Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · 経済
第22篇・全23篇

第二十二篇 サトシ・ナカモトと暗号通貨:信頼を要しない帳簿にも、使う人は要る

暗号技術、プルーフ・オブ・ワーク、分散台帳を結んだビットコインは第三者を外そうとした。信頼が取引所、開発者、電力へ戻る経路をたどる。

Han Qin (秦汉)
この篇の目次

一 サイファーパンクはコードを書く

一九九〇年代の初め、後に「サイファーパンク宣言」と呼ばれる文章に、こんな一文があった。サイファーパンクはコードを書く。

技術への楽観を述べた言葉ではない。政府や企業、あるいはいかなる公的権威にも、プライバシーを返せと頼みに行くな。制度を、そのままソフトウェアへ書き込め、という意味だった。

同じ仲間のあいだで書かれた「暗号アナーキスト宣言」という別の文章には、まるで違う方向を向いた予言があった。匿名のネット上で人々がやり取りするようになれば、評判が中心的な役割を担うだろう、と。

二つの言葉は、同じ伝統から生まれた。前者は綱領であり、後者は予言である。

後の言葉が、どこから出たものかに注意したい。外の批判者が言ったのでも、後に敗れた人が言ったのでも、規制当局が言ったのでもない。この伝統の内側から出てきた。しかも、最も急進的な文章に書かれていた。匿名性を極限まで推し進めようとする人が、その先に何が起きるかを、何げなく書き添えたのである。

ここからたどる歴史では、前の一文が極限まで実現されると同時に、後の一文もまた、極限まで現実になる。

これまでの二十一篇で、構はずっと同じ仕事をしてきた。一つの物差しには収まらないものを押し込み、帳尻を合わせる。それでも収まりきらない部分が、そのたびにこぼれ出す。構はまた、その扱い方を考える。その方法は、十通り現れた。

今回は違う。

今回目指すのは、余項の処理ではない。余項が生まれる源そのものをなくすことだ。

その源には、名前がある。信頼である。

この診断自体は、的を射ていた。前の二十一篇でこぼれ出したものを突き詰めると、ほとんど同じところへ行き着く。どうしても、誰かを信じなければならない。そして信じられた人は、間違える。えこひいきする。金を受け取って便宜を図る。いちばん大事なときに、扉を閉める。神殿は決まりを変えられる。役所は、自分の発行した紙を認めずに済ませられる。格付け機関は発行体から金を受け取れる。取引所は一夜で倒れることがある。問題がここから生まれるのなら、ここを取り除けばよい。

これまでの二十一篇では、どの帳簿も、最後には誰かがその帳面を引き受けなければならなかった。第二篇の粘土板にある債務は、神殿の序列に支えられて認められた。第六篇の交子は、役所が引き受けた。第十七篇のドルは、それを引き続き認めようとする人々の意思にかかっていた。第十八篇のあの機械が止まったときには、国家が出てきて、自分が引き受けると言った。

二〇〇八年に現れた案は、この動作そのものを不要にしようとした。

冒頭から、問題は率直に示されている。ネット上の支払いに、なお金融機関を通す必要があるなら、その主な利点は失われてしまう。求めていたのは、信頼を必要としない電子現金だった。

二〇〇九年二月、作者はネットのフォーラムで、目標をさらに明快に述べた。この仕組みは完全に非中央集権的であり、すべては信頼ではなく、暗号学的な証明にもとづく、と。

シリーズをここまでたどってきて、構が試みたことのうち、最も大胆なものだった。

余項に通り道を与えるつもりはない。門の外へ区切り出すつもりも、証拠を出せと求めるつもりもない。

余項の生まれる場所を、なくしてしまおうというのである。

じつにすっきりした考え方であり、先の十通りの方法よりも徹底していた。それまでの十通りは、どれも余項が現れてから手をつけるものだった。締め付けを緩める。名前を変える。問わずにおく。換算して片づける。境界を引き直して狭める。通り道を与える。証拠を求める。本人の問題として帰属させる。帳簿に載せない。あるいは、こぼれ出すものを生む源を作り替える。今回は、その源から、そもそも生まれないようにしようとした。

二 飼いならすのか、なくすのか

この案は、何もないところから現れたのではない。ある研究者の要約は的確だ。技術を構成する部品のほぼすべてに、一九八〇年代から九〇年代の学術文献のなかで、先行する仕事を見つけられる。真の新しさは、個々の部品にはなかった。それまで誰も成功していなかった仕方で、それらを組み合わせたところにあった。

この系譜を、一度たどっておきたい。どの段階でも、同じ問題をめぐって、少し譲るか、少し先へ進むかしていたからだ。

最初の一歩は、一九八三年にある。ある暗号学者が、追跡できない支払いを実現するために、ブラインド署名と呼ばれる技術を提案した。その論文では、すでに自動化された決済システムと個人のプライバシーとの衝突が示されており、暗号によって支払いの匿名性を守ろうとしていた。

だが、この電子現金の難しさも、まさにそこにあった。支払う人のプライバシーは守れても、中央に置かれた発行者、あるいは銀行のような役割を果たすサーバーは、依然として必要だった。

つまり、信頼できる第三者をなくしたのではない。飼いならそうとしただけだった。

飼いならすことと、なくすこと。その違いが、この系譜全体を貫く軸になる。一歩進むたびに、なくす方向へ少し近づく。それでも、そのたびに何か一つ、取り除けないものが残った。この道筋を見るとき、誰がいちばん賢かったかを比べる必要はない。それぞれが最後に何を残したかを見ればよい。

九〇年代の初めになると、その仲間たちは問題をもう一歩先へ進めた。追跡できないネット上のやり取りと、匿名の市場を構想した人がいた。そして本人が、それによって極めて悪質な市場も可能になる、と明言していた。国家は、そのために技術の普及を阻もうとするだろう。その懸念の多くは、現実のものになるだろう、と。

覚えておきたい。これは、後の批判者がこじつけた暗部ではない。最初の文献に書かれていた。当事者が、自分で勘定に入れていた代償なのだ。

覚えておきたいのは、ここが、この先の評価を左右するからである。ある技術の害が、反対する人にしか見えていなかったのなら、設計者の見落としと言えるかもしれない。だが、ここでは設計者が先に書いていた。書いたうえで、それでも作る価値があると考えた。見落としの問題ではない。代償を知りながら行った、選択の問題である。

一九九七年から二〇〇二年にかけて、別の研究者が、プルーフ・オブ・ワーク、すなわち計算の仕事量を証明する仕組みを、政治的な構想から実際に使える道具へ進めた。

もともとは、迷惑メールや不正利用を防ぐためのものだった。送り手がまず、検証はできるが計算にはかなりの負担がかかる仕事を終えなければ、サーバーは通してくれない。

本人は論文のなかで、この費用を生む関数を、実物の貨幣を鋳造するものと見なせる、というたとえを用いていた。

このたとえには、後の仕組みの核心となる衝動が、すでに見える。それまで社会の判断や機関の選別、価格をつける仕組みが担っていた関門の一部を、一律の計算コストへ書き換えるのである。

続いて、後の成果へほぼ直接つながる枝が、いくつか伸びた。非中央集権的なデジタル通貨の輪郭を提案した人がいた。サボの構想したビットゴールドは、後の枠組みを、ほとんど部品ごとに机へ並べてみせていた。まず一連の課題を生成する。次に仕事量の証明を得る。安全なタイムスタンプをつける。分散型の所有権登記簿に書き込む。そして、前の列から次の課題の列を生成する。

だがサボ自身、この体系にはなお弱いところがある、と率直に述べていた。タイムスタンプのサービスと所有権登記簿に必要な信頼は、分散させられるだけで、何もないところへ消せるわけではない。

仕事量の証明によるトークンを、繰り返し使えるようにしようとする試みもあった。だがそれは、遠隔から検証できる専用サーバーに頼っており、サーバー側に置かれる中核を、なお残していた。

だから、あの案が現れる前に、デジタル現金は、すでにはっきりした分かれ道まで来ていた。

中央の発行者を残すのか。計算の費用を、入場券として使うだけにするのか。あるいは、仕事量の証明を貨幣に近づけながらも、タイムスタンプ、登記簿、サーバーといった弱い部分から、まだ抜け出せないままでいるのか。

どの道にも、同じものが、解けずに残っていた。

しかも、その残る場所は、前よりも小さく、前よりも硬くなっていった。

小さくなったのは、何世代もの人が、確かに範囲を狭めてきたからだ。硬くなったのは、最後の一点こそ、たいてい最も扱いにくいところだったからだ。こちらの取引が先で、あちらが後だと、誰かが言わなければならない。誰かが登記簿を保管しなければならない。どこかにある一台の機械が、応答しなければならない。大きな部分を削り落とすのは難しくない。難しいのは、最後に残る小さなひとかけらなのである。

三 十分間

あの案の出発点は、素朴なものだった。

デジタル署名は、誰が誰へコインを渡したかを証明できる。だが、それだけでは解けない問題が、もう一つある。同じ一枚が二度使われたら、どうするのか。

それ以前の電子通貨では、中央に発行者や清算者を置き、一件ずつ取引を調べさせるのが、よくある設計だった。

今回は、信頼できる第三者を置かない。代わりに、ピア・ツー・ピアのネットワーク、タイムスタンプ、仕事量の証明によって、取引の順番を固定する。

ネットワーク全体が認める共有の履歴に、先に書き込まれたほうを有効とする。

この一文は、古い問題の置き場所を変えた。第二篇では、粘土板に、誰が誰からいくら借りているかが書かれていた。だが、どの粘土板を有効とするかは、どの神殿の倉に置かれているかで決まった。ここでは、どこに置かれているかを問わない。先に書かれたか、その後ろにどれだけの仕事量が積み重なっているかを問う。権威に代わって、順序がものを言う。

仕組みとしては、三つのことを行った。取引をまとめてブロックにする。計算に参加する人々に、ブロックヘッダーについて、難易度の目標を満たすハッシュ値を探させる。そしてノードには、仕事量の累積が最も大きいチェーンを、有効な履歴として受け入れさせる。

この三つのうち、見過ごされやすいのは三つ目だ。だが、そこが要である。初めの二つは技術であり、三つ目は一つの決まりだ。食い違いが生じたとき、どちらを認めるか。どの帳簿も、この問いに答えなければならない。以前の答えは、誰か、あるいはどこかの機関が決める、というものだった。今回の答えは、その背後により多くの労力が積まれたほうを認める、というものだ。

誠実なノードが計算能力の過半を握っているかぎり、過去の記録を書き換えるには、その後の仕事をすべてやり直さなければならない。費用は急速に増していく。

案には、制度の歩調を決める二つの数値も明記されていた。新しいブロックは、平均して十分に一つ生成される。生成の速さを安定させるため、難易度は二千十六ブロックごとに調整される。

ここで何より見ておきたいのは、非中央集権という言葉ではない。

共通の尺度を、どう扱ったかである。

これまでの物差しは、どれも別の何かを測っていた。穀物一石。一日の労働。一ムーの土地。一オンスの金。一回のクリック。今回の物差しが測るのは、その記録を書き留めるために費やした労力そのものだ。世界にある何かを測るのではない。記帳という動作の費用を測るのである。

あの不正利用を防ぐ仕組みは、もともと入場券にすぎなかった。今回は、そこから一歩進む。仕事量の証明は、システムへ入る資格にとどまらず、発行の仕組みそのものになった。

新しいブロックの報酬が、計算能力、電力、時間を、そのまま新しいコインへ換算する。

こうして仕事量は、貨幣の歴史では非常に珍しいものになった。統一された仕方で公に計量される、鋳貨の物差しである。

作者は後に、フォーラムで希少性を説明し、最終的な枚数は多くとも二千百万枚にとどまる、と述べた。

ここまで来ると、通貨の供給、支払いの順番、決済の最終確定、偽造を防ぐ費用が、同じ一つの計算の論理へ押し込まれている。

第十四篇で述べたように、金本位制が人々を納得させたのは、便利だからでも、より正確だからでもなかった。誰かが決めたのではない、これは金の重さなのだ。金は地中にあり、どの政府の言うことも聞かない。その説明が、人々を納得させた。

今回の言い方も、形は同じである。一つだけが、置き換わった。

誰かが決めたのではない。計算で出たのだ。

この言葉は、前の言葉よりも強い説得力を持つ。強さは、確かめ直せるところにある。金の重さは誰かが量らなければならず、その人はごまかすかもしれない。ハッシュ値は量る必要がない。誰がどの機械で計算し直しても、答えはまったく同じで、検証は数秒で終わる。第三篇で刻印を確かめていた人々が、ここで初めて、本当に要らなくなった。

「計算で出た」という言葉は、「金の重さ」よりも先へ進む。金には、掘る人、純度を確かめる人、金庫へ入れる人、国から国へ船で運ぶ人が要る。どの段階でも、人の手を通らなければならない。ハッシュ値には、その必要がない。どこにあるどの機械でも、独立に計算し直せる。答えは、まったく同じになる。

金属へ戻ったのではない。代償そのものを、ハッシュ計算、専用ハードウェア、電気料金、難易度の調整へと抽象化したのである。

四 帳簿の最初の一行

二〇〇九年一月三日、最初のブロックが書き込まれた。

そのなかには、当日の『タイムズ』紙の見出しが埋め込まれていた。財務相は、銀行への二度目の救済に踏み切る瀬戸際にある、という趣旨だった。

見出しには、二つの役割があった。一つはタイムスタンプだ。その日より前には、このブロックを作れなかったことを証明する。もう一つは、姿勢を示すことだった。世界金融危機と銀行救済の、その時点に出発点を打ちつけるのである。

このブロックの報酬である五十枚は、後に使えないものだとわかった。

この二つを並べると、シリーズ全体を通して、ここにしかないものが見えてくる。

前の二十一篇では、どの帳簿も、最初の一行は一件の勘定だった。大麦一石。牛一頭。借金。契約。ある人の名前に続く、一つの数字。

だが、この帳簿の最初の一行は、取引ではない。

一つの言葉なのだ。

しかも、その言葉のそばにある五十枚は、永久に使うことができない。

この五十枚のありようを、もう少し見ておきたい。帳簿に載っており、存在は誰でも確かめられる。だが、そこから出ていけない。どの取引にも加われない。流通することをすべての目的とする帳簿で、最初の一件は永久に流通しない。技術上の見落としではなく、設計によるものだったと、後の分析では広く考えられている。帳簿を開いた人は、最初の一件を、動かせない印として残したのである。

帳簿は冒頭で、何に対抗するために作られたのかを宣言する。そして、最初の一件を、永久にその場へ置く。流通には加わらせない。

ここで構は初めて、自分が反構であることを、公然と認めた。

この告白は、すでにその後の運命を予告していた。単なる道具なら、誰でも使え、誰もそこに立場を感じずに済む。だが、冒頭から何に反対するのかを宣言したものは、初日から敵を持ち、信奉者を持つ。そして、これからもずっと、それにふさわしくあり続けなければならない姿勢を背負う。

価値が初めて数字になった経緯も、同じように見ておきたい。

二〇〇九年十月、初期のあるウェブサイトが、ドルとの交換レートを示した。使ったのは電力費用の計算式だった。アメリカの家庭向け平均電気料金、一台の機械が一年間に消費する電力量、その機械が過去三十日に生み出したコインの枚数から、売値を計算したのである。

最初に公表されたレートは、一ドルで約千三百九・〇三枚だった。二〇〇九年十二月二十八日には、そのページの数字は、一ドルで千五百七十八・七七枚になっていた。

この二つの数字自体が、大事なのではない。大事なのは、どう計算されたかである。

価値は、初めに商業上の信用から来たのでも、税収から来たのでも、国家の命令から来たのでもなかった。まず結びつけられたのは、消費電力量の一単位ごとに確かめられる、生産の費用だった。

第十一篇で見た、価値を労働に結びつける考え方が、ここで技術の形を得た。しかも、当時よりはるかに精密な形だった。社会的必要労働時間は、統計によって近づくほかない量である。一方、一台の機械が三十日にどれだけ電気を使ったかは、電力計に出ている。

だが、この錨は、後には完全に外れた。価格は電力費用を離れ、二度と戻らなかった。

物差しの初めの目盛りをどう定めたかと、後にその物差しが何を測るかは、しばしば関係がない。

前にも現れたことだが、これほどはっきりとは見えなかった。第三篇の硬貨は、初めには実在する金属の量に対応し、後には発行者の信用に対応した。第十七篇の共通分母は、初めには金の重さに対応し、後にはいくつかの国が引き続き帳面を引き受けるかどうかに対応した。目盛りを立てるときには、いつも目に見える何かが要る。だが、いったん安定すると、その何かは、しばしば取り払われる。

五 よく言っても、懐疑的な出迎え

時間を追ってたどる価値がある。伝説として語られがちな出来事を、実際に何がどう進んだかという地面へ、引き戻せるからだ。

二〇〇八年十月三十一日、案が暗号学のメーリングリストに送られた。

二〇〇九年一月三日、最初のブロック。一月八日、ソフトウェアの最初の版が公開された。告知には、完全に非中央集権的で、サーバーも中央の権威もない、と書かれていた。

一月十二日、最初のオンチェーン送金。フィニーは後に、ナカモトのほかでは自分が最初にソフトウェアを動かし、七十番台のブロックを採掘し、ナカモトから試験用の十枚を受け取った、と回想している。

二月十一日、完全な非中央集権性と暗号学的証明についての、あの言葉。

二〇〇九年十月五日、最初のドル建て価格。

二〇一〇年五月二十二日、ある人が一万枚でピザ二枚を手に入れた。当時の評価では、約四十一ドルだった。実物の商品との交換として、最初の有名な取引とされることが多い。

二〇一〇年七月十七日、ある取引プラットフォームが動き始めた。この仕組みは、メーリングリストとピア・ツー・ピアの段階から、取引プラットフォームの段階へ入った。

二〇一〇年十二月十一日、ウィキリークスがこの通貨を使うかもしれないというとき、ナカモトは懸念を示した。後に繰り返し引かれることになる一文を書いた。スズメバチの巣をつついてしまった。群れが、こちらへ向かっている、と。

二〇一一年四月二十三日、ある開発者への手紙で、もう別のことに移った、これは彼らの手にある、と伝えた。

去り際の言葉として、珍しいものだった。前の二十一篇では、物差しを立てた人は、ほとんど皆、その場に残った。説明するために。直すために。疑問を向けられたとき、出てきて話すために。あるいは、利益の分け前を得るために。今回は、案を書いた人が、仕組みがようやく立ったところで去った。そして、それ以後、戻ってきて一言も語っていない。

この道筋で、特に大事な細部が二つある。

一つは、フィニーの回想だ。二〇〇八年末のメーリングリストの反応は、よく言っても懐疑的な出迎えだった、と彼は言っている。

つまり、発表と同時に同業者を圧倒した案ではない。壮大な計画を見慣れていた暗号技術の熟練者たちは、まず冷ややかな目を向けた。

もう一つは、価格である。初期の価格は、広い市場の合意によって、一度に発見されたのではなかった。ごく少数の参加者が、電力費用を計算し、フォーラムで品物と交換し、簡素な取引プラットフォームを使いながら、少しずつ探り当てたものだった。

貨幣が共通の尺度になるのは、自然に起きることではない。何度も試算し、何度も言い争い、何度も値をつけた後で、ようやく立つのである。

これは、シリーズ全体を考えるうえで役に立つ。

前の二十一篇で立てられた物差しも、生まれたときには、たぶん同じように不格好な時期を通っていた。だが、出来事があまりに古く、記録があまりに少ない。後の人に見えるのは、すでに安定した姿だけである。そのため、初めからそうであるはずだった、と考えやすくなる。

今回は違う。すべての過程に記録がある。初めていくらの値打ちがあるかと問うたのは、いつだったか。初めて実物と交換したのは、誰だったか。最初の値はどう計算されたか。初めには、どれほど多くの人が見込みなしと思っていたか。

物差しの生まれる現場が、これほど完全に残ることは、めったにない。

しかも、その記録は、ほとんどあらゆる箇所で、前の二十一篇から生じやすい錯覚を崩している。物差しは正しいから採用された、という錯覚だ。ここに見えるのは、別のことである。まず冷ややかな目を向けられ、少数の人が試しに使い、あまり確かではない値が計算され、ピザ二枚との交換に使われる。その後で、少しずつ人が増えていった。

あのスズメバチの巣という言葉も、別に取り出して見ておきたい。

完全に非中央集権的で、誰にも頼らないと宣言した仕組みについて、その作り手は、誰に目をつけられるかを心配していた。

彼は、この仕組みが本当に社会の外にあるわけではないと、よくわかっていたのだ。生き延びられるかどうかは、コードで縛れない外のものが、どう反応するかにもかかっていた。

この層は、初日からあった。何の許可もなく動かせる仕組みであっても、ある国で取引所を開けるか、銀行につなげられるか、機械を買えるか、電気料金が高いかという点では、自分の管轄外に左右される。コードは、チェーン上のすべてを定められる。だが、誰がプラグを握るかまでは定められない。

六 信頼はどこへ行ったか

支持する側の、最も強い説明の一つはこうだ。互いに知らない人が、身元を前提とせず、信頼できる第三者も置かずに、価値を移せるようになった。その実現に、初めてかなりの程度まで成功したのだ、と。

関連する研究の概説も、同じように記している。この意味では、確かに、それまでの空白を埋めた。

この成果を小さく見てはいけない。前の二十一篇に出てきた帳簿は、どれ一つ、それを実現していなかった。まず相手が誰かを知るか、誰もが認める機関を、先に間へ置くか。どちらかを必要としていた。

その重みは、前の篇々にあった具体的な境遇と重ねてこそ、はっきりする。第十三篇の、証拠を示せない人。第十六篇の、名簿にいない人。第二十一篇の、信用のうえでは見えない人。締め出される仕方は違っても、共通点は一つだった。まず、誰であるかを確かめる門がある。今回は、その門がなくなった。誰なのかは問わない。署名の列が正しいか、それだけを見る。

一方、別の説明は、ここで信頼が要らないということには、いつも境界があると強調する。

ある研究者は、これを、貨幣を社会生活から切り離そうとする、機械仕掛けの貨幣像と呼んだ。別の研究者がコミュニティーを観察して見いだしたのは、使う人々が、本当に信頼のない世界に暮らしているわけではない、ということだった。技術は人よりも信じられる。その共通の信念のまわりに、信頼を作り直していたのである。

言い換えれば、信頼が要らないということは、実際には、信頼の消滅を意味しない場合が多い。

信頼する相手が、移るのである。

銀行家、国家、企業から、プロトコル、コードベース、ノードの分布、採掘者のインセンティブ、そして、そうした技術的な対象のまわりに生まれる共通の信念へ。

移っただけなら何も変わらない、ということではない。そこは公平に言わなければならない。公開されたコードを信じることと、帳簿を公開しない機関を信じることは、同じではない。コードは誰でも読めるが、機関の内部には誰も入れない。移った後、確かめられる部分は、確かに増えた。ただ、確かめられることと、誰もが確かめることは違う。使っている人のうち、あのコードを読める人は、いつでもごく少数である。

経済学からの批判は、さらに一段、問題を掘り下げる。

ある中央銀行の研究論文は、鋭い言い方をしている。暗号通貨が信頼に施す防腐処理は、利便性を代償にしている。制度への信頼がまったくない世界で本当に暮らしているのなら、この仕組みが優位に立つかもしれない。だが現実には、人々は決済機関や中央銀行を信じようとすることが多い。だから、既存の仕組みのほうが、なお便利なのだ、と。

別の研究者は、費用の構造から、この設計を批判した。その判断によれば、匿名で、中央に頼らない信頼を維持するには、大きな代償が要る。その代償は、システムで失われかねない価値が大きくなるにつれて、線形に増える。より大きな規模で信じられる仕組みであり続けるには、それに応じて、より高い安全の費用を払わなければならない。

これは、ここで考えてきた枠組みにとって大事なので、意味をはっきりさせておきたい。

省いた分の信頼は、ゼロになったのではない。

電気料金の請求書になったのである。

ケンブリッジのある指数も、アメリカのエネルギー統計機関も、採掘に必要な電力は、すでに国単位の統計や政策論議に登場するほどの規模に達したと指摘している。

つまり、信頼が要らないこと自体に、値段がある。その値段は、別の帳簿へ、はっきり記帳されている。

これは、この仕組みの、あまり強調されない誠実さでもある。以前の帳簿は、費用を別のところへ隠していた。払い戻すという約束は記帳しない。救済の可能性も記帳しない。一国の信用がいくらになるかも記帳しない。機能しなくなった日に初めて、一度に清算する。今回は、費用が毎日、電力計の数字として進んでいく。誰にも見える。高くはつくが、支払いを踏み倒さない。

以前の帳簿では、人がその勘定を引き受ける必要があった。引き受けるという動作に金はかからない。ただ、当てにならなかった。今回は、誰かが引き受けなくてよくなった。その代わり、十分ごとに、一群の機械が電力を消費しなければならない。

第十四篇の物差しは、最後の支えを、金属といくつかの中央銀行へ移した。今回は、それを電力と計算能力へ移した。

だが、この物差しに収められなかったものは、外側で、いつも顔を出していた。

取引の承認まで、どれほど待つのか。手数料は、いつ上がるのか。チェーンが混み合ったら、どうするのか。パスワードを忘れたら、誰に頼るのか。法定通貨は、どう入れ、どう出すのか。採掘機器の生産能力は、どの数社が握るのか。マイニングプールどうしは、どう調整するのか。

どれ一つ、プロトコルには書かれていない。

この一連の問いを、第十八篇の、七つに切り分けられた鎖と並べると、同じ形が見える。あちらでは、一件の住宅ローンが七つの工程に分かれ、どの継ぎ目にも、信頼がなければ渡れない場所が少しずつ残っていた。こちらでは、一件の送金が、プロトコルの内と外の二つに分かれる。そして外側にも、やはり七つ、八つの継ぎ目がある。違うのは、あちらで鎖を切ったのが、リスクを売るためだったのに対して、こちらでは、プロトコルが自分に扱える区間しか扱えないために、切れ目が生じたということだけだ。

プロトコルが扱うのは、チェーン上の順番である。だが、人がそれを使うには、先にこうした十ほどのものを通り抜けなければならない。その一つ一つが、何かを信じるよう求めてくる。

七 誰がプロトコルを変えるのか

信頼が戻ってくる、最もはっきりした経路は取引所である。そして、この経路を示す標本は、その全容を見渡せる形で残っている。

プロトコル自体は、支払いの清算をどこかの銀行に任せ、その銀行を信じるよう求めないかもしれない。だが、法定通貨をコインに換えたい、コインを法定通貨に戻したい、あるいは秘密鍵を自分で管理するのは面倒だと思っただけで、資産を預かるプラットフォーム、決済処理業者、ウォレットのサービス業者に身を委ねることになる。

二〇一四年に破産した、あの取引所は、その過程の標本だった。一時は、この通貨の顔となり、人々が価格を見て、売買し、入出金するための、主な入口になっていた。

二〇一四年二月二十八日の発表で、顧客のコイン約七十五万枚と、自社のコイン約十万枚が消えたことを認めた。盗まれた可能性が非常に高いと会社は述べ、同時に、銀行口座にも約二十八億円の差額が生じていた。

三月二十日になると、会社は、古いウォレットから約二十万枚を発見したと発表した。実際に失われた枚数の推計は、そのため約六十五万枚に減った。

後の調査は、二〇一一年から二〇一四年のあいだに、繰り返し盗まれていたところまで、その経緯をさかのぼった。

ここで起きたのは、プロトコルの水準での二重支払いの危機ではない。

信頼が要らないとされる資産を、使う人が、信頼を必要とする仲介者へ、もう一度預けたのである。

こうして、何年もの待ち時間、資金の凍結、弁済をめぐる訴訟、身元の確認が、すべて戻ってきた。

ある通信社の回顧記事は、はっきりと書いている。取引所の崩壊によって、あのコミュニティーの自由放任と規制反対の理想は、金融サービスに必要な安定した運営、規則の遵守、顧客の要望と、ぶつからざるをえないことが露わになった、と。

偶然に道を外れたのではない。構造として、信頼が戻ってきたのだ。

金融安定理事会は、分散型金融のリスクを論じるなかで、いわゆる分散型金融と、中央集権的な取引・融資プラットフォームとのあいだには、仕組み全体に及ぶつながりがあると指摘している。多くの参加者は、まさにそのプラットフォームを通って、チェーン上の体系と法定通貨の世界を往復する。さらに、統治の枠組みは、しばしば不明確で、不透明で、検証を経ていないか、操作されやすく、実際の分散の度合いにも極めて大きな違いがある、と特に指摘している。

信頼が戻る第二の経路は、もっと根本的だ。そして、ここが本篇の核心である。

ある研究者は、二つを区別した。インフラによる統治と、インフラそのものの統治である。

前者では、プロトコルが規則を自動的に実行する。この部分は、大きな成功を収めた。

だが、後者は別の問題になる。プロトコル自体を、どう変えるか。誤りは誰が直すか。チェーンが分岐したら、誰に従うか。ノードは更新すべきか。

こうした問いを、プロトコル自身が消してしまうことはできない。

別の研究者は、現実のブロックチェーンの統治は、なお人の判断、影響力、非公式な統治に依存すると、さらに踏み込んで指摘した。彼女は、そこで生まれる権威の一つを表すために、個人の魅力による支配を意味する言葉さえ用いている。

後のブロックサイズ論争、セグウィットの有効化、利用者が主導するソフトフォークは、いずれも同じことを示した。利用者、採掘者、中核の開発者、企業は、暗号によって、まったく対等な粒へ均されてはいなかった。

合意と呼ばれるものは、しばしば、技術上の数値、経済的な誘因、発言力、世論を動かす働きが、一緒になって生む結果である。

ここまで来れば、この事例から枠組みへ返せる一文を、書くことができる。

構は、すべてを規定できる。ただし、その規定を誰が変えるかだけは、規定できない。

この一文は、前の二十一篇には現れなかった。理由は簡単だ。それまでの構は、自分を変更不能に書き固めようとは、していなかった。どれも変更のための席を残していた。そして、その席には、たいてい人が座っていた。議会が、中央銀行が、委員が、格付け委員会が座っていた。

今回は、構が初めて、その席まで取り除こうとした。

だが、取り除けなかった。規則は自動で実行できる。規則を変えることは、自動ではできない。

第十七篇と並べると、よくわかる。あの国際協定の本文には、ほとんど使われることのない条項が印刷されていた。その条項があること自体、構が自らの文章のなかに、変更のための席を残しているということだった。以前の構は、どれもそうした席を残し、たいていは誰に座る資格があるかまで明記していた。今回は、残さなかった。

信頼が戻る第三の経路は、創始者の名声である。

この通貨には、特別なところが一つある。創始者が去ったことは、ある意味で、その後に介入する余地を小さくした。同時に、多くの支持者に、皇帝のいない神話の余地を残した。

だが、暗号通貨の歴史のすべてが、そうだったわけではない。

二〇一六年、別のチェーン上に作られた自律型の投資組織から、約六千万ドル相当のトークンが、何者かによって移された。コミュニティーは、その後、ハードフォークを選び、出来事の影響を巻き戻した。その結果、二つのチェーンが残った。

これは、「コードこそ法である」という言葉が、十分に大きな損失を前にすれば、コミュニティーの政治によって覆されうることを示している。

さらに後の二〇二二年には、あるステーブルコインと、それと組になったトークンが崩壊した。規制当局と調査報道の焦点は、創始者と企業が、繰り返し言葉を発することで、どのように信頼を築いたか、そして価格の連動が外れた後、どのように巨額の損失をもたらしたかに、直接向けられた。

もっと極端な例は、この伝統全体の、ほとんど正反対にある。ある中央集権的な取引所の創始者は、個人の名声とブランドの物語によって、大勢の信頼を集めた。そして最後には、顧客の資金を流用し、詐欺を働き、資金を違法に混同していたと認定された。

この事実は、あの昔の予言と、奇妙に響き合う。

匿名の体系は、評判を廃止しなかった。評判を、もっと危うい場所へ置いたのである。

従来の監査、預金保険、明確な企業統治、成熟した救済の仕組みが乏しいところでは、創始者、中核の開発者、取引所の経営者、監査の神話、コミュニティーの文化が、いずれも過剰な意味を背負うことになるからだ。

評判は、もはや付け足しではない。匿名の貨幣を、もう一度社会の世界へつなぐ橋になった。

だが、第二十一篇で述べたように、評判自身も、帳簿を閉じたがる。生まれつき貨幣よりも寛大なわけではない。

ここに、もう一文を加えられる。あるものの周囲に正式な制度が少ないほど、評判へかかる重みは増す。そして重くなればなるほど、そこに問題が起きたとき、崩れ落ちてくるものも多くなる。

八 回復できないということ

この歴史全体をめぐる議論は、いまも決着していない。しかも、食い違いは好みの問題ではない。

第一の争点は、解放をもたらす非中央集権なのか、それとも投機を支える新しい仲介なのか、である。支持者は、銀行も清算所もなく、身元を前提とせずに、見知らぬ人どうしが初めて価値を移せるようになったと強調する。金融危機、資本規制、支払いの検閲、法定通貨の膨張への、技術による応答だった、と。一方、批判者は、現実の取引量の大部分が、長く取引所と投機の場に集中していると指摘する。今日、最大規模の暗号通貨の活動は、まさに信頼される金融仲介者を通じて行われており、匿名性と非中央集権的な信頼の利点を、実際には生かしていない、と明記した研究者もいる。

第二の争点は、信頼が要らないというのは、制度の事実なのか、宣伝の言葉なのか、である。初めの文献が、信頼を暗号学的な証明で置き換えることを中心に据えていたのは、疑いない。だが別の研究は、その言い方が、コード、コミュニティー、共通の信念のまわりに生まれる、社会的な信頼を見落としていると考える。争いは、古い仲介者のいくつかをなくしたかどうかにはない。それらをなくした後にも残る依存を、なお信頼と呼ぶべきかどうかにある。

第三の争点は、技術による統治が、政治による統治に取って代われるか、である。楽観する側は、プロトコルの規則、オープンソースのコード、ノードの選択、市場競争によって、十分に強い自己組織的な秩序を作れると考える。懐疑的な側は、公開チェーンの実際の運営は、どうしても少数の中核開発者、マイニングプール、インフラ事業者、世論を導く人々に依存すると指摘する。分岐は不具合ではない。構造が生む結果なのだ、と。

第四の争点は、貨幣に近いのか、それとも投機的な資産に近いのか、である。支持者は、十枚の試験送金から、一万枚のコインでピザを買うまでの歴史を挙げ、確かに支払いの手段として試されてきたと説く。批判者は、後にそのまわりに生まれた社会的な実践では、ため込み、売買、レバレッジ、価格をめぐる物語のほうが、中心となることが多いと指摘する。ある研究者は、鋭い判断を示した。自らのイデオロギーの目標に照らして完全に成功したなら、かえって現実の貨幣としての働きには失敗するだろう、と。

ここでは、裁定しない。

裁定しない理由は、今回は特にはっきりしている。四つの議論は、同じことを問うていない。第一は、実際に何に使われているかを問う。第二は、ある言葉をどう定義するかを問う。第三は、制度の設計で可能なことの境界を問う。第四は、そのものの性質を問う。すべてを混ぜて、結局、暗号通貨はうまくいくのかと聞いても、答えは出ない。

この四つの議論の外に、比較的確かに言えることが、もう一つある。前の篇の結びにつながることだ。

第二十一篇で述べた。どの採点システムにも、やがて回復と呼ばれる仕組みが育ってくる。回復という言葉は、一つの告白である。人は変わりうる。だが、記録は過去を圧縮したものだ。二つのあいだに、ずれがあると認めている。

こちらのシステムの設計は、その正反対にある。

回復できないことを、誇りにする。

いったんチェーンに書かれた取引は、元に戻せない。秘密鍵を失えば、コインはなくなる。代わりに取り戻してくれる人は、誰もいない。チェーン上には異議を申し立てる窓口も、顧客対応も、説得できる相手もいない。すでに書かれた一行を変える権限を持つ人も、いない。

欠陥なのではない。その安全性のすべてが、そこから来ている。

誰かに勘定を引き受けてもらわなくても帳簿が成り立つ。その前提は、まさに誰もその帳簿に手を入れられないことである。

手を入れられるなら、誰かにその権限が要る。権限を持つ人がいるなら、その人を信じなければならない。

だから、回復できないことと、信頼が要らないことは、同じものの両面である。片方だけを選ぶことはできない。

だが二〇一六年、先に見た別のチェーンで、損失が十分に大きくなったとき、その扉は押し破られた。

コミュニティーで議論し、投票し、ハードフォークを行い、あのトークンの移転を巻き戻した。巻き戻しは、プロトコルが自動で行ったのではない。人々が集まって決めたのだ。

その後には、二つのチェーンが残った。一方は巻き戻しを受け入れ、他方は、もとの履歴を変えてはならないと譲らなかった。

二つのチェーンは、その後も、どちらも動き続けている。

つまり、あの議論が生んだのは、答えではなかった。分かれ道だった。一部の人は回復できる世界を選び、一部の人は回復できない世界を選んだ。どちらも、相手を説得できなかった。

分かれ道ができたこと自体が、どちらか一方の勝利よりも、多くを語っている。回復できないという立場は、論証によって導けるものではなく、選択なのだ。そして選択なら、誰かが選ばなければならない。誰かが選ぶなら、出発点へ戻る。人を帳簿から退かせようとして、構はぐるりと一周した。だが、いちばん大事な場面で、退いてもらった人を、また呼び戻した。しかも、決めてもらうために呼び戻したのである。

ナカモトの目指したことは、一文で言える。一人の手から別の人の手へ、金が渡る。そのために、誰一人、信じなくて済むようにすることだった。

彼は、その大きな部分を実現した。あのチェーンは、今日も十分ごとに一こまずつ、先へ進んでいる。誰も止めていない。すでに書かれた行を、誰も変えていない。

だが、人がそれを使うには、どこかで法定通貨をコインに換えなければならない。どこかへ秘密鍵をしまわなければならない。ウォレットのプログラムを書いた人が、裏口を残していないと信じなければならない。チェーンが混み合えば、明日は手数料が下がると信じなければならない。この仕組みを変えるときには、どう変えるべきかを語る、何人かの言葉に耳を傾けなければならない。

こうしたことは、どれもプロトコルにはない。プロトコルが扱うのは帳簿である。帳簿を使う人が、その前へどうたどり着くかまでは扱わない。

帳簿は、誰にもその勘定を引き受けてもらわずに済むところまでは行ける。

誰にも使ってもらわずに済むところまでは、行けない。

人が使うかぎり、間違える人がいる。盗まれる人がいる。夜中に文字列を失う人がいる。崩壊の後で、元に戻してくれと求める人がいる。その日には、結局、誰かが出てきて、戻すのか、戻さないのかを決めなければならない。

前の二十一の帳簿は、どれも自分のなかに、回復という扉を開いた。そして、どれだけの時間をかけ、何を提出し、どこまでやれば通り終えたことになるかを、定めていた。

この帳簿は、その扉を開かなかった。回復できないことを、安全のすべての源として書き込んだ。

それでも、先に見た別のチェーンでは、その扉が一度、押し破られた。

扉を破ったのは、プロトコルではない。集まって話し合った人々だった。

勘定はいまだ合わず、記帳はいまも続いている。

中国語原文の論証と史料を基に、日本語読者のために構成と文章を新たに組み直した独立編集・再構成版です。 中文・English