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NON DUBITO · 映画を読む · 1 / 3

この学校の管理方針は四文字だけ

Han Qin (秦汉) · 日本語版公開:2026年10月7日

この篇の目次

中国語原作をもとに、日本語で独立して書き直した版

1949年、クレマン・マチューはフランスの田舎にある、灰色の石造りの建物にやってくる。入口の看板には「池の底」とある。ラシャン校長によれば、この学校の管理方針は四文字で言い尽くせる。

行動、反応。

誰かが何かをすれば、学校はすぐに応じる。犯人がわからなければ、子どもを一人、無作為に選んで独房に入れ、誰かが密告するまで全員の課外活動と面会を取りやめる。この規則は罰の与え方を定めるだけではない。子どもとは何かを、大人に教え込む。管理上の対応を待つ、潜在的な「案件」なのだ。

一 次の一分を制するには有効だ

「池の底」の子どもたちは、無害な存在を表す記号ではない。窓ガラスを割り、盗みを働き、たばこを吸い、年下から金を巻き上げ、罠を仕掛け、喧嘩もする。門番と看護の仕事を担うマクサンスは、以前の罰を恨んだル・ケレックがドアに仕掛けた罠で、目に大けがを負う。約六十人の子どもを預かる施設が、こうした危険をないことにはできない。

「行動・反応」は、ある意味では確かに効く。制裁は即座に下され、誰にでもわかる。連帯責任を負わせれば、仲間が新たな監視役にもなる。黙っているには代償が要り、密告が合理的な選択になる。一人ひとりを知る手間をかけなくても、秩序は取り戻せる。

だが、その場で従わせることは、まだ教育ではない。騒ぎを一時的に抑えても、被害が減ったとは限らない。ある規則は、翌月の敵意を深めることで、目の前の一分を支配することもできる。

二 子どもは過ちの記録として現れる

この仕組みでは、違反が起きて初めて注意が向けられる。窓を割った、大人を罵った、時計を盗んだ、また独房に入った。そうした時に初めて、子どもの輪郭が管理の目に映る。施設は対応すべき行為を記録し、その記録をもって、その子を理解したことにする。

連帯責任は、この論理を最後まで押し進める。誰に責任があるかがわからないうちに、罰だけが行為から切り離され、情報が出てくるまでいくつもの身体に配られる。真相を突き止めてから動く必要はない。苦痛によって、誰かが名前を差し出す状況をつくればよい。

子どもも、それに見合う教訓を学ぶ。何があったかを問う前に、権力の側が苦痛を与えてよいのなら、賢い応じ方は正直に話すことではない。もっと巧妙に隠すこと、力には力で返すこと、次に悪さをする時には見つからないようにすることだ。

三 ラシャンもまた、その公式の中にいる

ラシャンは残酷だ。だが映画は、悪役という型だけでは収まらない表情も与えている。規律がよくなれば子どもたちとサッカーをするし、一人で校長室にいる時には紙飛行機を折る。この辺鄙な学校を出て、昇進し、勲章をもらいたいとも思っている。最後にマチューと言い争う場面では、教育者になりたいと思ったことなど一度もないと認める。誰かが看守の仕事をしなければならない、というのだ。

この言葉こそ、彼の職務を言い表している。子どもは、上司に傷のない実績を見せるために抑え込んでおかねばならない、潜在的な事故である。伯爵夫人が歌を聴きたがれば、合唱団は役に立つ。その時には、自分がつくったことにする。ところが自分の権威を脅かすとなれば、同じ合唱団を即座に禁止できる。

時折見せる子どもらしさによって、暴力が許されるわけではない。そこに見えるのは、制度が一人のありふれた人間を、いかに狭いところへ追い込んでいくかだ。校長室で最初に問われるのは、「この子はどんな人間に育ちつつあるのか」ではない。「ここを管理可能な状態に保ち、自分の経歴にも傷をつけないためには、どんな報いを与えなければならないか」である。

四 けがをした大人と、死んだ子ども

マクサンスは、目の傷から感染症を起こして死んだのではない。マチューはル・ケレックに、彼が回復するまで世話をさせる。マクサンスはのちに学校へ戻り、子どもたちの遠足にも同行し、最後には同僚たちとともにラシャンを告発する。

ただし、この学校の過去には、すでに一人の子どもの死がある。療養中のマクサンスが語るムートンだ。誰もが救いようがないと見なし、最後には屋根から飛び降りた少年である。映画は、彼に救済の物語を用意しない。マチューの合唱団が生まれる前に、この罰する施設がすでに一人を失っていたという事実だけが残る。

この二つの生を混同してはならない。マクサンスの死をつくり出せば、マチューが試みた別の対処まで、失敗だったことになってしまう。実際の対比のほうが鋭い。ル・ケレックは、自分が傷つけた生身の相手の前へ連れていかれ、そこにはまだ関係が生まれる余地がある。一方、制度の記憶の中に残るムートンは、ほとんど「あの手に負えなかった子」でしかない。

五 モンダンには非がある。それでも、この疑いは濡れ衣だった

モンダンは、少年矯正施設から実験の対象として送られてくる。より自由だという環境に適応できるかを調べるためだ。ほかの子より年長で、暴力的で、恐ろしい少年である。教職員の時計を盗み、ペピノから金を巻き上げ、年下の子を脅し、仲間に迎えようとする働きかけも壊してしまう。彼がもたらす危険を、映画は隠していない。

学校の金、二十万フラン余りがなくなり、同じ頃にモンダンが逃げ出す。だから疑いにまったく根拠がないわけではない。だが、疑いは証拠ではない。警察に連れ戻された彼を、ラシャンは三十分にわたって殴り続ける。ついにモンダンが飛びかかって校長の首を絞めると、ラシャンはその反撃を自白と見なし、警察に引き渡して追い払う。

金はのちに、コルバンのハーモニカのそばで見つかる。熱気球を買いたくて盗んだと、コルバンは認める。それでもラシャンは、モンダンについて考え直そうとしない。今回だけは無実だったとしても、ああいう人間には救いようがない、という。

分類が、起きた出来事よりも強くなっている。いったん「矯正不能」の枠に入れられた人間については、濡れ衣を着せたことも、正すべき誤りとは見なされなくなる。どうせ遅かれ早かれやるはずだと制度が決めつけたことに、少し早く判決を下しただけになる。

六 それでも火をつけたのはモンダンだ

モンダンは、のちに学校へ戻ってくる。その日、マチューとマクサンスは子どもたちを森へ連れ出していた。彼は無人の校舎に火を放つ。寄宿舎がたまたま空だったから、死んだ子どもはいない。それは、初めから誰も傷つけない抗議だけを意図していた、という意味ではない。

彼が受けた不当な扱いを認めたからといって、放火という行為をラシャンのものにしてよいわけではない。行為を選んだのはモンダンであり、その行為はなお彼のものだ。「行動・反応」に対する、より正確な批判は、制度がその後のあらゆる犯罪を機械的に生み出すということではない。扱いの難しい若者に屈辱と殴打と追放で応じ、自分たちも生じやすくした報復を、最初の分類がずっと正しかった証拠にしてしまう。そのことこそが問われる。

七 全員が救われるわけでも、何も変わらないわけでもない

映画は、歌がすべての子を救うという慰めの物語でもなければ、マチューは何一つ変えられなかったという悲観の物語でもない。モンダンは、関係を修復していく輪の外に取り残される。合唱団も、マチューの解雇とともに解散する。けれども、その後マクサンス、シャベール、ラングロワが共同でラシャンの虐待を告発し、子どもたちへの聞き取りを経て、校長は解任される。

一人の校長が解任されたからといって、「池の底」の仕組みそのものが改まった証拠にはならない。その後を判断するだけのことを、映画は語っていない。それでも、別のやり方を試みた結果は、美しい歌を何曲か歌えたことだけにはとどまらない。かつては従っていた大人たちが、秩序を保つことと子どもを世話することの違いを知り、ついには声を上げるのである。

「行動・反応」が見分けるのは、対応を迫る行為だけだ。教育は、別の問いから始まる。誰がそれをしたのか。その行為は誰に届いたのか。まだ何を修復できるのか。そして、すでに知られている最悪の行為だけで、なぜその人の未来をあらかじめ書き終えてはならないのか。

本稿は、クリストフ・バラティエ監督、バラティエとフィリップ・ロペス=キュルヴァルの共同脚本による2004年の映画『コーラス』(Les Choristes)を論じたものである。同作は1945年の映画『春の凱歌』(La Cage aux rossignols)をもとにしている。

中国語原文