Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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誰も、ほかの誰かの代わりには走れない

Han Qin (秦汉) · 日本語版 · 2026-10-09

この版について

この版について:中国語原作をもとに、日本語の文章として独立に書き直した。全23話のテレビアニメを主な対象とし、必要に応じて三浦しをんの原作小説を参照する。予選会の方式、寛政大学陸上競技部、ハイジの動機に関する記述は中国語原作で校訂されている。シリーズ全体の結末に触れる。

中継所。一人がそこに立ち、手を伸ばして待っている。

もう長いあいだ待っている。仲間がいつ姿を現すかも、どんな状態で現すかもわからない。できるのは、身体を温め、時計を見、道の先を見て、また待つことだけだ。

遠くから一人、走ってくる。近づいてくる。その人は、すでに二十キロを走っている。最後の数百メートルでは、たいてい身体の制御が利かない。フォームが崩れ、目はうつろで、意識のすべてが肩のあれを渡すことだけに向いている。

布を外し、差し出された手に渡す。

受け取った人は、すぐに向きを変えて走り出す。渡した人は、その場に止まる。

その瞬間から、渡した側は、もう走る力を貸してやることができない。

先で何が起きても、次の人がうまく走れても走れなくても、自分にどれだけ力が残っていても、立って見ているしかない。自分の区間は終わった。終わったとは、完全に終わったということだ。数秒後にはその場に崩れ落ち、係員に支え起こされ、毛布をかけられて脇へ連れていかれることも多い。

一回の箱根駅伝で、一つのチームは、この動作を八回行う。往路で四回、復路で四回。五番目と六番目の走者のあいだには一夜があり、復路は翌朝に始まる。

この篇で書くのは、その形式そのものだ。

十人、十本の道

箱根駅伝の構造は簡単だ。二文で説明できるほどに。

一日目、五人で東京から箱根までつなぐのが往路。二日目、別の五人が箱根から東京へ戻るのが復路。十区間を一校十人で走り、一人一区間、二十キロ前後。全体では二百キロを超える。

どの道にも性格がある。平坦な道、海沿いの道、長い上り坂。五区は八百メートル以上も登るため、「山登り」と特別に呼ばれ、そこを走る人もチームのなかで特別な位置にいる。風の強い区間、人の少ない区間、始めから終わりまで人の目にさらされる区間もある。

ハイジが十人の区間を決めるとは、その道の性格と、その人の性格を対応させることだった。

一つの区間を最後まで走れるのは、そこに配置された本人だけだ。

大半の団体競技とは、そこが違う。

サッカーなら、誰かの調子が悪いとき、ほかの者が多く走り、カバーに入り、仕事を分けて引き受けられる。試合を見終えた外の人間には、誰が負担を背負ったのか、わからないこともある。バスケットボールなら、ボールを持つ役を移し、最後の一本を調子のよい選手に任せられる。バレーボールにはローテーションがあり、交代があり、タイムアウトがある。

これらに共通するのは、同じ時間、同じ場所に仲間がいて、互いに働きかけられることだ。

駅伝では、そうはいかない。

一人が自分の二十キロで出会うことは、一つとして仲間に分けられない。

脚がつっても、代わりにつってやれる者はいない。潰れても、仲間が身体を支えて先へ運ぶことはできない。規則もそれを許さない。給水の場を除けば、そばについて走りながら助けることさえできない。前の九人がどれだけよく走っても、十人目の距離は一メートルも短くならず、その一メートルが楽にもならない。

仲間にできるのは、コース脇から声をかけることだ。声が届いたあとも、走るのは、やはりその一人である。

十人で成し遂げる一つのことが、完全に独立し、互いに取り替えられない十の走りからできている。

襷とは何か

十本の道をつなぐのは、あの細い布、襷だ。

肩から斜めにかける、軽い布である。何も助けてはくれない。重さを減らさず、速さを増やさず、距離を縮めない。走るときには、少し邪魔にさえなる。

ただ一つの働きは、証しになることだ。

自分より前の人々が、それぞれ自分の区間を走り終えた。そのことを示している。

それだけだ。体力も、技術も、運も渡してくれない。受け取る人が手にするのは、実際に使える資源ではない。一つの知らせである。

その知らせには、物理的な働きがない。それでも、この競技の構造全体が、そのうえに成り立っている。

多くのチームは、襷に何かを縫いつける。お守り、文字、先輩の残した印。それらも、物理的な力を発揮するわけではない。

何も作用しない一本の布が、互いに別々の十本の道をつなぐ、唯一の実体になっている。

つながりは切れる。そのことを示す規則

箱根駅伝には、繰り上げスタートという規則がある。

前の走者が遅れ、定められた時間を超えると、次の走者はもう待たずに出発する。それまでつないだ襷を受け取らず、代わりの襷を着けて走り出すのだ。元の襷はそこで止まり、先の道は、別の布で走りつがれる。

競技は続き、記録もつく。だが、出発点からずっと運ばれてきたものは、そこで途切れる。

この規則が示すのは、つながりが切れても、物事は続くということだ。

罰を与えるための規則ではない。大会を運営するための規則だ。箱根駅伝は公道で行われ、交通規制には時間の限りがある。後ろから来る大学もあり、中継所でいつまでも待つわけにはいかない。きわめて実際的な理由から存在している。

途切れたチームにとっては、たいてい、その大会で最も見ているのがつらい瞬間になる。襷を受け取る動作は起こらない。前の走者がたどり着いたとき、中継所にはもう誰もいない。

同時に、この規則は形式の性質をはっきりさせる。十人のつながりは、自動的に生まれるものでも、保証されたものでもない。十の走りを別々に、しかも時間内に終えた結果として生まれる。どれか一つが間に合わなければ、そこで切れる。

レースの日々の形

レースの時間を広げてみると、こんな形になる。

一日目の朝、一区のスタートラインにはチームでいちばん遅い人間が立っている。髪を結んでいるのは、前へ走ると前髪が目にかかるからだ。走り終えると、最初の中継所で待つ人へ襷を渡し、自分は止まる。

次に二番目、三番目、四番目、五番目。五番目には山登りがある。往路が終わると、五人がそれぞれの距離を走り終えている。四人は次の走者へ襷を渡し、五人目は受け取った襷を往路のゴールまで運んだ。

二日目の朝、箱根から帰りの道を走る。六番目、七番目、八番目、九番目。九番目はカケルで、同じ区間を藤岡が走る。十番目がハイジだ。

十本の道。コース上での八回の受け渡しと、一夜を挟んで再び続くレース。

八回の受け渡しで、することは同じだ。一人が到着し、もう一人が走り出す。そのたびに、先に着いた人は競技の残りの部分から退く。ただし五番目の走者は往路を終え、六番目の走者が続きを走り始めるのは翌朝である。

最後の走者が走り終えるころには、前の九人は全員、走り終えて退いている。ゴールを越えるのは、ただ一人だ。

その線が意味を持つのは、手前の九本の道が、すでに走り終えられているからである。

十人には、それぞれ別の用事もある

もう一度、十人を見てみよう。

法学部生は司法試験に合格しているが、学業とその先の進路には、なお時間が必要だ。4年生は就活中で、面接の予定が詰まっている。煙草を吸う先輩は大学六年目で、学籍が問題になっている。留学生は故郷から一万キロ離れて工学を学んでいる。双子は入学したばかりの1年生だ。漫画好きの部屋には、相変わらず漫画があふれている。

この一年、それらは一つも消えなかった。

箱根に出たからといって、法学の勉強が片づくわけではない。採用の季節も待ってはくれない。去年より速く走れても、学籍の問題は片づかない。遠いタンザニアの家族は、一回のレースによって、学位を待ち望まなくなるわけではない。

作品はそれらを、ずっとぶら下げたままにする。ときどき顔を出させる。誰かが面接で一回練習を休む。誰かが夜更けの机で本を読む。誰かが家からの電話を受ける。

解決されたのではない。「両立を目指す青春」という美談にもされない。ただ、二つのことが同時にあり、それぞれの時間を取っている。

元の生活を捨てる人を、作品は用意しない。走ったおかげで、元の生活までよくなる人も用意しない。二つのことが、それぞれ別々に、一人ひとりにかかり続ける。

最後まで走っても、十人は同じ種類の人間にならなかった。

十人が同じ一つのことを終えた。そのことは、十人を同じ一人にはしなかった。

ハイジの区間も、同じだ

ひとつ、別に取り上げておきたい。この規則は、計画を作った人にもそのまま当てはまる。

ハイジは十人を集め、一人ひとりの練習を組み、区間を決め、身体と時間を計算した。この出来事の作者である。

本番になると、競技の形式は彼を、ほかの九人とまったく同じ場所へ置く。十区、二十数キロ。自分のあの膝で、東京へ戻る最後の区間を走る。

その道では、誰も代わってくれない。それまでの準備のすべてを使っても、一メートルさえ省けない。

計画の全体を作り、誰がどこを走るかを決め、全員の身体のデータを握ることはできる。それでも、自分がその道に立てば、手元に残るものは、ほかの人と同じだけ多く、同じだけ少ない。

作品が用意した報いや、公平を示すための場面ではない。この競技の規則が、全員に等しく働いた結果にすぎない。

二つの文

ここで、この連作の初めにあったことと、終わりにあったことを並べてみる。

一つ目。九人は、全体像を知らずに引き込まれた。家賃が先に語られ、条件は後から語られた。最も大切な、あの脚の状態は、長いあいだ語られなかった。

二つ目。九人は走りきった。一人ひとりが、自分の脚を使い、誰も代われない道で、自分の区間を終えた。

この物語では、二つとも本当だ。

両者はどんな関係にあるのか。先に起きたことは、後に起きたことによって変わったのか。変わる必要などないのか。そもそも別々のことなのか。この篇は、答えを出さない。

答えられるのは、ここまで読んだ一人ひとりだけだ。おそらく、その答えも一人ずつ違う。

成し遂げられたものは、何なのか

最後に、この形式へ戻ろう。

十人いなければできないことが、同時に、誰もほかの誰かの代わりにはできないことでもある。

普段、この二つはぶつかり合う。

私たちが思う「皆で成し遂げる」は、たいていこんな形をしている。分担し、協力し、強い者が弱い者を補い、問題が起きれば別の人が引き受ける。最後の成果が誰のものかははっきりせず、はっきりさせる必要もない。強みは、融通が利くことだ。一か所が緩めば、ほかを締めて補える。その代わり、個人の境目は曖昧になる。曖昧になれば、誰が誰の仕事をどれだけ代わったのか、誰が誰の陰に隠れたのかは、勘定のできないものになる。

駅伝は、二つを同じ仕組みに収める。十人を必要とし、一人も欠かせない。同時に、誰かが誰かの代わりに力を出すことを拒む。

融通は利かない。一か所が緩めば、そこは緩んだままだ。別の場所を引っ張っても、締まらない。

成し遂げられたものは、誰か一人の身のうちにはない。

ハイジのなかにはない。彼が走ったのは十区だ。カケルのなかにもない。彼が走ったのは九区だ。王子のなかにもない。誰のものでもない。誰一人として、自分の区間を超えることをした人はいないからだ。

それが存在するのは、ただ一つの場所である。十本の道を、すべて走り終えたあとだ。

しかも、前もっては存在できない。九番目が走っているときには、まだない。最後の一歩を終えて初めて成り立ち、それ以前のどの一分にも、成り立たなくなる可能性がある。

一人ひとりを必要とする。それでも、誰か一人には属さない。

あの朝、一区のスタートラインに、かつて百メートルも走れなかった人が立っていた。髪を結んでいる。前へ走ると、前髪が目にかかるからだ。

翌日の午後、十区のゴールへ、三年間、傷んだ膝を抱えてきた人が走り込んできた。

そのあいだの八区間では、別の八人が、それぞれの二十キロを走り終えた。中継所で終えた者は立ち止まり、次の走者が遠ざかるのを見る。五番目の走者が着くのは、その日のゴールだ。すぐ次の人が走り出すわけではない。レースは翌朝に続く。

それが、この出来事の形のすべてだ。

一本の布が、コース上で八回渡された。レースは一夜のあいだ休み、翌朝、再び続いた。十人が、それぞれ自分の区間を走り終えた。

あの建物で最初に起きたこと、家賃と、条件と、隠されていた脚。それは、このレースで取り消されたわけでも、正しかったと証明されたわけでもない。出来事の始まりにそのままあり、出来事の終わりとともに、一つの物語に属している。

風は、相変わらず吹いている。

『風が強く吹いている』。原作:三浦しをん(新潮社)。テレビアニメ:監督・野村和也、脚本・喜安浩平、アニメーション制作・Production I.G。2018年10月から2019年3月まで放送、全23話。本連作はアニメ版を基準とする。繰り上げスタートは、実際の箱根駅伝にもある競技規則だ。