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Non Dubito

政府論 · はじめに

一枚の駐車違反切符

Han Qin ·

三つの問い

苹果市の市議会が、新たな駐車規則を可決した。旧市街の路上駐車は時間制の有料とし、夜十時以降は禁止する。旧市街のある住民は納得せず、これまでどおり夜も路上に車を止め、違反切符を切られた。罰金を払わなければ、車をレッカー移動されるかもしれない。

苹果市は架空の市だ。市のある州も、下流の隣町も、市内のある住宅団地も架空である。このシリーズの七篇はすべて、この市を舞台に語る。人物は役職だけで示し、名前をつけない。この切符については、三つの問いが立つ。何を根拠に。一つの市に、このような規則を定め、切符を切れるものがなぜあるのか。これは『制度はいかにして可能か』が答えた。何のために。そのものは何を実現すべきで、何をしてはならないのか。これは制度論が、五つの当為によって答えた。向かう先は目的の王国である。どう行うか。この規則をどう定め、切符をどう切るのか。あの住民が同意しないとき、誰が何を答えるのか。できないときにはどうするのか。制度論は冒頭で、この問いを次へ委ねた。「政府論、企業論などの個別の制度論は、どう行うかを答え、あることができるかどうか、できないときにはどうするかも判定する」。

このシリーズは三つ目の問いから始まる。主語となるのは判断だ。規則が書けるのはここまでで、その先の一歩は誰かが判断しなければならない。政府は具体的な状況でどう判断し、その判断は誰に、何について答えなければならないのか。それが問うところだ。この篇では駐車規則の是非を判定せず、それを使って三つの問いを分けるだけにする。問い進む前に、いくつか区別しておくことがある。

手段であって、主体ではない

政府は目的ではない。『制度はいかにして可能か』の第一の前提は、「どのような制度も、最も洗練された憲法を含め、目的ではなく手段である」と言う。政府も制度の一種であり、手段である。だから「何を実現すべきか」を政府に言える。その存続は、何かを行う条件にはなっても、問いを閉じる理由にはならない。向かう先は目的の王国だ。「それをつくるのは人である。制度は人に代わってつくれず、制度が宣言しただけで完成したことにもならない」。

政府は主体でもない。駐車規則を採決したのは市議会だが、手を挙げたのは一人ひとりの議員である。切符を切ったのも、執行を担う位置に就いた誰かだ。苹果市は手を挙げず、切符も切らない。権力論は言う。「国家が法令に署名するのではない。要所にいる官吏が、国家の装置を通じて法令に署名する」。制度論は言う。「構築体は責任の帰属先であり、行為の主体ではない」。政府の行為はすべて、位置に就いた人が政府という仕組みを用いることへたどり直せる。それが政府の名で効力を持ち、責任の帰属先は政府という構築体になる。両端はともに残り、どちらも他方を覆い隠さない。

義務を負う者ではない

人はよく「政府には……する義務がある」と言う。このシリーズではそう言わない。権利論は横方向の義務を設けない。政府については、さらに明確に言う。政府は「その権力を担うものであって、義務を負う者ではない。これは、その要求が実在しないとか、強制力を持たないという意味ではない。要求はきわめて実在的で、きわめて強制的でありうる。ただ、その構造上の位置は権力からの要求であり、横方向の義務ではない」。

職責の専論は、別の語を立てる。職責とは、作用を受ける者が「その枠の中で持つ応答の負荷」である。「義務を持ちうるのは主体だけである。職責は、構築体も主体も持ちうる」。政府内の位置は「一回の登録という出来事」であり、そこにも職責がある。そこで政府については、四か所を分けて語る。政府という構築体には当為を語り、制限、すなわちその行為がどこまで許されるかも語る。憲法秩序や上位の政府によって行為の範囲を絞られ、一方的には抜け出せない枠には、職責を語る。政府内の位置にも職責を語る。その位置に就く人と内部の主体には当為を書かない。それはその人たち自身の法の領分である。全篇を通じて「政府の義務」とは書かない。

「私たち」ではない

制度論は言う。「制度は『私たち』を生めない」。衝突論も、二人の間について同じ形の一文を述べた。「合意は、第三の一人称の立法者を自動的に生み出さない」。これを政府へ広げるのは、このシリーズが自ら踏み出す一歩だ。政府の規則は、一人ひとりに代わって内的な立法を済ませる第三の一人称を生み出さない。

だからといって、権限の範囲内で公共の規則が行為に対して持つ、執行可能な効力を取り消すわけではない。有効な権限と手続に基づき、制限しうる行為だけを制限する規則について、ある人が同意しないことだけでは、その人に対する権限と手続の層での効力は消えない。ただし、書き換えることのできない主体の位置は別である。あの駐車の件をどう判定するかは、第一篇で改めて扱う。規則が人に要求できることには境界がある。「規則は、人に夜間の駐車をやめさせることはできる。しかし、『夜間に駐車しないのは正しい』と認めさせることはできない」。

公訴もここに位置する。法学シリーズは、自らが存在することを知る存在を消滅させることは、すべての主体を脅かすので、「公権力がすべての主体を代表して訴追しなければならない」と言う。このシリーズは「すべての主体を代表する」を、有効な公共の位置に基づき、保護の対象のために手続を開始すること、と読む。公訴はすべての主体を代表して訴追するが、すべての人に代わって「私たち」を形成せず、一人ひとりの内なる法を自分のものとして引き受けず、その名目で任意の権限を得ることもない。この読み方を一般の公訴へ用いるのは、このシリーズ自身の一歩である。第二篇で改めて述べる。

有効であることは、正当であることではない

ある位置に就いているだけでは、その地位が正当だとは言えない。規則が組み込まれ、執行されていても、規則が正当だとは言えない。権力論は登録について、「登録は同意ではなく、正当化ではなく、その正当性の承認でもない」と言う。制度論は保護について、「執行できることは、執行される内容と権限の正当性を証明しない」と言う。

一つの決定が人に及ぼす作用には、三つの層で答える。事実としてどのように作用するか。どのような権限と手続の下で有効か。規範上、何を根拠にそうしてよいのか。規則が市議会で可決され、手続を経て組み込まれ、切符がその規則に従って切られた。これらが答えられるのは、せいぜい第二の層までだ。第三の層はまだ残る。そこにはいくつかの必要条件がある。境界を越えないこと。組み込んだ承認に基づく権利を保障すること。問い直されうること。当為からこれらの必要条件へ進むのは、このシリーズ自身の一歩である。三つとも、十分条件ではない。

ウェーバーは『職業としての政治』で、支配される人々は何を根拠に服従するのかと問うた。支配の正統性の根拠には、原理上三つあると言う。「永遠の昨日」の権威、カリスマの権威、そして「合法性」による支配、すなわち合法的な制定規則の妥当性への信仰による支配である。双方が問うているのは同じことではない。ウェーバーが問うのは、被支配者が経験的に何を根拠として服従し、支配者に命令する権利があるとする根拠を何に見いだすかだ。このシリーズが問うのは、規範上の正当性である。両者は第三の根拠で交わる。合法的な制定規則の妥当性への信仰は、人を服従させうる。しかしその信仰は、規則が規範上なぜそうあってよいのかには答えない。後者を、このシリーズは書く。これは範囲の分担であって、反駁ではない。

二種類の権利

政府は基本的権利の源泉ではない。また、その権利を侵害してはならない唯一の当事者でもない。権利論は、基本的権利は「自分自身の法に由来し、存在論上は先立つ」と言う。制度論は「基本的権利は、制度が新しくつくるものではない」と言う。侵害されてはならないということは、主体の側から導かれる。したがって個人にも、構築体にも、政府にも同じように当てはまる。

政府に固有なのは、もう半分の側だ。内部の主体のために組み込んだ、承認に基づく権利を保障することである。権利論によれば、同じ接合面から「行為の側で読み取られるのは権力であり、主体の位置の側で読み取られるのは承認に基づく権利である」。政府が持つのは権力の側だ。権利の側を働かせなければ、その位置は権利から切り離され、「位置は強力へと退化する」。構造から得られるのはこの読み方であり、当為ではない。保障は、このシリーズが政府の側に新しく立てる引き受けである。方法は三つ。権利との結びつきを失わせないこと。空殻にしないこと。撤回と変更を公開し、問いを受けること。保障しなければ、その箇所の権力は正当性を欠き、問い直されなければならない。保障したからといって、それだけで正当になるわけでもない。

設計書でも、判断マニュアルでもない

このシリーズは設計書ではない。どの機能を誰かが担わなければならないかを書くが、それを担える形を一つに限定しない。『制度はいかにして可能か』は、「本論で採る権力分立は、この機能の一つの実現形態であって、唯一のものではない」と言う。ここで複数の権力の分立を語るのは、機能としてである。制定、執行、検査の三つを同じ位置が兼ねず、検査が検査される側から独立していること。数えるのは機能であって機関ではない。権限の分散が弱くてよいところでも、問い直されうることは弱まらない。

判断マニュアルでもない。行為論は言う。「判断力を規則が代わりに働かせることはできない。規則、事実、理由、感覚はすべて判断に入りうるが、適用し、取捨し、引き受けることは、やはり判断する人が行わなければならない」。だからここでは、判断に代わる規則マニュアルを示せない。まだ書き終えていないのではなく、この一文に従うなら書けないのだ。判断の仕方を教える種類のものも、このシリーズでは書かない。位置に就いた人に代わって個別の判断を済ませず、公共の判断が、形成、執行、修正のそれぞれにおいて、誰に答えなければならないかを書く。

政府とは、どのような構築体か

このシリーズで政府と呼ぶのは、一定の地域を管轄区域とし、その区域の公共事項について継続的に決定し、執行する統治の構築体である。公共の位置がそれを担い、人は入れ替わる。すべての水準が含まれる。住宅団地は、実際に担う公共の決定と執行の機能に応じて含める。市、県、州、そして国家の水準での対内統治も含める。果園里団地では、区分所有者総会が規約を可決し、所有者委員会が規約の執行について決定する。こうした機能に即して、この団地も本シリーズでいう政府に数える。国家の対外的な側面、境界、成員資格、戦争は国家論へ委ねる。

管轄区域と内部は分ける。管轄区域は土地であり、決定と強制がそこで具体化する。内部は身分でなく、絡み合いによって区切る。「構築体が扱う絡み合いの中の人々と、その行為が及び、退出によってもそれを避けられない人々を合わせて内部とする」。苹果市が川へ流したものは、下流の柳渡町へ届く。柳渡町の人々は苹果市の管轄区域にはいないが、その内部に含まれることがある。影響が及ぶ範囲は、権限が及ぶ範囲ではない。

これらの位置で判断する人を、このシリーズでは執政者と呼ぶ。公共の位置を担い、そこで判断するすべての人であり、現場の人も含む。法令に署名する市長も、露店の許可を審査する担当者も、夜の河堤通りへ駆けつける巡査も、その夜に子どもを連れ出すソーシャルワーカーもそうである。執政者に、このシリーズは当為を書かない。その位置が職責を持つ。

一本の物差し

全篇をまとめれば、一つの文になる。内部の主体に対して、政府は植民化に抗する姿勢を貫き、涵養を目指す。その判断は境界を越えず、説明を要し、問い直されうる。前半は制度論の主線に従う。後半はこのシリーズ自身の一文だ。「貫く」のは、資源の多寡で割り引かず、緊急時にも止めないものだ。構築体の行為が境界を越えないこと。内部の主体同士の境界を守ること。拒否、修正、退出、方向転換の通路を塞がないこと。問いを受ける通路を常に開いておくこと。組み込んだ承認に基づく権利を保障すること。このまとめ方は制度論より広い。制度論の「貫く」は最初の二つの当為だけを指す。まとめて書くのは、このシリーズ自身の一歩だ。「目指す」のは、関係の厚みに応じて内部の主体の涵養の条件を用意し、主体同士の涵養に余地を残すことである。「植民化」は狭義で取る。「植民化とは、涵養を装った越境である」。

二つの表現を分けておく。「問い直されうる」とは、すべての政府について、どの時点でも通路が開かれていることを指す。「問い直されなければならない」とは、ある箇所で守るべきことが守られていないと確認され、説明と修正が未履行になっていることを指す。問われること自体は不当性の証拠ではなく、通路を設けたことも修復の証明ではない。このシリーズは、一つの文を引き受ける。政府が完璧になることは決してない。だから問いを受けるのは常態であって例外ではない。完璧だという主張があれば、その主張自体が問い直すべき箇所になる。

このシリーズは、読者に代わって三つのことをしない。どう実現するかを書かず、判断の仕方も教えない。改善項目の一覧も、憲法体制の一式も、「よい判断とはどのようなものか」も、ここからは出せない。人に当為を書かない。執政者も人である。このシリーズは、その位置に職責を語り、その人自身に当為を書かない。読者の暮らす政府について、読者に代わって判定しない。主線の一文は物差しであり、どこを、どう測り、何が測れるかは読者自身に属する。「政府が完璧になることは決してない」も、現実の特定の政府に下した判決ではない。

あの切符に戻ろう。あの住民の問いは、第一篇で引き継ぐ。この篇が渡すのは一つだけだ。論文自身が明確に言っている。「このシリーズが読者に渡すのは、この物差しだけである。それを使って問うかどうか、誰に問うかは、読者自身のことである」。

原論文と読み方について

学術原論文:Qin, Han (2026). 政府は何ではないか(SAE政府論 前置篇)。self-as-an-end.net ↗ · DOI: 10.5281/zenodo.23411670

中国語の本文をもとにAIの支援で作成し、今回の公開に向けて内容と表現を校訂しました。人間の母語話者による校閲を受けたと主張するものではありません。

原論文 ↗