Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · 経済
第07篇・全23篇

第七篇 大航海と重商主義:まず数え、次に値をつける

貿易収支と銀の流れを国家の帳簿へ置いた重商主義は、鉱山、会社、プランテーション、人間の労働を計数可能な単位へ組み替えた。

Han Qin (秦汉)
この篇の目次

一 国家という一冊の帳簿

一六六四年に刊行された小冊子のなかで、イングランドの商人トマス・マンは、のちに何百年も引用されることになる一文を記した。外国との貿易こそが、われわれの富を測る物差しだ、というのである。

その物差しの使い方も、すぐあとに説明されている。毎年、外国へ売る品物の総額を、われわれが消費する外国の品物の総額よりも大きくすること。

マンは、小学校の算数のような計算までしてみせた。イングランドが一年に二百二十万ポンドの商品を輸出し、国内で消費する輸入品が二百万ポンドなら、その差額の二十万ポンドは、金銀財宝となって国へ戻ってくる。

大事なのは、答えの数字よりも、その答えを出す手つきだった。

品物も、航路も、市場も、それぞれ違う。布、鉛、錫、魚、穀物、香辛料、絹。それらが最後には、一つの数字へ押し縮められる。今年はプラスか、マイナスか。どれだけ増え、どれだけ減ったか。

一つの国を、総勘定を締めることのできる、一冊の帳簿として思い描く。

今日なら、何の不思議もない考えだろう。だが、当時は新しかった。それまで、王国が豊かかどうかは、輪郭の曖昧な印象で判断されていた。穀倉は満ちているか。城壁はよく整っているか。軍隊を養えるか。王室の蔵には、どれだけ物があるか。ところが、それを全部、一つの数字に直せると言う者が現れた。その数字は毎年計算し直せる。去年とも、隣国とも比べられる。国家は、全体をつかみきれない何かから、年ごとに決算報告を出せる対象へ変わった。

複式簿記の篇で見たとき、一つの商会は初めて、年末に全財産、収入、負債を一枚の表へ集め、その年に儲けたのか、損をしたのかを確かめられるようになった。いま、同じ操作が王国にまで及ぶ。国家が、貸借対照表を持ったのである。

そして、国家に一年の差し引きができれば、そのなかにあるものは、原則としてすべて、その表の項目になる。田畑、鉱山、船、関税、人口。それぞれが、その差し引きにどれだけ貢献するかで評価される。

とりわけ人口は、そうだった。この計算では、人が多いのはよいことだ。働く手が一組増えれば、輸出に回せる生産物も増える。働かずにいる人は、よくない。収入を生まず、食べ物は要るからだ。当時の多くの政策文書には、人口を国力の蓄えとして運営しようとする語り口が見える。どれだけ子を産ませるか。何の仕事に就かせるか。ほかへ移住させてよいか。ある技術を国外へ持ち出させてよいか。人にはまだ、明確な値札がついていない。それでも、管理すべき一つの在庫として扱われ始めていた。

マン自身は、後世の教科書に出てくる、地下蔵へ金をしまい込む守銭奴ではない。現金が国外へ出れば、それだけ損になるという当時の常識を退けるために、わざわざ一章を割いている。現金を商売の元手として海外へ運び、中継貿易に使えば、かえって多くの銀を持ち帰れるというのだ。たとえば、十万ポンドの現金を東ヨーロッパへ送り、穀物を買い、それをスペインかイタリアへ転売する。国へ戻る財宝は、元の額ではなく、その倍になる。

彼にとって銀は、富の姿であると同時に、さらに貿易を動かす燃料でもあった。銀を蓄えることは、いつも動かさずにため込むことを意味しない。銀、商品、船、保険、中継貿易をつないで、一つの循環を作ることでもあった。

ただし、いくら循環させても、目指す場所は変わらない。年の終わりには、あの数字がプラスでなければならない。

この目標には、あまり目を向けられない性質がある。相対的なのだ。こちらの黒字は、向こうの赤字によって黒字になる。一つの国へ多く入るには、別の国から多く出なければならない。初めから、各国の関係は、一方が増えれば他方が減るものとして、この計算に書き込まれていた。私の勝ちは、あなたの負けだ。当時、これには「貿易嫉妬」という名があった。のちの数百年に繰り返される関税戦争、航海法、植民地貿易の独占、そして実際に武器を取る戦争まで、この計算のなかに、それぞれの理屈を見いだすことができた。

二 なぜ、銀だったのか

後世の教科書は、この一まとまりを、しばしば一行に縮める。重商主義者は、金銀こそ富だと考えた、と。

半分は合っている。だが、外れているもう半分こそ、きちんと考えておきたい。

イタリア人アントニオ・セラは、一六一三年に一冊の本を書き、鉱山を持たない国が金銀に恵まれるいくつかの理由を、その題に掲げた。題名だけを見れば、金銀を富と取り違えた典型に思える。だが研究者は、それでは読み違えると注意する。セラが本当に問うていたのは、自前の鉱山がない国でも、どうすれば製造業と商業の網を使って、貴金属を引き寄せられるのか、ということだった。

もっと早い一五五八年には、あるスペインの著述家が、すでに同胞を批判している。新大陸の莫大な財宝が、国内の製造業の代わりになると思い込んでいる、と。その言い方は率直だった。一つの経済は、原料だけでは栄えない。たとえ、その原料が金や銀であっても。

この数十年の研究は、繰り返し、その誤解を正してきた。いわゆる重商主義者の大半は、石を金に変えればすべて解決する、といった愚かさを信奉していたわけではない。

金と富を取り違えた間抜けな人々として描けば、話は簡単になる。その代わり、本当に大切な問いを避けてしまう。彼らがわかっていなかったのではないなら、もう一つ、厄介なことを説明しなければならない。物の道理をわかっていた人々が、どうして結局、金銀を中心に回る制度を作ったのか。答えはおそらく、頭のなかよりも、彼らの立たされていた場所にある。

では、本当の問いは、どこにあるのか。

金銀を富と混同する理論を持っていたかどうかではない。当時の国家という機械が、実際の運営では、なぜ繰り返し、金銀へ向かって集まっていったのか。

理由は難しくない。どれも、ひどく実務的である。

第一に、貴金属は遠方への支払いに最も使いやすかった。数千里も離れた軍営へ軍給を届ける。他国で軍需品を買う。借金を返す。外交の手配をする。戦争を続ける。そのすべてに、持ち主の素性を問わず、運ぶことができ、土地を越えて通用する何かが要った。

第二に、金銀は帳簿に書き入れやすい。鉱産物にかかる税、貨幣の鋳造、港での収入、海外から戻る富。どれも、照合して確かめられる数字になる。

第三に、国家が互いに競い合う仕組みのなかでは、貴金属は、初めから比較を誘う。わが国の銀の蓄え、わが国の鋳貨、わが国の貿易黒字。それを並べれば、そのまま他国に対する優位を示せる。

三つを合わせれば、答えは見える。銀が国家の目標になったのは、誰かが誤った理論を信じたからではない。当時、富と呼べるさまざまなもののうち、最も数えやすく、運びやすく、蓄えやすく、比べやすかったからだ。

異なるものを同じ尺度へ載せる、通約。そのために、いちばん扱いやすいものが銀だった。

この三つから、もう一つのことも見えてくる。国家が気にするのは、あるものにどれほど値打ちがあるかだけではない。どれほど管理しやすいかでもある。肥沃な田畑は、もちろん富だ。だが、持ち運べず、分けられず、災害の年には実りが減る。しかも収穫は、まず穀物になり、それから貨幣にならなければ国庫へ入らない。銀なら違う。今日ここにあるものを、明日には別の場所へ置ける。腐らず、病気にもならず、量がはっきりしている。そうした性質の一つひとつが、銀の評価を高めていた。そして、その加点は、どれだけの人を飢えや寒さから守れるかとは、関わりがない。

ここで、これまでの篇にはなかったことが起こる。

それまで物差しの問題は、正しく測れないこと、届かないこと、あるいは測っても本当には何も捉えていないことだった。いま、もっと能動的な働きが加わる。あるものが国家の目標に選ばれると、社会全体が、それに向けて自らを組み替え始めるのだ。

物差しは、世界を測るだけではなくなった。測りやすい世界へ、世界のほうを作り替え始めた。

作り替えるとなれば、余項の置かれる場所も変わる。以前の余項は、測り残されたもの、帳簿の手が届かないものだった。今度は、行く手を塞ぐ障害になる。取り除くか、迂回しなければならないものだ。決められた交代勤務に応じない村落共同体。銀何両かに換算できない土地の習わし。輸出品を生まない土地。この計算のなかでは、単に数えにくいのではない。邪魔なのである。「構」、すなわち組み立てられた秩序は、余項を残しておく側から、余項を処理する側へ回った。

三 重商主義は、一つの体系なのか

ここで、一つ断っておかなければならない。この歴史を語る言葉のなかでも、重商主義という呼び名には、とりわけ注意が要る。

当時の人々が、自分たちに貼った札ではない。アダム・スミスが商業の体系を批判の対象としたあと、後世の歴史家たちが、この言葉を引き延ばし、押し平らにし、組み直してきたのだ。

少し立ち止まるだけの理由がある。この時代全体を、どう読むかに関わるからだ。対立する側が名づけた言葉は、たいてい、最も論破しやすい姿に整えられている。後の人々が、その出来上がった姿を手に史料を読み返せば、合う部分ばかりが目に入り、合わない部分を見落としやすい。重商主義と呼ばれるもののうち、どれだけが当時の人々の実際の主張で、どれだけが後の人々が的を立てるためにまとめたものなのか。その割合は、いまもはっきりしていない。

スウェーデンの経済史家ヘクシャーの叙述では、重商主義は、かなり一貫した政治経済の体系になった。経済政策の歴史における一段階であると同時に、国家権力、保護政策、貨幣、社会秩序についての、一組の見方でもある。彼の考えを整理した研究者によれば、ヘクシャーはそれを、経済、規制、行政、政治にまたがる思考の体系として捉え、その体系性を重んじていた。最終的な目標は国家の権力であり、保護政策、貨幣政策、貿易収支は、その手段だった。

この書き方には、強い整理の力がある。関税、航海法、植民地貿易の独占、金銀の吸収、人口政策、産業の育成。それらを、すべて一つの枠に収めることができる。

しかし、修正を求める側の反論も鋭かった。コールマンが疑ったのは、いくつかの細部ではない。そもそも、このように書いてよいのか、ということだった。違う状況で、違う論争のなかに置かれ、時期も異なる言説を、一つの大きな体系へまとめてよいのか。彼は、重商主義を現実の経済条件から切り離す叙述を批判する。それぞれの主張を、そのときの商業危機、政治的対立、財政上の必要へ戻さなければ、何も説明しない説明になってしまう、と。

のちのある研究者は、中間の道を選んだ。重商主義には固定した教義も、統一された教会もなく、すべての著述家が同じ原則を共有していたわけではないと認める。コールマンの言葉を引き、重商主義は一度も信条集を持ったことがなく、啓蒙期の自由主義者が、自分たちの信念のために立てた藁人形にすぎないのかもしれない、とさえ述べる。それでも、この言葉をすべて捨てることには賛成しない。共通の語彙と問いを持つ、一連の議論として捉えようというのだ。貿易、貨幣、国家、海上での競争、植民、貿易嫉妬。当時の書き手たちは、確かに同じ言葉で話していた。ただし、同じことを言っていたのではない。

この論争に決着はついていない。ここで代わりに決着をつける必要もない。

ただ、双方が求めているものは、かなり違う。どちらにつくかより、その違いを見ておくほうが役に立つ。一方が問うのは、散らばった政策や文章を、理解できる全体へまとめる枠はないか、ということだ。他方が問うのは、そうまとめることで、個々の状況を消してしまわないか、ということだ。小冊子の一冊ごとにあった具体的な危機、特定の借金、そのときだけの政争が、見えなくならないか。前者が求めるのは説明力、後者が求めるのは史実への忠実さである。どんな研究でも、この二つを同時に最大にするのは難しい。

それでも、どちらの側から見ても認めなければならないことが、一つある。重商主義が首尾一貫した体系だったかどうかにかかわらず、十六、十七世紀の大量の政策文書、商人の小冊子、会社の特許状は、国家が、性質の異なるものに満ちた世界を、一つの尺度へ換算することに、ますます執着していったと伝えている。

その尺度は、必ずしも金銀そのものではない。有利な貿易差額でも、税を取れる流れでも、登録できる株式資本でも、棚卸しのできる在庫でもよかった。だが、三つの大洋をまたぐ帝国の競争のなかで、金銀は最も確かで、最も持ち運びやすく、土地ごとの慣習法や人間関係に比べ、共通の尺度に載せやすいものだった。

だから、何度でも世界の中心へ戻ってくる。

もう一つ付け加えよう。換算されるのは、品物だけではなかった。海も、その対象になった。一四九四年、イベリア半島の二つの王国は条約を結び、地図の上に、北極から南極まで一本の線を引いた。まだ占領していない、測量さえ終わっていない海と陸を、先に紙の上で分けたのである。一五〇三年には、セビリアに専用の機関が置かれ、アメリカ、のちにはアジアとの貿易について、許可、帳簿、税、海図を管理した。海を越える航海は、初めから、自由に漂う船団ではなかった。許可を受け、登録され、徴収されるものだった。人が世界を本当に巡り尽くすより先に、世界は、配分できる持ち分へ分けられていた。

四 一つの山

一五四五年、現在のボリビアに当たる高原で、銀を豊富に含む山が見つかった。

ポトシという。

初めの採掘は、比較的たやすかった。山には品位が高く、製錬しやすい鉱石があったからだ。ところが一五六〇年代には、そうした良質の鉱石がほぼ掘り尽くされ、銀の生産量は、一時落ち込んだ。

ポトシを本当に巨大な機械へ変えたのは、一五七〇年代に起きた二つのことだった。

一つは、技術である。水銀を使って鉱石から銀を取り出す、アマルガム法が広がった。これによって、品位の低い鉱石からも銀を得られるようになる。水銀の供給、鉱石を砕く設備、銀の製錬所が、この町に欠かせないものとなった。

もう一つは、制度だ。副王トレドは、アンデスの社会を組み替え、労役、人口、課税を、まとめて編成し直した。

それ以降のポトシは、単なる一つの鉱山ではない。坑道、製錬所、水銀の供給、労役の徴発、輸送、貨幣の鋳造。それらが噛み合い、一緒に動く、装置の一式になった。

掘り出しやすい鉱石から、水銀を必要とする鉱石へ。技術の違いだけでは済まない、深い変化だった。前の段階では、銀はまだ、山のなかにもともとあるものを、取りに行くことに近かった。後の段階では、銀は、一連の事業を動かした結果として得られる生産物になる。水銀が要る。粉砕場が要る。水力、製錬所、一年中絶えない人手、そして、そのすべてを山へ届ける輸送が要る。自然のなかの一つのものが、投入を続けなければ手に入らない製品へ変わった。投入を続けるには、手配を続けなければならない。手配を続けるには、人までその手配へ組み込む制度が要る。ある研究は、この山を、スペイン帝国、さらには世界全体にとって最も重要な供給源とまで呼んでいる。

この山を、地球の反対側へ結びつけた出来事が、もう一つある。

一五七一年にマニラが建設されると、アメリカ大陸の銀は、太平洋を横断する交換の網へ、いっそう安定して流れ込むようになった。この時代を研究する人々は、ここから先の大西洋経済を、大西洋だけを見て語ることはできないと指摘する。スペイン領アメリカの銀は、絶えずアジアへ向かっていた。そして中国が銀を吸収することが、逆に、ヨーロッパとアメリカの貿易の形を組み替えていたからだ。

前の篇の終わりでは、明代の紙幣の試みが破綻し、社会全体が銀へ退き、銀を本当の物差しに据えた。

その銀のかなりの部分は、ポトシの山から掘り出されなければならなかった。

両端の理屈は、どちらも単純だ。それでも、つなげてみると、落ち着かなくなる。東アジアでは、紙幣が崩れたあと、巨大な社会が、値をつけ、富を蓄えるための、信用できるものを必要としていた。それで銀へ向かったが、自前の生産量では、まるで足りない。絹、磁器、そのほかの品物を差し出して、銀を手に入れるしかなかった。アメリカ大陸には、銀を産する山がある。その山を掘るには、何千何万という人手が要る。あいだには、いくつかの船団と、何層もの市場がある。こうして東アジアの銀への渇望は、アンデス高原の労働力への需要になった。

東アジアの一つの王朝が、自らの紙を断念した。それによって、アンデス高原の人々が坑道へ追い立てられる。地球を半周する隔たりがあり、何層もの市場と何組もの船団が間に入り、当事者どうしは、誰も互いを知らない。それでも、この二つは確かに、同じ鎖の両端だった。

通約が広がるとは、こういうことでもある。ある場所の帳尻を合わせるために、その場所の名さえ聞いたことのない人が、代償を負うこともある。

これは、通約の最も大きな帰結の一つでもあった。一本の物差しが遠くまで延びるほど、因果の鎖も長くなる。鎖が長くなれば、代償を引き受ける人と、決定をする人は、もう顔を合わせない。贈与の世界なら、誰を不当に扱ったかは、自分にも、相手にも、村じゅうの人にもわかっていた。ところが、マドリードで帳簿を照合する人、福建で銀を手に入れる人、ポトシの坑道にいる人は、互いを知らないまま、一つの勘定で結ばれている。共通の物差しは、世界をつなぐと同時に、責任を、ほとんど見えなくなるまで薄く広げた。

五 十三パーセント

では、この機械は、どうやって動いていたのか。

それを動かしたのは、ミタと呼ばれる、強制的な輪番労役だった。

一五七五年、トレドはポトシにミタの徴集拠点を設け、強制的に送り出される先住民の鉱夫たちが、期日どおり到着するよう、手配し、確保させた。研究によれば、この新しい労役制度は、毎年およそ一万三千四百人の先住民男性を、ポトシへ送り込んでいた。

一五八五年に現地の人が残した記録には、さらに細かな数字がある。全体の調査数をもとに、いくつかの地方から、納税する成人男性のおよそ十三から十六パーセントを抽出し、ポトシへ集めた総数は、一万三千三百四十人だった。

この計算の仕方に、目を向けたい。ただ人足を徴発するのではない。地方ごと、割合ごと、納税人口ごと、勤務の順番ごとに、生身の人間を、銀を生み出す計算式へ組み入れている。

ここで、一人の人間は、ある地方に割り当てられた徴発人数の、一人分になる。

それは、それまでなかった身分だった。以前、その人が誰であるかは、どの村落共同体に属し、どの血筋につながり、どの首長に従い、祭りのときにどこに立つかによって決まった。どの身分にも中身があり、具体的な誰かを見分けることができた。いま、もう一つの身分が加わる。こちらには中身がない。ある地方の成人男性の、十三パーセントに当たるうちの一人。その人が誰かは問わない。数が足りるかだけを問う。しかも、この中身のない身分のほうが、その人を千キロメートル以上歩かせ、一つの山へ向かわせるのだった。

同じ記録は、この数字をそろえるために、何が起きたかも伝えている。妻や子どもを含め、四万人を超す人々が、それまでの村を離れた。道は人で埋まり、王国全体が動いているかのように見えたという。

この一文は、ゆっくり読んでみたい。一つの山から、予定どおり銀を産出させるために、王国全体が動いている。

そして、その四万人余りに、誰が含まれているのか。徴発された男たちだけでなく、妻や子どもたちもいる。名簿が要求したのは男一人だが、実際に動いたのは、一つの家族だった。ここに、名簿と現実のあいだの、いつまでも閉じない隙間がある。名簿で数えるのは、切り離して動かせる労働力。道を歩くのは、切り離せない人々だ。余分にいるとされる人々は、どの定員にも含まれていない。それでも、その定員と一緒に、家を離れた。

代償がどのようなものかは、当時すでに書き留められていた。一五五〇年、一人の修道士が、先住民に関する事務を扱う機関へ手紙を書き、ポトシを、地獄の口と呼んだ。

それは大げさな比喩ではなく、物価と距離を添えた告発だった。そこは寒い荒野で、近くには家畜に食べさせる草が一本もない。食料の値段は、途方もなく高い。同じ枡一杯分で、小麦はしばしば金貨三十枚、トウモロコシは十五から二十枚、先住民の主食である干したジャガイモでさえ、十二から十五枚もした。人々は百八十レグア以上、つまり千キロメートルを超える遠方から、強制的に連れてこられていた。しかも、彼の言葉によれば、加えられる罰は、理性に反し、自由人の法にも反していた。

この史料が強く迫ってくるのは、銀の裏側を、そのまま目の前へ広げるからだ。

一つの金属を、世界じゅうで決済に使える富にする。そのためには先に、食べ物、燃料、道のり、身体、そして死まで、鉱山の時間割へ従わせなければならなかった。

手紙のなかの値段表には、とりわけ目を留めたい。食料が高すぎるのは、もともと作物の育たない場所へ、すべてを遠くから運ばなければならないからだ。その作物の育たない場所に、人がいなければならないのは、山に銀があるからだ。順序が逆になっている。先に人が住み、あとから鉱床を見つけたのではない。鉱床が先にあり、そのあとで、人を養えない土地へ人を無理に詰め込んだのである。そこに住めるかどうかは、土地そのものでは決まらなくなった。地下に何が埋まっているかで、決まるようになった。

それでも、ミタが人をできるかぎり定員へ編成したあとも、現実は絶えず、そこからあふれ出した。

まず、王の名簿だけで、労役がひとりでに動くわけではない。地方の首長、村の組織、連行に当たる人々に頼り、生きた人間を、本当に現場まで連れてこなければならなかった。匿名の税務台帳の背後には、相変わらず、具体的な人間関係の網が、いくつも張り巡らされていた。

また国家は、銀の生産を、課税でき、監督できる正規の経路へ閉じ込めようとした。だが、鉱石や副産物は、市場のなかを入り交じって流れていた。同じ記録には、ポトシのコカ葉の広場で、先住民の女性たちがコカの葉を鉱石や銀と交換していたことが記されている。裁判官が、町の門口で銀を払って鉱石を買うことを認めたともいう。それが一つの入口となり、銀を持つ者が鉱石を買い集め、製錬所を大きくしていった。

これほど強力な通約の仕組みからも、なお、換算しきれないものが漏れ続けた。労役からの逃亡、代役、家族の離散、土地に根づく物々交換、病、坑内の事故、そして村の人口構成に長く残る破壊である。

その余項には、構が自ら育てたものもある。名簿は、毎年必要な人数を固定する。だが、人は病み、死に、逃げる。そこで代役が生まれる。金を払って、自分の代わりに行く人を雇う者がいる。一家ごと移り住み、元の村とのつながりを断って、その名簿で数えられなくなる者もいる。名簿が融通の利かないものになるほど、名簿から消えるための方法は増える。構は、自分の帳尻を合わせようとして、かえって、その帳簿をくぐり抜ける人々を生み出していた。

そして、この余項は、帝国がなくなっても、なくならなかった。

二〇二一年のある経済史論文は、現代の姓の分布を数量的な証拠として用い、一五七三年に導入された植民地のミタが、現地生まれの男性人口を急減させたと論じている。

つまり、四百年以上が過ぎても、制度によるあの取り立ては、いま生きている人々の姓に残っている、というのである。

記帳はとうに終わった。王朝も、とうに消えた。鉱山も、もはや当時の鉱山ではない。それでも、あの勘定の痕跡は、人の身に残っている。

余項とは何かを、これほど具体的に示すものも、あまりないだろう。帳簿は閉じられる。制度は廃止できる。文書をすべて焼いてしまうこともできる。それでも、生まれなかった人々、帰ってこなかった人々、途切れた家系は、誰も記録しようとしなかった形で残る。構の計算に入ったものは、構とともに消えた。計算に入らなかったもののほうが、今日まで残ったのである。

六 特許状

同じ時代、地球の別の海では、もう一つの装置が形を取りつつあった。

一六〇〇年の暮れ、エリザベス一世は、ロンドンの商人たちへ特許状を与え、東インドと貿易する会社を設立することを認めた。最初の期限は十五年だった。定めは細かい。総裁一人と委員二十四人が運営する。一航海ごとに、外国貨幣または金銀の地金を、最高三万ポンドまで輸出できる。一年に出せるのは、大型船六隻、小型船六隻、水夫五百人。会社と、その許可を受けた者以外は、いかなる臣民も、その地域で貿易してはならない。違反すれば船と積み荷を没収され、投獄される。

その二年後、一六〇二年には、オランダでも東インド会社が設立された。

オランダ国立公文書館による特許状の説明は、明快である。国家は、それまでの複数の会社の競争を終わらせ、新しい一社に、二十一年間の独占権を与えた。この会社以外、連邦諸州の者は誰も、喜望峰より東、またはマゼラン海峡を経由して、航海し、交易してはならないと定めたのだ。しかも、設立の目的は商売の利益だけではなかった。スペインと戦うための、軍事と戦略の道具でもあった。

できることは、商いをはるかに超えていた。交渉し、砦を築き、裁判を行い、兵を集め、戦い、海外の領土を占領し、統治する。公文書館の説明には、端的な一文がある。事実上、アジアにおける一つの主権国家として行動していた、というのだ。

そこから、さらに冷たい帰結が導かれる。国家を代表して、いわゆる正義の戦争を起こす権限がある。だから、戦争の捕虜を奴隷にする、法的な根拠も得られる。

一通の特許状が、売買する権利、戦争する権利、人を財産へ変える権利を、同じ封筒へ収めた。

この三つの権利は、本来、まったく違う領域に属している。市場、主権、人の身だ。それを一通の文書に詰めたのは、誰かが一時、判断を誤ったからではない。当時、数万里も離れた海の向こうで商売を成り立たせるには、三つとも欠かせないとされていたからだ。売り買いができなければならない。自らを守り、攻撃する力が要る。働かせる人も確保しなければならない。特許状は、その現実を認め、三つを一緒に授けた。こうして、一つの会社が、商会であり、軍隊であり、法廷であり、奴隷の所有者でもあるということになった。

ただし、これらの会社は、生まれたときから、後世の教科書に載る姿をしていたわけではない。

ある研究によれば、オランダ東インド会社は、確かにイングランドの会社よりも早く、重要な特徴を備えた。譲渡できる株式、恒久的な資本、有限責任。設立時に集めた資本は約六百四十万ギルダーで、当時としては、きわめて大きな資金の集まりだった。だが、その研究で本当に大切なのは、これらの近代的な特徴が、初めから全部、設計されていたのではないという発見である。譲渡可能な株式と、株主の有限責任は、おおむね初めからあった。資本が恒久的なものになるのは、一六一二年になってからだ。取締役の有限責任が明確になるのは、さらに遅い一六二三年だった。

後世の見慣れた匿名の資本は、一度で発明されたのではない。運営上の難題、戦争、資金繰りの圧力に追われながら、少しずつ組み上げられた。

ここは、覚えておく価値がある。後世は、株式会社を、よく練られた発明として描きやすい。誰かが先に恒久資本や有限責任の原理を考え抜き、それに従って会社を作ったかのように。しかし史料が示すのは、別の姿だ。まず急いで金を集める必要があり、株式ができる。株式を手放しやすくするために、譲渡できるようにする。譲渡が増えると、約束どおり期限に清算するのが厄介になる。それで、資本はそのまま残すことになる。資本を清算しないなら、取締役の責任も定め直さなければならない。一歩ごとに、前の一歩が生んだ困りごとに押されていた。

イングランドの会社の足場は、さらに不安定だった。ある研究は、当初の独占権が、法的にはかなり弱かったと指摘する。君主は、二年前に通知するだけで、それを取り消せた。会社は、王権、のちには政府との関係に絶えず頼り、存続を認めてもらい、借り入れを行い、特権を守らなければならなかった。王権と独占会社の提携である。会社は支配者へ、追加の税収、貸付金、戦時の援助を差し出す。支配者は会社へ、利益を独占する権利を与える。

ここで、あの古い二つが、また絡み合っている。

片方には、しだいに人の顔から離れていく交換の道具がある。株式、配当、手形、規格のそろった香辛料や布の価格。株式は、最初に金を出した人から離れ、別の人へ渡ることができる。そのぶん、遠洋貿易に関わる権利は、いっそう匿名で、流通させやすい資産になった。

もう片方には、どう見ても個人や人間関係と切り離せないものがある。誰が取締役になれるか。誰が政府から更新の承認を取りつけられるか。誰がアジアで条約を結べるか。誰が本国の投資家に信頼されるか。それらは、なお強く、宗教、家族、都市の政治、名望に左右されていた。

初期の会社は、経済から人を抜き取ったのではない。増え続ける無名の権利を、一人ひとりの名がはっきりわかる権力の構造の上に、載せていたのである。

しかも、この二層の重みは、固定されていない。持っている株式をいつでも売れるほど、持ち主は、会社がアジアで何をしているかを気にしなくてもよくなる。ところが、会社がアジアで何をできるかは、名のある数人の取締役と、その背後の政治的なつながりに、ますます懸かる。匿名の層は下へ沈み、売買できる数字の列になる。人の名を持つ層は上へ向かい、集中していく決定権になる。一方が増えれば他方が減るのではない。それぞれが、自分の端へ進んでいく。

七 銅の釜と人

第三の装置は、アメリカ大陸の土地に育った。

プランテーションの起源は、一本の線ではたどれない。ポルトガル人は、まず大西洋の島々で、サトウキビ、圧搾設備、奴隷労働を組み合わせ、十六世紀を通じて、その体制をブラジル北東部へ移していった。一六〇〇年には、ブラジルは、ヨーロッパにとって最大級の砂糖供給地の一つになっていた。農園主は初め、先住民も使役していたが、まもなく労働力の中心をアフリカ人へ移す。ある研究は、ブラジルを最初の重要なプランテーション体制とし、バルバドスを、その成熟した制度を育てた場所と捉えている。

バルバドスが重要なのは、砂糖革命と呼ばれることの多い転換による。一六四〇年から一六六〇年ごろにかけて、小農がタバコ、綿花、藍を作る島から、大規模に一体化された砂糖農園の島へ変わった。働き手も、白人の年季契約奉公人、つまり船賃を返すために一定年数働く契約を結んだヨーロッパ人から、奴隷にされたアフリカ人へ移っていった。

この転換が、どれほど急速で、どれほど自動的だったのかについて、歴史家の見方は分かれる。修正を求める研究者は、それほど突然ではなかったと指摘する。試行があり、失敗があり、資金をどこから得るかという問題があり、帝国の境を越える技術の移動があった。さらに、一六四〇年代にバルバドスの砂糖産業を立ち上げた資金は、神話化されたオランダのモデルから来たものが主ではなく、ロンドンのイングランド商人による投資、信用供与、貿易の網に支えられていたとする研究もある。

では、プランテーションは、なぜ大西洋経済全体の制度的な核になったのか。

土地、労働力、機械、時間、輸出市場を束ね、記帳と取り立てに、きわめて都合のよい一つの装置にしたからだ。

製糖場は、サトウキビ畑があればできるものではない。つながった工程の一式である。圧搾機で汁を搾り、煮詰め場へ流す。そこで、並んだ銅釜のなかへ石灰と草木灰を加え、澄ませ、沸かし、濃くしていく。それから結晶室へ移して固め、糖蜜を滴り落とす。それぞれの段階を、専任の監督者と熟練の働き手が管理していた。

サトウキビには、一つの性質がある。刈り取ったら、急いで搾らなければ傷んでしまう。そのため、製糖場全体を、昼も夜も止めずに動かさなければならなかった。交渉の余地のない拍子が、すべてを先へ進ませる。

その拍子を決めるのは、人ではなくサトウキビだ。刈り入れの季節になれば、圧搾、煮沸、結晶化を、切れ目なくつなげなければならない。一か所止まれば、それまでの仕事が無駄になる。砂糖農園の時間割は、日の出と日没では決まらず、人の体力でも決まらない。作物の化学的な性質と、設備の処理能力で決まる。人は、その拍子のなかへ入れられ、ついていくほかにない。のちの工場で、機械の速さに合わせて人を働かせる、その原型が、すでにここにあった。しかも、工場よりはるかに残酷な条件のもとにあった。

この拍子のなかで、人は何なのか。答えは、はっきりしている。

一六九〇年ごろのバルバドスでは、百エーカーの土地に、奴隷にされたアフリカ人五十人と年季契約奉公人七人を抱える砂糖農園の資本費用が、三千六百二十ポンドと見積もられていた。

目を背けにくいのは、額そのものよりも、その額が何を表しているかだ。

土地、圧搾設備、銅釜、家畜、住居、そしてその五十人が、一つの投資勘定へ一緒に入れられている。

肝心なのは、同じ欄に入るということだ。同じ欄へ入れば、互いに比べられる。人をさらに十人買うのと、銅釜を二つ増やすのとでは、どちらが得か。水路を延ばすのと、監督者を一人増やすのとでは、どちらが早く元を取れるか。人と器物が同じ表に並んだ瞬間、人についての判断も、器物を扱う理屈でなされ始める。そのために、誰かの悪意が必須なわけではない。真剣に、その表の数字を計算する者がいれば、起こりうる。

ここまで来ると、人は、銀を掘るために追い立てられる労働力だけではなくなる。帳簿の上の資本項目、保険をかける対象、抵当に入れられるもの、将来の収益を生む源になる。

そのどの身分も、労働力より、もう一歩先へ踏み込んでいる。労働力なら、まだ、その人のする仕事を指している。資本項目、担保、保険の対象、収益の源が指すのは、その人自身だ。使われるだけでなく、所有される。働く誰かであるだけでなく、帳簿に蓄えられた一項目になる。値を見積もり、減価を計算し、譲り渡すことができる。まだ働いていないうちから、その人を担保に、金を借りることさえできる。

ここにも、あの二つの共存が見える。砂糖は、規格のそろった輸出商品であり、ロンドン、アムステルダム、ブリッジタウンの価格を比べられる。農園には、計算できる在庫、貸し借り、船の予定、保険が要る。だが、内側を動かしているのは何か。監督者、支配人、主人の処罰する権力、植民地の法廷、商人の信用、長く続くつきあいである。

十七世紀半ばにバルバドスの砂糖産業へ金を出したイングランド商人は、しばしば特定の商業分野に信用できる伝手を持ち、東インド会社の取締役といった肩書を兼ねていた可能性もある、と指摘する研究さえある。

大西洋世界が、匿名の価格と規格化された輸出へ進むほど、保証を引き受け、金を貸し、訴訟の場へ出向き、政治の道を開ける、名も顔もわかる人々への依存は、強くなっていった。

八 先に数えられ、あとから値がつく

三つの装置を並べてみると、一本の線が見えてくる。

トマス・マンは、国家へ、総勘定を締められる一冊の帳簿を与えた。年末の差し引きをプラスにするには、銀が入ってこなければならない。銀が入るには、それを掘り出す人が要る。掘る人をそろえるには、谷や村に散らばり、それぞれの暮らしを営んでいる生身の人々を、地方別、割合別、輪番別に動かせる人数へ変える仕組みが要る。

そこでミタが現れる。十三から十六パーセント。一万三千三百四十人。四万人を超す人々が道を歩き、王国全体が移動しているかと思えるほど、道が埋まる。

これが、一歩目である。人が、行政によって数量化される。

一人の人間が、まず、ある地方の徴発定員の一人分になる。まだ値段はついていない。それでも、すでに数え入れられている。

そして、大西洋の別の岸では、すでに二歩目まで進んでいた。

百エーカー。奴隷にされた人、五十人。年季契約奉公人、七人。三千六百二十ポンド。人が、銅釜、家畜、建物と一緒に、同じ欄へ入る。

これが、二歩目である。人が、経済によって値づけされる。

先に数えられ、あとから値をつけられる。そのあいだには、百年以上の時と、一つの大洋がある。それでも、この二歩は、同じ方角へ進んでいる。

その方角へ押す力は、誰かの悪意ではない。理論上の誤りが主な原因なのでもない。もっと単純なことが、それを押している。国家が、同じ一つのものを蓄えることを目標にした。多く蓄えるには、蓄える過程を、計算でき、管理でき、監督できるものにしなければならない。その過程に計算して入れられるものは、残され、強められ、増やされる。入らないものは、迂回され、押し平らにされ、邪魔なものとして取り除かれる。

このどの一歩にも、悪人の存在は、必要条件ではない。黒字が欲しければ銀が要る。銀が要るなら生産量が要る。生産量には、途切れない人手が要る。途切れない人手には、人数を決めて人を動かす仕組みが要る。一歩ずつなら、どれも前の一歩から筋の通る推論だ。だが、その先まで歩き終えると、一人の人間は、ある地方の徴発定員の一人分になっている。悪い結果は、悪意から来なくても生まれる。それぞれは合理的に見える推論を、つなげるだけで、すべてが起こりうる。その推論が、最初から最後まで、一つの問いに答えずに済むならば。数えられている、その人は、誰なのか。

これまでの篇では、物差しの難点は、測れないこと、測ってはならないこと、測っても本当には触れていないことだった。大航海のこの一幕で、物差しは、もっと徹底したことをする。自分の形に合わせて、世界を組み直したのである。

村の一日の営みが、鉱山の輪番に合わせられる。一人の一生が、一件の投資の回収期間に合わせられる。高原全体の人口構成が、ヨーロッパのある王室の、年ごとの差し引きに合わせられる。

世界が帳簿へ入るのを拒んでいるのではない。帳簿のほうが、世界を入れやすくするために、世界を作り替え始めたのだ。

これは、構の力が一段増したということであり、危険な一段でもあった。これまで、構と余項の関係は、まだ受け身だった。構が測りに行き、届かないものが外へ漏れた。いま、構には力がある。まず世界を、自分に測れる形へ削り、それから測ることができる。削るのに成功するほど、外へ漏れたものは、存在しないかのように見える。形に合わないものは、削る過程で、すでに処理されているからだ。

それでも、あふれるものは、一つも減らなかった。

ポトシでは、コカ葉の広場の物々交換、町の門口でひそかに売買される鉱石、逃亡、代役、坑内の事故、離散した家族だった。会社では、いつまでも収まらない取締役の私益、詐欺の告発、終わりのない争い、そして人づきあい、恩顧、借金によって、ようやく維持される特権だった。砂糖農園では、身体の損傷、死、どんな積み荷目録にも載らないものだった。

そして、どうしても勘定を合わせきれないものは、やはり人だった。

名簿へ数え入れられ、資本勘定へ書き込まれ、毎年供出すべき人数や、一エーカーあたりの産出量へ換算される。それでも、その人の一部分は、帳簿の外に残る。妻子とともに幾百里もの道を歩いた人々のなかに。逃げた人々のなかに。帰ってこなかった人々のなかに。そして四百年後、姓の分布からなお見えてくる、あの空白にも。

そのどれ一つとして、借方には入らない。貸方にも入らない。

ただ、そこにある。

それが、なお見えるのは、多くの場合、帳簿のおかげではない。ほかの何かのおかげだ。物価の高さを訴える手紙。道が人で埋まったことを伝える記録。四百年後に集計された姓の分布。そのどれも、記帳のために残されたものではない。構が残したのは、自分の計算できる部分だった。余項が残したのは、ばらばらで、まとまった形を持たず、それでも、どうしても消し去れない痕跡だった。

次の一歩は、さらに先へ進む。ポトシでは、人は割合を決めて徴発され、銀を掘らされた。砂糖農園では、資本勘定の一項目になった。その先には、もう一つのやり方がある。人そのものを、運び、売買し、数を確かめる貨物とする。大洋のこちら側から、向こう側へ運び、一隻また一隻と、積み荷目録へ記していく。

それは、このシリーズで、次に一篇を割いて書くことになる。

勘定はいまだ合わず、記帳はいまも続いている。

中国語原文の論証と史料を基に、日本語読者のために構成と文章を新たに組み直した独立編集・再構成版です。 中文・English