Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition

第17篇 唐後期と五代――鑿の頻度が上がり、構の質が下がる

安史の乱は、バージョン3.5のオペレーティングシステムに走った断層だった。そこから唐はさらに百五十年を持ちこたえた(763〜907年)。だが、この百五十年は、それまでの百三十年とはまるで違う。それまではシステムが設計上の想定範囲内で動いていた。それ以後は、壊れたまま惰性で滑り続けていたのである。

Han Qin (秦汉) · 鑿構周期律 · 中華帝王シリーズ — 第17篇、全25篇 · 2026年

安史の乱は、バージョン3.5のオペレーティングシステムに走った断層だった。そこから唐はさらに百五十年を持ちこたえた(763〜907年)。だが、この百五十年は、それまでの百三十年とはまるで違う。それまではシステムが設計上の想定範囲内で動いていた。それ以後は、壊れたまま惰性で滑り続けていたのである。

滑り着いた先が、五代十国だった(907〜960年/979年)。五十三年のあいだに、中原では後梁、後唐、後晋、後漢、後周と、五つの王朝が走馬灯のように入れ替わった。一王朝あたりの存続期間は、平均して十一年にも満たない。さらに南方などの地域には、十の地方政権が割拠していた。

この時代は、三百年前の十六国と遠く響き合っている。軍事的な実力者を軸とする構が、次々と入れ替わる。鑿が振るわれる頻度は極端に高いのに、構の質は極端に低い。そして代を重ねるごとに、ますます短命になる。その点は同じだ。だが五代は十六国の単なる再演ではない。独自の構造的特徴があり、独自の貢献もあった。何より重要なのは、数百年にわたって中国政治を悩ませてきた「武人が力を持ちすぎる」という余項を、限界まで押し進めたことだ。その限界が、解決策を生み出した。

一 安史の乱後の唐――名目は統一、実態は割拠

安史の乱は「平定」された。安禄山と史思明は相次いで部下に殺され、反乱軍は降伏した。だが、その平定の仕方が、以後の政治のかたちを決めた。朝廷には反乱軍を徹底的に潰すだけの力がなかった。その将領たちの降伏を受け入れ、領地も軍隊も手元に残すことを認めるしかなかったのである。彼らは名目上こそ唐に帰順したが、実際にはそれぞれ独立した支配圏を築いた。

これが藩鎮である。安史の乱の後、唐帝国は事実上、四十から五十ほどの藩鎮に分かれた。大きく分けると、三つの種類がある。

河朔の藩鎮。主に現在の河北に位置し、安史の反乱軍を直接引き継いだ勢力だった。独立性は最も高く、節度使の地位を世襲し、税を中央に納めず、独自の軍事政策や外交政策さえ持っていた。中央に対する態度は、こういうことだ。名目上は天子と認める。だが、実際にはこちらを支配できない。

中原と東南の藩鎮。経済の発達した地域にあり、税の大半を中央に納めていた。中央の財政は、主に東南地方からの税収に頼っていたのである。河朔の藩鎮に比べれば中央との結びつきははるかに強かったが、それでも相当な自治権を持っていた。

辺境の藩鎮。引き続き、外敵から国境を守る役割を担っていた。中央との関係は、国境の情勢次第だった。緊張が高まれば中央の支援が必要になるので関係は密になり、情勢が落ち着けば独立へ傾いた。

この状況には、東晋・十六国の時代と決定的に違う点がある。東晋と十六国は完全に分裂しており、南北の二つのシステムのあいだには、名目上の上下関係さえなかった。唐後期は、名目上は統一され、実態としては割拠していた。どの藩鎮も、建前では唐の天子を最高権威と認めていたのである。

名目だけの統一が、何の役に立つというのか。

これが、なかなか役に立つ。名目上の統一が続いているということは、正統性を支える共通の枠組みがまだ残っているということだ。藩鎮の節度使も、正統な支配者となるには朝廷の冊封を必要とした。たいていは、藩鎮が自分で後継者を決めてから朝廷に追認を求める、判を押すだけの手続きだった。だが、判を押すだけでも、その判には意味がある。なければ反逆者。あれば朝廷から任命された官僚。この違いは、道義のうえでも政治のうえでも、なお重かった。

名目上の統一は、もう一つのことも意味する。「天下は統一されているべきだ」という、バージョン3.0以来の基本認識を、誰もが共有していたのである。藩鎮の割拠は一時的で異常な状態であり、統一こそが正常で、あるべき状態だった。「割拠はよいことだ。これからも別々にやっていこう」と公言する藩鎮は、一つもなかった。この共通認識が、後の再統一のための思想的な土台を残した。

余項の側から見ると、唐後期の百五十年は、余項と構とが奇妙に共存した時代だった。構、つまり天下統一と中央集権は、もはや名ばかりになっていた。それでも、天命論や大一統の理想といった構の言葉は、まだ効力を失っていなかった。一方、藩鎮の割拠や地方自治という余項は、実際の権力の場を占めていた。だがその余項も、構の言葉を公然と否定することはできなかった。

偽りの上に成り立つ均衡である。だが、偽りにも働きはある。完全な分裂を食い止め、いつか再統一できるという可能性を、消さずにおくのだ。十六国のように名目上の統一まで捨ててしまえば、再統一の難しさは何倍にもなる。

二 宦官に兵権を握らせる――バージョン3.5の最後の切り札

安史の乱の後、唐の中央政府がなお掌握していた軍事力は、神策軍だけだった。

神策軍はもともと辺境にいた軍隊で、安史の乱の最中に長安へ呼び寄せられ、皇帝の護衛に当たった。その後、中央の禁軍の中核となり、最盛期の兵力はおよそ十五万人に達した。

ただし神策軍には、変わったところがある。その指揮権を握っていたのは、兵部や枢密使といった正式な軍事官僚ではなく、宦官だった。徳宗以降、神策軍の最高指揮官である「神策軍中尉」は、宦官が務めるようになった。

なぜ宦官に兵を預けたのか。皇帝には、ほかに信用できる相手がいなかったからだ。

安史の乱を経験した皇帝は、もはや外朝の大臣に軍権を渡す気にはなれなかった。次の安禄山になったらどうする。皇族にも渡せない。八王の乱の教訓が、あまりに深く刻まれている。外戚にも渡せない。後漢の教訓もまた、あまりに重い。皇帝と利害が完全に結びついている集団は、宦官だけだった。宦官には家族がない。子をなせないからだ。子孫がいなければ、世襲の勢力も築けない。その権力は、ひとえに皇帝の信任から生まれる。信任を失えば、何も残らない。

絶望のなかで組み立てられた論理だった。軍権を握りうるあらゆる集団のうち、皇帝から独立した権力基盤を築くことができないのは、宦官だけだ。だから宦官に兵権を渡すのが、「いちばんましな選択」になる。

ところが宦官に兵を持たせると、深刻な結果が生じた。軍権を握った宦官は、皇帝を廃し、別の皇帝を立てる力まで手に入れてしまったのである。唐後期には、宦官に擁立された皇帝が何人もいる。憲宗は宦官に殺され、穆宗、文宗、武宗、宣宗はいずれも宦官に擁立された。皇帝の道具だった宦官が、皇帝の主人になった。

余項を管理しようとすると、繰り返しこの難題に突き当たる。余項を抑えるために使った道具が、それ自体、新たな余項になってしまうのだ。後漢では、外戚を牽制するために宦官を使い、その宦官が外戚と同じくらい厄介な存在になった。唐後期では、軍権を押さえるために宦官を使い、その宦官が皇帝を押さえつける存在になった。

どんな「いちばんましな選択」も、長く運用すれば「また一つの悪い選択」へと劣化していく。権力を与えられた集団は、最初にどれほど無害に見えても、その権力を使って自分たちの利益を広げるからだ。無害であることは、安定した状態ではない。ただの初期状態である。初期状態は変化する。そして変化が向かう先は、いつも権力そのものの膨張だ。

三 黄巣の乱――バージョン3.5の終わり

875年から884年にかけて、黄巣の乱が起きた。

黄巣は塩商人の出身だった。科挙を何度も受けては落第した。唐後期にも科挙は行われていたが、合格者はごく少なく、その枠も次第に門閥や権門の子弟に独占されていった。科挙という制度自体も老いていたのである。落第を重ねた怒りに、塩商人としての資金力と組織網が結びつき、黄巣は反乱の指導者になった。

黄巣の乱は、規模の点では安史の乱をはるかに上回った。反乱軍は中国の半分を席巻し、山東から広州まで攻め進んだ後、今度は広州から北上して長安を陥落させた。黄巣は長安で皇帝を称し、国号を「大斉」とした。

だが黄巣の政権は、陳勝・呉広と同じく、鑿はあっても構がなかった。壊すことはできても、築くことはできない。長安を占領した二年余りのあいだ、黄巣は有効に機能する行政組織を何一つつくらなかった。長安での彼の軍隊の振る舞いは、建康における侯景の軍隊と同じだった。統治を引き継ぐのではなく、破壊するばかりだった。

黄巣は最終的に、藩鎮の連合軍に敗れた。だが、その討伐の過程で、唐の中央に残っていた最後のわずかな権威も、さらに崩れていった。朝廷は各地の藩鎮に兵を出してもらわなければ、反乱を鎮圧できなかった。そして藩鎮のほうは、戦争を通じていっそう力を増した。

この過程で台頭したのが朱温である。もとは黄巣の部将で、唐に降伏した後、宣武節度使に任じられた。反乱軍からの降将だった男が、中原で最強の藩鎮を率いるようになり、ついに907年、唐の哀帝に禅譲を迫って後梁を建てた。唐は滅んだ。

唐の滅び方には、目を留めておく必要がある。外敵に敗れたのでも、農民反乱に倒されたのでもない。黄巣の乱は、すでに鎮圧されていた。唐に取って代わったのは、唐自身の藩鎮だった。一人の臣下、それも反乱軍から寝返ってきた臣下が、皇帝に禅譲を迫ったのである。外からの衝撃ではなく、システムの内側からの崩壊だった。

しかも後漢が滅びたときと同じように、病を治すはずの薬が、命を奪う毒になった。反乱を鎮めるため、藩鎮にいっそう大きな権力を与えた。その権力が逆に、唐を終わらせる力になったのである。

四 五代――軍閥の構を限界まで試す

五代十国の五十三年は、中国政治史のなかでも、構の質が最も低かった時代の一つである。

後梁(907〜923年)は、朱温が建てた。朱温は残虐で疑い深く、晩年には実の息子に殺された。後唐(923〜936年)は、沙陀族の李存勗が後梁を倒して建てた。優れた軍事指揮官だったが、政治家としてはひどかった。芝居にのめり込み、反乱軍に殺された。後晋(936〜947年)は、石敬瑭が燕雲十六州を契丹に割譲し、その軍事支援と引き換えに建てた。この取引の影響は四百年続いた。燕雲十六州が取り戻されるのは明代になってからで、そのあいだ北の防衛線には、巨大な穴が開いたままだった。後漢(947〜951年)は、中国北方の王朝のなかでも最も短命なものの一つで、わずか四年しか続かなかった。後周(951〜960年)は、郭威が建てた。柴栄の時代に短い中興を迎えた後、趙匡胤が黄袍を着せられ、皇帝に擁立される。

五つの王朝は、どれもほとんど同じ仕方で交代した。軍の将領が前の王朝を倒し、新しい王朝を建てる。すると今度は、別の将領に倒される。倒すために複雑な政治工作などいらない。軍を率いて都まで行けば、皇帝は位を譲るしかない。譲らないなら、殺して別の皇帝に替えればいい。

軍事的実力者を軸とする構の、極端な形だった。十六国の時代と同じく、五代でもこの種の政権はめまぐるしく入れ替わり、五つの王朝の寿命は平均して約十年だった。これほど速く入れ替わっても、構の質は上がらない。むしろ下がっていく。新しい王朝は一つ前の王朝よりも粗雑で、目先のことしか見えず、いっそう不安定だった。

なぜ、入れ替わりが速いほど質が悪くなるのか。入れ替わるたびに、構を支える基盤がすり減っていくからだ。

その基盤とは、官僚機構に蓄積された経験、法の継続性、社会に蓄えられた信頼、経済秩序の安定である。王朝が交代するたびに、これらが損なわれる。新王朝の創始者は旧王朝の官僚を粛清し、法の執行は途切れる。朝が来ても夕方まで無事でいられるか分からない状況では、社会の信頼も崩れる。戦争と略奪は、経済秩序を破壊する。

交代がゆっくりで、百年に一度なら、基盤にも立ち直る時間がある。十年に一度となれば、修復が追いつかないうちに、また壊される。五代の政権は、一つ前の政権の廃墟の上に建てられた。建てて数年もしないうちに、それが次の政権のための廃墟になる。この積み重ねによって、足元の基盤はますます薄くなり、そこで支えられる構の質も、ますます低くなっていった。

悪循環である。構の質が低い。だから政権は短命になる。短命だから交代が速くなる。交代が速いから基盤が繰り返し壊される。そして、構の質はさらに下がる。

この循環を断つには、一人の人物が二つの仕事をやり遂げなければならなかった。中原で権力を握り、新王朝を建てるところまでは、五代の創始者たちもすでにやっている。宋に残されていたのは、第一に、武力によって天下を統一すること。第二に、統一後、「軍の将領が皇帝を倒す」という事態を二度と起こさせない方法を見つけることだった。第二の仕事は、第一の仕事よりはるかに難しかった。

五代の五十三年は、この人物を待ち続けた時間だった。五十三年待って、趙匡胤が現れた。

五 五代が残した正の遺産――文官の意識が芽生える

五代が残したのは、廃墟ばかりではない。政治の混乱という表面の下で、思想の重要な転換が進んでいた。

五代の知識人は、軍閥政治の醜さを、隅から隅まで目にした。明日をも知れぬ政権。歯止めのない暴力。人の命が草芥のように扱われる戦争。そこから、一つの強固な共通認識が生まれた。武人が権力を握ることこそ、あらゆる災厄と混乱の源なのだ、と。

抽象的な理屈を積み上げて得た結論ではなかった。五代を生きた知識人は誰もが、身をもって恐怖と嫌悪を味わっていた。武人の専横がどれほど危険かを知るために、『資治通鑑』を読む必要などない。毎日、それを生きていたのだから。

そこから、強い政治的な主張が生まれた。文官が武将を統制するべきであって、その逆であってはならない。文人が国を治め、武人は国境を守る。政治を決める権利は、学問を修めた者のものであり、戦争のうまい者のものではない。

五代の時点では、この文官の意識は、まだ感情と共通認識の域を出ず、制度にはなっていなかった。だが次の王朝、北宋が制度を設計する際の、最も重要な思想的土台になった。

趙匡胤の「杯酒釈兵権」も、北宋の「崇文抑武」政策も、趙匡胤一人のひらめきではない。五代の廃墟のなかで知識人層全体が育てた集団の意思を、制度として形にしたものだった。五代の混乱が、その意思を育てる触媒となった。五代の苦痛がなければ、北宋の文治もなかったのである。

鑿と構の観点から見ると、五代の貢献は、何かを築いたことにはない。何も築かなかったのだ。その貢献は、軍事的実力者による構への信頼を、完全に使い果たしたことにある。五代以前なら、「武力で問題を解決する」は、まだ政治の選択肢として受け入れられた。何しろ劉邦も李世民も、武力を足がかりに身を起こした。だが五代以後、知識人層にとって「武力で問題を解決する」は、永久に警戒し、防がなければならない危険へと変わった。

一つの構の型への信頼は、十分な回数の失敗を重ねて初めて、底を突く。軍事的実力者による構は、十六国から五代までに、何十回も失敗した。何十回もやれば、もう十分だった。

六 柴栄――あと一歩で届かなかった改革者

五代最後の王朝、後周に、ここで改めて取り上げたい人物がいる。世宗、柴栄である。

柴栄の在位は、わずか五年だった(954〜959年)。だがその五年間に、構の型を変えるという明確な意思を示した。軍閥の政権から、制度によって成り立つ帝国への転換である。

彼は一連の改革を進めた。まず軍紀を立て直した。老兵や弱兵を退け、精鋭を選び、五代の平均的な軍隊とは比べものにならない質の中央禁軍をつくった。仏教勢力を制限し、廃仏と寺領の没収によって、国家が掌握できる土地と人口を増やした。『大周刑統』を編んで法を改め、水利事業や荒れた田畑の開墾によって農業を振興し、度量衡も統一した。

天下統一の戦略も立てていた。先に南、後から北。先に弱い相手、後から強い相手。南方で勝利を重ね、南唐から長江以北の地域を奪うと、北へ向きを変え、自ら軍を率いて契丹を攻めた。北伐が成果を挙げ始めた、まさにそのとき、病に倒れた。三十九歳で死去した。

柴栄があと十年生きていたなら、天下を統一して新たな構の型を築く仕事は、彼が成し遂げた可能性が高い。趙匡胤の行った統一、杯酒釈兵権、文官による統治は、多くの点で柴栄の路線を引き継いだものだった。趙匡胤自身、柴栄に引き立てられた将領である。その軍事力、つまり殿前都点検として掌握していた禁軍も、柴栄が整備した軍隊だった。

柴栄の物語もまた、改革者が仕事を終える前に死んでしまう一例である。商鞅や王猛と同じく、その思想は肉体よりも長く生きた。本人が改革の成果を享受することはなかったが、制度という遺産は、次の人物、趙匡胤がそのまま受け継ぎ、発展させた。

改革の果実を、木を植えた本人が摘めることはめったにない。この法則は、中国政治史で何度も確かめられている。柴栄が植え、趙匡胤が摘む。楊堅が植え、李世民が摘む。商鞅が植え、秦の始皇帝が摘む。木を植えるための資質は、先を見通す力、思い切って踏み出す胆力、犠牲を恐れない覚悟である。実を摘むための資質は、忍耐、妥協、運営する力だ。両者はほとんど重ならない。木を植えられる人は、実が熟すのを見届けられないことが多い。実を摘める人は、そもそも木を植えようとはしないことが多い。

七 趙匡胤――杯酒釈兵権

960年、旧暦の正月。後周の殿前都点検、趙匡胤は、「契丹の侵入を防ぐ」ために軍を率いて北上した。この侵入が本当にあったのかは、今も議論が分かれている。陳橋駅まで来たところで、部下たちが彼の肩に黄袍を掛け、皇帝に擁立した。趙匡胤は「やむを得ず」受け入れ、軍を率いて開封へ戻った。後周の幼帝、柴宗訓が禅譲し、北宋が成立した。

五代の簒奪劇の、定番どおりの筋書きである。将領が軍を率いて出征し、途中で皇帝に擁立され、都に戻って皇帝に退位を迫る。形のうえでは、趙匡胤のしたことは、朱温、李存勗、石敬瑭、郭威のしたことと、まったく同じだった。

だが、その後に趙匡胤がしたことは、それまでの誰とも違っていた。

建隆二年(961年)、趙匡胤は中核を担う何人かの将領を酒席に招いた。石守信、高懐徳ら、黄袍を着せられて即位したあのとき、行動を共にした仲間たちである。杯が幾巡かしたところで、趙匡胤はため息をつき、こう言った。「私が皇帝になれたのは、お前たちが推し立ててくれたからだ。だが、考えたことはないか。いつかお前たちの部下が、お前たちにも黄袍を着せたら、そのときはどうする?」

この一言の破壊力は、核爆弾級だった。五代を動かしてきた論理を、むき出しにしてしまったからだ。お前が私を皇帝にできるのなら、お前の部下もお前を皇帝にできる。黄袍を着せられるのは、一度きりの出来事ではない。際限なく繰り返せる型なのだ。将領の手に兵があるかぎり、同じことは何度でも起きる。

石守信らは震え上がった。趙匡胤は、お前たちも反乱を起こすかもしれない、とほのめかしている。皇帝の口から出るほのめかしは、すなわち告発だ。翌日、彼らは相次いで、兵権を解いてほしいと願い出た。趙匡胤は「恩情をもって」願いを聞き届け、引き換えに、大量の土地、金銀、邸宅という手厚い経済的待遇を与えた。

これが「杯酒釈兵権」、一杯の酒で兵権を解かせたという一件である。

構の観点から見ると、杯酒釈兵権は、中国政治史で最も重要な、構の型の転換の一つだった。将領を何人か替えるだけの、ありふれた人事異動ではない。制度全体の設計し直しである。後漢末以来、八百年近く中国政治を悩ませてきた「武将が力を持ちすぎる」という余項を、制度によって永久に解決したのだ。

杯酒釈兵権の後、趙匡胤は武将の台頭を防ぐため、ひとそろいの制度を組み上げた。

兵と将を切り離す。

将領が、決まった軍隊をずっと指揮することはない。部隊は定期的に駐屯地を替える。これが更戍法である。将領も定期的に持ち場を替える。今年はこの部隊を率い、来年は別の部隊を率いる。指揮官と兵士のあいだに、個人的な忠誠関係が生まれる余地はない。一緒にいる時間が、足りないからだ。

安禄山型の反乱の根を、直接断ち切る仕組みだった。安禄山が反乱を起こせたのは、同じ場所で、同じ軍隊を十数年も指揮し、その軍隊がすでに彼個人の武装集団になっていたからである。兵と将を切り離せば、同じことは二度と起こせない。

兵権は枢密院が握る。

軍事上の意思決定権は将領にはなく、枢密院にある。文官、あるいは少なくとも皇帝が直接掌握する人物が運営する中央機関だ。枢密院には兵を動かす権限があるが、直接部隊を指揮することはない。将領には部隊を指揮する権限があるが、独断で部隊の出動を決めることはできない。出動を決める権限と、指揮する権限を切り離すのである。

文官が軍事を統轄する。

地方の軍事を統べる最高責任者、経略使や安撫使などには、武将ではなく文官を据える。武将は文官の指揮のもとで動く。「文官が武将を統制する」という原則を、制度にしたものである。

文を重んじ、武を軽んじる社会の気風。

科挙はさらに整備され、規模も広がった。北宋の科挙による人材登用は、唐をはるかに上回る。唐で一年に進士となったのは二、三十人だったが、北宋では数百人に達した。大勢の知識人が科挙を通じて官僚機構に入り、巨大な文官層を形づくった。その社会的地位は、武将よりも高かった。「朝廷に満ちる朱や紫の高官の衣、その主はみな学問を修めた者」というわけである。

文官の地位が武将を圧倒するのは、制度だけの話ではない。社会全体の気風でもあった。「よい鉄は釘にせず、よい男は兵にしない」ということわざが広まったのも、宋代からだ。唐では軍に入ることは、尊敬される立身の道だった。軍功によって高い地位を得た者も多い。ところが宋では、兵士になるのは一段劣る選択になった。学問こそが正道だったのである。

趙匡胤は制度を一式そろえることで、「武将が力を持ちすぎる」という余項を、完全に封じ込めた。北宋を境に、中国の政治は、漢や唐の「文武をともに重んじる」かたちから、「文が主で、武が従う」かたちへ、後戻りできない転換を遂げた。それから宋・元・明・清にわたる千年のあいだ、安禄山型の武将の反乱は、二度と現れなかった。

余項を消すことに、成功したのである。だが余項保存則が教えるのは、一つの余項を消せば、必ず新しい余項が生まれるということだ。

八 代償――軍事力が永久に弱まる

杯酒釈兵権は、武将の肥大化という余項を消し去った。そこで生まれた新しい余項は、軍事力が構造的に弱くなることだった。

兵と将を切り離せば、将領は自分の軍隊をよく知らず、軍隊は自分の将領を信頼しない。戦いを前に指揮官を替えるのは兵法上の禁物だが、北宋はそれを日常の制度にした。その結果、軍の戦闘力も結束も、大きく落ち込んだ。

文官が軍事を統轄すれば、戦争を知らない人間が軍事上の判断を下すことになる。文官にも戦略的な視野はあるかもしれない。だが、たいていは戦術の経験も、戦場の状況を直感で見抜く力もない。一度も戦場に立ったことのない進士に軍を指揮させるのは、一度もメスを握ったことのない医学博士に手術をさせるようなものだ。理論上は何をすべきか分かっていても、実際にやらせれば、さんざんなことになる。

文を重んじ、武を軽んじる社会では、最も才能のある人々は科挙を受けに行き、兵士にはならない。軍に集まるのは社会の下層、科挙に合格できず、ほかに生きる道も見つけられない人々だった。軍全体の質は低下する。

これらが重なった結果は、厳しいものだった。北宋は中国史上最大規模の常備軍を擁し、禁軍だけでも最多時には八十万人を超えた。それなのに戦闘力は、中国の歴代王朝のなかで最も弱かったかもしれない。量と質が、反比例していたのである。

北宋はついに、燕雲十六州を取り戻せなかった。石敬瑭が契丹に割譲した、あの戦略上の要地である。そこを欠いたままでは、北の防衛線に巨大な穴が開く。契丹の騎兵はその穴から、山や川の険しさに阻まれることなく、華北平原へ直接なだれ込むことができた。

宋と遼の軍事的な均衡は、最終的に「澶淵の盟」(1005年)というかたちで定まった。北宋は遼に毎年、銀十万両と絹二十万匹の歳幣を払い、平和を買う。弱い側が強い側から安全を買い取る取り決めだった。北宋にとっては、戦争をするより金で平和を買うほうが、はるかに安い。遼に対抗できる軍隊を維持する費用は、歳幣を大きく上回るからだ。遼にしてみれば、戦わなくても金が入る。喜んで受け入れない理由がない。

純粋に経済だけを考えれば、澶淵の盟は合理的だった。だが構の観点から見ると、意味することは一つである。バージョン3.5のオペレーティングシステムは、宋版への更新を経て、軍事的に版図を広げる能力を永久に失ったのだ。漢の「強大なるわが漢を犯す者は、遠くにいようと必ず誅す」という姿勢。唐の天可汗体制。いずれも強大な軍事力を土台にした外交だった。そうした姿勢は、もはや取りようがなくなった。

趙匡胤は、武将の肥大化という八百年来の古い問題を解いた。その代償に、軍事的な弱さという、千年続く新しい問題をつくった。選択が間違っていたわけではない。五代の状況では、武将が力を持ちすぎる危険のほうが、軍事力の弱さより切迫していた。切迫した問題から片づけるのは合理的である。だが余項保存則は、ただで済む解決を許さない。Aを消せば、Bが出てくる。BはAほど差し迫っていないかもしれない。それでもBは、その後、長い長いあいだ付きまとい続ける。

北宋は結局、外敵に滅ぼされた。1127年、金によって。南宋もまた、外敵に滅ぼされた。1279年、モンゴルによって。軍事的な弱さという余項は、ついに清算されたのである。

ただし、その清算のされ方は意外だった。中原の王朝が自ら問題を正したのではない。金やモンゴルという外からの力が、征服によって、代わりに「修正」したのだ。征服者たちは独自の軍事的伝統を持ち込み、それが中原の政治体制に組み込まれることで、宋以来欠けていた軍事的な能力が、ある程度は補われた。

ここでもまた、一つの法則が確かめられる。自分で解かない余項は、歴史が代わりに解いてくれる。ただし、その解き方はたいてい、こちらが望むものではない。

次篇は「北宋――文官の構の頂点と限界」。王安石の変法は、構の内側で行う改革の典型例である。併せて、宋・遼・金・西夏という複数の政権が並び立つ状況を比較する。契丹の二元的な構、女真の猛安・謀克の構、タングートの混合型の構、そして南方の一角に拠る南宋の文官の構。同じ時代に、異なる文明がまったく異なる構の型を動かしうることを示していく。