NON DUBITO · 映画を読む · 2 / 3
彼がしたのは、どれも小さなことだった
この篇の目次
古びた鞄を提げて校門をくぐるクレマン・マチューの経歴には、失意が重なっている。音楽を教え、誰も演奏したがらない曲を書いてきた末に、辺鄙な学校の舎監の職を受け入れた。ラシャンはのちに、その肩書をわざわざ侮辱に使う。失敗した音楽家、ちっぽけな、ちっぽけな、ちっぽけな舎監。
社会的な地位を指す限り、この侮辱は的外れではない。マチューには、校則をつくることも、教員を雇うことも、独房への拘禁を廃止することもできない。ラシャンがモンダンを殴るのも止められない。だが、何の力も持たないというのも違う。彼には一つの教室があり、ひととき子どもを預かる権限があり、音楽の知識があり、交渉のきく狭い余地がある。映画が見つめるのは、その余地に彼が何を持ち込むかだ。
一 最初の逸脱
マチューが初めて事態を動かすのは、進歩的な教育について宣言する場面ではない。ル・ケレックがマクサンスにけがをさせたことを知っている彼は、ラシャンに三つの条件を出す。全員への罰を取り消すこと、犯人の処置は自分に任せること、そして、その名を今後も明かさなくてよいこと。
多少は虚勢も張って譲歩を引き出し、その結果には責任を持つと約束する。ル・ケレックに向き合う時にも、大人の権力を使っている。君と私なら、校長はどちらの言うことを信じるだろうか。ここに強制がないわけではない。
違うのは、強制の向かう先だ。マチューは、少年を殴らせるために差し出さない。かといって、けがなど大したことではないという顔もしない。マクサンスが回復するまで、ル・ケレックに世話をさせる。
二 報いの中に、生身の人間がいる
「行動・反応」は、苦痛を抽象的な単位として扱う。一つ悪いことをしたら、一つ罰をつける。マチューの処置は、行為を、それを受けた相手から切り離さない。ル・ケレックは傷の包帯を替え、医務室へ物を運び、マクサンスの話を聞く。そして傷が重く、病院での治療が必要になる様子も目にする。
マクサンスは、のちに回復する。だからこの処置に意味があるのは、死によって後悔を教える悲劇だからではない。もっとゆっくりした経験があるからだ。いたずらの標的にした相手には、声があり、辛抱強さがあり、記憶があり、傷つきやすさがあった。マクサンスが病院へ運ばれる時、少年の顔に浮かぶ心配は、自分がしたことを消しはしない。ただ、その行為を、自分の処罰記録の一行に縮めることは、もう難しくなる。
これは、ただ許すことでも、修復的司法の完成した仕組みでもない。マチューは情報を隠し、子どもに世話を命じている。方向をほんの少し変えたにすぎない。過ちを犯した側に苦痛を与えることから、傷ついた側へ注意を向け続けることへと。
三 選ぶ前に聴く
合唱団は、声を聴くことから始まる。子どもたちは一人ずつマチューの前に立ち、知っている歌を歌う。下品な小唄だったり、愛国歌の一節だったり、自信のない音だったりする。彼はそれを聴いてから、声部を割り振る。この集団の中の違いが、初めて過ち以外のものを軸に編成される。
処罰の記録が問うのは、その子がどれほど厄介かということだ。声を聴く場で問われるのは、この身体からどんな声が出るのか、ほかの声とどんな関係を結べるのかである。どちらも分類をするが、向かう先は逆だ。一方は、人を排除と管理へ振り分ける。もう一方は、一人では誰にもつくれない作品へ、それぞれの声を振り分ける。
マチューは単に「子どもに自由に表現させる」のではない。立ち方、音程、リズム、集中の仕方を練習させる。誰も排除しないことは、形をなくすことではない。規律を共同の作品に役立て、従うこと自体を作品の代わりにしないことなのだ。
四 なくてもよかった二つの役
コルバンは、どうやっても正しい音程が取れない。マチューは、彼が広げた両手に楽譜を置き、合唱団の譜面台に任命する。ペピノは歌を一曲も知らない。そこで指揮者の助手に任命し、指揮棒も渡す。
技術の面だけで考えれば、どちらも必要のない役だ。楽譜は本物の譜面台に置けばよいし、一人前の指揮者に幼い助手はいらない。それでも役をつくるのは、すでに二人の子どもがそこにいるからだ。その存在を「役に立たない」の一言に置き換えるわけにはいかない。
ラシャンは先に機能を定め、それを果たす者だけを残す。マチューは先に人を受け止め、一人ひとりが関われるようにやり方を変える。全員の貢献が同じだということではない。モランジュの声は並外れているが、コルバンの声はそうではない。ここでの平等とは、能力に違いはあっても、その違いに、誰が仲間のうちに数えられるかを決めさせないことだ。
五 マチューも罰を誤る
母親が面会に来た時、モランジュはマチューにインクを浴びせる。嫉妬とプライドからの行為だ。マチューは独唱を取り上げ、誰だって代わりはいると言い聞かせ、ほかの子たちの練習を脇に立って見ていさせる。
この罰には、教育上の理由がある。才能があるからといって、人を傷つけてよいわけではない。だが、そこにはマチュー自身の傷ついた自尊心も混じっている。「行動・反応」を拒む大人も、魔法のように反応しなくなるわけではない。その人もまた、仲間でいられるかどうかを駆け引きの道具にしてしまうことがある。
伯爵夫人が演奏を聴きに来た時、マチューはついに振り向き、モランジュに独唱へ入る合図を送る。少年は歌い始める。マチューは日記に、その目から誇りと感謝、許された喜びを読み取ったと書く。大切なのは、インクの一件をなかったことにする合図ではない。その過ちは、この子の居場所を永久に取り消すものではなかった、という合図である。
六 小さいことは、孤立していることではない
合唱団は初め黙認され、やがて禁止され、その後はひそかに活動を続ける。マチューには協力者が必要だ。かつてラシャンの規律を進んで実行していたシャベールが、秘密の練習を手配するのを助ける。マクサンスは財団に手紙を書き、合唱団の存在を知らせる。ラングロワは子どもたちの伴奏をする。
マチューが去ったあと、この三人の教職員は共同でラシャンの虐待を告発する。子どもたちへの聞き取りが行われ、校長は解任される。制度にかかわるこの結果は、マチュー一人が実現したものではない。後によりよい仕組みが築かれたかどうかも、映画は明らかにしない。それでも、この出来事の順序には意味がある。
別のやり方は、それを見た人、そこに加わった人を変えうる。権威にはほかの使い方もあると一度目にすれば、日々の服従を、ほかに道のないものと思い込み続けることは難しくなる。だから、一つの合唱団は規模こそ小さくても、後に誰が証言しようとするかを変えることができる。
七 小さな立場で、何ができるか
マチューはモンダンを救えなかった。殴打を止められず、職を守れず、合唱団も続けられなかった。判断を誤り、隠し事をし、罰を与え、交渉もする。運よく、よい結果になったこともある。彼の善意は万能ではない。
彼がするのは、もっと的を絞ったことだ。一度の連帯責任を取り消し、一人の加害者を一人の負傷者のそばに置く。子どもの声を一人ずつ聴く。なくてもよい役を二つつくる。過ちを否定せずに、一度取り上げた独唱を返す。そしてほかの大人にも、屈辱を与えることで保たれるのではない権威を見せる。
これらの行為が小さいのは、届く範囲が限られているからだ。相手が取るに足りないからではない。一つひとつが、その場その場で、施設が用意しておいた分類に一人の人間を丸ごと呑み込ませることを拒んでいる。その後に改革が起きるかは、まだわからない。だが、その場所ではすでに、誰かがそれまでとは違う仕方で向き合ってもらえている。
本稿は、クリストフ・バラティエ監督、バラティエとフィリップ・ロペス=キュルヴァルの共同脚本による2004年の映画『コーラス』(Les Choristes)を論じたものである。同作は1945年の映画『春の凱歌』(La Cage aux rossignols)をもとにしている。