第十五篇:隋――唐にとっての秦
西暦581年、楊堅は北周の静帝から禅譲を受け、隋を建てた。589年に陳を滅ぼし、天下を統一。618年、隋の煬帝は江都で部下に殺され、隋は滅びた。
西暦581年、楊堅は北周の静帝から禅譲を受け、隋を建てた。589年に陳を滅ぼし、天下を統一。618年、隋の煬帝は江都で部下に殺され、隋は滅びた。
統一から滅亡まで二十九年。建国から数えても三十七年。
この寿命は秦とよく似ている。秦は統一の紀元前221年から滅亡の前207年まで十五年。秦王政の即位から数えるなら、滅亡までおよそ四十年になる。不気味なほどの近さである。
さらに不気味なのは、構造まで似ていることだ。どちらも長い分裂を終わらせて天下を統一し、その後にきわめて精密な制度改革を進めた。どちらも二代目の皇帝のもとで、過剰な拡張の末に崩壊した。そして、すぐ後に現れた長命の王朝、漢と唐が、その制度一式をほとんどそのまま受け継いだ。
秦は漢に制度を供給した。隋は唐に制度を供給した。つくった側は短命で、使った側は長生きした。
この型は、掘り下げる価値がある。
一、楊堅――精密な「構」の設計技師
楊堅は関隴集団の中核にいた。父の楊忠は西魏・北周の十二大将軍の一人で、随国公に封じられている。妻の独孤伽羅は独孤信の娘だった。独孤信は関隴集団を築いた最重要人物の一人で、その長女は北周の明帝に、七女は楊堅に、四女は李淵の父・李昞に嫁いだ。
楊堅から見れば、舅の娘たちのうち二人が二つの王朝の皇帝の母となり、もう一人が第三の王朝の皇帝の妻となった。関隴集団の婚姻の網がどれほど密だったか、この一例だけでもわかる。
楊堅が北周を奪う過程は、形式のうえでは司馬氏が魏を奪ったときと似ている。外戚として摂政となり、最後は禅譲を受ける。ところが、建国後にしたことは司馬氏とまるで違った。司馬氏は豪族と手を結び、権力を抑制する仕組みを取り払った。楊堅が向かったのは逆の方向だ。特定の社会集団に依存しない、高度に中央集権化され、制度によって動く統治体系を築こうとした。
楊堅の制度設計は、政治、行政、法律、経済、軍事のすべてに及んでいた。その精密さに比肩できるものは、中国政治史では商鞅の変法くらいしかない。
三省六部制。
中央の行政機構を三つの省に分ける。政令を起草する中書省、審査する門下省、執行する尚書省だ。尚書省の下には吏・戸・礼・兵・刑・工の六部を置き、それぞれ人事、財政、礼儀、軍事、司法、土木を担当させた。
この設計の妙は、権力を分けたところにある。もとのバージョン3.0、つまり漢では、行政権が丞相一人に集中していた。集中しすぎれば、霍光や王莽のような権臣が生まれやすい。三省制は丞相の権力を、決定する権限は中書省、審査する権限は門下省、執行する権限は尚書省という三つに分解した。三省は互いを牽制し、どの機関も権力を独占できなくなる。
とりわけ注目すべきは、門下省の審査権だ。中書省が起草した政令を不適切だと判断すれば、「封駁」、つまり差し戻して書き直させることができた。これは誤りを正す仕組みの制度化である。ある諫臣の個人的な勇気に頼るのではない。命を落とすかもしれない諫言を個人に期待する代わりに、誤りを正す役割を行政手続きのなかに組み込んだ。門下省は審査するのが仕事なのだから、審査しないほうが職務怠慢になる。
鑿、すなわち削る働きと、構を築く働きから見ると、三省六部制はバージョン3.0の一点依存の構造に初めて施された、体系的な修繕だった。3.0の致命的な弱点は、全体が皇帝一人の判断力に依存していることにある。後漢で外戚と宦官が交互に権力を握ったのも、この弱点から生じた。三省制は、皇帝と政策の執行とのあいだに、いくつもの節を持つ意思決定の連鎖を差し込んだ。最終的に決めるのは依然として皇帝だ。ただし、その決定は制度化された加工の過程を通る。皇帝の頭のなかから、そのまま執行の現場へ飛び出すわけにはいかなくなった。
科挙の確立。
楊堅は九品中正制を廃し、試験で官吏を選び始めた。楊広はそれをさらに発展させ、進士科を設けた。選抜の基準は試験の成績。家柄でも推薦でもなく、答案を見る。
これは門閥の構に対する、決定的な否定だった。九品中正制の本質は、門閥に門閥を評価させることにある。中正官自身が大族の出身だから、評価基準も当然、家柄に傾く。科挙の本質は、試験にすべての人を評価させることだ。どんな姓を名乗ろうと、父親が誰であろうと、試験場で書いたものがその人の前途を決める。
科挙が中国政治史に与えた影響は、どれだけ強調してもしすぎではない。バージョン3.0以来の中核的な余項を、いくつも一挙に解消した。解消とまでは言わなくても、大きく緩和したのである。
門閥による独占は打ち破られた。才学のある者なら誰にでも、官僚組織に入る機会が生まれた。もはや大族の推薦はいらない。名もない家から身を立てることが、ここから可能になった。
人材選抜の標準化も実現した。察挙制の問題だった、特定の人物の主観的な判断に依存する選抜から、比較的客観的で、繰り返し使える評価手続きへと移った。
社会の流動性も高まった。下層にいる聡明な者に、上へ進む道ができた。その道があるというだけで、下層からの反抗の動機は大幅に弱まる。なぜ反乱を起こすのか。科挙を受ければいい。受かれば、自分が人の上に立てる。狭い道ではある。だが、存在するだけで十分だった。反乱を起こさなくても運命を変えられる、という希望を一人ひとりに与えたからだ。
科挙は、余項を管理するきわめて巧妙な道具だった。秦のように余項を押さえつけず、黄老思想のように放置せず、儒学だけを尊ぶやり方のように思想によって余項を再符号化することもしない。その代わり、構を脅かさずに余項を逃がす道を用意した。現状に不満があるのか。反乱を起こさず、試験を受ければいい。才能があるのに行き場がないのか。門閥に身を寄せず、試験を受ければいい。そうして試験は、そのままなら反抗のエネルギーに変わっていたかもしれない社会の緊張を、大量に吸収した。
『開皇律』。
楊堅は新たな法典『開皇律』の編纂を主導した。北朝以来、複雑になっていた法の条文を大幅に簡素化し、刑罰も軽くした。刑は笞・杖・徒・流・死の五つに絞り、多くの残酷な刑罰を廃した。
構の視点から見れば、『開皇律』の設計を貫くのはこういう考えだ。法律は誰もが理解できるほど簡明に、刑罰は過度の怨恨を生まないほど適度にする。条文が細密で刑罰が苛酷だった秦律とは、反対の発想である。簡明さと適度さを選んだのは、楊堅が心優しかったからではない。彼自身、あるいは彼の法律顧問が、ある道理を理解していたからだ。法律の目的は秩序の維持であって、恐怖の生産ではない。恐怖は短期的には反抗を押さえられる。しかし、一定のところまで積もれば怒りに変わる。簡明で適度な法律は、その恐怖を、怒りへ反転しない水準にとどめる。
均田制と租庸調制の整備。
隋は北魏の均田制を受け継ぎ、それと組みになる租税制度、租庸調制をさらに整えた。租は穀物で納める税、庸は労役で、布帛による代納もできる。調は布帛で納める税だ。基準は明確、計算は簡単、負担は適度だった。
この経済制度の長所は、透明であることだ。農民はそれぞれ、自分がいくら納めるべきかを知っており、徴収の段階を経るたびに負担を上乗せされることもない。透明さは腐敗の余地を狭め、民衆の不満も減らす。税の額は決して少なくない。それでも、なぜその額なのかがわかっていれば、だまし取られたとは感じにくい。
楊堅の制度設計をすべて並べてみると、きわめて精密なバージョン3.5のオペレーティングシステムが姿を現す。
政治には三省六部、権力を分けて互いに抑制する行政体系。人事には科挙、開かれた人材登用の道。法律には開皇律、簡明で適度な法体系。経済には均田制と租庸調、透明な土地・租税制度。軍事には府兵制、兵と農を一体にした動員体系。
どの面でも、3.0から明確に改良されている。三省六部は丞相制より権力を分散する。科挙は察挙より開かれている。開皇律は秦律より人道的だ。均田制は自由な土地市場より土地の兼併を抑えられる。府兵制は徴兵制より効率がよい。
楊堅は生涯をかけて、この更新を仕上げた。在位二十四年、581年から604年まで、政務に励み、倹約を守り、大量の案件を自ら処理した。国庫は「天下の蓄えだけで五十年、六十年は賄える」といわれるほど満ちていた。
そこへ、息子がやって来た。
二、楊広――構を進める速さに、社会の吸収が追いつかない
隋の煬帝、楊広は、中国史の皇帝のなかでもとりわけ徹底的に悪者にされてきた。従来の物語に描かれるのは、ただの暴君である。大事業と功名を好み、贅沢の限りを尽くし、淫蕩で道を外れた男。その肖像を描いたのは唐、つまり彼を倒した側だ。第二篇で見た「末代の暗君」という物語の型を考えれば、この肖像は相当に割り引いて受け取らねばならない。
道徳の物語を剝がして構造を見ると、楊広の問題は無能でも淫蕩でもなかった。実際、彼は大きな構想と戦略を持つ政治家だった。問題は秦の始皇帝と同じところにある。構を押し進める速さに、社会が余項を吸収する速さが追いつかなかったのだ。
大運河。
楊広は大運河の開削を命じ、南北の水系をつないだ。後世にまで大きな利益を残す基盤整備である。大運河はそれから千年以上にわたって働き続け、中国の南北経済を一つに結ぶ大動脈となった。唐が関中を拠点に全国を治められたのも、南の穀物を北へ運ぶ大運河に負うところが大きい。
ただし、その建設が人々に強いた代償は、途方もなかった。徴発された民夫は数百万人に上る。工期は極端に圧縮された。本来なら何十年もかけて進めるべき工事を、楊広は数年で完成させようとしたのである。工期を縮めれば、労働はきつくなる。労働がきつくなれば、大勢の民夫が死に、家族が崩れていく。
三度の高句麗遠征。
612年、613年、614年、楊広は高句麗へ三度の大遠征を行った。現在の朝鮮半島北部と遼東にあった国である。最初の遠征には百十三万の大軍を動かしたとされる。公称なので実数は多少少なかったかもしれないが、桁が違うということはないだろう。兵站輸送に当たる民夫は、その軍勢のさらに倍に達した。三度の遠征はいずれも、高句麗の征服には至らなかった。最初は遼東で進軍を阻まれ、鴨緑江を渡った先遣軍は、平壌から退く途中の薩水で壊滅的な打撃を受けた。613年は国内の反乱によって撤兵し、614年は高句麗が服属を申し出たことで兵を引いたが、征服は実現しなかった。
三度の高句麗遠征が生んだ軍事的損失と兵站の消耗は、破局的だった。百万単位の兵と民夫を、遠く、補給が難しく、攻める側に地形が極端に不利な戦場へ投入した。たとえ勝ったとしても、得られるのは辺境にある、経済的な価値の限られた土地にすぎない。投入するものと見返りが、まったく釣り合っていない。
江南巡幸。
楊広はたびたび竜舟に乗って江南を巡幸した。船団は数百里にわたって連なり、沿道の労働力と物資を徴発し、莫大な資源を消費した。従来の物語はこれを、ただの享楽と描く。実際には政治的な役割もあった。南方に対する支配を示し、地方の事情を調べ、南方の豪族を懐柔する。だが、動機が何であれ、その費用を沿道の民衆が負担したことに変わりはない。
大運河、高句麗への三度の遠征、江南巡幸。この三つを並べると、見覚えのある型が現れる。秦の始皇帝と、そっくり同じ型だ。
大運河は、長城の建設と馳道の整備に当たる。基盤整備への超大規模な投資である。高句麗への三度の遠征は、北の匈奴攻めと南の百越征服に当たる。対外的な軍事拡張だ。江南巡幸は、始皇帝による天下巡幸に当たる。権力を目に見える物質的な形で示す行為である。
失敗の仕方まで似ている。始皇帝の巨大工事と対外戦争は、社会が耐える力を使い果たし、陳勝と呉広の蜂起を招いた。楊広の巨大工事と対外戦争も、同じように社会の耐える力を使い果たした。613年の楊玄感の反乱が最初の兆候であり、その後は全国各地で反乱が続発した。
ただし、楊広と始皇帝のあいだには一つ、決定的な違いがある。それが、隋と秦の残した歴史的遺産の違いを決めた。
始皇帝の制度設計と過剰な拡張は、一つの行為の表と裏だった。文字、車輪の軌間、度量衡を統一する一方で、長城を築き、百越を攻める。すべてを同時に進めたため、社会の側には、よい制度づくりと悪い暴力的徴発とを見分けられなかった。そのため秦が滅びた後も、秦の制度そのものに強い拒絶感が残った。実際には大半の制度が漢へ受け継がれたものの、そこには七十年という緩衝期間が必要だった。
楊広の過剰な拡張と、楊堅の制度設計は切り分けられる。楊堅が二十四年をかけて築いた三省六部、科挙、開皇律、均田制という制度体系は、楊広の暴政でも壊されなかった。壊されたのは社会が耐える力であって、制度の骨組みではない。骨組みは傷つかずに残っていた。
つまり隋が滅んだ後の継承者は、漢初のように七十年もかけて手探りする必要がない。隋の制度を一式そのまま受け取り、進める速さだけ調整すればよかった。楊広の狂ったような加速を、普通の速度に戻すのである。
唐は、まさにそれをした。
三、隋の滅亡――速さが人を殺す
楊広の事業は、一つずつ見ればどれにも理がある。大運河は必要な社会基盤だ。高句麗遠征には地政学的な理由がある。高句麗は北方の国境に対する潜在的な脅威だった。巡幸には政治的な役割がある。科挙の発展や法律の整備という制度改革も、方向としては正しい。
だが、それをすべて同時に進めれば、社会の耐えられる範囲を超える。
方向ではなく、速度の問題なのだ。向かう先は正しい。進むのが速すぎた。
社会が変革を吸収する力には限りがある。どんな変革も余項を生む。損をした者の不満、新旧の制度がなじむまでの摩擦、資源の再分配に伴う衝突。変革が十分にゆっくり進み、一つの余項を消化してから次を受け入れられれば、システムは安定を保てる。逆に、いくつもの変革から余項が同時に流れ込むほど速ければ、システムは過負荷になる。
楊堅はそれを理解していた。在位二十四年を通じて、三省六部の整備、法律の改定、科挙による人材登用など、制度改革を段階的に進めた。制度を整えながら、社会がその変化を消化するための時間も残した。
楊広には、それがわからなかった。あるいは、わかっていても気にしなかった。あらゆる大事業を、自分の生きているうちに完成させたかったのだ。彼の時間感覚は個人のものだった。生きているうちに成果を見たい。制度の時間感覚ではない。制度なら待てるし、成果を次の世代に残してもよいのに。
自分の任期のうちに何もかも終わらせたいと焦るこの心性は、始皇帝そのままだ。始皇帝も、生きているうちにすべての完成を見たかった。長城、馳道、阿房宮の建設、百越の征服、文字と車輪の軌間の統一。全部を同時に進めた。二人を誘ったものは同じである。自分には能力がある。資源もある。楊広には父が蓄えた元手まである。それなら、なぜやらないのか。
答えはこうだ。あなたには実行する力があっても、社会にはそれを同時に引き受ける力がない。あなたの能力と、社会が耐えられる力とのあいだには隔たりがある。その隔たりこそ、余項が積み上がる空間だ。多くのことを速くやればやるほど、余項も多く、速くたまる。臨界点に達すれば、システムは崩れる。
煬帝が治めた604年から618年までの十四年間で、社会は「五十年、六十年を賄える蓄え」のある豊かさから、全面的な崩壊へと転げ落ちた。その速さは、秦が統一から滅亡までに費やした十五年と、ほぼぴたりと重なる。
楊広が楊堅よりはるかに劣っていたからではない。想像力や決断力では、楊広のほうが勝っていた面すら多い。構を進める速度と、社会が吸収する速度の関係を決めるのは、推進者の能力ではなく、社会の弾力性なのだ。その弾力性は客観的な定数であり、推進者に才能があるからといって大きくはならない。
あなたは天才かもしれない。だが、荷車を押すとき、車軸が耐えられる力は、あなたが天才だからといって増えはしない。加えた力が限界を超えれば、車軸は折れる。車軸が悪いのではない。あなたが車軸を理解していなかったのだ。
四、隋から唐へ――なぜ唐はそのまま継承できたのか
隋の滅亡から唐の興隆への移行期間は、きわめて短かった。李淵は617年に太原で挙兵し、618年に唐を建てた。624年には唐がおおむね全国を統一した。建国からわずか六年である。秦末の蜂起から漢の統一まではおよそ七年だったが、漢はその後も、黄老の無為や文景の治を通じて、制度を模索するのに七十年を要した。唐には、その七十年がいらなかった。隋の制度の骨組みが、そっくり残っていたからだ。
即位した李淵は何をしたか。隋の制度をほぼ丸ごと引き写した。三省六部は継続。科挙は継続し、さらに発展させる。均田制と租庸調も継続。府兵制も継続。『開皇律』の精神と骨組みも受け継ぎ、少し手を入れて『武徳律』とした。後には、さらに整った『貞観律』『永徽律』へとつながっていく。
もちろん唐にも制度上の革新はある。それは後で扱う。ただ、その土台は隋だった。隋からの制度の供給がなければ、唐はこれほど短期間に、効率よく動く帝国を築けなかった。
つくった側は短命で、使った側は長生きする。この型はなぜ繰り返されるのか。
制度をつくり変える力と、制度を運営する力は別物であり、必要な政治的気質も異なるからだ。
制度の革新には、強さと急進性、人に恨まれることを恐れない姿勢がいる。古い利害の配置を壊し、新しい規則をつくり、反対者を押さえ込まねばならない。革新の段階には欠かせない気質だ。しかし革新が済み、運営の段階に入ると、それが命取りになる。運営に必要なのは妥協、忍耐、耳を傾けること、対立を和らげることだからだ。
始皇帝と楊広は、ともに革新者を極限まで突き詰めた人物だった。制度全体を変える仕事を、力ずくでも押し進める能力があった。だが、いつ革新モードから運営モードへ切り替えるべきかがわからない。アクセルを踏み続け、ブレーキというものの存在を知らなかった。
一方、劉邦、そして李淵と李世民は、優れた運営者だった。新制度を発明するのではない。するとしても微調整にとどめ、前の人間が発明した制度を動かす。そこに必要なのは想像力や豪胆さではなく、忍耐と加減を知る感覚だ。いつ圧力を強め、いつ弱めるか。いつ進め、いつ待つか。社会の耐えられる限界を知り、その線を越えないことである。
王朝には二つの段階が必要だ。革新の段階と、運営の段階。最もよいのは、一つの王朝が内部でその切り替えを済ませることだ。楊堅が革新し、その後継者の誰かが安定的に運営する。だが楊広のように、革新者が切り替えの前にシステムを壊してしまえば、運営を引き受ける王朝そのものを替えるほかない。
秦が革新し、漢が運営した。隋が革新し、唐が運営した。供給した側が代償をすべて払い、使った側が利益をすべて受け取った。
五、楊堅と楊広――同じシステム、二つの使い方
楊堅と楊広、この父子の落差も、構が世代をまたぐと衰えることの一例である。ただし、ここには一つ特別な点がある。
普通、世代をまたいだ衰えとは、能力の衰えをいう。初代は天才、二代目は凡才。太康は禹に及ばず、二世皇帝は始皇帝に及ばない。どちらも能力が落ちている。
楊広は凡才ではなかった。個人の能力なら、楊堅に劣らなかったかもしれない。戦略的な視野がある。大運河の構想は世紀を越えるものだった。軍事の能力もある。陳を滅ぼした戦いでは、二十歳にして実際の前線総指揮官を務めた。文学の才もあり、詩は決して下手ではない。政治的な手腕もある。父の前で長く本性を隠し、皇位継承争いに勝った。
楊広に見られる衰えは能力ではなく、判断力にあった。具体的には、「いつ止まるべきか」を判断する力である。
楊堅は、いつ止まるべきかを知っていた。生涯をかけて国の蓄えを増やしたのは、金を使いたくなかったからではない。「今は使うときではない」と判断したからだ。在位二十四年、大工事や大戦争に乗り出す能力も資源もあった。それでも、ほとんど手をつけなかった。待っていたのである。社会が新しい制度の骨組みにすっかりなじむのを。大規模な投入に耐えられるだけの国力がたまるのを。
楊広には、いつ止まるべきかがわからなかった。もっと正確にいえば、待ちたくなかった。父が残した蓄えがある。自分の大きな野望もある。彼には「待つ」ことの価値が見えなかった。何を待つ。老いるのを待つのか。死ぬのを待つのか。今できるのに、なぜ待たなければならない。
これは能力の衰えではなく、忍耐の衰えだ。忍耐は政治家の資質としてあまり重んじられないが、実は最も重要な資質かもしれない。政治の本質は、ただ正しいことをすることにあるのではない。正しい時に、正しいことをすることにある。正しいことでも、時を誤れば間違ったことになる。大運河を百年かけて少しずつ掘れば偉業だが、五年で急いで掘れば暴政になる。違うのは、時間だけである。
ここで、世代をまたぐ衰えに新しい軸が加わる。「二代目は劣る」だけでなく、「二代目も同じくらい優秀だが、気がはやる」こともある。なぜ急ぐのか。それもまた、世代交代の裏側にある。二代目は創業の苦労を知らない。楊堅は北周末期の危険な政争も、建国初期の物資不足も経験した。楊広はそれを経験していないから、今の蓄えがどう築かれたのか、その道のりがどれほど難しく、どれほど遅かったのかを知らない。見えているのは満ちた国庫という結果だけだ。二十四年にわたる自制という過程は、見えていない。
過程の見えない者は、結果を大切にしない。結果を大切にしない者は、二十四年かけた蓄えを、十四年で使い果たす。
六、隋の遺産――バージョン3.5、正式リリース
隋は三十七年しか続かなかった。それでも残した制度の遺産は、中国政治史のなかでも指折りの豊かさを持つ。
漢の武帝と董仲舒が築いた、儒家と法家の合流する体系をバージョン3.0、オペレーティングシステムの初期版とするなら、隋は3.5の開発者に当たる。3.5は3.0を土台に、次の更新を施した。
行政は、丞相一人が権力を握る仕組みから、三省に権力を分ける仕組みへ。権臣が国を奪う危険を減らし、意思決定の制度化を進めた。
人材選抜は、察挙と九品中正から科挙へ。門閥の独占を破り、比較的公平な社会上昇の道を開いた。
法律は、細密で苛酷なものから、簡明で適度なものへ。社会に怨恨が積もる速度を落とした。
土地制度は、完全な自由市場から、限定的に国家が調整する均田制へ。土地の兼併が進む速度を遅らせた。
軍事制度は、徴兵一辺倒から、兵と農を一体にした府兵へ。常備軍を維持する財政負担を軽くした。
これらの更新は、隋だけの功績ではない。均田制は北魏から、府兵制は西魏・北周から、科挙の原型は南朝から来た。それでも、それぞれを互いにかみ合う一つの完全なシステムへまとめたのは隋だった。統合すること自体が、大きな貢献なのである。部品をつくったのは他者だ。だが、その部品を組み上げ、実際に動く機械にしたのは隋だった。
唐はその機械を、ほとんど手を加えずに受け取った。そして、その機械で三百年近く動き続けた。
鑿構周期律に対する隋の最大の貢献はここにある。制度の寿命は、それをつくった政権の寿命をはるかに超えうると証明したことだ。制度は、ある王朝の所有物ではない。文明に属する。王朝が滅びても、制度は生き残る。楊堅も楊広も死んだが、三省六部は千年以上生きた。
余項保存則の観点から見れば、隋の物語には、最も深いところに一つの教訓がある。余項が積もる速度を決めるのは、やっていることが正しいかどうかではない。その速さを社会が消化できるかどうかなのだ。
正しいことでも、速すぎれば、間違ったことと同じだけの余項を生む。大運河は正しかった。三度の高句麗遠征の戦略的な考慮にも理があった。科挙は先進的であり、均田制は合理的だった。だが、その正しいことを全部、同時に、最高速度で進めれば、生まれる余項は一つの帝国を壊すのに十分な量になる。
正しさは、死を免れる札にはならない。正しいというのは、方向に問題がないというだけだ。方向がよくても、速すぎれば車はひっくり返る。社会が耐える力は、あなたの向きが正しいかどうかなど気にしない。加えられた圧力が限界を超えたか、それだけだ。超えれば、折れる。あなたがどれほど正しくても。
次篇は唐前期、太宗から玄宗まで。貞観は構の黄金態であり、バージョン3.5が最もよく動いた時期だった。ただし、府兵制から募兵制への転換には、安史の乱の種が埋まっていた。武則天は構を壊した人物ではない。構そのものの論理を使って、構が置いていた性別の前提を突いた人物だ。それによって、3.5には操作者を男性とする暗黙の前提があったことを露わにした。その前提は、誰にも試されたことがなかった。彼女が試すまでは。