第十六篇 唐前期――バージョン3.5の黄金状態と暗黙の前提
西暦626年、秦王・李世民(のちの太宗)は玄武門の変を起こした。兄を殺し、父を追い詰め、皇帝の座についた。
西暦626年、秦王・李世民(のちの太宗)は玄武門の変を起こした。兄を殺し、父を追い詰め、皇帝の座についた。
道徳的に見て、褒められた出発ではない。兄と弟を殺し、父に退位を迫る。どのような倫理の物差しを当てても、大きな減点は免れない。だが、鑿と構の視点から見れば、玄武門の変は、バージョン3.5のOSが抱えた古傷をあらわにした事件だった。継承ルールの脆さである。
嫡長子相続制には、周公が考案したときから塞ぎようのない穴があった。嫡長子よりも、ほかの兄弟のほうが優秀だったらどうするのか。皇太子・李建成は無能ではなかった。だが、統一戦争での軍功も名声も、李世民は兄をはるかに上回っていた。軍事集団全体が李世民に従っていた。「確実さ」、つまり嫡長子が継ぐというルールと、「能力」、つまり最も優秀な者が頂点に立つという要請。その間に制度的な決着をつける術を、バージョン3.5も、それ以前のすべてのバージョンと同じく持っていなかった。最後は暴力が決めた。
李世民は、この道徳的な負債を一生かけて埋め合わせようとした。その方法は懺悔ではない。あまりに誇り高い彼には、そんなことはできなかった。統治の実績によって、自分の簒奪にはそれだけの価値があったと証明しようとしたのである。貞観の治は、その証明だった。
一、貞観――バージョン3.5が最高の性能を発揮したとき
貞観の治(627~649年)は、後世しばしば理想の黄金時代として描かれてきた。その美化を取り払ってみると、貞観の本当の価値は、どれほど完璧だったかにはない。バージョン3.5のOSが、設計意図に最も近い状態で動いた実例だったことにある。
それ以前の各バージョンでも、「黄金状態」には共通する特徴があった。操作者が構の設計意図を理解し、実際の操作もその意図によく合っており、余項は低い水準に抑えられている。文景の治はバージョン3.0の黄金状態だった。貞観は、バージョン3.5の黄金状態である。
貞観の黄金状態は、いくつかの面に表れている。
第一に、三省六部制が設計意図どおりに動いた。
三省制は、権力を分け、互いに牽制させるための仕組みだ。中書省が起草し、門下省が審査し、尚書省が実行する。太宗は本当にこの流れを動かした。門下省は、詔勅を差し戻す封駁権を実際に行使した。魏徴らの諫臣は、皇帝の決定を何度も退けている。太宗も、いつでも喜んで受け入れたわけではない。一度は朝議から戻ったあと、「いつかあの田舎親父を殺してやる」と怒りをぶちまけた。それでも、最後には受け入れた。
太宗が諫言を受け入れたのは、度量が大きかったからだけではない。たしかに、大半の皇帝よりは批判に寛容だった。だが、もっと深い理由があった。玄武門の変を経て手に入れた皇位には、正統性の傷がある。自分は暴君ではないと証明する必要があったのだ。諫言を受け入れるのは、その最も安上がりな方法だった。見てくれ、私は諫める者を殺さない。それどころか、その意見に従う。私はよい皇帝なのだ、と。
動機はどうあれ、貞観年間には三省制が設計どおりに機能した。皇帝の決定は制度化された審査を通り、頭の中から実行の現場へいきなり飛び出すことがなくなった。その結果、判断を誤る確率も頻度も大きく下がった。
第二に、科挙制度が着実に発展した。
太宗は、科挙による人材登用の規模と影響力を広げた。新たに合格した進士たちが列をなして朝廷へ入ってくるのを見て、太宗は喜び、「天下の英雄が、わが網の中に入った」と語ったという。真偽の定かでない伝承だが、事の本質をよく伝えている。天下の秀才たちが、みな自分の籠に入ったというわけだ。
ずいぶん正直な言葉である。科挙は人材選抜の制度であると同時に、社会の精鋭を体制に取り込む仕組みだった。天下で最も頭の切れる人々が受験勉強に励み、合格すれば体制に入り、朝廷のために働く。彼らの知力は、システムを覆す方向ではなく、維持する方向へと導かれる。科挙がなければ、その知力はどこへ向かっただろう。地方豪族の参謀団かもしれない。反乱を企てる集団かもしれない。中央の統制が及ばない、何らかの組織かもしれない。科挙は、そうした可能性をすべて断ち切った。
第三に、対外行動に歯止めがあった。
太宗は軍事的に大きな成功を収めた。東突厥を滅ぼし、吐谷渾を破り、高昌を征服した。それでも、拡張には比較的慎重だった。対象を選び、限度を設けた拡張であって、秦の始皇帝や隋の煬帝のように、あらゆる方向へ同時に進む全面拡張ではない。どこで止まるべきかを知っていた。
この自制は、生まれつきの性質ではない。太宗は戦いを好み、征服者の気質を持つ人だった。歯止めをかけたのは、隋滅亡の教訓への深い理解である。彼は群臣に繰り返し「古を鏡とすれば、興替を知ることができる」と語った。歴史を鏡にすれば、政権がどう興り、どう滅ぶかがわかるということだ。その鏡に映していたのは、何より隋だった。楊広が犯した過ちは、意識して避けた。楊広が大運河を造ったのなら、自分は大工事をしない。楊広が高句麗へ三度遠征したのに対し、太宗は一度だけ出兵し、うまくいかなければ引き揚げた。本人はひどく不本意だったが、それでも撤退した。楊広が巡幸で民を苦しめたのに対し、太宗は徭役を軽くし、税を抑えた。
貞観の治とは、かなりの部分まで「隋の煬帝の逆を行くチェックリスト」を実行したものだった。楊広がしたことは、自分はしない。失敗の経験に根ざした政治の知恵である。何が正しいかを知っていたから正解したのではない。何が間違いかを知っていたから、それを避けられたのだ。
第四に、「天可汗」という新たな正統性の物語が生まれた。
東突厥を滅ぼしたあと、太宗は「天可汗」という称号を得た。北方の草原諸民族が彼に贈った称号である。中原の皇帝であるだけでなく、草原でも最高の支配者だという意味だった。
構の視点から見ると、天可汗は正統性の物語における大きな革新だった。それまでのバージョン3.0と3.5のOSには、中原の漢人社会に向けた正統性の物語しかなかった。天命論、儒家の言説、天下統一の理想である。そこに天可汗は、草原の遊牧社会へ向けた正統性の物語を重ねた。唐の皇帝は、二つのシステムで同時に頂点に立つ。中原では天子、草原では可汗なのだ。
これは、多民族が混じり合った関隴集団の成り立ちが、そのまま延びていったものでもある。自ら胡漢の血を引く支配層は、漢人だけからなる支配層よりも、草原の諸民族に受け入れられやすい。李世民自身にも鮮卑の血が流れていた。母の竇氏も祖母の独孤氏も、鮮卑の血筋を持っていたのである。その文化的な気質にも草原の要素があった。騎射に優れ、武勇を尊び、漢人の文人に見られるような胡人への排斥意識は持たなかった。
天可汗の体制は、後の中原王朝が北方諸民族との関係を築くためのひな型になった。征服して押さえつけるのではなく、共通の君主となり、異なる仕組みを包み込む。草原を郡県に変える必要はない。そもそも、そんなことはできない。草原の首長たちに、共通の君主だと認めさせればよい。その立場を支えるのは、暴力そのものではなく、双方が受け入れられる正統性の取り決めだ。もちろん、その土台に暴力があることは変わらない。
二、武則天――構の論理で、構の前提を突く
武則天、すなわち則天武后は、中国史上ただ一人の正統な女性皇帝である。
伝統的な歴史叙述における評価は、真っ二つに割れている。賢明な統治者だったという人もいれば、淫乱で残虐な女だったという人もいる。だが、どちらの評も、彼女の本当の意味には届いていない。
鑿と構の視点から見た武則天の意味は、バージョン3.5のOSそのものの論理を用いて、そのOSが一度も検証してこなかった暗黙の前提を突いたことにある。操作者は男性でなければならない、という前提だ。
三省六部、科挙、均田制、府兵制。バージョン3.5のどの設計も、論理の上では操作者が男性であることを必要としていない。「尚書令は男でなければならない」「科挙の受験者は男でなければならない」と定めた条文は、一つもない。実際に科挙を受けたのは男性だけだったが、それは社会の慣行であって、制度の条文ではなかった。
それでも、システム全体の運用には深い前提が埋め込まれていた。皇帝は男性である。天命論では、天子は天の息子だ。「子」は、男である。三綱では、君主が臣下を、父が子を、夫が妻を統べる。主導する側は、すべて男性の役割だった。宗法制は父系の血筋に沿って権力を伝える。正統性の物語を組み立てる文法全体が、男性のものだった。
武則天は、あることをした。その文法を変えずに、自分自身を文法の中へねじ込んだのだ。
女性を主体とする新しい政治理論を考案したわけではない。「男の支配は間違っている。女だって皇帝になれる」と主張したのでもない。当時の言説の中では、そんな主張が受け入れられる余地はなかった。彼女がしたのは、既存の言葉の枠内で、一歩ずつ最高権力へ近づいていくことだった。
最初は皇后として、後宮政治の主導権を握った。次には、高宗と並んで「二聖」と称され、「二聖臨朝」の形で実際の政策決定に加わった。高宗の死後は皇太后として朝政に臨み、摂政を務めた。最後には、自ら皇帝を名乗る。国号を周に改め、「聖神皇帝」と称した。
一歩一歩は、既存の枠内での小さな調整だった。枠組みそのものを覆したのではない。皇太后が政務を執ることには、漢代の呂后、竇太后、鄧太后という先例があった。皇后が政治に関わることも、唐の初めから、考えられない話ではなかった。長孫皇后も、もっと表に出ない形ではあれ、実際に政治に関与していた。武則天は、それぞれの一歩を先人より少し遠くまで進めただけだ。それを重ねた末に、「皇太后」と「皇帝」の間の一線を越えた。
その一線を越えて、何が起きたのか。システムは崩壊したか。しなかった。三省六部は普段どおりに動いた。科挙も普段どおりに行われた。それどころか、武則天は科挙による登用を大幅に広げ、殿試の制度を導入した。均田制も、法律も、それまでと同じように施行された。操作者の性別が変わったからといって、行政機構が止まることはまったくなかった。
ここに、決定的な発見がある。バージョン3.5のOSは、操作者の性別に依存していない。その設計は性別に左右されないものだった。設計者自身は、そんなことを考えたこともなかったのに。武則天は、意図せずしてストレステストを行ったのだ。「操作者は男性である」という暗黙の前提を外してみて、それでもシステムが動くかを確かめた。答えは「動く」だった。それも、なかなかよく動く。
武則天の在位中(690~705年。実権を握った683年から数えれば、さらに長い)、唐帝国は崩壊も分裂もせず、重大な外敵の脅威にも見舞われなかった。統治の水準は、少なくとも唐一代の平均を下回ってはいない。政治の面では、家柄に恵まれない寒門の人材を積極的に登用し、関隴集団の残存勢力にさらなる打撃を与えた。科挙制度も、彼女のもとで大きく発展した。
もちろん、深刻な問題もあった。来俊臣や周興といった酷吏を用いた政治は、大量の冤罪を生んだ。晩年には張易之と張昌宗を寵愛し、朝政の混乱を招いた。だが、どちらも女性だったから生じた問題ではない。酷吏政治なら漢の武帝がいる。佞臣を寵愛した男性皇帝なら、ほぼどの王朝にもいる。例には事欠かない。
武則天があらわにした構の暗黙の前提は、彼女の退位後、再び覆い隠された。その後千年以上に及ぶ帝政の歴史で、二人目の女性皇帝は現れなかった。バージョン3.5のOSは、「操作者は男性」という初期設定に戻った。
だからといって、この検証が無意味だったわけではない。構の「基本前提」の中には、実は基本でも何でもないものがある。論理的な必然ではなく、歴史の惰性にすぎないものがある。それを証明したのだ。「天地の道理」とされていた前提を破っても、天は落ちてこなかった。この事実自体が、「天地の道理」だという主張への最も強力な反証になる。
余項の視点から見れば、武則天自身が一つの余項だった。システムの設計者が一度も想定しなかった外れ値である。彼女の存在は、余項が脅威になるだけでなく、ときには検証の機会にもなることを示した。余項が現れることで、システムは自分の知らなかったことを発見できる。バージョン3.5は、実は性別の前提を必要としていないことを知らなかった。武則天が、それを教えた。知ったあとで、システムは忘れることを選んだ。それでも、一度知ったことと、一度も知らなかったことは同じではない。
三、府兵制から募兵制へ――構の土台が静かに入れ替わる
貞観の黄金状態には、府兵制という土台があった。
府兵制の核心は、兵農一致にある。兵士は平時には農民であり、均田制で配られた土地を持つ。戦時には武器と食糧を自前で用意して出征する。国家は巨大な職業軍を抱える必要がなく、軍事費をきわめて低く抑えられる。兵士には自分の土地があるから、国家への帰属意識があり、忠誠心も比較的高い。
この仕組みが動くためには、前提が一つある。均田制が有効に機能していることだ。自給自足するには、兵士に耕す土地がなければならない。
ところが、均田制の実効性は少しずつ衰えていった。原因は、バージョン3.0が直面した問題と同じだ。土地の兼併である。理論上、均田制は土地の売買を禁じていた。少なくとも、制限していた。だが実際には、豪族や官僚が、策略、強奪、高利貸しによる取り立てなど、あらゆる方法で農民の土地を食い荒らしていった。唐の中期には、均田制は名ばかりになった。土地を失った大勢の農民は、小作人になるか、逃亡するかした。
均田制の崩壊は、そのまま府兵制の崩壊を招いた。土地のない農民には、府兵は務まらない。土地を失って流浪する者に、武器と食糧を自分でそろえて戦争へ行けというのか。自分一人さえ養えないというのに。
府兵制が崩れると、朝廷は募兵制へ移らざるをえなくなった。金を払って、職業軍人を雇うのである。これで兵員の問題は解決した。金を出せばよい。しかし、新たな余項が生まれた。職業軍人の忠誠は国家にではなく、給料を払う者に向かう。
府兵制のもとで、兵士の忠誠を支えたのは土地と家だった。国家から土地を与えられたから国家のために戦う。守っているのは、自分の家なのだ。募兵制では、忠誠を支えるのは給料になる。金を出す者のために戦う。中央の朝廷が払えば、朝廷に忠実になる。地方の節度使が払えば、節度使に忠実になる。
この切り替えは、静かに進んだ。明確な転換点はなく、「今日から府兵制を廃し、募兵制にする」という一つの命令が出たわけでもない。数十年をかけて、少しずつ進んだのだ。府兵が減り、募兵が増え、天宝年間(742~756年)には、府兵制は事実上消滅していた。
だが、この静かな切り替えが、帝国全体の権力の土台を変えた。
府兵制では、軍事権力の基盤は土地制度、すなわち均田制にある。中央が土地の分配を握れば、軍も握れる。募兵制では、基盤は財政だ。兵を集める金のある者が、軍を持つ。地方の節度使が地元の税収を掌握し、独立した財政権を手にすると、それはそのまま独立した軍事権力になった。
安史の乱の種は、この土台の入れ替わりの中でまかれていた。
四、開元の盛世――繁栄が覆い隠した構造変化
唐の玄宗・李隆基の開元年間(713~741年)は、唐の国力が頂点に達した時期だった。人口は五千万人を超えた。さらに多かったとする推計もある。経済は繁栄し、文化は花開き、長安は当時の世界でも最大級、最もにぎわう都市の一つだった。
だが、その繁栄が、いくつもの深い構造変化を覆い隠していた。
第一に、均田制が実質的に崩壊した。
これはすでに見たとおりだ。開元・天宝年間には、土地の兼併はきわめて深刻になっていた。朝廷は名目上、均田制の枠を残していたが、実際には大量の土地が権門や寺院に集中していた。土地を持たない農民は増えていたのに、それが戸籍に表れない。多くの者が逃亡し、戸籍の仕組みから抜け落ちたからだ。朝廷が実際に把握していた人口は、戸籍上の数字よりはるかに少なかった。
つまり、朝廷の課税基盤は縮んでいた。戸籍に登録された納税者が減り、実際に税を負担する人口はそれよりも少ない。一方で、朝廷の支出は増えた。軍事的な拡張も、宮廷の出費も、肥大する官僚機構も、ますます多くの金を要した。収入は減り、支出は増える。財政への圧力が積み重なっていった。
第二に、節度使の制度が変質した。
唐の初め、辺境の軍事指揮権は各地の都督府に分散していた。玄宗の時代になると、辺境情勢が複雑さを増した。吐蕃、突厥、契丹、奚など、複数の方向から脅威が迫る。その対応として、朝廷は十の節度使を置き、それぞれに一方面の軍事力を任せた。
最初、節度使にあったのは軍事指揮権だけだった。だが、効率を上げるため、朝廷は少しずつ権限を上乗せしていった。中央からの配分を経ず、現地で徴税して軍を養う財政権。管内の民政を扱う行政権。配下の将校を自分で任命する人事権である。
天宝年間には、辺境の十の節度使は、事実上の地方軍閥になっていた。独立した軍がある。募兵制の職業軍人が忠誠を誓うのは、直接給料を払ってくれる節度使だけだ。独立した財政があり、地方の税収を中央へ納めない。独立した行政権も持つ。中央の統制は弱まる一方だった。数万の精鋭を握る節度使を、簡単に更迭することなどできない。対抗できる、もっと強い軍事力がこちらにあるなら話は別だが。
安禄山は、この構造の中で力をつけた。平盧・范陽・河東の三方面の節度使を兼ね、二十万に近い精兵を抱えていた。中央の禁軍を上回る兵力である。
第三に、中央の軍事力が空洞化した。
府兵制の崩壊とともに、中央の禁軍も衰えていった。長安周辺では、条件を満たす府兵が集まらなくなり、軍事力が縮小した。一方、辺境では軍事力が膨らんだ。募兵制なら、辺境で兵を集めるほうが容易だったからだ。
こうして、致命的な内外の力の逆転が起きた。帝国最強の軍は、中央ではなく辺境にいる。前漢初期とは正反対である。前漢では、関中の軍事力が諸侯国を圧倒し、中央は地方より強かった。唐の中期には、辺境が中央より強くなっていた。
この逆転が意味することは明白だ。辺境の軍事力が頼りにならなくなれば、反乱によって牙をむく場合であれ、敵に敗れる場合であれ、中央には対処するだけの力がない。安禄山が挙兵したあと、玄宗は、手元に戦える軍がほとんどないことを思い知った。長安周辺の禁軍は数も足りず、戦闘力も低い。范陽から南下する安禄山の精鋭騎兵を、到底止められなかった。
第四に、李林甫と楊国忠――行政システムが腐敗した。
玄宗は治世の後半、李林甫を十九年もの間、宰相に据えた(734~752年)。李林甫は行政能力こそあったが、極端な専横者だった。異論を持つ者を組織的に排除し、発言の道を塞いだ。「野に遺賢なし」。天下の賢才はすでにすべて朝廷に取り立てられており、もう誰も諫言しに来る必要はない、というのである。三省六部の牽制機構は、彼個人の独裁の道具に変えられた。
三省制は、権力を分け、互いに牽制させるために設計された。だが、宰相本人が三省すべての要職人事を操れるほどの政治手腕を持てば、牽制は抜け殻になる。李林甫が証明したのは、制度の設計がどれほど巧みでも、それを骨抜きにする能力と時間を十分に持った操作者には、かなわないということだった。
李林甫の死後、宰相を継いだのは楊国忠だった。李林甫ほどの行政能力はない。しかし、同族のいとこ筋にあたる楊貴妃との縁故があった。彼の登場は、行政システムが「有能な腐敗」から「無能な腐敗」へ退行したことを示していた。
均田制の崩壊、節度使の肥大、中央軍事力の空洞化、行政システムの腐敗。これらの構造変化は、開元の盛世の華やかさの下で、同時に積み重なっていた。誰か一人の過失が生んだものではない。バージョン3.5のOSが長く動く中で、自然に生じた余項だった。均田制の崩壊は、土地が兼併されていく内在的な傾向から生まれた。節度使の肥大は、辺境を守る必要と中央集権との矛盾から生まれた。中央の軍事的空洞化は、府兵制崩壊の連鎖反応だった。行政腐敗は、長く権力の座にある者なら誰もが直面する、権力の惰性から生まれた。
余項は一つずつなら、どれも管理できた。だが、それらが同時に蓄積し、互いを増幅させた。均田制の崩壊、財政難、節度使による軍費の自前調達への依存、節度使の独立性の強まり、中央のさらなる弱体化……。こうして、正のフィードバックが悪循環をつくり上げた。
五、安史の乱――バージョン3.5に走った断裂
西暦755年、旧暦十一月。安禄山は范陽で挙兵した。
安史の乱は、軍事的には八年に及ぶ戦争だった(755~763年)。だが、唐帝国に与えた影響は、その八年間の戦いをはるかに超えている。これはバージョン3.5のOSを裂いた断層だった。その前と後では、唐という国は別物だった。
乱以前の唐では、中央集権が有効に働いていた。均田制が社会の基本的な公平を保ち、府兵制が地方勢力に依存しない軍事力を供給し、科挙が社会の流動性を維持し、三省六部制が政策判断の質を支えていた。
乱後の唐では、藩鎮が割拠し、中央の権威は名ばかりになった。均田制は完全に崩れ、両税法に取って代わられた。府兵制は消え、全面的に募兵へ移った。節度使は事実上の地方軍閥となり、朝廷は、宦官が掌握する神策軍に頼って、かろうじて軍事的な存在を保った。
安史の乱は、バージョン3.5の設計上の欠陥をあらわにした。「地方の軍事力が中央を上回る」という事態を想定した備えが、なかったのである。バージョン3.5の設計は、すべて中央が最強であることを前提としていた。三省六部は中央の行政組織であり、科挙で選ばれた人材は中央の官僚機構に入る。均田制では中央が土地を配り、府兵制では中央が軍を動員する。設計全体の重心が中央に置かれていた。
節度使の軍事力が中央を上回り、その前提が破れると、システム全体が自己修復の力を失った。節度使の権限を強制的に取り戻せるだけの軍事力は、中央にはない。藩鎮の事実上の独立を認めるという妥協によって、名目上の統一を保つしかなかった。
これは構造の上で、後漢末の状況によく似ている。中央の権威が衰え、地方の軍事力が台頭し、名目は統一でも実態は割拠となる。後漢版は、黄巾の乱から三国へ。唐版は、安史の乱から五代十国へ。同じ脚本で、役者だけが入れ替わった。
ただし、重要な違いが一つある。後漢の崩壊は、一点に依存する構造の問題だった。皇帝が幼少または弱体であるため、外戚と宦官が交互に権力を握り、その交代が官僚機構を劣化させた。唐の崩壊は、土台の入れ替わりの問題だ。均田制が崩れたために府兵制が崩れ、府兵制が崩れたために募兵制が興り、募兵制によって軍事権力が中央から地方へ移った。
一点に依存する構造の問題は、人の問題である。成人した、よい皇帝に代われば和らげられる。土台の入れ替わりは、制度の問題だ。人を一人取り替えて済む話ではない。制度一式を取り替える必要がある。
安史の乱のあとも、唐はさらに百五十年を持ちこたえた。だが、それはバージョン3.5が引き続き動いていた百五十年ではない。断裂したバージョン3.5が、惰性で走り続けた時間である。エンジンはもう壊れていた。均田制も府兵制も中央集権も崩れていた。それでも、車は惰性で前へ進んだ。科挙はまだ動き、儒家のイデオロギーはまだ効力を持ち、天下は一つだという意識もまだ残っていたからだ。
惰性も、いつかは尽きる。唐の滅亡後に現れた五代十国は、それが尽きたあとの混乱だった。
六、唐前期が周期律に教えること
太宗から玄宗まで、およそ百三十年。この百三十年は、鑿構周期律にいくつかの重要な経験を残した。
第一に、黄金状態が成り立つ時間は、きわめて短い。
貞観の治は千年以上語り継がれてきたが、実際に続いたのは二十三年にすぎない。高宗の前半と武則天の時代のおおむね安定していた期間を加えても、バージョン3.5の黄金状態は七、八十年ほどだ。三百年近い唐の歴史の中で、本当の黄金状態は四分の一ほどしかない。
これは、唐だけの問題ではない。文景の治も、約四百年に及ぶ漢の歴史のうち、四十年ほどにすぎなかった。バージョン3.0の黄金状態も、同じように短い。
黄金状態の期間が短いのは、成立条件が厳しいからだ。能力があり、自制もできる操作者が要る。制度が成立して間もなく、まだ腐食していないことも必要だ。社会が混乱から立ち直ったばかりで、人々の期待が低いこと。前王朝の失敗がまだ生々しく、警戒心が強いこと。これらの条件が重なるのは、ごく短い時間だけである。その短い期間を過ぎれば、操作者は交代し、前より劣る人物になるかもしれない。制度は老い始め、社会の期待は高まり、前王朝の教訓は薄れていく。
第二に、構では表層よりも土台のほうが重要である。
バージョン3.5の表層にあるのは、三省六部、科挙、法律だ。目に見える制度設計である。土台にあるのは、均田制と府兵制。表層を動かすための経済的・軍事的な基盤だ。
操作者は、表層には直接手を加えられる。よい皇帝なら三省制を本当に動かし、悪い皇帝なら骨抜きにする。だが、土台の変化は操作者の統制が及ぶものではない。均田制が崩れたのは、ある皇帝がそう決めたからではなく、土地兼併が長期的に進んだからだ。府兵制が消えたのも、一つの政令で廃止されたからではない。均田制の崩壊が引き起こした連鎖反応だった。
操作者は表層の故障なら直せる。悪い宰相を替え、冤罪をまとめて晴らすことはできる。だが、土台の故障はそう簡単には直せない。社会構造の長期的な変化が生んだ故障は、一人の決断で逆転させられるものではないからだ。すでに兼併された土地を、農民の手に戻すことはできない。全面的な土地革命でも起こすなら別だが、それはさらに大きな混乱を招く。
安史の乱の教訓はこうだ。表層が無傷でも、土台が変質してしまったシステムは、動いているように見えるだけで、実際には衝撃に耐える力を失っている。一撃あれば、それで足りる。
第三に、武則天による暗黙の前提の検証は、構の「基本前提」の多くが、試されたことのない歴史の惰性にすぎないと示した。
バージョン3.5は、操作者を男性と決めてかかっていた。その前提が破られても、システムは崩壊しなかった。では、同じような「基本前提」のうち、まだ検証されていないものはいくつあるのか。わからない。だが、武則天の事例は、未検証の前提を破ってはならない法則として扱うな、と教えている。それは法則なのかもしれない。ただの惰性なのかもしれない。
第四に、速度の教訓は繰り返し確かめられた。
太宗の貞観の治と楊広の暴政ほど、鮮やかな対比はない。二人が進めたことは、方向としては同じものが多い。科挙を育て、法律を整え、対外的に拡張し、社会基盤を築く。違いは速度だった。太宗は遅く、楊広は速かった。太宗は生き延び、楊広は死んだ。
これは前篇の結論と一致する。社会の耐久力は、進む方向が正しいかどうかなど気にしない。加えられた圧力が限界を超えたかどうかだけが問題になる。太宗の自制は美徳ではなく、物理的限界への敬意だった。玄宗晩年の放縦は悪行ではなく、その物理的限界を忘れたことだった。
忘却こそ、世代を重ねるごとに教訓が弱まる仕組みの核心である。太宗は隋の滅亡を覚えていた。隋末の戦乱を自ら経験していたからだ。高宗には、まだかろうじて記憶があった。武則天になると、それはさらに薄れた。玄宗の代には、隋の滅亡は百年以上前の物語になっていた。百年以上もあれば、どんな教訓も忘れるには十分だ。
歴史の教訓の賞味期限は、およそ三、四世代である。その期限を過ぎれば、教訓は伝説になる。伝説には、人を縛る力がない。
次篇は、唐後期と五代。安史の乱のあと、藩鎮が割拠する構図をたどる。五代十国では「軍閥の構」が目まぐるしく代替わりし、遠い十六国の時代と響き合う。鑿の頻度は上がるのに、構の質は落ちていく。代替わりするたび、さらに短命になる。それに終止符を打つのが、趙匡胤の「杯酒釈兵権」だ。酒席で将軍たちに兵権を手放させるという、かつてない方法によって、中国政治を数百年にわたり悩ませてきた「武人の肥大」という余項を、一挙に、恒久的に解決した。代償は何か。軍事能力の永久的な弱体化である。それ以後、中原の王朝が漢や唐のような軍事的拡張力を取り戻すことは、二度となかった。