Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
← 『風が強く吹いている』を読む
3 / 5

その物差しを持って、彼は大学へ来た

Han Qin (秦汉) · 日本語版 · 2026-10-09

この版について

この版について:中国語原作をもとに、日本語の文章として独立に書き直した。全23話のテレビアニメを主な対象とし、必要に応じて三浦しをんの原作小説を参照する。予選会の方式、寛政大学陸上競技部、ハイジの動機に関する記述は中国語原作で校訂されている。シリーズ全体の結末に触れる。

竹青荘の庭を、皆がぐるぐる走っている。足元はおぼつかず、息を切らす者も、笑う者も、あと何周かを数える者もいる。

蔵原走はその様子を見つめていた。そして、ついにこらえきれなくなる。

口にしたのは、要するに、そんなものを走ると呼べるのか、という言葉だった。

その一言で、建物全体が長い沈黙に包まれる。皆との関係も底まで落ちた。この篇で考えたいのは、あの言葉がどこから来たのか、ということだ。

十三分五十秒

カケルは高校時代、仙台城西にいた。二年生のとき、五千メートルで十三分五十秒台を出している。

この数字を知るには、少し手がかりがいる。

五千メートルを十三分五十秒で走るとは、一キロあたり二分四十数秒のペースで、トラック十二周半を通して走り続けることだ。日本の高校生なら全国でもごくわずかな最上位層。大学長距離でもすぐ主力になり、実業団に入っても見劣りしない記録である。

十七歳でこの記録を持つ者には、その先の道がすでに敷かれている。強豪校、実業団、そしてさらに上へ。学校は必要なものを優先して彼に回し、監督は練習を組み、彼の時間割はその数字を中心に組み替えられる。

「わりと足が速い人」ではない。最初から、ほかの者とは別に取り出される人間なのだ。

ところが竹青荘で毎日向き合うのは、自分ほどには走れず、その多くが初心者の九人である。

あの監督

カケルは、敷かれたその道を最後まで進まなかった。

所属した陸上部には、勝利至上主義の監督がいた。カケルはその人と折り合わず、事件になる。対立し、手を上げてしまった。

その結果、出場停止となり、部を辞めた。

経緯がすべて明かされるのは、物語がかなり進んでからだ。それまでは、観客は彼が「何かを起こした」としか知らない。その空白自体が、作品の仕掛けでもある。1年生のカケルは、誰も知らない過去を抱えて竹青荘に来る。何かを抱えていることだけは、皆にわかる。

ここで、あの監督が何をしていたのかを明確にしておきたい。それが、この篇の出発点だからだ。

勝利至上とは、部のあらゆることを、一つの基準で並べることだ。結果につながるかどうか。人間の序列も、練習の組み方も、誰に手をかけ、誰を切り捨てるかも、その基準だけで決まる。この仕組みのなかで、速い者が受け取るものはすべて、速さと引き換えに手に入れたものだ。

カケルは、その仕組みの最上位にいた。

見落としやすいが、重要な点だ。彼はこの序列づけにおける被害者ではない。最大の受益者だった。最も速いから、最も多くを受け取る。最良の練習、最も多くの注目、最も大きな期待。十代のころから、ずっとその場所にいた。

そこで彼が受けた扱いは、すべて成績を土台にしていた。

そして、手を上げた。出場停止になり、退部した。成績で手に入れていた居場所も、それとともになくなった。

何を奪われたのか

出場停止、退部。書けば短い二つの言葉だが、それが何を奪ったのかを見ておく必要がある。

走るという動作を奪ったのではない。脚はあり、道もある。いつでも外へ出て走れる。

奪ったのは、走ることを取り巻く仕組みだ。チーム、大会、記録、次の段階へ進む道。そして、そのすべてでできた、十代から彼が暮らしていた世界である。

毎日二十キロを走りながら、すでにランナーではなくなっていることはありうる。制度のうえでは、その二つは別のことだ。

その仕組みのなかの居場所は、すべて成績と引き換えに得ていた。出場停止と退部のあとには、以前の記録を差し出しても、チームも大会も将来も手に入らない。この換算の仕方は、あの監督が使っていたものと同じだ。

押し上げられたときと、追い出されたとき。その方法は同じだったのである。

まだ走っている。けれど、同じことではない

退部後、カケルは寛政大学に進学する。名目上の陸上競技部も、竹青荘という練習用の寮もある。だが、そのまま彼を受け入れられる、体制の整った長距離チームはない。

初めは通常の練習体制には入らず、一人で走っていた。

そしてハイジに見つかった夜、走っていた理由は、盗みをして追われていたからだった。自分の脚を、盗みの道具にしていたのである。

ここは、少し立ち止まりたい。

抜きん出た走力を持つ人間が、走るための居場所を失ったあとも、毎日走っている。だが走ることの用途は、すでに変わっている。以前は先へ続く道を進む手段だった。いまは、逃げる手段になった。

走ることを取り上げられたあとも、彼は走っていた。その走りは、逃走だった。

自転車で追いついたハイジが尋ねたのは、走るのは好きか、ということだった。

あの夜には、ずいぶん奇妙な問いだった。

追われている泥棒が、見知らぬ男にそんなことを聞かれる。それ以上に大事なのは、カケルがそのとき持っていた枠組みのなかに、その問いの置き場所がなかったことだ。

彼の知る言葉で、走ることについて尋ねられるのは、何秒か、何位か、チームに入れるか、資格があるか、といったことだった。どれにも答えがあり、答えは数字だった。

好きかどうかは、その種類の問いではない。測って得られる答えがない。

カケルは、その日、答えなかった。

彼が持ち込んだもの

庭での一言に戻ろう。

カケルには、ほかの九人が何をしているのかわからない。傲慢だから、というだけではない。いや、傲慢という説明では、もっと大切な部分がこぼれ落ちる。

彼の物差しには、速さという目盛りしかない。

この物差しでは、五千メートルに二十分以上かかる人間と、そもそも走れない人間の違いは測れない。差が小さすぎて、目盛りに出ないのだ。経験の浅い者を含む九人が庭でしていることは、彼の物差しにかければ、すべて同じ数字になる。ゼロだ。

では、その物差しを渡したのは誰だったか。

勝利至上主義の監督。あの強豪校。十代から彼をそのなかに置いてきた、仕組みの全体だった。

彼はあの人を殴り、その人の物差しを持って大学へ来た。

これは褒めても責めてもいない。よくあることを言っているだけだ。ある仕組みから離れた人が、その仕組みの測り方を、一緒に持ち出してしまう。しかも、何を持ち出したかを自分では知らない。手のなかにあるとき、物差しは物差しには見えないからだ。事実そのものに見える。速い人は走っている。遅い人は、別のことをしている。

長年使ってきた物差しは、一つの意見としては現れない。「見える」という形で現れる。庭に立つカケルは、何かを評価しているつもりではない。ただ目の前で起きていることを述べているつもりなのだ。

あの一言があれほど人を傷つけたのは、まさに傷つけようと思っていなかったからだ。彼は、本当に見えたものを口にした。

もう一つ、彼には特徴がある。口下手で、人と話すのが苦手で、心を閉ざしやすい。だから柔らかい言い方にすることもできなければ、口にしたあとで説明することもできない。

毎朝、起きていたこと

どの一場面よりも繰り返し現れることがある。十人が、毎日一緒に走る。

初めのカケルには、それがつらかった。九人とはペースが違いすぎる。合わせて走っても、走った気がしない。一人で前に出て、全員を大きく一周引き離す。振り返ると、ふらふらした人影が列になっている。

それが、来る日も来る日も、一年続いた。

作品は、彼がそれを「受け入れる」ための決定的な場面を用意しない。ただ、何度も起こらせる。朝、同じ道、同じ顔ぶれ。速い一人も、ろくに走れない者たちも、同じ時間に同じことをしている。

そのあいだに立つハイジも、妙な存在だ。口調はいつも軽く、いつもあの笑顔でいる。それなのに、関わるたびにカケルの心は落ち着かなくなる。公式の人物紹介にも、ハイジの能天気な言動が、カケルの心をかき乱すということが書かれている。

この「かき乱される」という感じが気になる。侮辱されたのでも、感動したのでもない。むしろ、手元の物差しで、どうしても数字の読めない箇所にぶつかったときの、居心地の悪さに似ている。

榊と藤岡

作品はカケルの周囲に、同じ世界に属する二人を置いている。

榊浩介は東京体育大学の1年生で、カケルと同じ高校の出身だ。小柄だが実力があり、本戦では八区を走る。カケルに強く執着していて、二人のあいだには過去のいきさつがある。

藤岡一真は六道大学の4年生。同校のエースであり、箱根三連覇の中心にいる。大会でも最速の選手の一人で、本戦ではカケルと同じ九区を走る。

榊の執着は、具体的に描かれる。「お前を倒す」という宣言めいたものより、もっとまとわりつくようなものだ。ずっとカケルを見ている。自分をどう見ているのかを気にしている。何かを認めさせようとする。二人には共通の高校時代があり、そこで何があったのかが、少しずつ明かされる。

藤岡は、別の場所にいる。あの仕組みのなかを最上位まで走ってきた人間だが、榊のようなまとわりつき方はしない。カケルとのあいだに積み残したいきさつもない。ただ、同じ道を、大多数の人間より速く走っている。

この三人を並べても、下から上へという序列にはならない。

三つの異なる形がある。仕組みから弾き出されたカケル。そのなかに残り、特定の一人に執着を向ける榊。最も高いところを走る藤岡。作品は並べて見せるが、順位をつけない。

それが最もよく見えるのは、本戦の九区だ。カケルと藤岡は同じ道を走る。その結果は記録になり、記録同士は比べられる。だが、人間としての二人を、作品は比較していない。

カケルがついに藤岡を超えた、あるいは藤岡がカケルを認めた。物語は、そういう決着の瞬間としても描いていない。九区が終わる。二人はそれぞれの区間を走りきり、次の人間へ襷を渡す。

その後、彼がしていたこと

話が進むと、カケルは、庭でのあの言葉とは結びつきにくいことをする。

王子のフォームを直すのだ。

やること自体は複雑ではない。どの動きが力を無駄にしているかを見つけ、一つずつ修正する。王子が髪を結ぶようになったのも、その過程の副産物だった。前へ走ると、前髪が目にかかるのである。

見ておきたいのは、この行為が置かれた位置だ。チームで最も速い人間が、最も遅い人間の動作に時間を使っている。

しかも継続している。一度の助言ではない。グラウンドの脇で、練習のあとで、何度も何度も王子の動きを見る。腕の角度、足を着く場所、上体の傾きを指摘する。フォームの修正は地味な仕事だ。直す側にも、直される側にも、単調な時間が続く。

直したあとも、王子はチームでいちばん遅い。カケルはもちろん知っている。修正で何秒縮まるかは、誰よりもよくわかっているはずだ。

来たばかりのころの物差しで測れば、何の意味もない。ゼロを別のゼロに直すだけで、読み取れる値は変わらない。

この節で、彼がよりよい人間になったと宣言するつもりはない。作品自体も、そんな宣言はしていない。

ただ、同じ作品のなかに二つの場面がある。庭で、そんなものを走ると呼べるのかと言った人。そしてその後、グラウンドの脇で、一人の腕の角度を繰り返し直している人だ。

そして、はっきりさせておきたい。カケルは速さを捨てていない。もっと速くなりたいと、相変わらず思っている。本戦ではなお最も厳しい区間を走り、自分を限界へ押し進める。成績をどうでもいいと思う人間になったわけではない。

変わったのは、別のところだ。作品はその変化に名前をつけない。

二つの場面のあいだに何があったのかを、作品は少しずつ、とてもゆっくり敷いていく。どれか一話を転換点として指せるわけではない。

そのあいだには、いくつもの具体的な日がある。一緒に走る朝。一緒に食べる飯。仲間が走れないとき、そのそばにいる自分。自分が走れないとき、そばにいる仲間。喧嘩もある。長く口をきかないこともある。仲直りもあれば、仲直りしたわけでもなく、そのまま過ぎたこともある。

作品は、カケルに「わかった」と言わせる場面を設けない。誰か別の登場人物に、彼の代わりにまとめさせることもしない。

物差しが入れ替わっていく過程を、作品は一瞬の出来事にしなかった。

もう一つ、この篇でまだ話していないことがある。次の篇の話だからだ。

カケルに、走るのは好きかと聞いたハイジも、走ることから追い出された人間だった。違うのは、カケルを追い出したのが処分で、ハイジを追い出したのが身体だったことだ。

あの街角で出会ったとき、二人ともトラックの上にはいなかった。

すべてを取りまとめ、一人ひとりに練習計画を作り、皆の脚を自分の手で確かめてきた人。その人自身の右膝が、壊れている。

九人は、そのことを知らない。

次の篇へ。

『風が強く吹いている』。原作:三浦しをん(新潮社)。テレビアニメ:監督・野村和也、脚本・喜安浩平、アニメーション制作・Production I.G。2018年10月から2019年3月まで放送、全23話。本連作はアニメ版を基準とする。