になったとき、その言葉に曖昧さはなかった。中央政府を小さくする。支出を切り詰める。権力を各州に返す。共和国を中央集権と金融寡頭支配へと押し流している、彼の目にはそう映った連邦党の国家機構を片づける。ところが二期の任期中、彼が成し遂げた最も大きな仕事のいくつかは、まさにその国家機構を受け継ぐことだった。そして領土、戦争、通商危機をめぐって、大統領権力を建国以来まだ誰も踏み込んだことのないところへ押し広げたのである。

この逆説を書くにあたって、手軽で浅い二つの書き方は避けたい。一つは、ジェファソンを原則に背いた偽善者として描くこと。もう一つは、いつの間にかハミルトンになっていた人物として描くことだ。どちらも、ジェファソンという人間の言行は一致していたのか、という個人の話にとどまっている。この篇で見たいのは、もっと冷ややかで、もっと深い構造上の事実である。この〈構〉は、権力を握る者の言行一致を必要としない。それ自体の引力を持ち、中に入ってきた人間を、自らの論理に沿って引き寄せる。その人間がもともと掲げていた方向とは正反対の場所まで、引っ張っていくこともしばしばある。

前篇で述べたように、マディソンたちの世代は、この構を設計するとき、権力者が有徳であることを前提にしなかった。ジェファソンの在任期は、この点をさらに一段深く示している。この構は、権力者の徳性に依存しないばかりか、その人の行動が自らの原則と一致していることにさえ依存しない。中央集権に反対して政権を取った者でも、中央の国家機構を受け継ぐように押され、領土や戦争や危機を通じて、それを拡大するように押される。本人が弱いからでも、偽善的だからでもない。財政、債務、徴税、行政、領土という枠組みをいったん組み上げた構には、それ自身の重みが生まれるからだ。後から入ってくる者がどんな言葉を携えていようと、その重みを避けて通るのは難しい。

1. なだめ、受け継ぐ

最初の就任演説にある「われわれは皆、共和派であり、皆、連邦派である」というジェファソンの最も有名な一節は、1800年の選挙後に起きた憲政の危機に戻して読む必要がある。この選挙から、アメリカ史上初めての政党間の平和的な政権交代が生まれた。しかし、その過程は少しも平穏ではなかった。ジェファソンとバーの得票は同数となり、下院が大統領を選び出すまでに36回の投票を要した。この文脈で、あの一節がまず目指していたのは、現代的な意味での「忠誠ある野党」を称えることではない。つい先ほどまで国を破局の瀬戸際に追い込んでいた激しい党派闘争を、共通の共和国秩序の中にもう一度取り込み、なだめる言葉によって、体制を覆されるのではないかという連邦党の恐怖を和らげることだった。ジェファソン研究の歴史家オヌフが強調するように、この言葉は、彼が現代的な政党間競争の正当性を認めたことを意味しない。共通の原則の名のもとに、1790年代のヒステリックな党争を終わらせたかったのである。つまり、党派の対等な地位を承認したというより、前篇で述べた、争いを秩序の内側へ取り込む試みに近い。

演説そのものも、よく引用されるあの一節だけでは捉えきれない。結束を宣言する言葉のほかに、同じくらい重要な主張が並んでいる。第一に、賢明で倹約的な政府。第二に、各州が持つ権利の全面的な擁護。そして第三に、同じ演説の中で、連邦政府に憲法が与えた力を余すところなく維持することも唱えていた。この第三の点が肝心だ。ジェファソンは、単純に州の権限で連邦の力を打ち消そうとしていたのではない。州政府も連邦政府も、共和国秩序に欠かせない柱として、同じ演説の中に置いていた。両方を残そうとするこの姿勢には、彼がやがて連邦の国家機構を本当に解体するわけではないことが、すでに顔をのぞかせている。

実際、そのとおりになった。就任後、彼は連邦党が築いた機構を壊して一からやり直すことはしなかった。最も正確に言うなら、連邦党の遺産を選別して縮小したのであって、制度ごと取り除いたのではない。たしかに、大統領の任命権が及ぶ連邦職員を減らし、陸海軍を削減し、1798年の直接税の廃止を進め、共和派がひどく嫌っていた物品税の負担もなくした。その一方で、日々の行政を支える骨組みの多くは残し、事務と郵便の大部分をそのまま動かし続けた。歴史家アラン・テイラーの言い方は率直である。合衆国銀行を存続させ、国の債務を尊重して返済し、陸海軍も規模を縮めながら維持することで、ジェファソンは穏健な連邦党員を安心させたのだ。

解体ではなく継承だったことは、合衆国銀行を見るとよくわかる。1791年に銀行の設立へ最も強く反対した一人であったジェファソンは、憲法は連邦に法人設立の権限を与えていない、まして中央銀行など認めていない、と主張していた。だが大統領になっても、第一合衆国銀行を廃止しなかった。銀行は従来どおり存続し、20年間の特許が1811年に満了するまで活動を続けた。ここで大切なのは、ジェファソンがハミルトンに変わったという話ではない。もっと冷厳な事実がある。財政、債務、徴税、行政が一つの国家の枠組みとして形を取ると、それに反対する言葉を掲げて政権についた者も、部分的に刈り込むことはできても、全体を取り壊すことはなかなかできない。ここで初めて、この構の引力がくっきりと姿を現す。それは人を無理に従わせるのではない。ただ、すでにそこにある。一つの言葉で動かすには、あまりに重いものとして。

2. ルイジアナ購入の逆説

銀行の問題が引力の静的な側面を見せるものだとすれば、ルイジアナ購入は、その引力が動き出す場面である。この篇の制度をめぐる話の中で、最も重要な材料がここにある。逆説を後世の人間が無理に押しつけたのではない。ジェファソン自身が、自分の手で書き残しているからだ。

まずは事実を固めておこう。1803年、アメリカはフランスから約1,500万ドルでルイジアナを購入した。内訳は現金6,000万フランと、フランスがアメリカ国民に負っていた2,000万フランの債務の引き受けである。これでアメリカの領土はほぼ倍になった。極めて厳密に書くなら、「おおよそ倍増した」とすべきだろう。条約は1803年4月30日にパリで調印され、上院は10月20日に24対7で批准への同意を与え、12月20日にはニューオーリンズでフランスからの正式な引き渡しが行われた。購入した土地は、現在の15州の全部または一部にまたがっている。また、この土地から13州が生まれた、と説明されることも多い。

外交上の背景もはっきりしている。ナポレオンはもともと、新大陸にフランスの帝国を再建するつもりだった。まずサン=ドマングの支配を回復し、次いでルイジアナをカリブ海の植民地体系に食糧を供給する穀倉にする。ところがサン=ドマングでフランス軍は黄熱病と戦争に大きな打撃を受け、英仏間の大戦も目前に迫っていた。ナポレオンは構想を断念し、突如、ニューオーリンズだけでなく、ルイジアナ全域をアメリカに売り出した。アメリカにとって、ニューオーリンズとミシシッピ川下流は、もともと西部の農産物を運び出す生命線だった。フランスにとっては、カリブ海帝国の展望が消えるや、この土地は戦略の中心から、換金できる資産へと急速に姿を変えたのである。

本当に重要なのは、ジェファソン自身が抱いていた憲法上の不安であり、これは彼の私信を通して書かなければならない。1803年9月7日、彼は友人に宛てた手紙で、一つの文書に二通りの解釈がありうるなら、自分は安全で厳密なほうを選ぶ、解釈によって憲法を一枚の白紙にしてはならない、と明言している。同じ手紙の中で、条約を結ぶ権限を無制限と解するなら、われわれにはもはや憲法がないのと同じだとも述べた。幅広い解釈によって必要な権限がすでにあるものとみなすより、憲法を改正してその権限を加えるべきだ、という考えに傾いていたのである。

ところが、そのわずか数週間前、1803年8月12日に上院議員ブレッキンリッジへ宛てた手紙では、すでに一線を越えるための理由を探していた。彼はこの購入を、後見人が被後見人の金を無断で使い、大切な隣接地を買うことになぞらえている。「あなたのために危険を冒した」という性格の行為であることまで認め、国に事後の追認を求めようとした。必要性や自己保存、危機にある国を救う義務を明確に論じるのは、後年の1810年9月20日、ジョン・B・コルヴィンに宛てた手紙である。1803年の二通は、並べて扱うのがよい。一通からは、あくまで憲法を、書かれた憲法として守り、解釈で白紙にしたくないという姿勢が見える。もう一通からは、好機がたちまち過ぎ去りかねないとき、国益のために危険を冒し、事後の承認を求める姿勢が見える。逆説を残したのは、彼自身なのだ。

歴史学上の解釈も、少なくとも三つを並べておける。第一は、購入を現実的な必要として捉えるものだ。これほどの機会は二度と来ない。改憲は間に合わず、逃せば永遠に失われる。第二は、原則との不一致、さらには原則からの逸脱に重きを置く。厳格解釈を唱えたジェファソンが、肝心な場面で、自分でも認めたくない拡張への扉を開いた、という読み方である。第三は、より構造的な説明で、オヌフに代表される。問うべきことを個人の偽善だけに絞らず、ジェファソンが最初から共和国の人であると同時に、連邦の人でもあったことを見る。彼が語る連邦の原則、「自由の帝国」への想像力、領土や連合をめぐる構想を考えれば、そもそも純粋な地方主義者ではなかった。この三つを重ねたとき、最も全体を捉えた言い方はこうなる。購入は個人の妥協であるとともに、大陸へと膨張するアメリカ連邦の制度的な論理が姿を現した出来事でもあった。

領土を外へ外へと押し広げるこの論理には、この篇で触れずに済ますわけにはいかないものが潜んでいる。ジェファソン自身は、アメリカの拡張を「自由の帝国」として思い描いていた。まるで領土が広がれば、そのぶん自由も広がるかのように。だが、新たに買い入れた広大な土地は、好きなように自由を書き込める白紙ではなかった。この構に組み込まれた瞬間、一つの問いが生まれる。この土地は将来、奴隷制を認める土地になるのか、それとも自由な土地になるのか。西へと広がる領土の一つひとつが、最も深い余項である奴隷制を、そのつど再び動き出させる。だからルイジアナ購入の真の重みは、国の広さを倍にしたことだけにはない。奴隷制の拡張という問題を、かつてないほど巨大な規模で、未来の課題として突きつけたことにもある。

3. 拡張はどう歯止めにぶつかったか

引力は大統領の権限を押し広げ続ける。しかし、この構の中には、それを待ち受ける別のものもある。ジェファソンの在任期を貫くもう一つの筋は、行政と政治の意思が、司法という歯止めに何度もぶつかっていく過程だ。そのどの衝突でも、大統領は勝者になれなかった。むしろ、そのたびに歯止めのほうが強くなった。

背景にあるのは、前篇の最後に登場した「深夜の裁判官」たちである。政権を明け渡す前、連邦党は1801年司法法を成立させ、連邦裁判官の職をいくつも新設した。ジェファソンと共和派が占める議会は、翌1802年にこの法律を廃止する。アダムズが任命したばかりの裁判官たちの職を、まとめて取り払ったわけだ。ただし、終身任命の裁判官をジェファソン自身が直接解任することはできなかった。まず連邦保安官などの周辺の役人を入れ替え、次いで議会による法律の廃止を通じて反撃する。それが彼にできることだった。

マーベリー対マディソン事件が重要なのは、この対立のただ中で起きたからだけではない。政治では一歩退き、制度では一歩進むという、いかにも典型的なやり方で違憲審査を確立したからである。首席判事マーシャルは、一方ではマディソンに任命状の交付を実際に強制せず、判決の執行をめぐるジェファソン政権との正面衝突を避けた。他方では、1789年司法法の職務執行令状に関する部分を違憲と宣言し、違憲審査の原則を書き込んだ。判決で最もよく引用されるのは、「憲法に反する法律は無効である」と「法が何であるかを明らかにすることは、司法部門の権限であり、義務である」という二つの言葉だ。論理の道筋は明快である。憲法は通常の立法に優越する。通常の法律が憲法と衝突するなら、裁判所は事件を裁くとき、どちらを適用するか決めなくてはならない。したがって裁判所には、違憲の法律の適用を拒む責任がある。

この違憲審査という仕組みは、憲法の条文に明瞭に書かれていたわけではない。だが、その考え方には建国期の憲法論や、それ以前の司法実務という背景があった。マーシャルは無から仕組みを生んだのではなく、この事件で憲法の論理を明確に示し、重要な先例として定着させたのである。設計の時点ですべてが完成していたのではなく、この構は実際に動いていく中で、既存の原理を具体的な歯止めへと育てていった。この点は、構がどんなものかをよく示している。一度完成させれば、あとは動かすだけの機械ではない。動きながら、新たな部品、新たな抑制と均衡、新たな規則を次々に生み出していく。いっそう興味深いのは、その歯止めを確立したマーシャルが連邦党員であり、ジェファソンの政敵アダムズによって退任直前に任命された首席判事だったことだ。言い換えれば、大統領を法の檻に入れる決定的な歯止めは、行政権の拡張が進んだジェファソンの在任中に、ほかならぬその敵の手で作られた。この構がどちらへ育っていくかは、一人の権力者だけで決められたためしがない。

ジェファソン側は、続いて弾劾によって連邦党系の裁判官を攻撃しようとした。だがここでも、かえって司法の独立が固まることになった。サミュエル・チェイスは、最高裁にあって党派性の非常に強い連邦党系判事だった。ジェファソンの後押しを受けた共和派は、彼の弾劾に動く。下院は1804年3月12日に弾劾を決議したものの、1805年3月1日の上院では、八つすべての訴因について、有罪に必要な3分の2の賛成に届かなかった。チェイスの無罪は、裁判官のどのような行為が罷免に足る「重大な犯罪その他の非行」に当たるのかを、事実上画定する助けとなった。単なる党派的な偏りと、弾劾に値する罪とが区別されたのである。この篇の主題にとって、この失敗は重要だ。ジェファソンは法律を廃止できた。行政権も拡張できた。しかし、司法をすっかり大統領の付属物に作り替えることはできなかった。

バーの事件では、行政と司法、個人の野心、反逆罪の定義が、ひとつにもつれ合う。1804年、バーは決闘でハミルトンを撃ち殺し、これによって国政の表舞台で政治家として順当に進んでいく道は事実上閉ざされた。さらに1807年には、ジェファソン政権が彼を反逆罪で訴追する。この裁判で憲法上最も注目すべきなのは、マーシャルが反逆罪の条項を狭く解釈したことだ。反逆とは、国に対して戦争を起こすこと、または敵に加担することに限られ、法廷での本人の自白がないかぎり、同一の公然たる行為について二人の証人による証明が必要となる。マーシャルはこの規定から、構想すること、組織すること、扇動することと、法的な意味で戦争を起こすことを分け、反逆罪の認定を極めて難しくした。最終的に陪審が示した結論は、この起訴状に基づく限り、バーの犯罪は立証されていない、というものだった。一連の事実が示すのは、大統領が政治の場で公然と誰かを有罪と断じても、法廷では行政の意思も、憲法上の限定された定義と証拠の規則に従わなくてはならない、ということである。

4. 対外行動の先例と遠征

引力には、外へ向かう方向もある。ジェファソンの在任中に起きた二つの対外的な出来事は、とかく軽く扱われがちだが、どちらも、この構が外の世界へどう力を及ぼすかに関わっている。

バーバリ戦争は、海賊と戦う単純な正義の戦争として語られることが多い。だが制度上もっと重要なのは、正式な宣戦布告に先立って大統領が海軍力を行使する、その初期の先例となったことである。1801年、トリポリのパシャは、アメリカが貢納金を滞納しているとして増額を要求し、アメリカに宣戦した。ジェファソンは、その宣戦の知らせを受け取る前に、海軍の戦隊を地中海へ派遣していた。議会は1802年、アメリカの商船と船員を守るため、大統領が武装艦を装備し派遣することを認める法律を成立させた。この法律は宣戦布告ではなかったが、海軍と武力を用いるというジェファソンの決定を支えた。つまり、大統領がまったく独力で戦争をしたのでも、厳密な意味で正式に宣戦したのでもない。まず行動し、その後に議会が限られた権限を与えるという、初期の型だった。この型は、このシリーズで後に扱う戦争の中で、繰り返し大きくなっていく。

ルイス・クラーク探検隊も、ただの冒険物語として書くべきではない。ジェファソンが与えた任務には、少なくとも三つの層があった。科学的な観察と分類、交易路の調査、そして西部の先住諸民族との外交関係の構築である。そこに表れていたのは啓蒙の科学だけではなく、立ち上がりつつあるアメリカの帝国でもあった。この篇の組み立てに即して言えば、遠征は、国家による知識生産、地図作成、外交的接触、帝国の力の投射を一つにした事業として捉える必要がある。新しく買った土地をちょっと見てこいと、大統領が人を遣っただけの話ではない。権限の限られた政府を語る大統領が、国家の力で一つの大陸を測り、名づけ、占有していく。このこと自体、引力が彼を領土の論理へ引き寄せた、もう一つの証拠である。

5. 通商禁止、行政権の行きすぎが招いた反作用

行政権の行きすぎが反作用を呼び起こす。その成り行きを最も極端な形で見せたのが、通商禁止法だった。

直接の背景には、ナポレオン戦争下でイギリスとフランスが行った海上封鎖、船舶の拿捕と臨検、船員の強制徴募があった。とりわけ1807年のチェサピーク号・レパード号事件の後には、アメリカ国内の怒りが一気に高まった。ジェファソンが選んだのは即時の開戦ではなく、国の通商力によって英仏を屈服させる道だった。まずイギリス艦船のアメリカの港への入港を禁じ、各州知事に民兵の準備を命じた。そして1807年12月、全面的な通商禁止を進める。アメリカの農産物と海運を失えば、英仏は譲歩するはずだと考えたのだ。ところが1808年春には、アメリカ経済のほうが深刻な打撃を受けていた。年間輸出額を見ると、1807会計年度の約1億800万ドルから、1808会計年度には約2,200万ドルへ急落している。経済史家ダグラス・アーウィンの推計は、さらに踏み込んでいる。ほとんど自ら国を閉ざすに等しいこの通商禁止がもたらした経済厚生の損失は、1807年のアメリカ国民総生産のおよそ5%に相当したという。

しかし、もっと重要なのは、もともと戦争を避けるための政策が、国内では連邦権力にきわめて強い強制力を持たせたことだ。通商禁止の成立後、議会は補足法、追加法、執行法を次々に制定した。沿岸交易、漁業、捕鯨に従事する船には保証金の納付を求め、陸路でも海路でも貨物の輸出を禁じ、違反の疑いがあれば港の役人が貨物を差し押さえられるようにした。ついには、大統領が陸海軍を動かして法の執行を補助することまで認めたのである。つまり、倹約と権限の限られた政府を掲げて登場した大統領が、自分の中立政策を貫くために、行政の裁量を強め、日常への統制を深めていった。この篇で、引力が最もまぶしく、目を背けたくなるほどの形を取るのがここだ。政府を大きくしたがらない人間でさえ、自らの政策の論理に押され、港や漁船にまで入り込む統制の機構を築いていく。

通商禁止の評価には、少なくとも二つの見方を並べられる。一方は、これを原則に根ざした、戦争によらない中立の実験と見る。軍事衝突の代わりに通商の圧力を使い、中立と主権を守ろうとした、という評価である。もう一方は、結果を見れば典型的な行政権の行きすぎだった、とする。英仏は期待どおりに譲歩せず、イギリスはすばやく南米市場へ向かった。アメリカ自身がより大きな衝撃を引き受け、ニューイングランドでは広範な違法行為と抵抗、連邦党の巻き返しを招いたのだった。

そして、この反作用そのものが、構のもう一つの顔を見せている。通商禁止は、いつまでも続けられたわけではない。ジェファソンの退任直前には廃止され、港に浸透した強制の機構も、常設のものにはならなかった。これは、前篇で述べた理屈をもう一度確かめる出来事である。行政権の過剰な拡張は反発を引き起こし、この構は、その行きすぎを再び引き戻すのだ。

6. 最も深い余項、書かれても実現しなかった平等

引力と抑制・均衡。この二本の筋とは別に、ジェファソンという人間には、このシリーズで最も深い余項がのしかかっている。しかも、誰よりも重く。

独立宣言の「すべての人は平等につくられている」という一節の主たる起草者であるジェファソンは、生涯に600人以上を奴隷にしていた。その大半は買い入れた人々ではなく、相続と、奴隷にされた家族に子どもが生まれることによって、彼の所有とされた人々だった。遺言による解放や、非公式に自由を与えて立ち去るのを認めた人々も含め、彼が解放したのは合わせてわずか10人であり、ほぼ同じ一つの家族の出身だった。歴代のアメリカ大統領の中でも、彼は最も多くの奴隷を所有した人物の一人である。この二つを並べてみる。原則は書かれ、人は隷属させられる。このシリーズを貫く筋が、これほど鋭い形で具体化することはそうない。

奴隷制についてジェファソンが残した文章は、内側に激しい緊張を抱えている。耳に心地よい箇所だけを拾って引用してはならない。1780年代の『ヴァージニア覚書』で、彼は一方では、神が公正であることを思うと自分の国のために震える、と書き、奴隷制が主人とその子どもたちの徳性をいかに腐らせるかを厳しく描いた。他方、まさに同じ著作で、体系的な人種の序列も書き連ねている。黒人は身体と精神の資質で白人より劣ると考え、解放した後には、白人との混血が起きない遠方へ移住させるべきだと主張した。この二つの文章は、必ず並べて読む必要がある。彼は奴隷制に不安を覚えると同時に、その人種秩序の奥深くに組み込まれていた。晩年の手紙には、あの有名な比喩が現れる。われわれは狼の耳をつかんでいるようなもので、つかみ続けてもいられず、かといって安全に手を放すこともできない、と。

診断は深いのに、出口を開く力がない。この状態そのものが、道徳的な裁きだけでなく、構造による説明を必要としている。ジェファソンの不安は本物だった。だが、その不安では、彼を奴隷制につなぎとめている構造を揺さぶれなかった。当時の南部で、奴隷制は個人が良心に従って採用したり捨てたりできる選択肢ではない。プランテーション経済を支える労働の基盤であり、ジェファソン自身の富と暮らし方の土台であり、南部諸州を新しい連合につなぎとめる妥協の一部でもあった。どれほど不安にさいなまれる良心でも、これほど深く根を下ろした構造全体を、たった一人で持ち上げることはできない。

1808年の国際奴隷貿易の禁止は、この矛盾をたどる本文に、必ず書き込まなくてはならない節目である。憲法第1条第9節によって、議会が奴隷の輸入を禁止できるのは、早くても1808年からだった。1806年、ジェファソンは年次教書で議会に働きかけた。憲法が許す時が来たなら、アフリカに対するあの人権侵害に、アメリカ国民がこれ以上加担しなくて済むようにすべきだ、と。議会はその後、1807年3月2日に奴隷輸入禁止法を成立させ、1808年1月1日から施行することを定めた。最も正確に言えば、この法律が終わらせたのは、合法的な大西洋横断の奴隷流入である。国内の奴隷制そのものには手をつけず、州をまたぐ奴隷売買を終わらせてもいない。たしかな節目ではあったが、決着にははるかに遠かった。

ジェファソンは、この国の礎となる言葉の中に万人の平等を書き込んだ。そして最も深い余項も、自分でさえほどくことのできなかった固い結び目も、そのまま山荘の影に残した。

7. 結び

ジェファソンの二期を、このシリーズの枠組みに置き直して書く。そこで最も力を持つのは、彼を誠実な理想主義者か、虚飾にまみれた偽善者かと裁定することではない。並行して存在するいくつかの事実を、並べ続けることだ。

第一に、彼は言葉の上では、政府の権限を限定すべきだと主張し続けた。だが、その大統領任期こそ、中央集権に反対して政権を取った者も、中央の国家機構を受け継ぎ、領土と戦争と通商危機の中でそれを大きくすることを示している。これが構の引力だ。権力者の言行一致には依存せず、それ自身の重みと方向を持ち、中に入った人間を自らの論理へ引き寄せる。第二に、彼は奴隷制が共和国を滅ぼすのではないかと、本気で心配していた。しかし、自分自身を奴隷制の利益や人種序列の秩序から切り離すことは、一度もなかった。最も深い余項は、彼の手で診断されながら、解決されなかった。第三に、彼は党争を鎮めようとした。だが、それは後世の意味で、党派が対等に競争することを認めたわけではない。むしろ、自分が定義する共和国の共同体に、反対派を取り込もうとしていた。第四に、マーシャルとの対立では、大統領は裁判所を征服できず、かえって、より確かな違憲審査と司法の独立を生み出した。

この四組の事実は、合わせて一つの結論を指す。この構は、大統領一人がすべてを決める秩序として閉じ切ることもなければ、言葉で約束された、権限の限られた小さな政府として閉じ切ることもない。自らの引力に沿って拡張し、行きすぎるたびに自らの抑制と均衡によって引き戻される。その一方で、最も深い余項だけは、一つの世代から次の世代へ、手つかずのまま渡されていく。ジェファソンの逆説は、突き詰めれば一人の人間の逆説ではない。この構が、それを最も認めたがらない一人の人間を通じて、自分の引力、自分の限界、自分の未決の問題を、初めて同時にさらけ出したのである。

この先、この構が向き合うのは、内側の引力と抑制・均衡だけではなくなる。本物の、外からの生存の試練が待っている。戦争が首都を焼け野原にする。外からの衝撃を受けても、この構は生き延びられるのか。それが次篇のマディソンとモンローに突きつけられる問いだ。同時に、最も深いあの余項も静かではいられない。ミズーリで初めて、この構をいずれ引き裂くことになる、その亀裂の輪郭をはっきりと見せ始める。