Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
鑿構周期律 · アメリカ大統領シリーズ — 第02篇、全26篇

第2篇 アダムズ――最初の閉合衝動と最初の平和的政権交代

Han Qin (秦汉) · 2026年
この篇の目次

前篇の結びには、一つの伏線を残しておいた。ワシントンの手で動き始めたこの「構」は、党派間の争いを、自らが必然的に生み出し、受け入れるほかない余項として認めていた。意見の違いを一切含まない、統一された意志など求めなかったのである。だが、余項の存在を認めたからといって、それがいつまでも穏やかに扱われるとは限らない。ジョン・アダムズの四年間は、この構が初めて本格的に、仕組み全体を揺さぶる圧力にさらされた時期だった。その圧力に対する最初の反応は、ほかでもない、本来なら受け入れるべき余項を外へ追い出そうとすることだった。

アダムズは就任した瞬間から、ひどく厄介な立場に置かれていた。ワシントンの最初の後継者である以上、建国の父と比べられる重圧は避けようがない。さらに困ったことに、所属する連邦党は、彼を中心にまとまっていたわけではなかった。党内の実質的な影響力は、長らくハミルトンが握っていた。近年の研究による彼の境遇の説明は、身も蓋もない。政治的に孤立し、自分の閣僚たちすら、しばしば彼に敵対していたのである。1799年秋には、二度目の対仏和平交渉を独断で進めるアダムズと閣僚たちとの深い亀裂が、誰の目にも明らかになっていた。1800年の選挙戦になると、ハミルトンはとうとう冊子を公表し、同じ党に属する大統領を公然と攻撃した。

だから本篇の出発点は、アダムズが誤解された名大統領だったかどうかを判定することではない。もっと構造にかかわる問題を見定めることだ。この構が初めて受けた負荷試験で問われたのは、ある大統領の人品ではなく、外からの圧力と内輪の争いが重なるなかで、構そのものが動き続けられるかどうかだった。ようやく歩き始めたばかりの制度が、外部からの現実の脅威と、内部での激しい党派抗争に、初めて同時に直面した。この二つの圧力が重なれば、どんな支配集団でも、手っ取り早い出口を探したくなる。面倒の元凶、つまり異論そのものを、いっそ取り除いてしまおうというわけだ。そして、この構が最初に提出した答案こそ、閉じ切ろうとする衝動、すなわち閉合衝動だった。

一 現実の危機

この閉合衝動を正確に語るには、まず、それが何もないところから捏造されたヒステリーではなく、現実の危機を土台としていたことを認めなければならない。

対外情勢は、実際に悪かった。フランスは1794年のジェイ条約に強く反発し、アメリカがイギリスへ歩み寄ったと見なして、1796年からアメリカ商船の拿捕を拡大した。総裁政府は、ヨーロッパでの戦争がもたらす財政難にあえぐ一方、米英の接近に腹を立て、フランス側によるアメリカの海運への襲撃と略奪を野放しにした。拿捕されたアメリカ船は300隻を超えた。アダムズが向き合っていたのは、まぎれもなく、外交と海上の安全にかかわる危機だった。

危機をめぐる世論の空気を一変させたのが、XYZ事件である。1797年、アダムズはピンクニー、マーシャル、ゲリーの三人をフランスに派遣した。関係を修復し、海運への妨害をやめさせるためだった。ところが使節団はパリに着いても、すぐに外相タレーランの正式な接見を受けられず、数人の仲介者を通じて条件を突きつけられた。交渉を始めたければ、アメリカが先に融資を行い、フランス側の関係者に礼金を払えというのである。1798年、アダムズが関係文書を議会に提出した際、この仲介者たちの名は伏せられ、X、Y、Zの文字に置き換えられた。事件の名は、そこから来ている。

政治への波及は大きかった。それまではアメリカ国内になお根強い親仏感情があったが、XYZ文書が公開されると、反仏の波がたちまち高まった。アダムズへの世論の支持は、一時、在任期間を通じて最高の水準に達した。1798年4月30日、彼は海軍省を設置する法律に署名し、常設海軍を支える行政組織を連邦レベルで再建した。続く擬似戦争は、主にカリブ海と大西洋の航路で繰り広げられた、宣戦布告なき海上の衝突だった。正式に宣戦したうえでの全面戦争ではない。この戦いは制度に二重の作用を及ぼした。一方では、まだ若い連邦政府に、海軍を組織し、海運を守り、外交交渉を続ける能力があることを示す機会を与えた。他方では、国内の政治的異論を安全保障上の脅威として扱う口実にもなった。1798年の一連の法律を理解する鍵は、後者にある。

ここで、一つの構造的なパターンを先に押さえておきたい。この先の連載でも、何度となく現れるものだ。この構の閉合衝動は、たいてい、何のきっかけもなく純粋な悪意から突然湧き出すのではなく、かなり決まった道筋をたどって生まれる。まず、外部で現実の危機が起こり、安全に対する切実な不安を生む。その不安が国内政治に持ち込まれ、党派抗争に巻き込まれる。最後に、一方の党派がそれを法律の言葉へと組み替え、外の敵と内の政敵を、そっと重ね合わせる。すると、外敵への警戒が、そのまま国内の異論に対する処罰へ変わってしまう。1798年にたどったのは、まさにこの道だった。XYZ事件と擬似戦争が現実の不安を生み、治安法がその不安を刑法の形にした。この道筋を見抜くことが重要なのは、閉合衝動を起こすのに、悪人など必要ないとわかるからだ。現実の危機と、政敵を危険物として扱いたくなる誘惑。この二つさえあればよい。

二 異論を制度の外へ追い出す

1798年に成立した四つの法律は、後世、一つの大がかりな弾圧法としてひとまとめにされがちだ。だが、その法的な仕組みはそれぞれ異なる。切り分けて見てこそ、この閉合衝動の本当の姿が見えてくる。

第一の法律は、帰化に必要な居住期間を5年から14年へ延ばした。新しい移民が有権者になるためのハードルを高くしたのである。第二の法律は、危険と認定した在留外国人を、平時でも国外へ退去させる権限を大統領に与えた。第三の法律は敵国の臣民を対象とし、宣戦がなされた場合や、侵攻の脅威がある場合に拘束と国外退去を認めた。これには失効期限を定めるサンセット条項がなく、その後も長くアメリカの法体系に残った。そして制度の核心に直接切り込んだのが、第四の法律、治安法だった。国内の政治批判を、そのまま連邦刑法の対象にしたからである。

条文そのものも、順に見ておく価値がある。第1条が主に取り締まったのは新聞ではなかった。違法な結社や共謀によって政府の施策に抵抗し、連邦法の執行を妨げ、連邦の官吏を威嚇し、あるいは騒乱や違法な集会を扇動する行為であり、最高5,000ドルの罰金と最長5年の拘禁を科すことができた。後世の記憶に残った核心部分は、第2条にある。連邦政府、連邦議会のいずれかの院、または大統領について、虚偽で悪意に満ちた中傷的な文章を書き、印刷し、公表すること。その目的が、対象を辱め、侮蔑を招き、民衆の憎悪をかき立て、あるいは法律への反抗を促すことにあれば、最高2,000ドルの罰金と最長2年の拘禁を科すことができた。第3条は、一応、記述が事実であることを被告側の抗弁として認め、陪審には法律問題と事実問題の双方を判断する権限があると定めた。そして第4条で、この法律は1801年3月3日に失効するとされた。ただし、有効期間中の違反については、失効後も訴追し処罰できると定められていた。

この閉合衝動の性質を理解するうえで、見逃せない細部が二つある。第一に、保護される対象として連邦政府、議会の両院、大統領が列挙されながら、副大統領だけは含まれていなかった。当時の副大統領は、ジェファソンである。つまり、党派抗争が白熱するなか、政権側の大統領を攻撃すれば犯罪になるのに、野党側の指導者を攻撃しても犯罪にはならなかった。第二に、条文には真実性による抗弁や陪審の判断の余地が書き込まれていても、連邦党系の裁判官は、実際の事件ではしばしば、その形式的な保障をひどく狭いものにした。連邦党側の擁護論の柱は、憲法修正第1条が禁じているのは事前検閲だけであって、事後に名誉毀損として刑罰を科すことではない、というものだった。これに対し共和派は、それでは言論と出版の自由が実質的に侵害されると主張した。1798年の論争における、憲法論上の核心はここにあった。

しかも、これらの表向きの保障をさらに頼りなくする問題があった。真実であることを抗弁に使えるというのは、公平に聞こえる。しかし政治批判に最もよく現れるのは、事実の報告よりも、評価や皮肉である。ある大統領のやり方は滑稽だ、ある政策は危険だ。こうした言葉は意見であって、法廷へ持ち込み、真実だと証明できる事実ではない。意見の一言を事実によって弁護できないとなれば、真実性による抗弁など、あってないようなものになる。

この法律を本連載の枠組みに戻して見れば、その意味ははっきりする。これこそ、この構が初めて示した閉合衝動だった。前篇で述べたとおり、閉合を追い求める秩序とこの構が違うのは、党派間の争いの正当性を端的に認め、権力の分立と相互抑制、新聞、選挙といった公然たる通路を与えた点にある。治安法がしようとしたのは、その逆だった。連邦刑法を使って、この余項を制度の内部から排除する。政治的な反対者を、受け入れるべき存在から、処罰すべき敵へと定義し直す。この構は初めて、自らが生み出した余項を、受け入れるのでなく消し去ろうとしたのである。

三 その法律はどう使われたか

治安法を単なる思想の問題として描くだけでは、いちばん大切な部分を取り逃がす。閉合衝動が本当に発動したかどうかは、それが生身の人間にどう降りかかったかを見なければわからない。

従来の説明では、1798年から1801年にかけて約15人の共和派が起訴され、そのうち10人が連邦裁判所で裁判にかけられたとされる。だが、この定説は近年、新たな史料研究によって大きく揺らいでいる。歴史家ウェンデル・バードは、従来の文献を調べ、長く通用してきた起訴件数がおおむね14件から17件の範囲にあったことを指摘した。そのうえで、自らの研究では、従来の学界が事件のほぼ半数を見落としていたと論じた。その後、確認できる起訴を51件、被告人の数を従来の17人から33人へと増やしている。したがって、何人が起訴されたのかを述べるなら、二つの見取り図を並べるのが最も忠実だ。従来の叙述では起訴14~17件、有罪となった者は約10人。バードの研究では、確認可能な起訴は51件、被告人は33人にのぼるとされる。ここで本当に改められたのは、十数件という数字を五十数件に置き換えることだけではない。1798年の連邦による弾圧は、象徴的な事件が数件あったという程度の話ではなく、もっと広い範囲で懲罰的な法執行が行われた時期であり、それが後世の記憶のなかで小さく折り畳まれてきた、ということなのである。

典型的な事件をいくつか見ると、この法律が国家の安全を守ることから党派的な弾圧へ、どう滑っていったかがわかる。その最もわかりやすい例が、マシュー・ライアンだ。1798年10月5日、ヴァーモントの連邦巡回裁判所の大陪審は、現職の連邦議会議員だった彼を、治安法違反の三つの訴因で起訴した。ライアンは裁判でこの法律の違憲性を訴えたが、有罪とされ、4か月の拘禁と1,000ドルの罰金を科された。犯罪にされたのは、革命を起こすための暴動などではなく、アダムズの統治姿勢に浴びせた辛辣な皮肉だった。さらに面白いことに、ライアンは獄中にいながら再選を果たしてしまった。これによって事件は、単なる司法上の問題から、反対派はなお制度の内側で生き残れるのか、という政治上の問題へ変わった。

ライアンの獄中再選は、この構の論理を、鋭い問いの前に立たせた。政権党が刑法を使って牢に入れた反対派の議員を、それでも有権者が再び議会へ送り返せるのなら、弾圧はその声を制度から消し去れていない。それどころか、以前にも増して目障りな形で、その声を残してしまったことになる。有権者は票によって、あの裁判を否決したのである。余項を認める構のなかで、閉合衝動がぶつかる気まずさが、ここにある。人を牢へ放り込むことはできる。だが、その人を制度へ連れ戻す通路まで、同時に消してしまうことはできない。その通路自体を廃止するのでない限りは。そして通路を廃止するとは、この構そのものを廃止することなのだ。

今日の憲法の視点から見れば、治安法は、有効だった期間中に最高裁の正式な判断を受けることこそなかったものの、後のアメリカの憲法の記憶のなかでは、違憲の負の先例ともいうべき存在になった。約1世紀半後、最高裁は言論の自由に関する画期的な判決で、明言している。この法律が当裁判所で審理されたことはないとしても、その有効性を否定する側は、歴史の法廷ではすでに勝訴している、と。この言葉は、この構を理解するうえで重要だ。構が自分の誤りを正すのは、必ずしもその場で正しい答えを出すことによってではない。むしろ、こんなことは二度と起こしてはならないという憲法の記憶を、後になって少しずつ形づくることによってなのである。

四 異論は消えず、場所を変えた

閉合衝動に対する最初の組織的な反撃は、州の側から起こった。ただし、この反撃そのものもまた、長く尾を引く問題の種をまいた。

ヴァージニア決議とケンタッキー決議は、マディソンが前者を、ジェファソンが後者を秘密裏に起草し、それぞれの州議会で採択された。あの一連の法律に異議を申し立てるためだった。直接の目的は、それらの法律が違憲だと宣言することだった。だが、その論証は、憲法を州どうしの契約と見なす道をとった。そして連邦が権限を逸脱した場合には、契約の当事者である各州に、それを判断し抵抗する権利があると強調したのである。

二つの決議の言い方は同じではない。ヴァージニア決議の鍵となる語は「介入」だった。中心となる一節は、連邦政府が意図的で、明白で、危険な権限逸脱を行ったとき、契約当事者である各州には、その害の広がりを食い止めるために介入する権利と義務がある、というものである。ケンタッキー決議の当初の草案は、さらに激しかった。ジェファソンは、与えられていない権限の行使に対しては、その法令の「無効化」こそ正当な救済だと明記した。そして、この構の精神をよく言い表す言葉も書き残した。権力を握る者を憲法の鎖でしっかりと縛り、害をなせないようにせよ、と。ただし、極めて重要な細部がある。「無効化」という語は、1798年にケンタッキー州が最終的に採択した文面からは削られていた。

この決議が、その時点で州をまたぐ連合を生むことはなかった。他の14州のうち、支持を表明した州は一つもなく、4州は回答せず、10州は明確に反対した。短期の政治的成果として見れば、連邦の立法を覆すことはできなかったのである。だが、長期的に憲法を語る言葉へ及ぼした影響は別だった。州こそが最終的な解釈者だという危うい選択肢が、アメリカ政治の語彙に書き込まれた。

この決議の長期的な影響について、歴史家の見方は一つではない。無理なく理解するには、二つの筋をともに見ておく必要がある。一方の見方では、これらの文書は、後の州権論、無効化論、さらには一部の州の分離論にまで、援用できる言葉を確かに提供した。実際、後世の論者たちは1798年の決議を繰り返し持ち出している。他方の見方は、マディソンとジェファソンが1798年に書いたものを、数十年後の、単独の州が連邦法を無効にできるという理論と直結させるのは、歴史をあまりに一本の線でさかのぼりすぎる、と戒める。両者は本来、同じものではない。この二つを合わせれば、最も正確な説明はこうなる。これらの決議は、後世の州権論や分離論の唯一の源泉ではなかった。しかし、後のさまざまな立場が、そこから構文や語彙を取り出せる言葉の倉庫を提供したことは確かだ。

本連載の枠組みに立ち返れば、この節が示す構造上の意味は明らかだ。閉合衝動は異論を制度の外へ追い出そうとした。ところが異論は消えず、居場所を変えただけだった。連邦そのものの次元から、連邦と州との関係へと移り、存在し続け、争い続けたのである。これは、前篇の判断をまさに裏づけている。存在を認められた余項は、変化し、姿を変えることはあっても、制度の視野のなかにとどまり続ける。

五 アダムズの和平への道

閉合衝動と州側からの反撃のほかに、アダムズの任期を語るうえで、何よりも真剣に評価し直すべき仕事がある。1799年に彼が進めた、二度目の対仏和平交渉だ。

1799年2月18日、アダムズは上院に対し、平和を保ち、あるいは回復できる見込みがあるなら、どんな機会でもつかむ意思と用意が、常に自分にはあると伝えた。そしてマレーを駐仏全権公使に指名した。その1週間後には使節団を拡充し、最高裁長官エルスワースと、もう一人の代表を加えた。この一歩の政治的な意味は大きい。擬似戦争はまだ終わらず、国内の主戦論もなお強く、連邦党上層部の亀裂が深まるなかで、外交による出口を再び開いたのである。

払う代償もまた大きかった。1799年秋には、二度目の和平使節団を独断で派遣すると決めたことをめぐり、閣僚たちとの衝突が先鋭化していた。1800年に再選を逃した重要な理由の一つは、まさに、この頑固なまでの独立心によって、党内でますます孤立したことにある。この点を見れば、アダムズを党派抗争に反対した人物と描くのは正確ではない。より正確には、彼は党派抗争そのものを否定したのではなく、その争いが極限に達したとき、党内の支えを失うことになる道を選んだのだ。単純に平和の英雄と描くよりも、そのほうが彼の姿をよく捉えている。

交渉の結果が、「1800年協約」だった。これによって擬似戦争は終結し、1778年の米仏同盟も廃止された。付け加えておけば、この同盟条約は、その時点までにアメリカが正式に批准した唯一の同盟条約だった。それが、ここで終わったのである。

アダムズ自身は後に、この決断を極めて高く評価した。何年もたってから書いた手紙で、これらの使節派遣は、生涯で最も私心がなく、最も功績のある行為だったと述べている。そして、後によく引用される言葉を残した。ほかに何も望まない。ただ墓碑に、ここにジョン・アダムズ眠る、1800年にフランスと和平を結ぶ責任を引き受けた者、と刻んでほしいというのである。この言葉は、治安法だけでアダムズを記憶する語りを正すには、うってつけだ。だが、評価を正すことは、汚点を洗い流すことではない。あの法律に署名したという事実と、必ず並べて見なければならない。同じ人間が、異論を犯罪にする法律に署名し、同時に、党内の圧力に抗して国を全面戦争の瀬戸際から引き戻した。どちらも本当のことだ。構造を分析するとは、好きなほうを選ぶことではなく、二つをともに示すことである。

六 1800年の選挙と1801年の平和的政権交代

1800年の大統領選挙が重要なのは、ただ激しく、汚い選挙だったからではない。敵対する党派どうしが平和裏に政権を交代できるかという問いを、初めて現実の問題として突きつけたからである。

同時代の人々は、この選挙戦を、極端に党派的で、徹底して下劣だったと評した。ハミルトンは選挙戦のさなか、公然と身内に刃を向け、同じ連邦党のアダムズを攻撃した。一方、連邦党員たちはジェファソンを神を信じない人物に仕立て上げ、フランス革命や信仰心の欠如を持ち出して攻撃し続けた。だから1800年は、この構が意見の違いを冷静に扱えた時期ではない。その正反対だ。意見の違いが公然と煽り立てられ、すさまじい強度に達しても、なお構が崩れなかった時期なのである。

開票の結果、ジェファソンとバーは、ともに選挙人票73票を獲得した。当時の憲法の規則に従い、決定は下院に委ねられた。任期を終える直前の、連邦党が多数を占める下院は、数日間にわたって35回も投票したのに、決着をつけられなかった。ようやく1801年2月17日、第36回の投票でジェファソンを選出した。この行き詰まりがさらけ出したのは、当初の選挙制度が、政党出現後の状況にまるで備えていなかったことだ。大統領候補と副大統領候補が、一組の党公認候補として抱き合わせで指名される事態を、想定していなかったのである。

この危機から直接生まれた制度上の帰結が、憲法修正第12条だった。以後、選挙人は大統領と副大統領にそれぞれ別の票を投じなければならない。大統領の選挙で過半数を得た者がいなければ、下院が得票上位3人のなかから大統領を選ぶ。この変更は1804年に発効した。この構にとって、その意味は根本的だ。1800年の危機は、もう今後は党派をつくるなと宣言して解決されたのではない。規則を変え、すでに党派が存在していることを制度が認めることによって解決された。自ら生み出した余項に向き合うとき、この構は余項を消すのでなく、自分の規則を調整して受け入れた。党派など存在しないふりはしない。党派はもう存在する。その事実を受け入れるために、規則を書き換えたのである。

こうした一切があったからこそ、1801年の平和的な権力移譲は、決定的な重みを持つ象徴となった。アメリカで、一つの党から、それと対立する党へ、初めて平和裏に政権が渡ったのだ。当時の大西洋世界のなかに置いてみれば、このような交代は当たり前ではなかった。しかも、それは、連邦刑法による異論の弾圧があり、州議会が連邦の権限逸脱を公然と非難し、党内分裂が表面化し、選挙が憲法上の行き詰まりに陥った、そのあとに起きたことである。それほどの事態を経ても、最後には政権の引き渡しが行われた。その事実だけで、閉合を求めないこの構が成り立ちうることの、力強い証しとなった。

もっとも、平和的な政権交代は、敗者が黙って退場したという意味ではない。退任間際、連邦党が支配する議会は1801年司法法を成立させた。最高裁の定員は、次に欠員が出た時点で6人から5人へ減らされることになった。巡回裁判所の体系は再編され、巡回裁判官の職が16人分新設され、連邦下級裁判所の管轄は、憲法が許す上限近くまで広げられた。共和派は、こうした駆け込みの任命を「真夜中の判事」と皮肉った。民選の二つの権力部門を失った連邦党が、自分たちの勢力を司法に埋め込もうとした、最後の一手だと見たのである。したがって1801年の引き継ぎは、平和ではあっても、清らかなものではなかった。平和と席の奪い合いが同居する政権移譲だったのだ。

「真夜中の判事」の一件は、この構がどう働くかを、それ自体でよく示している。民選の二部門を失った連邦党員たちは、暴力に訴えたわけでも、政権の引き渡しを拒んだわけでもない。法律を一つ通し、一群の任命を行い、選挙の拘束が比較的直接には及ばない司法部門に、自分たちの影響力を押し込んだ。席取りである。だが、規則の内側での席取りだ。この構は、人間を天使に変えはしない。党派間で争う者は、相変わらず、ありとあらゆる手を使って、自分に有利な地位や足場を得ようとする。それでもこの構は、自分たちを無理にでも潜り込ませようとする衝動まで、立法や任命という合法的な形へ導いた。街頭での争いへは向かわせなかったのである。平和的な政権交代の本当の意味は、闘争が終わったことでは決してない。闘争が、規則という檻のなかに収められたことにある。

七 結び

本連載の枠組みに戻ってみると、アダムズの四年間は、閉合衝動がたどる過程の一つの完結した実例を示している。同時に、この構が初めて受けた、仕組み全体に対する負荷試験に、どんな答えを出したのかを一通り示すものでもある。

本篇を一文に縮めるなら、こう言える。アダムズの時代、国家の安全を名目に政治的反対派を抑え込もうとする連邦の閉合衝動が初めて現れたが、この制度は、異論を押し潰したから安定したのではなく、対立を残したまま、法律、州議会、選挙、政権交代へと導くことで、最初の本格的な負荷試験をくぐり抜けた。だからこそ、治安法と、1800年から1801年にかけての選挙および政権交代は、同じ一篇のなかで並べて扱わなければならない。切り離してはならないのだ。前者は、この構が閉じ切ろうとした衝動であり、後者は、その衝動を構自身がどう再び吸収したかを示すものだからである。

吸収は、いくつかの方向から同時に進んだ。治安法にはもともとサンセット条項があり、1801年3月3日に自動的に失効した。閉合衝動には、初めから時間の限りがあったのである。州を通じた抗議は、異論の居場所を連邦と州との関係へ移した。選挙と政権交代は、激しい党派抗争を規則のなかへ導いた。そして後世、二度と起こしてはならないという憲法の記憶が次第に形づくられ、さらに長い時間をかけて、あの弾圧を誤りと位置づけた。この構が自分を正したのは、その場の一度の裁定ですべてを決着させたからではない。異なる次元で続いた、こうした一連の吸収によってである。

「1800年の革命」という呼び方も、二つの層に分けて考えるのがいちばん確かだ。政党間の政権交代、選挙規則の改正、そして以後は野党も政権を握りうるようになったという点から見れば、そこには確かに革命性がある。だが、基本的な憲法体制の連続性から見れば、それはむしろ、体系内部での修正に近い。憲法を覆したわけでも、連邦の機構を解体したわけでもない。引き継ぎと憲法修正を通じて、新しい現実を、もとの体系へ取り込んだのである。この二つの層をともに見てこそ、大げさに語ることも、軽く扱うことも避けられる。

この負荷試験には合格した。だが、その合格の仕方のなかに、この先へと長く伸びていく二本の糸が潜んでいた。一つは、州を最終的な解釈者とする、あの言葉の体系だ。今回は、実際に起きた権限逸脱に抵抗するために使われた。しかし同時に、もっと先の時代に、別の勢力が取り出して使うのを待つ、危険な語彙の倉庫にもなった。もう一つは、行政権と司法権の関係である。「真夜中の判事」が、この問題を表舞台へ押し出した。次に登場するジェファソンは、憲法の厳格な解釈と連邦権力の制限を旗印に政権につく。だが彼は、敵が築いた国家の機構を解体せず、継承することになる。しかも就任早々、あの真夜中の判事たちが残した難題に向き合わねばならない。厳格解釈を掲げる者の逆説が、この先で待っている。