一 石炭は均等に分布していない
地球の石炭は、地質時代のどこにでも同じように分布しているわけではない。ある時期に、際立って集中している。およそ三億五千万年前から二億五千万年前までの一億年間だ。いま私たちが地中から掘り出して燃やしているものの、非常に大きな部分が、この時代の沼地に由来する。中国の山西省で採れる石炭にも、当時の沼地が姿を変えたものが多い。
この期間の前半を、石炭紀という。1822年、イギリスの二人の地質学者がつけた名で、意味はそのまま「石炭を含む」。イギリス人が何百年も掘り続け、産業革命の蒸気機関でも燃やした石炭の多くが、この一連の地層から出てきた。中国語の訳名もまっすぐで、「石炭」は古い中国語で石炭そのものを指す。この期間の後半が、ペルム紀である。
植物は、それより一億年以上前にすでに陸へ上がっていた。その後も二億年以上、生き続けてきた。なのに、なぜこの期間に限って、これほど大量の炭素が大気に返されず、地下に埋められたのか。
「これほど大量」にも、数字をつけることはできる。地層、有機炭素、同位体の記録を組み合わせて推定すると、石炭紀は、過去およそ五億年間で地球全体の炭素埋没が最も速く進んだ時期になる。モデルが算出するピークは、一年に炭素約七千八百万トン。ただし、上下にその半分ほどの幅がありうる。
これは計算で求めた、地球全体の長期平均だ。どこかの炭鉱で測った量ではない。しかも、埋まった炭素の多くは石炭としてまとまらず、海底や湖底の泥に散らばったまま、やがて黒い頁岩になった。石炭はそのうち、とりわけ目立ち、とりわけ濃く集まった部分にすぎない。
比較のために言えば、いま人類が一年に大気へ放出している炭素は、このピークの百倍前後にあたる。石炭紀があれほどの石炭を埋めたのは、仕事が速かったからではない。時間があったからだ。そして、いくつもの条件が、ちょうどうまく重なったからだ。
ここで、石炭がどうできるのかを押さえておこう。ここをどう理解するかで、この先の論争がすべて変わってくる。石炭の前身は泥炭だ。死んだ植物がすっかり腐りきらずに積もったもので、園芸店で売られている、黒褐色でふかふかしたピートモスもその一つである。ただし、積もり続けるには、きわめて具体的な条件がいる。水だ。
酸素のある場所では、植物の遺体は微生物によってすばやく分解され、なくなってしまう。ところが、長く水につかっている場所には酸素が入りにくく、分解が遅くなる。新しく育った植物が次々に死んでは積み重なる一方で、その下では、まだ前の植物が腐りきっていない。これが泥炭湿地である。
いまの熱帯の泥炭地も、北方のミズゴケ湿原も、同じ仕事を続けている。水につかった東南アジアの泥炭湿地林は、石炭紀の石炭湿地に最も近い、生きた見本としてよく引き合いに出される。その泥炭がさらに埋まり、押し固められ、熱を受け、水や揮発成分が抜けていく。残る炭素の濃度がしだいに高まったもの。それが石炭だ。
したがって、石炭ができる条件は、単に「植物が多い」ことではない。三つのことが同時に満たされなければならない。第一に、植物がつくられる量が、分解される量を上回ること。第二に、根のある層が長く水で満たされ、酸素に乏しいこと。第三に、盆地の沈む速さが、泥炭の積もる速さとおおむね釣り合っていること。
見落とされやすいのは第三の条件だが、これが肝心だ。沈むのが遅すぎると、泥炭の表面が長く水面から顔を出す。すると、酸化や火災、河川の侵食によって、せっかくためた炭素が削り取られてしまう。
反対に、沈むのが速すぎたり、相対的な海面上昇が速すぎたりすると、沼地は深い水と土砂にのみ込まれる。条件には窓がある。一方向へ進めばよいわけではない。石炭ができるには、極端な環境よりも、いくつもの条件が同時に、さほど広くない範囲へ収まる必要があるのだ。
では、どれくらいの速さで沈めばよいのか。だいたい、泥炭が上へ伸びる速さについていけばよい。いまの東南アジアでは、泥炭は一年に一、二ミリほど厚くなる。埋まった泥炭は、水を絞り出され、さらに強く圧縮される。十数メートルの泥炭が、一メートルの石炭にしかならない。石炭に換算すれば、一年に〇・一〜〇・二ミリほどだ。一メートルの炭層の背後には、たいてい数千年から一万年以上にわたる沼地の時間がある。
盆地がこうして少しずつ沈むと、新しい空きが次々にでき、泥炭はそこを層にして埋めていける。地質学では、この空きを「堆積可能空間」と呼ぶ。この先、何度も出てくる言葉だ。
石炭のできた地域も、でたらめに散らばっていたわけではない。後期石炭紀を代表する巨大な石炭湿地は、当時の赤道帯に集中していた。いま別々になっている大陸は、そのころ、一つの大きな陸地へとつながりつつあった。パンゲア大陸である。
パンゲアが徐々に組み上がっていく間、いまの北米東部からヨーロッパ西部・中部にあたる地域は、当時の赤道をまたいでいた。華北や華南などの地塊も、熱帯から低緯度に位置していた。
一方、南のゴンドワナ大陸では、高緯度地域の大部分で氷河が発達していた。現在の南米、アフリカ、南極、オーストラリア、インドが、まだ一続きだった大陸だ。この緯度の配置に、地殻の配置がうまく重なった。ユーラメリカ大陸には、まさに隆起しつつある山脈を正面に受ける地域があり、山の重みがその手前の地殻を押し下げ、広大な盆地をつくっていた。絶えず、けれど速すぎずに沈むことで、新たな堆積可能空間が生まれ続けたのである。
そして、華北など東アジアに石炭湿地があったことは、後の一節まるごとを支える、重要な材料になる。ユーラメリカのヒカゲノカズラ類の湿地が著しく衰えた後も、東方のよく似た湿地植物は、ペルム紀まで生き続けていたからだ。
最後に、石炭のもとになった植物を見よう。これが、次の節に直接かかわってくる。後期石炭紀のユーラメリカで、石炭湿地をつくった最も重要な植物は、樹木の姿をしたヒカゲノカズラ類だった。
多くの炭層では、植物の生物量の六〜八割をこの仲間が占める。いまも生きているヒカゲノカズラ類は、林床を地面すれすれに伸びる小さな草で、大部分は高さ数センチから数十センチにすぎない。
ところが、石炭紀の仲間は数十メートルの大木になった。樹皮には、葉が落ちた跡が菱形にびっしりと並び、一つ一つが魚の鱗のように見える。なかでも有名なのが、リンボクという属だ。初期の研究には、十数年で数十メートルにまで伸び、種類によっては一度胞子をつくると死んでしまった、と推定したものがある。
近年には、多くは数百年生きたはずだ、と見積もる研究もある。数十メートルの大木が、十数年で一生を終えたのか、それとも数百年を生きたのか。いまも決着はついていない。
石炭紀の石炭湿地は、現在のどんな森とも違っていた。リンボクの幹はまっすぐで、ほとんど枝分かれしない。頂上近くになって初めて二つに分かれ、その二つがまた二つに分かれ、細長い葉に覆われた樹冠を広げる。
その下には木のように育つシダがあり、木のように育つトクサの仲間もあった。節を重ねた姿は、巨大なアスパラガスを思わせる。花はない。イネ科の草もない。鳥もいない。地面は一年中水につかり、木の根は下へ深く伸びず、泥の中を横に広がっていた。
これらの木は、現代の針葉樹のような、分厚い木材の柱で自分を支えていたのではない。頼りにしていたのは、巨大な外皮と皮層だった。幹の内部で、本当の木部が占める割合は、ごく小さいこともあった。
たとえるなら、中身の詰まった木杭というより、外側だけが厚く、中が空いた柱に近い。 外側の組織は木材とは化学組成が異なり、分解されにくさも違う。だから「石炭が多いのだから、分解しにくい木材が途方もなく大量に埋まったはずだ」という直感は、そのままでは成り立たない。
木がたくさん死ねば、石炭になるわけではない。水位、沈降、植物の生産。この三つが同時に、狭い範囲へ収まらなければならない。
二 石炭形成をめぐる論争
広く知られた説明がある。植物が先にリグニンを発明し、菌類が木を食べる方法を発明するまで、さらに数千万年かかった。だから、その間は植物の遺体が腐らずに積もり、石炭になった、というものだ。
リグニンは、木を硬くする物質である。なぜ分解しにくいのかは、第十二篇の終わりでも触れた。構造が不規則で、決まった単位の繰り返しになっていない。一方、たいていの酵素は、規則のある構造を相手に働くようできている。だから、この話はいかにも筋が通って聞こえる。けれども、もとの考え方は、この広まった版よりずっと慎重だった。
1990年、陸上植物の組織の化学組成と、分解者の進化が、陸上の有機炭素循環を変える、という提案がなされた。提案した研究者は、古生代にはリグニンを分解する生物が少なかった、あるいは能力が限られていたため、陸に由来する有機炭素が保存される割合が高くなった可能性を考えた。
彼女の仮説の中心は、切り替わる時点を百万年単位で正確に特定できるような「菌類のスイッチ」ではない。生物の進化が有機炭素の回転速度を変えるという、長い時間を見渡した仮説だった。強い言い方のほうが広まったのは、主に分子系統学の時代に入ってからだ。2012年の分子研究が、ひどく魅力的な、年代の一致を示したのである。
まず、白色腐朽について説明しよう。白色腐朽菌の名は、食べられた後の木の姿に由来する。リグニンが壊されると、残った繊維が白くなり、裂けば筋状にほぐれる。もう一方の褐色腐朽菌は逆で、セルロースを食べ、リグニンを残す。木は褐色になり、乾くと小さな四角い塊へ割れていく。
研究者たちは三十一の菌類ゲノムを解析した。そのうち十二は、この研究のために新しく配列を読んだものだった。とりわけ追いかけたのが、白色腐朽菌がリグニンを酸化するのに使う、ある一群の酵素である。
その結果、菌類のある大きなグループの祖先へつながる系統で、これらの酵素が増えた、という歴史が復元された。その祖先には、白色腐朽型の分解能力があったと推定されたのである。いま森でよく見かけるキノコの多くも、この大きなグループに属している。
年代の推定には、菌類化石で時刻を合わせた分子時計が用いられた。このグループの起源について、中心となる推定値は約二億九千万年前。石炭紀が終わって、まもないころにあたる。すると、後期石炭紀の膨大な石炭形成が先にあり、完成した白色腐朽型の分解システムの拡大が、おおむね石炭形成のピークの後に続くことになる。
ただし、この「二億九千万年前」を、地層に正確に打ち込める一本の釘と思ってはいけない。菌類の分子時計は、基準にできる化石の少なさ、系統樹の枝のつなぎ方、使うモデルに左右される。枝分かれの年代の信用区間は、「石炭紀の終わり」そのものについての地層年代の誤差より、はるかに広い。
この仮説には、三つのはっきりした長所がある。まず、一つの出来事として切り出せる、検証可能な生物学的革新を提示している。白色腐朽型の酵素系が、いつ生まれたかを調べればよい。さらに、石炭、有機炭素の埋没、大気中の酸素増加と二酸化炭素減少を、一つの因果の鎖でつなぐことができる。
そして実際、ゲノム研究は、白色腐朽と褐色腐朽という栄養のとり方の違いに、関連する遺伝子群の拡大や、繰り返し起きた喪失が伴っていることを示している。「分解する能力も進化する」という判断自体に、問題はない。
本当に争われているのは、もっと強い命題だ。この酵素系の登場が遅れたことは、古生代後半の石炭形成のピークに必要だったのか。あるいは、その主因だったのか。これは「菌類のリグニン分解能力に重要な進化が起きた」という命題と、同じではない。2016年の論文は、ずばりとした題を掲げた。菌類の進化の遅れは、古生代の石炭形成のピークをもたらしていない、と。
その反論は、まとめれば少なくとも六つある。第一に、石炭のもとになった植物の多くは、そもそも「リグニンの塊」ではなかった。前節で見たとおり、ヒカゲノカズラ類は植物の生物量の約六〇〜八〇%を占めることがあったが、その巨大な外側の組織は、現代の樹木に見られるような、高度に木化した木材ではない。
したがって、「リグニンが積もったから石炭形成のピークができた」という前提は、最も主要な石炭形成植物を相手にした時点で、成り立たなくなる。
第二に、泥炭が積もるために、リグニンがまったく腐らない必要はない。現代の泥炭地には、菌類や微生物の分解システムが一通りそろっている。それでも大量の有機物が蓄積する。正味の蓄積を決めるのは、生産量から分解量を引いた差だからだ。長い冠水、低酸素、酸性の環境、栄養分の不足だけでも、分解を十分に遅くすることができる。
植物として入ってくる量が、分解されて出ていく量を上回り続ければ、「リグニンを食べられる生物が一つもいない」という特別な期間は要らない。いまの泥炭地が、まさにそれをしている。白色腐朽菌は、とっくに存在しているのにだ。東南アジアには、泥炭が十数メートルから二十メートルほどにまで積もる泥炭湿地もある。
六つの反論のうち、これがいちばん直接的だ。仮説が要求する条件は、いまの地球では満たされていない。それでも泥炭は、ちゃんと積もっている。
第三に、石炭紀にはすでに、腐朽の証拠がある。古生代後半の植物組織には、生物による分解や侵食、菌類の活動の跡が広く見られる。細胞まで保存された化石の薄片には、細胞へ入り込んだ菌糸が見えるものもある。小さな節足動物が食い進んだトンネルや、残した糞の粒も見つかる。
第四に、分子時計の年代精度では、「石炭が終わった時が、白色腐朽の始まった時だ」とまでは証明できない。中心となる年代は石炭紀とペルム紀の境に近いが、信用区間は広い。そもそも「白色腐朽菌の祖先の分岐点」「酵素群が拡大した分岐点」「現代的な意味でリグニンを完全に無機化する能力」は、まったく同じ生物学的出来事ではない。
第五に、白色腐朽菌が現れた後も、地球では巨大な炭田が繰り返しできている。ペルム紀、ジュラ紀から白亜紀、そして新生代にも、重要な石炭形成期がある。
世界の石炭資源を年代別に並べても、約二億九千万年前を境に、以後永久に「石炭がおしまい」になった形跡はない。現在、中国で最も生産量の多い炭田の一つ、オルドス盆地の神東炭田の石炭はジュラ紀のものだ。そのころには、白色腐朽菌はとうにいた。
第六に、石炭形成のピークは、気候と盆地の条件によりよく対応する。古生代後半の突出は、長く湿潤だった赤道の気候と、パンゲアの形成が生んだ大きな堆積盆地が、偶然重なったことに由来する。植物はよく育つ。水位は高く、分解は抑えられる。同時に、盆地はちょうどよい速さで沈み続け、保存のための空間を絶えずつくっていた。
つまり、両者が論じているのは、実は同じことではない。 2012年の研究が示したのは、木を分解するあの酵素系には、復元できる進化の歴史があるということだ。2016年の論文が否定したのは、その酵素系が遅れて登場したために、世界規模の石炭形成のピークが生じたということだ。この二つは、同時に正しくありうる。
いまのところ、最もよい答えは、気候、地殻変動、盆地の側にある。それなら、緯度の違い、盆地の違い、白色腐朽の登場後にも繰り返された大規模な石炭形成期を、一緒に説明できる。分解者も、退場したわけではない。有機物が残る割合を変える役目は、なお持っていたかもしれない。
ただし、この二つの要因は、担っている規模が違う。分解者が決めるのは、同じ量の植物の遺体から、何割が残るかだ。気候と盆地が決めるのは、どれほど広い場所で、どれほど長い間、その積み重ねが続くかである。石炭紀を本当に特別にしていたのは、主に後者だった。
菌類側にも、強みはある。予測が鋭いのだ。石炭形成のピークより古い白色腐朽の化石が一つ見つかるか、分子時計のその分岐点が再計算され、もっと前へ動けば、登場の遅れが原因だという説は立たなくなる。気候・盆地側には、そこまで鋭い一点はない。その代わり、使える独立した証拠がずっと多い。古緯度、盆地の沈降史、炭層の厚さ、海の進退、古い土壌の湿り具合、氷河の周期。その一つ一つを、別々に調べることができる。
三 誰も測ったことのない酸素
大量の有機炭素が埋まると、なぜ酸素が増えるのか。仕組みははっきりしている。光合成は二酸化炭素に含まれる炭素を還元して有機物に変え、その一方で酸素を放出する。ただし、その有機物が後に呼吸、腐敗、燃焼によって使われれば、差し引きでは、おおむね帳消しになる。
還元された炭素の一部が酸化の循環を抜け出し、堆積岩に長く埋め込まれて初めて、長期的な正味の酸素供給が残る。ここは、直感ではつい通り過ぎてしまうところだ。光合成が放出した酸素の大部分は、有機物がもう一度酸化されるときに、再び消費されてしまう。
森にどれほど大量の生物があっても、炭素が最後に大気へ戻るなら、長期的な酸素の収支はほぼゼロになる。長く残る酸素の供給源を決めるのは、生産量ではなく、循環から逃れる割合なのだ。貯金箱と同じである。いくらたくさんお金が入っても、ほぼ同じだけ使ってしまえば、たまるのは、使わずに残ったわずかな分だけだ。
ここで、前節の論争がもう一度つながってくる。分解者の能力が左右するのは、まさに、この逃げおおせる割合だ。気候と盆地の条件が左右するのは、その割合を高く保ったまま、どれほど広い面積で、どれほど長く回り続けられるかである。では、酸素のピークは、結局どのくらいだったのか。
この数字には、いくつもの話がかかっている。巨大昆虫は、そのおかげで大きくなったのか。山火事はどれほど頻繁だったのか。石炭湿地の炭素は、燃えて空気へ戻らなかったのか。まず、この数字がどこから来るのかを、はっきりさせなければならない。
三億年前の酸素濃度を、直接測れる人はいない。そこでモデルをつくる。地球の表層を出入りする炭素と硫黄を、すべて方程式にするのだ。火山がどれだけ放出し、風化がどれだけ消費し、有機物がどれだけ埋まり、そのうちどれだけが酸化されて戻るのか。同位体の記録でそれぞれの量に制約をかけ、酸素が時間とともにどう変わったかを解いていく。
つまり、測った数字ではなく、計算した数字なのだ。その計算がどれほど当たるかは、入れた数値がどれほど確かかにかかっている。
いまの空気では、酸素は約二一%を占める。初期のモデルでは、石炭紀からペルム紀にかけてのピークは、最大で約三五%に達した。2006年のモデルは、古生代後半に幅広い山を描き、ペルム紀の最大値を約三〇%とした。
2014年の研究は、この種のモデルに入れる六十八の数値を、妥当な範囲の中で一緒に動かす検証を、初めて系統的に行った。目の前に六十八個のつまみがあると思えばいい。それぞれを、ありそうな範囲で適当に回して、一度計算する。また回して、計算する。それを一万回繰り返し、答えがどこへ集まるかを見るのだ。
結果は、きわめて重要だった。予測の中央値をたどっても、古生代後半の高酸素の山は消えない。中央値の曲線では、その頂上は三〇%を超えていた。
けれども、山の絶対的な高さは、科学読み物の図表が思わせるほど確かではない。一万回の計算のうち、中央の九五%が収まる範囲は、ピーク付近では、図から読むとおよそ二二〜四五%にまたがる。しかも、酸素推定の不確かさを一つのパラメータが独占しているわけではなかった。複数の炭素貯蔵量、硫黄貯蔵量、同位体の値、風化のパラメータへと、不確かさは分散していた。
つまり、「これさえ正確に測れば、曲線の幅が狭まる」という、一個の決め手となるパラメータはない。
別の道もある。酸素を間接的に読み取れるものを、岩石の中から探すのだ。地質学では、こうしたものを代理指標という。木炭が、その一つである。石炭の中にある、黒く、少し絹のような光沢を帯び、触ると黒い粉が落ちる細い破片。木炭そっくりに見えるそれは、三億年前の野火が残した、本物の木炭だ。理屈は単純で、野火が燃え始め、その後も燃え続けるには、十分な酸素が要る。
研究者たちは、酸素濃度を調節できる燃焼室へ本物の植物燃料を入れ、火をつけた。すると、陸上植物のような燃料で燃焼が持続する酸素の下限は、およそ一六〜一七%付近にあった。いまの酸素濃度は、この線から四、五ポイント上にあるだけだ。
酸素がもっと少なければ、火がつくことと、火が自力で広がっていくことは別になる。だから、どの時代であれ、その場で起きた野火の木炭が広く残っていれば、それだけで独立した制約になる。大気中の酸素が、この範囲を長期にわたって下回っていたとは考えにくい。
反対向きの議論もできる。以前は、酸素が三五%もあれば、地球の森はほとんど存在できなくなる、と考える人がいた。ところが、高酸素での燃焼実験では、酸素が約三五%あっても、本物の森林燃料の火は、物理的に無理のない振る舞いを示しうるとわかった。終わりのない世界規模の火災が、必ず起きるわけではない。
つまり、野火が与えるのは濃度の範囲への制約であって、単純な絶対上限ではない。 大づかみな結論では、モデルと代理指標は一致している。後期石炭紀から前期ペルム紀は、低酸素の時代ではなかった。
だが、もう一段細かい結論になると、差は大きい。ピークは約二六%だったのか、三〇%だったのか、それとも三五%を超えたのか。いまのところ、精密に解決済みとは言えない。最も強く食い違うのは、最近の一部の地球化学的な酸素推定と、従来型のモデルとの間だ。
すでに得られているデータには、古生代後半の一部の期間について、約一五%という低い値を出すものさえある。だが、それでは先ほどの、火が広がる下限である約一六%に近いか、それを下回る。広範囲に残る木炭の記録と、同時に両立させにくい。この食い違いは、「直接の代理指標」も、試料がどれほど閉じた系を保ったか、後の時代に物質の交換が起きなかったか、どんな較正をしたかに、影響されうることを示している。
代理指標だからといって、モデルより生まれつき信頼できるわけではない。 比較的確かに言えるのは、当時の酸素はおそらく現在より多く、大半のモデルが三〇%前後を示すということだ。二六なのか、三〇なのか、三五を超えるのかは、まだ決まっていない。広く知られた「三五%」は、推定値のうちでも高めの一つなのである。
四 定規より長い翅
石炭紀でいちばん有名な住人は、とんでもなく大きな節足動物たちだ。空にも、初めて飛ぶ動物が現れた。翅を持つ昆虫の化石で、確実にそうだと言える最古のものは、石炭紀から見つかっている。
メガネウラ・モニイ。トンボの遠い親戚である。最初に見つかった標本には、四枚の翅がそれぞれかなりの部分まで残っていた。一枚の長さは約三十二センチ。学校で使う三十センチの定規より、まだ長い。
左右の翅に胴体の幅を加えて見積もると、開いた幅は約六十五〜七十センチになる。ハトが翼を広げたときと、ほぼ同じだ。現在、最も翅の広いトンボの仲間でも、十数センチから二十センチほどしかない。メガネウラは狩人だった。脚には硬い棘が列をなし、何本もの脚を寄せ合わせて、空中でほかの羽虫をすくい取った。
地面を這っていたものは、さらに大きい。アースロプレウラの仲間は、ヤスデに似た多足類である。2018年、イギリスの海岸で、崖から落ちた砂岩の塊が割れ、中からその外骨格の一部が現れた。研究が発表されたのは2021年だった。
幅と体節の比率から推定すると、全身は長さ約一・九〜二・六メートル、重さ約五十キログラム。人が横になった姿より、まだ長い。見つかったのは、あくまで一部分だ。全身の大きさは、そこから推定したものなのである。
大型昆虫も、多くは翅だけが残っている。だから、化石データベースで「最大の昆虫はどれほど大きかったか」と言うとき、測っているのは体重ではなく、翅なのだ。
いったい、何を頼りにそこまで大きくなれたのか。最も広まっている説明は、酸素である。この説明を理解するには、先に昆虫の呼吸の仕方を知っておく必要がある。
昆虫には肺がなく、血液で酸素を運ぶ仕組みも、主な輸送系ではない。体の表面に小さな穴が並び、空気はそこから、枝分かれを繰り返す管の網へ入る。管は分かれるたびに細くなり、最後は組織のすぐそばへ届く。酸素は血液に運ばれて組織へ着くのではなく、この管に沿って拡散していくのである。 太い気管では、体の運動による能動的な換気も行われる。ここでいう純粋な拡散の制約は、おもに組織までの最後の距離に関わる。
拡散には、物理的な制限がある。遠いほど遅い。もう少し正確に言うと、ある距離を純粋な拡散だけで進むのに必要な時間は、その距離の二乗に、おおむね比例して増える。
距離が二倍になれば、時間は四倍になる。したがって、昆虫が二倍の太さになり、組織と管の間も二倍に広がったとすれば、酸素が拡散して届くまでには、四倍の時間がかかる。
動物が太くなり、組織が気管から遠くなると、気管系には、より大きな断面積、より多くの枝分かれ、あるいは、より強い換気が必要になる。一方、高酸素の空気は、空気と組織の間の酸素分圧の勾配を大きくできる。そのため、ほかの条件が同じなら、同じ管の網でも、より多くの酸素を届けられる。
この仮説には、確かめられる予測がある。低酸素なら、大きな体ほど早く制限にぶつかるはずだ。大型の昆虫ほど、体内の場所を、ますます大きな割合で気管へ割り当てるはずだ。実際、甲虫を三次元で調べた研究では、大型の種になるほど、体の大きさの増加を上回る速さで、気管に費やす空間が増えていた。とりわけ、脚と胴体をつなぐ狭い部分で、それが目立った。
実験では、どれほどの大型化が起きるのか。この節では、その大きさが最も重要だ。2009年、ショウジョウバエを使って、大きな個体を選び続ける人為選択が行われた。酸素分圧が、酸素約一〇%、二一%、四〇%に相当する条件で、十一世代にわたって選択を続けたのである。
通常の酸素と高酸素の群では、平均体重は約一一〜一七%増え、体の大きさの分布の上側四分位は、約二五〜三二%増えることがあった。ただし、肝心なのはここだ。酸素二一%と四〇%では、選択への反応に有意な差がなかった。はっきりしていたのは、低酸素が大型化への選択を抑えたことだった。
このショウジョウバエ実験では、低酸素は大型化への選択の応答を抑えたが、高酸素は通常の空気以上の増大をもたらさなかった。「不足は制約になる」を支持する結果であって、「増やせば巨大になる」という結果ではない。ただし、ハエの十一世代でトンボの何千万年もの進化を決めつけることはできない。今のトンボを高酸素の空気で育てても、それだけで石炭紀を再現したことにはならない。
その後、トンボの幼虫を、酸素約一二%、二一%、三一%の環境で育てた実験もある。高酸素の環境で育ったトンボは、成虫の翅を広げた幅が、最大で約一五%大きくなった。ただし、昆虫のグループが違えば、反応も同じではなかった。
これは、同じ世代の虫が、違う空気の中で育ったことによる差だ。数千万年にわたる進化ではない。それに、一五%大きくなるとしても、いま最大のトンボを、翅の幅六、七十センチへ押し上げるには、まるで足りない。
そして2026年、直接生理を調べた研究が、この因果の鎖の中心にある仕組みを突いた。結論はこうだ。細気管と筋肉からなる系を通じた酸素供給は、昆虫の巨大化を制限していない。
研究者たちは電子顕微鏡を使い、多くの昆虫種の飛翔筋で、最も細い段階の気管を数えた。その結果、大部分の種では、この細い管が飛翔筋に占めるのは、約一%か、それ以下にすぎなかった。
仮に本当に酸素が足りなくなっても、筋肉の中には、管をさらに増やす場所がたっぷり残っている。従来のモデルが予想した、もうこれ以上は詰め込めないという限界は、見つからなかったのである。
したがって、高酸素だけで古生代後半の昆虫巨大化を十分に説明できる、という機構上の説明は、そのままでは保てなくなった。これは、酸素にまったく役割がなかったと証明したのではない。主に打撃を受けたのは、「気管の末端での受動的な拡散が、体の大きさに絶対的な上限を設ける」という、特定の仕組みである。
ほかの説明もある。この研究の著者たちは、原因を別のところにも探すよう提案している。増え続ける天敵や、外骨格そのものの物理的な限界だ。一万五百件を超える化石昆虫の翅の長さを集めた研究では、石炭紀からジュラ紀末まで、最大の翅の長さは酸素モデルの動きに沿っていた。ところが白亜紀初めになると、関係が変わる。酸素の条件が再び好ましくなっても、昆虫の最大の翅は、新しい生物学的要因に制限されていた。
著者たちは、空を飛ぶ脊椎動物、とりわけ鳥類の登場を、大きな圧力と見ている。もう一つは、水生幼虫への酸素の制限だ。トンボの幼虫は水中で暮らすが、水に含まれる酸素は空気中よりはるかに少ない。そこで、古生代後半の高い大気酸素が、水に溶ける酸素を増やし、幼虫の段階での酸素の制約を和らげた可能性がある。
これは、成虫の気管での拡散限界とは別の仕組みだ。水生の幼虫を持つ一部のグループが、高酸素にとりわけ敏感に反応したかもしれないことも説明できる。陸上の節足動物が、すべて一斉に大きくなったという話ではない。
最後に、標本の集まり方の問題がある。化石昆虫の最大の体の大きさは、ふつう、それぞれの時期に知られている最長の翅で表す。だから、この極端な値は、調べられた標本の数にひどく敏感だ。ある地層に、昆虫が大量によく保存された化石群が一か所あるだけで、その時代の「最大サイズ」が急に跳ね上がることがある。
さらに重要なのは、大型化は節足動物のすべてのグループに起きたわけでも、高酸素だった期間の全体を通じて起きたわけでもないことだ。酸素と最大サイズの時間的な対応は、統計的な相関であって、一対一で入ったり切れたりするスイッチではない。
五 回路は、一つのサイクルの中で符号を変える
ここで、因果の鎖を広げ、一つ一つのつながりに、証拠の強さを書き込んでみよう。生産力の高い湿地に、適度な盆地の沈降が組み合わさると、泥炭と有機炭素の正味の埋没が増える。
証拠は強い。還元された炭素が表層の循環から長く取り除かれると、大気中の二酸化炭素が減り、正味の酸素供給が増える。仕組みの裏づけは強い。ただし、単位時間に動く物質の実際の量には、中程度の不確かさがある。
後期石炭紀から前期ペルム紀を細かい時間幅で復元した研究では、二酸化炭素の変動幅は大きい。石炭紀の最末期には、地球の軌道周期に伴って、約一五〇〜七〇〇ppmの間を揺れ動くことがあった。軌道周期とは、地球が太陽を回る軌道の形、地軸の傾きや向きが、およそ二万年から四十万年ほどの周期でゆっくり変わることをいう。それにつれて氷床が広がったり縮んだりし、二酸化炭素も上下する。前期ペルム紀の一部の記録では、約一〇〇ppmという極端な低ささえ示される。
比較すると、いまの大気の二酸化炭素は四〇〇ppmを超え、前の氷期で最も寒かった時期でも、一八〇ppmほどあった。植物の気孔や古い土壌といった代理指標には大きな誤差があり、一〇〇という数字を、正確な地球平均と思ってはいけない。それでも、「古生代後半の二酸化炭素は、顕生代の中でも低い谷へ入った」という大づかみの結論は、かなり揺るぎない。
さらに、ある気候モデルでは、古生代後半の、現在より弱い太陽放射のもとで、二酸化炭素が約四〇ppmを下回ると、地球全体が氷に覆われる状態へ入る。
実際の地球は、安定したスノーボール状態には至らなかった。だが、この計算は、後期石炭紀から前期ペルム紀の低い二酸化炭素濃度が、気候システムを、氷による強いフィードバックが働く領域のすぐ近くまで押しやるのに十分だったことを示している。
低い二酸化炭素濃度に、ゴンドワナの高緯度という位置と、造山に伴う風化が重なり、古生代後半の氷床は拡大した。隆起したばかりの山が雨に洗われ、岩石が風化するとき、大気の二酸化炭素が少しずつ取り去られる。造山に伴う風化とは、この働きだ。相関は強く、モデルからの支持も強い。ただし、原因は一つではない。
この氷期が残した氷河堆積物は、いまでは南米、アフリカ、インド、南極、オーストラリアに散らばっている。百年以上前、ウェーゲナーが大陸移動を論じたとき、証拠の一つにしたのが、これらだった。大陸をゴンドワナの形へ戻してつなぐと、氷河の痕跡も、ぴたりと一続きになるのだ。
現代の総合研究では、古生代後半の大氷期は、およそ三億七千万年前から二億六千万年前、前後一億年ほどにわたるとされる。氷床が最も発達したのは、石炭紀の中・後期から前期ペルム紀にかけてだ。動物が現れて以降、地球で最も長く続いた氷期である。ただし、一つの巨大な氷冠が、一億年ずっと同じ姿で居座ったわけではない。氷床が広がり、後退し、ときにはほとんど消える。その段階がいくつも続いたのである。
当時、ユーラメリカは赤道にあり、氷からは遠かった。その岩層に刻まれているのは、氷そのものではなく、氷のこだまだ。南の氷床が広がれば、海水が氷に閉じ込められ、世界の海面が下がる。氷床が退けば、海面はまた上がる。しかし、「石炭が古生代後半の大氷期を起こした」とまで言ってしまえば、言いすぎになる。
少なくとも、あと四組の変数を横に並べなければならない。ゴンドワナ大陸が南極をまたいでいたという古地理。パンゲアの形成と、陸と海の配置の変化。造山によって強まったケイ酸塩の風化。そして、海洋循環、火山からのガス放出、地球の軌道変化が気候へ及ぼす作用の変化だ。
鎖の一つ一つを取り出せば、どれも成り立つ。炭素が埋まれば、二酸化炭素が減る。強い。二酸化炭素が低ければ、氷床が広がりやすい。これも強い。だが、それを「石炭が大氷期を起こした」という、ただ一本の因果の鎖につなぐには、証拠が足りない。それぞれのつながりには、ほかから入ってくる力もあるからだ。
氷の量が変わると、世界の海面は大きく上下する。強い。
後期石炭紀の研究では、氷の量の変化による海面の振れ幅は、数十メートルから百メートル以上と推定されることが多く、総合研究には最大で百二十メートル近くとするものもある。海面は、沿岸の盆地の地下水位と堆積可能空間を左右する。そのため、泥炭湿地は繰り返し生まれ、露出し、あるいは水没する。これも、証拠は強い。
海面が下がると、大陸棚や沿岸平野が露出し、川は河床を深く削る。もとの泥炭地は、酸化や侵食を受けることがある。氷が解け、海面が戻ってくると、地下水位も上がり、低い平野が再び水につかる。その途中の適切な段階で、泥炭湿地ができる。
さらに海が入り込むと、泥炭地は潟湖、三角州、浅海の堆積物に覆われ、炭層として保存される。こうして典型的な夾炭層の堆積サイクルでは、古い土壌、石炭、砕屑岩、浅海の炭酸塩岩や頁岩が、順に並ぶ。
この地層の重なりは、一冊の記録のようなものだ。ここは初め陸地で、次に沼地になり、川が運んだ土砂に覆われ、最後に海へ沈んだ。そして、このひとそろいが何十回も現れる。同じ頁を何度も書き写した、古い帳簿のように。書き写すたびに一回、氷床が広がり、また縮んでいた。
だから、これらの地層は、石炭紀についた飾りではない。あの回路が残した、直接の記録だ。一層の石炭、一層の泥や砂、一層の海の堆積物、そしてまた石炭。そのメトロノームを紙に写せば、こういう姿になる。
一度、そのメトロノームが、とりわけ速く打ったことがあった。アメリカのイリノイ州にある二つの炭鉱では、炭層を掘り去った坑夫が上を向くと、三億年以上前の森が一面、天井の岩にそのまま写し取られているのが見える。広さは約十平方キロメートルにもなる。
研究者たちは、大地震でこの沼地が突然海面下へ沈み、数か月のうちに泥や砂で封じられた、と推定している。四十メートルを超すヒカゲノカズラ類、木になったトクサの仲間、木生シダが、炭層の上端に根を張ったまま、その場に残っていた。海面は、低ければ低いほど石炭をつくるわけでも、高ければ高いほどつくるわけでもないのだ。
石炭ができるには、水位と堆積可能空間が、ある範囲に収まらなければならない。ところが、氷河に伴う海面の揺れは、一つの盆地の中で、その窓を何度も開き、閉じる。ここは回路のうち最もはっきりしたつながりであり、同時に、最も逆向きに書かれやすいところでもある。単純に一方向へ増幅し続ける、正のフィードバックではない。
氷河が広がって海が退けば、泥炭が露出し、保存される量が減ることがある。だが、その後で海が入り込むと、水位が上がり、泥炭はすばやく埋められる。フィードバックの符号が、一つのサイクルの中で入れ替わるのだ。氷期は、ほぼ切れ目なく進んでいた石炭形成を、海面というメトロノームによって、何度もオンとオフが切り替わる過程に変えた。
火もまた、符号を変える。酸素が多いと、湿った植物にも火がつきやすい。当時の石炭には、至るところで木炭が見つかる。一度の火事は、植物の炭素の一部をそのまま燃やして大気へ返す一方、別の一部を、再び分解されにくい木炭に変える。前者は埋没を弱め、後者は埋没を強める。同じ一つの火が、ブレーキにもアクセルにもなる。どちらの炭素を問うかで、足の置き場が変わるのだ。
さらに長い時間幅で見ると、後期石炭紀のユーラメリカ赤道帯には、季節性が強まり、乾燥していく兆候が、ますますはっきり現れる。長く水につかるヒカゲノカズラ類の湿地が縮み、空き地へすばやく入り込むシダや、木生シダが増える。その後には、季節的な乾燥に耐える種子植物が、より広い面積で優勢になっていった。
ただし、この傾向は、世界中で同時に起きたのでも、一瞬で切り替わったのでもない。ユーラメリカでは湿地植物の交代が著しかった一方、華北や、そのほか東方の低緯度地域には、ヒカゲノカズラ類を中心とする重要な石炭形成の生態系が、ペルム紀に入っても残っていた。
六 雨林は島々に砕けた
約三億五百万年前、ユーラメリカで一続きに広がっていた石炭湿地の森が、そう長くない時間のうちに、ばらばらになった。2010年の研究は、これに響きのよい名前をつけた。「石炭紀の熱帯雨林崩壊」。ユーラメリカの石炭湿地で、植物の顔ぶれが入れ替わったことは、植物学者には以前から知られていた。この研究の新しさは、それを四肢動物の運命と結び、一つの生態学的な物語にしたところにあった。
当時の沼地の四肢動物は、実にさまざまだった。サンショウウオに似たもの、脚がなくヘビのようなもの、胴が長くワニを思わせるもの。その物語によれば、つながっていた雨林が、湿り気を残す一つ一つの「生態学的な島」へと分断された。
四肢動物はそれぞれの島へ閉じ込められ、別々に進化し、そこにしかいない種類が増えていく。論文は、目を引く数字を報告していた。局地的な群集に含まれる科の数が、約二十から七へ減る場合があるというのだ。科は、種より二段階上の分類単位で、イヌ、オオカミ、キツネは、同じ科に入っている。
この物語には、敗者も勝者もいる。水から離れられない両生類は、最も大きな打撃を受けた。一方、羊膜類は持ちこたえた。羊膜類とは、乾いた陸にも卵を産めるようになった四肢動物の一系統で、いまの爬虫類、鳥類、哺乳類は、すべてその中に含まれる。
その卵は、小さな水の池を持参している。胚はその中で育つので、産卵のために水中へ戻る必要がない。乾燥が進んだ環境にも、こちらのほうが適応していた。植物ばかり食べ始めるもの、ほかの動物を専門に食べるものが現れ、食べ方の幅も一気に広がった。
植物側の変化は、確かなものだ。ただし、「崩壊」の二文字から思うより、ゆっくりだった。まず、成長が速く、空いた場所があれば真っ先に入り込むシダが、少しずつ増える。
その後、ごく短い期間に、それまで支配的だった樹木状のヒカゲノカズラ類が激しく衰え、木生シダが優勢になった。木生シダとは、文字どおり木のように育つシダだ。いまも中国南部の谷あいで見られるヘゴは、その一つである。
ここでは、胞子と花粉の記録が、とりわけ大切になる。幹や葉が語れるのは、そこに埋まった小さな森のことだけだ。だが、胞子や花粉は風や水に運ばれ、遠くまで散る。広い地域の植生を記録できるのである。
古い土壌も、独立した手がかりをくれる。この出来事の前後の土壌の一部には、水につかる時間が短くなり、水はけがよくなったことが示されている。二つの手がかりは、同じ保存の仕方に頼っていない。それでも、同じ向きを指している。乾燥だ。
なぜ乾燥したのかとなると、合意はずっと少ない。一つの説では、植物の急変は、ゴンドワナの氷河が短期間に大きく広がったことと関係している。同じ研究の流れには、もう一つの案も残されている。より長く続く温室的な温暖化でも、大陸内部は乾燥しうる、というものだ。
植物が変わったことに、争いはない。議論になるのは、動物側の物語である。2018年の研究は、世界の種レベルのデータを整理し直し、標本がどれだけ調べられたかの偏りを補正した。
すると、石炭紀の四肢動物について、記録されたままの種数は、標本の採集量と強く相関していた。補正した後の多様性は、後期石炭紀にまず上昇する。本当にはっきりした減少が目立つのは、むしろ石炭紀とペルム紀の境付近だった。
さらに重要なのは、この研究の生物地理ネットワーク解析が、「雨林崩壊の後、各地に固有の種類が大きく増えた」という見方を支持しなかったことだ。前期ペルム紀に見られたのは、むしろ広域に分布する傾向の強まりだった。同じ動物たちが、以前より多くの場所へ進出していたのである。島へ分かれた、という鎖の一つが、データの中に見つからない。
2023年のさらなる研究も、標本の集まり方を指さした。初期の四肢動物に見える多様性や地域固有性の変化のかなりの部分は、地層や化石産地がどれほど調べられたかで説明できる。今回、採集の偏りがつくったのは、偽物の下降曲線ではない。ここで採集の偏りが左右するのは、曲線だけではない。その曲線をもとに語る生態の仕組みまで、根拠が揺らぎうる。
昆虫側の絶滅を数量で描いた曲線は、それほど確かなものにはなっていない。夾炭層の昆虫記録は、少数の、保存のよい化石群に大きく依存している。そのため、いまのところ信頼できる地球全体の数字は出せない。
この出来事は、ふつう言う五大大量絶滅に肩を並べるものでもない。大陸どうしで、時期がそろっていないからだ。ユーラメリカでヒカゲノカズラ類の石炭湿地が著しく減ったときも、華北など東方の熱帯には、その仲間の湿地が残っていた。
内モンゴルの烏達には、「植物のポンペイ」と呼ばれる化石産地がある。約二億九千八百万年前、すでにペルム紀に入っていたころ、数日のうちに火山灰が降り積もり、泥炭湿地の森を、立っていた場所で丸ごと埋めた。
枝には葉がついたままで、小さな木の中には、葉、枝、幹、球果まで一緒に保存されたものもある。高く樹冠を広げていた木には、フウインボクのような、大型のヒカゲノカズラ類もいた。ユーラメリカのヒカゲノカズラの森が舞台を降りた後も、華北の森は、まだ立っていたのだ。
だから、より適切な呼び方は、ユーラメリカの低緯度湿地で起きた、大規模な組み替えである。「崩壊」は覚えやすい。覚えやすいからこそ、場所ごとに時期がずれ、先後のあった過程を、一つの瞬間へ押し縮めてしまう。
七 夾炭層のふるいに何が残ったか
炭層は、燃料であるだけではない。ひどくえこひいきをする保存装置でもある。沼地につかった植物の中へ、早い段階で鉱物が入り込み、硬い塊になることがある。こうした硬い団塊を、コールボールという。
坑夫には好かれない。硬いうえに、燃えないからだ。だが、古植物学者には宝物である。切って薄く磨けば、根、茎、葉、胞子嚢まで、細胞の単位で保存されている。
そのおかげで、石炭紀の湿地植物についての知識は、同時代の乾いた高地の植物についての知識より、はるかに詳しい。私たちの頭の中の石炭紀は、ほとんど一面の石炭湿地だ。その印象そのものが、あのえこひいきする保存装置の産物なのである。しかも、この偏りがどちらへ向いているかが、重要だ。
無作為にいくつかの標本を取り逃したのではない。特定の生態型を、系統的に大きく見せている。そして、石炭形成の論争で主に論じられているのは、まさにその生態型の植物なのだ。
言い換えれば、石炭をつくった植物を私たちが隅々まで知っているのは、それらが、たまたま最良の保存条件へ落ち込んだからである。その保存条件とは、ほかならぬ石炭そのものだ。同時代の、石炭にならなかった植物がどんな姿をしていたかについては、わかっていることが、はるかに少ない。
この非対称には、直接の帰結がある。石炭形成をめぐる双方の議論が扱うのは、どちらも石炭の中で見える植物だ。どれほど木化していたか、外皮の割合はどのくらいか、組織はどれほど分解されにくいか。一方、「同時代の高地には何が生え、その組織の化学組成はどうで、有機物はどこへ行ったのか」については、比較できる記録がほとんどない。
つまり、あの論争は、系統的に偏った標本の上で行われている。このことが、どちらかの議論を無効にするわけではない。ただし、双方が答えられる問いの範囲を、区切ってはいる。
偏りが変えるのは、数や形だけではない。「どんな問いなら、そもそも立てられるか」まで変えてしまう。「石炭形成植物の木化の程度が、石炭のできる量を決めたのか」と問えるのは、コールボールが、それらの植物を細胞まで保存してくれたからだ。
高地の植物には、同じ問いを同じ細かさで向けにくい。化石がまったくないのではない。石炭湿地の記録と同じ精度で比べられる試料が乏しいのだ。
カナダ、ノバスコシアのジョギンズの海崖は、いまでは世界遺産で、「石炭時代のガラパゴス」と呼ぶ人もいる。そこには、別のえこひいきが残っている。地層の中に、石化したヒカゲノカズラ類の切り株が、何本も立っているのだ。木が死ぬと、中心部が先に腐り落ち、縦に開いた穴が一つ一つ残った。
小さな四肢動物、節足動物、陸生のカタツムリの中には、そこへ落ちて出られなくなったものがいた。もともと中に住んでいたものも、いたのかもしれない。やがて勢いよく流れ込んだ土砂が、それらを封じ込めた。1852年、二人の地質学者が、ここの切り株化石を割り、四肢動物の骨を取り出した。以来、この種の切り株は、小動物を探す場所になった。こうして「森の地面で暮らす小さな動物」が、異例によく保存されたのである。
昆虫はというと、石炭湿地に近い湖や三角州の細かい泥、あるいは、とりわけ保存条件のよい化石群に残ることが多い。アメリカ、イリノイ州のメーゾンクリークは、その一つだ。三億年以上前の三角州の泥や砂が、柔らかい体の動物まで、鉄分を含む団塊に閉じ込めた。石炭の露天掘りによって、何千、何万という団塊が地表へ掘り上げられる。一つを割れば、中にあるのはシダの葉かもしれないし、クラゲかもしれない。ほとんど水でできたクラゲなど、ふつうなら化石を残せない。
その中には、タリーモンスターという動物もいる。いまではイリノイ州の州化石だが、姿があまりに奇妙で、脊椎動物なのかどうかさえ、いまだに論争が続いている。フランスの巨大なメガネウラたちも、石炭そのものから出たのではない。夾炭層に近接する、粒の細かい堆積物から出ている。
こうして化石記録は、湿地、川岸や湖岸、低地の生物群を優先して大きく見せ、季節的に乾く高地の群集を、明らかに小さく見せる。第四節の、標本の集まり方の問題は、ここから来ている。昆虫の最大の翅の長さは、保存のよい化石群にひどく敏感で、その化石群の分布自体が、湿地に近い環境へ偏っているのだ。
ジョギンズの切り株には、続きがある。知られている中でも最古級の、確実な羊膜類の体化石の一つが、ここの空洞になった切り株で見つかっている。三億一千数百万年前のもので、体長二十センチほどの小さなトカゲに似ていた。そして2025年、オーストラリアから、約三億五千六百万年前の、爪を持つ四肢動物の足跡が報告され、羊膜類型の足跡と解釈された。
この解釈が正しければ、羊膜類の起源は、少なくとも石炭紀のごく初めまで、さかのぼることになる。足跡から言えるのは、そのころすでに、羊膜類に見られるような足を持ち、陸を歩く動物がいたということだ。殻のある卵を産めたかどうかまでは、足跡は語らない。
第十二篇で上陸を追ったときにも、一度出会った。足より先に、足跡がある。今回で二度目だ。理由も同じで、足跡のつく場所と、骨が埋まる場所は、同じ種類の場所ではない。だから、足跡と骨のどちらが先に現れるかを、そのまま、能力がいつ備わったかの時刻表にはできない。
八 環境が振り返る。自殺ではない
ここで、題名へ戻ろう。題名の「構」とは、生命が自分で組み上げた仕組みを指している。ヒカゲノカズラ類の沼地と、それが炭素を埋めるやり方を、一組にしたものだ。「構が環境をつくり変え、環境が振り返って構を殺した」。これは機械の話であって、報いを受けたという物語ではない。
鎖は、こうつながる。沼地が炭素を地下へ埋め、二酸化炭素が下がる。二酸化炭素が低いところへ、ゴンドワナが南極付近に陣取り、造山帯が岩石の風化を速める条件も重なり、南の氷床が広がる。
氷床が広がったり退いたりするたび、世界の海面も上下する。海面が上がり下がりするたび、沿岸の沼地は生まれ、露出し、水没する。最後には、乾燥を強める気候と、ますます切れ切れになる湿地が、炭素を埋めていた、あの組み合わせを解体した。
けれども、この機械は自殺したわけではない。第五節で見たとおり、一回の海面変動でも、前半は泥炭を削り、後半はそれをまた埋める。姿はむしろ、メトロノームに近い。大氷期のすべてを石炭のせいにできる文献も、一つとしてない。
このシリーズでは、構に収まりきらず、かといって消し去ることもできない部分を、「余項」と呼んでいる。この篇の余項は、説明そのものの中にある。一つの事件のようなものだ。物証は、一つも減っていない。変わるのは、どの物証とどの物証をつなぎ、どんな物語にするかである。
この篇では、教科書にも書き込まれたことのある二本の因果の鎖を、どちらもほどいてみた。一つは、「菌類が遅れて来たから、石炭ができた」。ほどけば、強さのまるで違う二つの文になる。あの酵素系には、進化の歴史がある。これは成り立つ。登場の遅れが、石炭形成のピークを生んだ。こちらは成り立たない。この二つを一文に混ぜたところから、広く流布したあの話が生まれた。
もう一つは、「酸素が多かったから、虫が大きかった」。その支点は、気管末端での拡散が、体の大きさに絶対的な上限を設けるという考えだった。2026年の生理学研究は、その支点を抜いた。酸素がまったく無関係だと証明したのではない。けれども、もともと鎖全体は、その支点を頼りに立っていたのである。
二本の鎖のほどき方は、同じではない。第一の鎖では、一つの文を二つに分け、もとの論証を読み直した。第二の鎖では、機械そのものを、実際に測りにいった。
どちらのほどき方にも、新しい化石は一つも要らなかった。だから、この余項には、これまでの篇の余項にはなかった性質がある。修理できるのだ。その方法は、もっと化石を見つけることではなく、仕組みをよりよく理解することである。
そして、ほどいた後にも、現象は一つも減っていない。石炭は、まだそこにある。後期石炭紀から前期ペルム紀が、現在の石炭資源の途方もなく大きな部分を残した事実も、変わらない。
高酸素の証拠も残っている。大部分のモデルと木炭の記録は、現在より多い酸素を支持する。巨大な虫も、そこにいる。三十二センチの翅は、確かに残っている。ヒカゲノカズラの森が激しく衰えたことも、胞子と花粉の中に、いまなお見える。
変わるのは、それぞれを、どの因果の鎖につなぐかだけだ。書き換えられたのは世界ではない。これらの現象をつないで、私たちが引いていた一本の線である。
ほかの科学の話を読むときも、同じことを試せる。「甲だから、乙になった」という一文に出会ったら、まず二つに分けてみる。甲は本当なのか。甲は乙の主な原因なのか。どちらの文が成り立つのかを、別々に確かめるのだ。
次に石炭を一つ手にしたら、こんなふうに読んでみてほしい。水につかったヒカゲノカズラの森。ちょうどよい速さで沈んでいた盆地。南の氷床の、一度の拡大と後退。そして、何度も押し寄せては引いていった海。その石炭を炉へ放り込むとは、この機械が数千万年かけてした仕事を、数分のうちに逆再生することなのだ。
いま優勢なのは、気候と盆地の側だ。菌類の側も、まだ退場してはいない。菌類の分岐点の年代は、いまも測り直されている。巨大な虫たちも、新しい、ひとつながりの説明を待っている。判定の基準は、なおふるい分け続けている。
関連研究・確認に用いた資料
- Nature (2026) · Oxygen supply through the tracheolar–muscle system does not constrain insect gigantism
- Kaiser et al. (2007) · Increase in tracheal investment with beetle size supports hypothesis of oxygen limitation on insect gigantism
- Nelsen et al. (2016) · Delayed fungal evolution did not cause the Paleozoic peak in coal production
- Dunne et al. (2018) · Diversity change during the rise of tetrapods and the impact of the Carboniferous rainforest collapse