この版について
この版について:中国語原作をもとに、日本語の文章として独立に書き直した。全23話のテレビアニメを主な対象とし、必要に応じて三浦しをんの原作小説を参照する。予選会の方式、寛政大学陸上競技部、ハイジの動機に関する記述は中国語原作で校訂されている。シリーズ全体の結末に触れる。
誰も見ていないとき、清瀬灰二は脚を引きずって歩く。
作品には、その姿が何度も現れる。どれも短い。後ろ姿。一瞬の立ち止まり。腰を下ろす動作が、ほかの人より半拍遅れる。誰も気づかないとき、膝の脇を押さえる手。カメラはとどまらず、そばには誰もいない。次の瞬間には、別の画面へ移っている。
誰かがいるときには、普通に歩く。笑い、飯を作り、皆を起こす。話す調子も、いつもと変わらない。
この篇は、その脚と、その脚をめぐる一つの事実を扱う。
その脚
ハイジの右膝がおかしくなり始めたのは、高校一年の秋だった。
それまでは順調だった。強豪校にいて、同期には他県から受験して入学してきた藤岡一真がいた。のちに六道大学の箱根連覇を支える選手である。
一年の秋から、右膝に違和感が続いた。その違和感を抱えたまま二年の夏まで走り、剥離骨折で手術を受けた。
手術から三年たっても、後遺症が残っている。歩けば、脚を引きずるほどに。
それが、いまの彼だ。「かつて怪我をしたランナー」ではない。毎日痛みを抱えている人間であり、その痛みは治らない。
時系列に並べると、もう少しはっきりする。高校一年の秋に違和感が始まり、二年の夏に手術。そのほぼ一年のあいだ、問題があるとわかっている膝で、練習も試合も続けていた。しかも高校二年は、長距離選手にとって最も大切な一年だった。
手術のあとにリハビリがある。そのあとに、元の水準には戻れないとわかる時間がある。さらに、その事実を受け入れる時間がある。この過程に、高校三年から大学四年までのすべてが費やされた。
そのあいだ、彼は二つのことをした。毎日走り続けること。そして、竹青荘を準備することだ。
九人は知らない
竹青荘の計画を、始めから終わりまで押し進めるのはハイジだ。
食事、生活時間、一人ひとりの練習量、怪我や病気、回復の具合。すべて彼が見ている。
どれほど具体的に見ているか。朝食の顔色が違えば、昨日よく眠れなかったとわかる。フォームにかすかなかばい方が出れば、今日は負荷を増やせないとわかる。脚を見るときには直接手を伸ばす。一人ずつ触り、つまみ、押し、その日にどれだけ走れるかを判断する。
この癖は、作品でも触れられている。他人の脚に触るのにまったく遠慮がない。触られる側はたいてい困惑するが、本人はお構いなしだ。
相手が違えば、与えるものも違う。ムサと双子では練習量が違う。ニコチャン先輩と神童では回復の段取りが違う。王子とカケルでは作戦がまるで違う。型にはめているのではない。一人分ずつ、作っている。
九人の身体のことを、本人たち以上に知っている。
だが、彼自身のあの脚の状態を、九人は知らない。
同じ人間が、ほかの九人の脚には一人ずつ触れ、自分の脚のことは隠している。
うっかり言い忘れたわけではない。
言う機会はいくらでもあった。明かせば、話がはるかに簡単になった場面も何度かある。強く押さなくてはならないとき。走りたくない相手を走らせようとして、なぜそこまで言えるのかと問われるとき。どうしてそんなに執着するのかと疑われるとき。自分も持ちこたえられそうにないのに、チーム全員の目が向けられているとき。
どの瞬間でも、裾をまくり、診療の記録を広げ、自分にはもうこの一度しか残されていないと言えば、その場の空気はたちまち変わる。
彼は、言わなかった。
知っている人は、向こう側にいる
そのことの確かな証拠が、一つある。そして、その証拠がある場所は特別だ。
藤岡一真は、知っている。
高校時代のチームメイトだった。同じ年にあの強豪校へ入り、一緒に走った。高校一年の秋に膝がおかしくなり始めてからの経緯に、藤岡は居合わせている。
いまは六道大学のエースであり、箱根三連覇の中心にいる。本戦で、寛政大学の行く手に正面から立つ相手だ。
つまり、こういうことになる。
計画が始まってから長いあいだ、ハイジの脚の本当の状態を、味方は知らず、敵が知っていた。
説明を足す必要はない。物語のなかにある、一つの事実だ。それだけで十人の関係の形が見えてくる。最も重要な情報について、チームの内側には空白があり、外側の人間がそれを握っている。
本戦の九区を、藤岡が走る。カケルも走る。ハイジはチームで最も速い一人を、その道へ送り出した。自分の事情を知る人間と、向き合うために。
トラックから追い出された二人
街で出会ったあの夜、ハイジもカケルも、トラックの上にはいなかった。
カケルを追い出したのは処分だ。手を上げ、出場停止となり、部を辞めた。居場所を奪ったのは規則だった。規則なら、異議を申し立てることも、議論することも、何年もたってから判断を覆すこともできる。
ハイジを追い出したのは身体だ。膝の骨が剥がれ、手術をし、三年たっても脚を引きずる。このことには、異議を申し立てる規則がない。議論できる相手もいない。判断が覆ることもない。
失ったものは同じだった。失い方は、まったく違った。
自転車で追いついて尋ねた、走るのは好きか、という言葉。それは、いま走れない人間から、いま走ることを許されていない人間への問いだった。
第一篇では、この場面は勧誘だった。この篇の位置から見ると、それはまた別の何かでもある。あの夜には二つの意味が同時にあり、作品は分けていない。
隠しておかなければ始められないこと
時間の順序に戻ろう。
第一篇で見たように、九人は先に住み始めた。条件を告げられたのは、後だった。
ここに、もう一言足せる。条件を告げられたときも、まだ全部ではなかった。
箱根を走るのだと知った。だが、その計画をまとめる人の膝が壊れているとは知らない。一度走るために、彼が何を支払うのかも知らない。その計画が彼にとって何を意味するのかも、知らない。
うなずいたとき、彼らの手元には全体像がなかった。
この一文は、二つの方向に読める。この篇は、どちらも選ばない。
指摘するのは、仕組みのうえでの事実だけだ。参加する人々に核心を伏せなければ始められない計画なら、彼らが同意した瞬間、同意の対象となったのは別のことだった。その後の努力も、費やした時間も、すべて、見たことのない前提のうえに積まれている。
その前提が明かされたあと、彼らがどう思ったか。作品はそこをかなり後ろに置き、しかも、それを理由に誰かが辞めることはなかった。
やがて彼らも知った
あの脚のことは、結局、知られることになる。
作品はそのときをずいぶん後に置き、暴露という形では扱わない。誰かが部屋に飛び込んで突きつけるのでも、対決の場ができるのでもない。少しずつ染み出すように、誰かが気づき、誰かが尋ね、誰かが彼の言葉の続きを補う。
知ってからも、一人も辞めなかった。
これも説明をつけず、そのまま置いておかなければならない。この一年、自分たちが関わってきた計画の中心にある条件が隠されていた。そう知った九人は、最後まで走ることを選んだ。
許したのか。もう引き返せなかったのか。許す必要があるとは思わなかったのか。そもそも、何か対処すべきこととして受け止めなかったのか。作品は、誰にも説明させない。
ただ翌朝も、十人を走りに出かけさせる。
彼は何を望んだのか
ハイジは、自分の望みを口にしたことがある。
走るとは、いったいどういうことなのか。それを知りたいのだと。
勝ちたい、でも、何かを証明したい、でも、何かを残したい、でもない。もっと奇妙な望みだ。十代からずっとやってきて、そのあと自分から取り上げられたこと。それはいったい何なのかを、知りたいのである。
この望みには、気になるところがある。終点がなく、達成を確かめる基準もない。一度箱根を走れば、走るとは何かがわかるわけではない。やり終えさえすれば答えが出る、という種類のことではないのだ。
そのために彼が選んだ方法は、十人を集め、一度箱根を走ることだった。自分自身も、その十人に入る。
ここで、二つのことを並べられる。
彼は、確かにそれを知りたいと思っていた。
知るためには、確かにほかの九人が必要だった。
作品は両方を書く。そのあいだに接続詞は置かない。この篇も、置かない。
彼自身の区間
本戦で、ハイジは十区を走る。
最後の区間だ。前の九人が走ったすべての距離と、積み上げたすべての時間が、最後に彼の手へ渡される。残りの二十キロを走り、ゴールを越えるのは彼である。
彼は、あの膝で走りきった。
この区間の代償は、後で示される。その後に進むのは選手の道ではない。指導者になる。つまり、これからの人生は、走路のそばで送ることになるのだ。
望んでいたこと、走るとは何かを知ること。それがかなったのかどうかは、作品は語らない。
彼が計画を作ったことには、自分ももう一度走りたいという望みが含まれていた。そして最後に、彼は確かにその一度を走った。
この道は、自分で走った。誰も代われない。その点では、ほかの九人とまったく同じだ。この規則の前では、彼も彼らも同じ立場にいる。
同時に、ほかの九人がゴールへたどり着く道を敷いたのは、彼だった。その点では、同じではない。
これは、一つの事実を述べている。この計画が彼にとって何を意味したのかと、計画にはほかの九人が必要だったこと。その二つが同じ一文にあり、切り離せない。
知っている人にしかできない仕事
さらにもう一層、足しておきたい。隠したことと、同じ出来事のもう一方の面だからだ。
ハイジがしている指導の仕事は、相手を知っている人間でなければできない。
練習量は公式では決められない。同じ距離でも、六年間煙草を吸ってきた人間と二十歳の双子とでは意味が違う。「もう一本」という同じ言葉も、法学の勉強に時間を割かなければならない人間と、タンザニアへの電話を切ったばかりの人間とでは、届き方がまったく違う。きちんとするには、一人ずつその人を知るしかない。
人を知ることに、近道はない。時間がいる。毎日顔を合わせ、台所で、廊下で、病気のとき、機嫌の悪いとき、その人を見る。それを何度も重ねなければならない。
ハイジは、それに何年もかけた。
その何年かは、計画を準備し、古くからの住人を知っていった年月でもある。新しい住人は、後から加わった。準備は長くても、一人ひとりと過ごした時間の長さは違う。相手を知るための日々と注意が、同時に計画の材料にもなっている。
相手を知る人にしかできない仕事と、相手に隠さなければ始められない計画。この物語では、同じ人が、同じ時期に、同じ材料を使って、両方を作り上げた。
あの建物にある、二つのこと
最後に、この人の二つの面を並べる。間を取り持つことはしない。
一つ目。一人ひとりへの接し方が違う。王子の作戦も、ムサの練習量も、ニコチャン先輩の回復の段取りも、双子への話し方も、別々に考えられている。身体も気質も知り、その人のあり方に合わせて与える。ごまかしてはできない仕事であり、まとめて大量にこなせる仕事でもない。
二つ目。この計画で最も大切な条件の一つを隠した。隠された相手は九人であり、知っていたのは向こう側の人間だった。
この二つは、同じ人間に属している。同じ時期に、同じことのために行われた。
私たちはたいてい、二つを一文に収める言い方を探す。「皆のためだった」「皆を利用した」「両方だった」。どれも筋は通るし、作品のなかから裏づけとなる箇所も見つけられる。
作品は、一方でもう一方を説明しない。あいだに接続詞も足さない。誰かの回復のためにマッサージをする場面があり、夜、一人で脚を引きずって歩く場面がある。そのあと、次のことを語り始める。
この五篇も、その進み方についていく。
それでは、最後に走り終えたあれは、ハイジのことだったのか。それとも十人それぞれのことだったのか。
答えは、誰かの動機のなかにはない。この競技の規則のなかにある。
次の篇へ。
『風が強く吹いている』。原作:三浦しをん(新潮社)。テレビアニメ:監督・野村和也、脚本・喜安浩平、アニメーション制作・Production I.G。2018年10月から2019年3月まで放送、全23話。本連作はアニメ版を基準とするが、ハイジの右膝の負傷経緯については、一部を原作小説に拠った。