第六篇 宋代の交子:金属が退いても、約束を果たす誰かが要る
四川の重い鉄銭から生まれた交子は、紙の材質ではなく商人の名と国家の租税受納で価値を得た。発行約束が揺らぐとき、損失を誰が負うかが紙幣の核心になる。
一 重すぎる銭
世界で最初の紙幣が、なぜ四川で生まれたのか。それを知るには、当時の四川の人々が手にしていた金の重さを、まず確かめてみなければならない。
北宋は蜀を統一したあとも、長く鉄銭の使用を認めていた。一方で、銅銭が両川へ入るのを禁じた時期もある。のちに一部が緩和されても、鉄銭の域外への持ち出しは許されなかった。鉄は安い。同じ物を買うにも枚数が要り、そのぶん重くなる。商人が四川の境へ銅銭を持ち込めば、一枚で鉄銭十四枚に換えられた。布を一反買うには、どれほどの鉄銭を背負うのか。山道を行くには、荷を担ぐ人を何人雇うのか。どれも、目の前の切実な問題だった。
鉄銭がこれほど重くなる理由は、単純である。貨幣の値打ちは、半分は、それが何でできているかによって決まる。銅より安い鉄で同じ額を払おうとすれば、量を増やさなければならない。量が増えれば重くなる。史書には、絹一反を買うのに百斤を超す鉄銭を背負ったという、驚くような記述がある。絹一反を買うのは、普通の家の暮らしの一こまで、大商いではない。それなのに、そのありふれた買い物の前に、まず金をどうやって店へ運ぶかを解決しなければならなかった。
税となると、さらに厄介だった。官府は一時、租税や専売に関わる納付金について、鉄銭十枚を銅銭一枚に換算して納めるよう求めた。だが四川には、もともと銅銭が少ない。史書は、銅銭はすでに尽き、民はそれを深く苦しんでいたと、はっきり記している。
『宋史』には、目を背けにくい数行も残る。納税にいっそう多くの銅銭を求められていたころ、土地の役人や下役が、それに乗じて利益を取った。換算の割合は段階を追うごとにつり上げられ、人々はいよいよ苦しんだ。古い墓を掘り返し、仏像や器物を壊して、ようやく四、五枚の銅銭を集める者までいた。そのために罪を問われた者も、多かったという。
この数行は、ゆっくり読んでおきたい。貨幣制度がうまく合っていないということは、ある一人にとっては、他人の墓を掘り、自分の家で拝んでいた仏像を壊さなければならない、ということなのだ。官府の定めた形に合う銅片を、数枚そろえるためだけに。そして、それをしたために刑を受けるかもしれない。
この土地から、共通の物差しが消えたわけではない。物差しは、まだある。ただ、重すぎた。背負って歩かなければならないほど重く、その規格に合わせようとすると、ふだんなら決してしないことまで、しなければならなかった。
ここには、この先も何度となく現れる問題がある。物差しの使いやすさは、正確さだけでは決まらない。重くないか。持ち運べるか。見分けられるか。それも大切なのだ。ここまでの篇で、異なるものを同じ尺度へ載せる通約の難しさは、勘定を明瞭にできるかどうかにあった。四川では、その姿が変わる。勘定は、きちんとできる。ところが、計算して出したその金を、運べない。運べないものなら、いくら正確でも役には立たない。
そして、すでにここに余項がある。鉄銭は、絹一反の値段を明瞭に表せる。だが、それを背負って山を越える半日の労力、道中で人を雇う賃金、襲われて奪われる危険までは、計算し尽くせない。どの帳簿にも入らないそれらが、売買の成否を決めている。交子が解こうとしたのは、まさに、この帳簿の外の部分だった。
そこで、誰かが一枚の紙を思いついた。
二 十六の家
『宋史』は、この出来事を一文で語る。初め、蜀の人々は鉄銭の重さに困り、民間で券を作って、交子と呼んだ。取引を便利にするためで、十六の富裕な家が、その運営に当たった。
のちに李攸の『宋朝事実』は、もっと詳しく記している。益州の十数家の富豪が、共同で保証して交子を作った。統一した紙を使い、家屋、樹木、人物の絵を刷る。店ごとのしるしや秘密の符号を入れ、朱と墨の筆跡を交ぜて、内輪だけにわかる目印とする。額面は、その場で書き入れた。一貫は千文だが、何貫と書くかに制限はない。交子を現銭へ戻すときには、一貫につき三十文の手数料を差し引いた。
紙の上に何があるのか、よく見ておこう。同じ紙、決まった絵柄、それぞれの店の署名、秘密の符号、赤と黒を交ぜた私的なしるし。どれも、いくらに当たるのかを説明するためのものではない。誰が出したものなのかを示し、ほかの者にまねをさせないためのものだ。
つまり、この紙に費やされた工夫の大半は、値段よりも、偽造を防ぎ、発行元を示すことへ向けられていた。額面の欄は、むしろ簡単である。その場で書けばよい。何貫でも構わない。難しいのは、これは本物だ、確かにあの家々が出したものだ、と信じてもらうことだった。金属の銭なら、その心配は要らない。銅銭を手に取って重みを確かめ、歯を立て、断面を見れば、本物かどうかはわかる。紙では、そうはいかない。紙の真偽は、紙のなかにない。別のところにある。
見ず知らずの相手が、一枚の紙を受け取ってくれるのは、なぜか。紙だからではない。そこに、十六の名前があるからだ。
ここが、この話のいちばん大事なところである。鉄銭が使えるのは、半分は官府が認めるからであり、半分は、それ自体が一片の鉄だからだ。誰の手にあっても、その鉄はそこにある。紙は違う。紙そのものには何もない。いくらの値打ちを持つかは、背後の人々が支払いを引き受けるか、そして引き受けるだけの力があるかに、すべて懸かっている。
貨幣から金属を抜き取っても、信頼が要らなくなるわけではない。抜き取った金属の重みは、そのまま、信頼の側にかかる重みへ変わる。
ここまでの篇でも、匿名の物差しは、いつも人のいる仕組みに支えられていた。粘土板には印章と証人。硬貨には発行者の評判と、後から受け取る者の検査の印。帳簿には戸棚いっぱいの手紙と保証人。交子では、その関係が行き着くところまで行く。いくつかの名前を除けば、その紙には、本当に何もないからだ。純粋な約束であり、代わりに責任を引き受ける金属は、紙そのものには含まれていない。
厄介ごとも、すぐについてきた。富商たちは、受け取った鉄銭を、おとなしく蔵へ寝かせてはおかなかった。買い集め、ため込み、店、家屋、庭園、田畑、宝物を広く持つようになる。やがて偽造が起こり、訴訟が起こり、取り付けが起こり、ついには人々が集まって争う騒ぎになった。官府が仲裁に入っても、一貫につき七、八百文しか戻らないことが多い。足りない二、三百文は、券を持っていた人の損になった。
この教訓は、のちの数百年に、もっと大きな規模で何度も繰り返される。発行する側は、人から預かった信頼を握っている。そして信頼は、先に使ってしまうことができる。
その誘惑の大きさは、想像しやすい。蔵には大量の鉄銭があるのに、引き換えを求める人は、いつもまばらだ。今日何人か、明日何人か。全員が同じ日に来ることなど、まずない。それなら、一部を先に不動産へ回してはどうか。収益が出れば、また買い足せる。一つひとつの計算は、どれも筋が通っている。穴はただ一つ、あの「まずない」という言葉にある。ある日、本当に全員が一緒に来れば、それまでの筋の通った理由が、一斉に役に立たなくなる。
この紙の根が、そもそもどこにあったのか。研究者の見方は、大きく二つに分かれている。
一方は、信頼の網を重く見る。何平は、初期の交子をそのまま現代的な意味での信用貨幣と説明することに、ことさらに反対する。大切なのは、抽象的な信用ではないという。比較的閉ざされた四川という地域、茶商の集団の名声と支払い能力、十六の富裕な家による共同保証、土地の人々の顔見知りの関係。そこにこそ根がある。一枚の紙が店を出て、見知らぬ者の手へ渡れたのは、人が突然、相手の顔を見なくなったからではない。その一群の人々の評判が、ひとまず誰もが信じられる根拠を与えていたからだ。
もう一方は、券と債権に注目する。この系統の古い説明によれば、交子は、金銭を預かる店が出す預かり証のように理解できる。発行者は債務者、券の持ち主は債権者である。券が市場で何度も手を渡るうちに、貨幣に近いものとなる。この説明で出発点になるのは、漠然とした社会的信頼ではなく、預け入れと払い戻しの関係だ。
二つの説は、同じ紙を見ながら、違う根を見ている。一方は、関係のなかに育ったと言う。もう一方は、負債のなかに育ったと言う。
学者だけの細かな論争ではない。関係に根を持つのなら、紙を支えるのは、特定の土地と特定の人々であり、四川を出れば通用しない。負債に根を持つのなら、土台は、どこへでも移せる形式になる。払い戻しのできる証書を出す者がいれば、その場所で育つ可能性がある。前の説は、なぜほかならぬ四川だったのかを説明する。後の説は、なぜ官府が引き継ぐことができ、さらに別のものへ変えていけたのかを説明する。どちらも、一方の端をつかんでいる。
そもそも、誰が交子を形にしたのかについてさえ、議論がある。土地の伝承や、のちの通俗的な歴史書の多くは、張詠を交子の父と呼び、交子を扱う店を整えたこと、十六の富商を共同保証の担い手に定めたことを、具体的な年に結びつけている。だが近年には、その説明を疑う研究もある。張詠の家族が残した行状や墓誌は、交子を発明したという功績を、特に強調していないからだ。もう少し確かな言い方をするなら、張詠はちょうど、民間の交子が形を整えていく時期に、その場にいた。それくらいなのかもしれない。
誰が作ったのかさえ、はっきりしない。そのこと自体が、多くを語る。こうしたものは、多くの場合、誰か一人の、ある日の思いつきから生まれるのではない。大勢がそれぞれ、目の前の困りごとをしのいでいる。しのぐうちに、一つの形が育ってくるのである。
三 官の印
民間の交子の難点を、史料は率直に書いている。富裕な家々の財産がしだいに衰え、借りを返せなくなり、訴訟が絶えなかった。
天聖元年、すなわち一〇二三年十一月、朝廷は詔を下し、益州交子務を設けた。翌一〇二四年、官営の交子が正式に発行される。最初の発行期の限度額は、百二十五万六千三百四十緡だった。
一の位まで定められたこの数字が、それだけで、何が変わったのかを告げている。
民間の紙は、その場で額を記入し、何貫と書いてもよかった。官の発行額は、初めから、一の位まで決められている。前者の額は、それぞれの商いが必要とする量で決まる。後者の額は、一通の公文書で決まる。同じ紙が、市場の動きに沿って生まれるものから、上で総額を計算し、それから下へ配るものへ変わった。限度額をあらかじめ定めること。それが、官営の仕組み全体を支える骨だった。
『宋朝事実』は、新しい仕組みの細部を残している。専用の役所を置く。交子務の銅印を鋳る。帳簿を作る。現銭を受け取って蔵へ納め、契約の符号に従って交子を出す。一貫につき三十文を差し引く点は、以前と同じだが、今度は紙幣を作る手間と墨の費用とされた。
このときから、紙の背後に立つものは、十六人の商人の評判から、官府の装置一式へと変わる。
その装置がする仕事は、一つずつ挙げられる。額面をそろえる。初めは一貫から十貫、のちに五貫と十貫、さらに一貫と五百文になった。周期をそろえる。定期的に刷り、定期的に新旧を交換する。数量をそろえる。発行期ごとに明確な上限を設ける。手続きをそろえる。費用は一貫につき三十文。出すときも、回収するときも、記録を残す。偽造や破損さえ、印を見分け、期日に回収する、ひとまとまりの手順へ組み込まれた。
貨幣はここで、金属の塊というよりも、行政と会計の一連の作業に、ますます近づいていく。
この変化は、もう一段深く考えてみたい。銅銭や銀なら、まず金属があり、その後で制度がそれを扱う。交子では、まず制度があって、初めてその紙が金になる。官の印、帳簿、発行限度、期限、引き換えの約束を取り除けば、残るのは絵を刷った一枚の紙だけだ。ここで貨幣は初めて、徹底して制度によって作られるものになる。その存在のしかたそのものが、書き記すことのできる、実施することのできる、また変更することのできる、一組の決まりなのである。
準備金も置かれた。『宋史』によると、従来、一つの期の交子を作るには、元手として三十六万緡を用意し、新旧の期で引き継いでいたという。何平は李綱の文献を引いて、別の数字も挙げている。ふだん百万貫を元手として取り置き、それで三百万貫の交子を支えていた、というものだ。
二組の数字は合わない。その食い違いからわかるのは、後世のいう準備率が、一枚岩の制度上の定数だったわけではない、ということである。時期によっても、文献によっても、何をどう数えて記したかによっても異なる。それでも、一つだけは確かだ。宋の人々自身、紙幣を通用させるには、まったく宙に浮いたままではいけないと、よくわかっていた。
この点では、宋の人の言葉のほうが、後の人よりも深く届いている。呂中は、天聖年間の交子務設置を論じ、ここに紙幣が始まったと述べた。ただし、銭があって紙を流通させ、紙があって銭を調整する。子と母がともに通じ、どちらかへ偏る弊害がない。そのため、民は銭を見ること紙を見るがごとく、紙を見ること銭を見るがごとくであった、と。
「子母均通」。この四字は、この仕組みを言い表した、最も早く、最も的確な言葉の一つだろう。
紙だけが、一人で飛び立ったのではない。母が要るのだ。
母と子というたとえは、実によくできている。紙が銭に、あるいは銭が紙に取って代わるという話にならないからだ。子ができても母は消えない。母がいるからといって、子が無意味になるわけでもない。二つがともにあり、互いを支え、どちらも相手を欠かせない。十一世紀の一人の人間が、すでに肝心なところを見抜いていた。紙そのものがどれほど便利かではない。紙と銭のあいだの、行って戻る関係が、しっかり成り立っているかどうかなのだ。その後の数百年に繰り返し起こる問題は、どれもこの関係のところで起こる。
四 「界」で区切る
この仕組みのなかでも、最も工夫が光るのは、「界」という区切りだった。
数年ごとに新しい紙幣を一組刷り、同時に古い一組を回収して無効とし、新しいものへ換える。その一組を、一界と呼ぶ。
賢い設計である。紙幣のいちばん大きな危うさは、いくらでも刷れてしまい、刷るほど値打ちが薄まることだ。界を設ければ、数年に一度、流通する紙幣を片づけ直さなければならない。古いものは戻して消し、新しいものは決めた額だけ出す。こうして、流通総額を制御できる周期へつなぎ留める。発行、流通、回収、再発行。自分で閉じることのできる輪ができる。
その発想は、これまでの篇で見てきた、帳尻を合わせようとする努力に連なっている。ただ、向きが違う。帳簿は、すべての項目を集めて左右を等しくし、空間のなかで勘定を合わせる。界は、出したものを期日までに戻し、戻ったら新たに出すことで、時間のなかで勘定を合わせる。前者が問うのは、一冊の帳簿が閉じられるかどうか。後者が問うのは、一巡分の金を取り戻せるかどうかだ。それでも、望みは同じところを向いている。この一件には、きれいに片のつく形があるはずだ、という望みである。
ところが、そう設計すればするほど、余項の現れる場所は正確になる。帳尻が合わなければ、いくらずれているかがひと目でわかる。一界分を回収できなければ、いくら返し残しているかも、ひと目でわかる。目盛りが細かくなるほど、漏れ出したものには隠れる場所がなくなる。界の期限を延ばすという行為が、あれほど目に痛いのも、そのためだ。本来は閉じるはずだった輪が、開いたまま、誰の目にも見えるところへ置かれてしまう。
だが、輪が閉じるかどうかは、一つのことに懸かっている。期日が来たら、本当に換えることだ。
そして本当に換えられるかどうかは、さらに別のことに懸かっている。そのとき国家に、もっと急ぐ金の使い道がないか、ということだ。よくできた設計の、ここがいちばん弱い。総量の管理を、発行者自身にしかできない一つの行為へ結びつけている。ところが発行者が金に困れば、いちばん手軽なのは、その行為をしないことなのだ。いくら決まりを細かくしても、守らせる人と、最も破りたくなる人が同じなら、その輪は丈夫ではない。
初めには、ほかの土地へ広めようとする動きもあった。熙寧の初め、朝廷は交子の仕組みを河東と陝西へ移そうとしたが、すぐに現地の官僚から反対を受けた。文彦博も張景憲も、蜀では行えても陝西では行えないと言い、ほどなく取りやめとなった。
理由は、実際的なものだった。四川で紙と鉄銭が組み合わされたのは、山道、重い銭の運搬、地域の流通を妨げる条件があったからである。財政のあり方が違い、扱う商品が違い、地域の条件が違えば、その組み合わせが成り立つとは限らない。交子の成功は、初めから、どこへでも摩擦なく写せる万能のひな型ではなかった。
これは、覚えておきたい。後の世では、よい仕組みなら自然に広がる、とつい言ってしまう。史料が示すのは、違う光景だ。同じ仕組みが、ここでは使え、あちらへ移すと使えない。反対する理由も、古いものに固執するからではなく、土地の条件が違うからだった。制度は、土から切り離された設計図ではない。具体的な地形、貨幣、税制の上に育つ。移し植えることはできる。だが、勝手に根づくわけではない。
本当にこの輪を押しつぶしたのは、軍費だった。
熙寧五年、第二十二界の交換が近づいたときには、次の界の分をすでに使いすぎていた。第二十三界の穴を埋めるため、第二十五界を増刷せざるをえなくなり、二つの界が同時に出回ることになる。『宋史』は続けて、厳しいことを書く。当時は交子の発行が多すぎるのに現銭が足りず、値がひどく下がった。ついには実際の銭そのものがなくなり、この方法ではやっていけなくなった、というのである。
大観元年に振り返った記述では、湟・廓・西寧を攻め取る戦いのあと、交子が辺境の軍費を補うために使われたという。額は天聖年間の一界分の二十倍を超え、値打ちはいっそう落ちていった。そして新旧を交換する際には、古い交子四貫に対して、新しい交子一貫の割合でしか換えられなくなった。
一対四とは、どういうことか。手にしている紙を、新しいものへ換えに行くと、もとの四分の一しか値打ちがない、ということだ。
数字の背後には、具体的な暮らしがある。一年間働き、交子を何貫かためた人がいる。翌年、新しいものへ換えれば、同じように使えると思っていた。ところが交換期になると、古い四貫で新しい一貫しか受け取れない。その人は、何も間違えていない。賭けてもいない。借りてもいない。投機もしていない。ただ、官府が出した金を受け取り、それを信じただけだった。損失は、その人のところへ落ちてきた。
ここで、よく見える。紙幣は、元手の問題から自由になったのではない。財政が急いで支出しなければならなくなると、国家は、その元手を用意することを、いっそう先へ送りたくなるのである。
近年の研究では、この時期を、財政国家の展開として読むことが多い。北宋後期には、国家の収入のかなりの部分が農業以外から、貨幣で徴収する間接税から来ていたと指摘する研究がある。南宋へ移るころには、払い戻しのできる信用手段の総量が、一時は年間の税収さえ上回った。国家財政は、課税の基盤に頼るものから、信用に頼るものへ移っていったという。また、宋の紙幣の仕組みを、本位、償還、戦争、インフレの四つから捉える研究もある。初めは、本位による裏づけも払い戻しも厳格だったため、うまく動いた。後には戦費の調達がその仕組みを断ち切り、実際の発行額は最大で、本位を厳格に守った場合に発行できる額の三十五・四倍に達したという。
さらに、もっと鮮明な説明もある。高聡明が本当に革命的だと見るのは、民間の交子ではなく、官営の交子が国家の信用貨幣へ変わる瞬間だ。この見方で重要なのは、民間の商人がどう共同保証したかではない。財政支出のどれほどが、交子で行われるようになったかである。軍の兵糧や飼料、青苗の貸付元本、常平倉が穀物を買い入れる資金まで、官府が交子で払う。それに見合う鉄銭の準備は、もうない。そうなれば、紙の信用を主に支えるのは、鉄銭に換えられるという約束ではなくなる。国家が自分で受け取り、その価値を認め、納税にも使えるようにするという約束になる。
だからこそ、この説明では、官の交子のほうが、民間の交子よりも近代的だとされるのである。
五 元手のない官を、民はどう信じるのか
南宋は、この実験をさらに遠くまで進めた。同時に、ためらいの跡も、いっそうはっきり残している。
紹興元年、婺州に兵が駐屯することになった。そこへの道は舟で運べず、現銭は重くて輸送しにくい。そこで官府は、軍費を調達するために、まず関子という券を作った。だが、ほどなく不満が上がる。州県は、穀物を買い入れる代金に関子をあて、それは割り当てて押しつけるものに近くなっていた。しかも、専売を扱う官署は、毎日、三分の一の割合でしか払い戻さない。誰もが嘆き、恨んでいた。
紹興六年には、行在、すなわち臨時の都に一時、交子務が設けられた。すぐに批判が起こる。そのなかに、この歴史全体で、最も大切な問いがある。
朝廷が設けたのは、現銭を裏づけとする関子だったはずだ。担当の役所は、しだいに本来の意図を失い、交子へ変えてしまった。官に元手がないのなら、民は何をもって信じればよいのか。
平たく言えば、こうだ。官府の手元に金がないのに、民はなぜ、その紙を信じなければならないのか。
その後、交子務は廃止された。代わりに、専売の官署へ、現銭を蓄えて関子を発行するよう命じられた。
この問いが突いているものは、見かけより大きい。紙幣がいっそう国家の権威に頼るようになっても、準備金や、本当に引き換えられるのかという問題は、議論から消えなかった。匿名の交換手段は、確かに広がっている。それでも、誰が責任を負い、何をもって負うのかという背後の問いは、一歩も退いていない。民間の発行者に対して一度現れた問いが、今度は国家に対して、さらに大きな規模で現れたのだ。
十六の富裕な家から、一つの王朝へ。発行者は、何倍になったかわからないほど大きくなった。それなのに、根本の問いは、一字も変わらない。背後で誰が保証するのか。何を保証に差し出すのか。それを先に使ってしまわないか。大きくなったため、かえって危なくなるところもある。富豪が破産したなら、まだ訴訟を起こせる。家産を返済にあてることもできる。王朝が支払いを認めなければ、券を持つ者には、訴える先さえないのである。
会子の制度が本当に成熟するのは、紹興三十年以後のことだ。朝廷は銭端礼に会子を作らせ、現銭を用意し、城内外で流通させた。翌年、会子務は都茶場の管轄に入り、紹興三十二年には、偽造を処罰する法も定められた。
会子は初め両浙だけで使われたが、やがて淮南、浙江、湖北、京西へ広がった。多くの地域では、朝廷へ上納する金を、すべて会子で納めてよかった。長江沿いの州や軍の管轄地では、現銭と会子を半々にした。民間でも、田畑や家屋を質に入れたり売ったりする代金、馬や牛、舟や車の代金を、すべて会子で払うことができた。
これは、深いところへ届く一歩だった。会子は財政の道具だけではなくなり、土地、家畜、運搬の手段といった大きな資産の取引に入っていく。価値が、統一された書式を持つ紙の上へ、さらに徹底して換算されるようになった。
孝宗の代には、制度化がいっそう進んだ。二百文、三百文、五百文の額面を加え、乾道四年には、三年を一界、一界の限度を一千万貫と定める。界ごとに新しく刷り、古いものと換える。古い会子が破れていても、貫や百文を示す文字が残り、印を確かめられれば交換できた。一枚につき二十文の費用を取る。さらに州県から送る各種の金銭収入は、七割を現銭、三割を会子で受け取ることとされた。
期間、限度額、印の確認、手数料、納税に二つの貨幣を使う割合。すべてが、ひとそろいの目盛りへ収められる。曖昧だった信用を、帳簿の上で扱えるものにしようとする試みだった。
とりわけ、七割を銭、三割を会子とする決まりには、工夫が見える。税を一件受け取るごとに、自分の出した紙をどれだけ引き受けるか、官府自身が定めたことになる。賢いやり方だ。紙幣を最も強く支えるのは、蔵に現銭がどれほどあるかではなく、官府が自分で受け取るかどうかである。納税に使えるなら、人々は持っておかなければならず、それはまだ金であり続ける。だが、そこには弱みもある。受け取る割合を決めるのは、官府自身だからだ。減らしたければ、三割を二割へ変えれば済む。
やがて、その目盛りが、自分で自分の足場を崩し始める。
淳熙三年、第三界と第四界は、それぞれ三年間延長された。紹熙元年には、第七界と第八界が、また三年間ずつ延長される。臣僚は、ただちに問いただした。会子の期限は三年のはずなのに、延ばし、また延ばして、九年になってしまった。これで何を示して、人に信じてもらうのか。
鋭い問いである。ここでいう紙幣の信とは、抽象的な道徳の言葉ではない。以前に約束した期日は、今も有効なのか。その、ごく具体的な一点なのだ。
界の期限は、本来、古い紙幣を回収し、貨幣総量を再び制度の周期へ収めるためにあった。財政上の都合で何度も先延ばしすれば、もとの計測の秩序は、自分の手で自分を崩すことになる。
結果は、数字に現れる。慶元元年には、一界ごとの発行枠が、すでに三千万貫へ増えていた。嘉定二年、第十一界は回収を行ったあとも、一千三百六十万貫余りが残っている。第十二界は四千七百万貫余り、第十三界は五千七百万貫余りも残る。朝廷は、封樁庫から金を取り出し、さらに度牒を発行し、塩の専売収入も動員して、会子の値を支えようとした。度牒とは、官が僧に出す証明書のことで、売買することができた。
この光景は、少し眺めておきたい。初めに作られたのは、整然とした目盛りだった。三年で一界、一界は一千万、期限が来たら新しいものへ換える。それが支えきれなくなると、国家は金を出し、僧の度牒を出し、塩の専売から入る金を出して、紙の下へあてがったのである。
統一された目盛りから抜け出したものが、別の場所から、また姿を現した。
しかも、その支えは、一つごとに貨幣から遠ざかっていく。金なら、まだ貨幣の昔ながらの領分だ。塩の収入を使うのは、専売から将来入る金を担保にすることである。度牒は、もっと変わっている。官府が僧の身分を認める証書であり、本来は売買とは無縁のものだった。それが金になるというだけで、紙幣を支えるために使われる。「構」、組み立てられた秩序が持ちこたえられなくなると、つかめるものは何でもつかもうとする。そして、つかむものが雑多になるほど、もとの目盛りが、すでに役に立たなくなっていることを示す。
会子をめぐる議論は、交子よりも複雑だ。従来は、銅銭が足りない銭荒が、その登場を促したと説明されてきた。これに反対し、貨幣の総量は必ずしも不足していなかったとする研究もある。問題はむしろ、地域間の偏り、現銭と会子の両方を求める税制、どうしても削れない戦費の調達需要だった、というのだ。また、会子と交子の最大の違いは、会子では現銭への引き換えを確実には見込めず、不換紙幣に近づいたことにある、と見る研究もある。それでも使い続けられたのは、納税に受け入れられること、官府が現銭を出して買い戻すこと、界の期限に回収することなどに支えられていたからだという。
したがって、交子から会子への道は、紙幣が一方的に近代化していく道ではない。匿名化、標準化、財政との結びつきの比重は増していく。その一方で、準備金、界ごとの交換、納税での受け入れ、役所での受け取り、市場での割引といった古い問題が、ずっと絡みついている。
紙幣は、人との関係すべてから離れたのではない。離れたのは、ある商号、ある顔見知りの網に結びついた人格だけだった。そしてすぐ、もっと大きな人格へ結び直される。国家は、その勘定を引き受けるのか。
六 桑の皮の紙
元は、この実験を、さらに思い切ったところへ運んだ。
中統元年、すなわち一二六〇年、フビライは絹を裏づけとする交鈔を作り始めた。同じ年、さらに中統元宝鈔を発行する。額面は十文から二貫までの十種類。一貫は交鈔一両に等しく、二貫は銀一両に等しいとされた。
つまり、元初の新しい紙幣には、初めから明確に銀の錨があった。紙幣二貫を、銀一両に換える。一二七一年になると、元はさらに中統鈔を唯一の法定通貨と宣言し、ほかの金属貨幣は、名目の上では廃止された。
宋の試みとは、大きく違う一歩である。国家は、金属と並んで紙幣を管理するだけでは、もう済ませない。紙を、貨幣の中心の場所へ据えようとしたのだ。
マルコ・ポーロが目にしたのは、まさにこの体制の、最も目のくらむような一面だった。彼は、フビライが桑の皮の紙で貨幣を作り、官吏の署名や朱の印を加えると書いている。その紙があれば、帝国のどこでも、欲しいものが買える。また、その軽さにも驚き、金貨十枚分の額面を持つ紙幣が、金貨一枚よりも軽いと述べた。商人が金、銀、宝石を皇帝へ売ると、皇帝は紙で代金を払うのだ。
十三世紀のヴェネツィア人には、まさしく錬金術のように見えただろう。一枚の紙で、相手の持つ金を手に入れるのである。
その驚きには、本人も十分には言い表せなかったかもしれない、一つの層がある。故郷で貨幣といえば、金や銀であり、その金属自体に値打ちがある。ここでは貨幣が一枚の紙になり、想像を超える巨大な権力が、それに値打ちがあると言うから、値打ちを持つ。しかもその権力は、大都から江南まで、どこでも本当に人々にそれを認めさせることができる。彼が見たのは、一つの貨幣という以上に、統治の及ぶ広さだった。数千里にわたり、一枚の紙を通用させられる。それ自体が、国力を見せる行為なのである。
ただし、近年の研究は、その驚嘆に制度史そのものを代弁させてはならない、と注意を促す。西洋における中国紙幣の印象は、マルコ・ポーロの好意的すぎる叙述に形作られがちだったと、明確に疑問を呈する研究者もいる。その結果、前近代中国の不換紙幣の実験にも、多くの失敗、崩壊、後退があったことが、見落とされてきたというのだ。彼が見たのは、帝国の中心で最も壮大に、最も効率よく働く側だった。財政の先食い、地域ごとの割引、銀の静かな復帰、そして元末に至る最終的な崩壊は、その驚きの文章には入っていない。
そして銀は、実際には、ずっとそこにあった。
元は、民間の取引で銀を流通させることを禁じた。それでも大口の取引、とりわけ土地の売買は、なお広く銀で清算されていた。もっと見やすいのは、公式の交換比率だ。一二六〇年には二貫で銀一両だったものが、一三〇九年には二十五貫で一両になっている。そこから見積もると、この期間だけでも、年平均の減価率は、およそ五パーセントとなる。
ここは、立ち止まって考えてみたい。
名目の上では、紙幣だけが法定貨幣で、ほかはすべて廃止されている。ところが人々は、本当に大切な大口の売買では、胸の内に、もう一本の物差しを持っていた。それが銀だった。国家は、物差しは一本だと宣言できる。しかし、もう一本を、人の心から消すことはできない。
しかも、どんな場面で別の物差しを使うのかに、気をつけたい。土地を買うときなのだ。日々の細かな買い物なら、紙幣でも構わない。すぐにまた使ってしまうのだから。だが、子や孫へ渡す大きな財産となれば、もっと先を考える。十年後、二十年後にも、これは値打ちを保っているだろうか。長く残そうとする価値ほど、人は、その紙へ預けたがらない。この違いは、多くを語っている。紙幣は売買の仲立ちにはなれる。それでも、価値をしまっておく器には、なかなかなれない。そして後のほうこそ、人々が最も気にかけることなのだ。
元の紙幣史を、三段階に分ける研究がある。一二六〇年から一二七六年までは、銀への完全な兌換ができた時期。一二七七年から一三〇九年までは、名目上だけ兌換できた時期。一三一〇年から元末までは、法によって定められた不換紙幣の時期である。最初の段階では、余分な紙幣を銀で引き取ることができた。後の二段階では、その錨がしだいに弱まり、最後には、法律の強制による紙だけの貨幣へ変わる。
紙幣は、金属から一息に離れることに成功したのではない。銀本位から、弱まった銀本位へ、そして法定の不換紙幣へと、段を追って後退したのである。
七 紙幣に刷られた換算表
明は、紙幣をまた別の極端へ導いた。
洪武八年、一三七五年、明は大明通行宝鈔を発行する。現存する実物を見ると、その大きさがわかる。縦がおよそ三十四センチ、横が二十数センチ。楮の樹皮から作った紙に印刷されている。上には大きく「大明通行宝鈔」とあり、中央には、たとえば「壹貫」という額面と、銭を紐に通したものを十組並べた図がある。下には長い法文が刷られている。朝廷の承認を受けて製造し、銅銭とともに使用する。偽造した者は斬刑。告発した者には銀二百五十両を与え、犯人の財産は没収する。そのような内容である。
『明会典』によれば、紙幣一貫を銭千文、銀一両とし、四貫を金一両に相当するものとした。
これは、換算表一式を、そのまま貨幣の上へ刷り込んだに等しい。
貨幣に換算表を印刷する。その行為には、深い意味がある。この紙は金であるだけでなく、何と何をいくらで換えるか、その総則でもある、と宣言したようなものだからだ。一貫は千文、銀一両。四貫は金一両。すべてそこに書いてあるから、市場へ尋ねる必要はない。異なるものを同じ尺度へ載せようとする道のりで、答えそのものを印刷してしまう、珍しい試みだった。だが、市場の交換比率は、紙に書かれたことには従わない。印刷した比率を硬く固定するほど、現実の比率との隔たりは、かえって目につくようになる。
明初の野心は、宋や元よりも、いっそう直截だった。宝鈔の制度が整うと、金銀による取引も、物々交換も禁じられた。銅銭も流通から取り除かれ、一時は使用自体が禁止される。宝鈔だけが正当な貨幣だとする方向へ、制度を押し進めようとしたのである。
これは、それまでより徹底した通約の試みだった。国家は、金、銀、銅銭、そして商品のあらゆる交換を、印刷済みの額面と法令の内側へ折り込もうとした。ここで紙幣は、市場の媒介であるだけではない。すべての支払い手段を、一つの値付けの枠へ押し込むための、国家の道具でもあった。
そして明の問題は、ほかならぬ、その場所で噴き出した。
ある研究は、こう説明する。明の財政運営は適切でなく、とりわけ宋のように紙幣で効率よく税を取り、それを回収できなかった。そのため、宝鈔の値は大幅に下がり、十五世紀初めには、ほぼ機能を失った。その後、中国の市場は銀の地金を基準とする仕組みへ移り、明の財政計算や徴税も、しだいに銀を土台とするようになる。また別の研究は、前近代中国の不換紙幣の実験が、結局は近世初期のヨーロッパより成功していたわけではないことを、明が鮮明に示したと見る。一四三〇年ごろには、国家はすでに、紙幣を実際の流通の中心に据え続けることを、断念せざるをえなくなっていた。
失敗の説明をほどいてみると、少なくとも三つの見方が、並んでいる。
一つは、財政を成り立たせる仕組みの変化を重視する。宋・元で紙幣を支えたのは、貨幣化が進み、商業税や間接税に頼る財政だった。明初の財政は、もっと現物、徭役、強制的な動員に頼っている。国家は盛んに紙幣を出したが、回収も、税としての吸収も弱かった。出ていくばかりで、戻ってこない。
一つは、設計自体の欠陥を重く見る。宝鈔は、初めから財政の苦しさを和らげるための制度だった。貨幣が財政の手段にされた結果、過剰発行は、ほとんど制度の内側から生まれる帰結になっていた、という見方である。
もう一つは、もっと日常的な説明だが、間違いとは言い切れない。銀を禁じ、銅銭を禁じ、物々交換を禁じても、市場が、より確かに価値を保てるものを好むことまでは消せない。その結果、名目上の法貨と、実際の清算とが、ますます速く分かれていった。
三つとも、それぞれ筋が通る。合わせて見れば、むしろ明快だ。出しすぎたことが一方にあり、戻せなかったことがもう一方にあり、厳しく禁じすぎたことが、三つ目にある。発行、回収、禁止。その全部に問題があった。どれか一つだけなら、必ずしも致命傷にはならなかったかもしれない。だが、重なると持ちこたえられない。犯人を一つだけに絞るのは、難しいだろう。確かなのは、この制度が自分に求めたものは、自分でできることを、はるかに超えていたということだ。
明の紙幣の崩壊も、改めて同じことを示している。
金属から価値を引き離すことは、評判から自由にすることではない。むしろ、そのあとには、価値がいっそう集中して、発行者の評判、財政の力、法を実行することへの信頼に懸かる。納税、払い戻し、官の受け取り、官の支払い。そのあいだで、紙の出入りを閉じた輪として保てなくなれば、市場は価値を、銀や銅銭、あるいはもっと信じられる別のものへ、再び移してしまう。
のちに明が銀本位へ向かったことも、より進んだ仕組みの自然な勝利ではない。大規模な紙幣の実験が失敗したあと、社会が現実のなかで、自分をよりよく守れる、別の値付けと価値保存の仕組みへ退いたのだった。
八 金属を脱いだあと
この千年をまとめて眺めると、いちばんよい要約は、後世の理論よりも、当時の人々が残した三つの言葉のなかにある。
第一は、呂中の言葉だ。銭によって紙を流通させ、紙によって銭を調整し、子と母をともに通じさせる。紙と銭は、一方が他方に取って代わるのではない。二つの割合を保つのである。
第二は、紹興六年のあの問いだ。官に元手がなければ、民は何をもって信じるのか。元手もなく、信頼はどこから来るのか。
第三は、逆のことを言いながら、同じように真実を突いている。官が滞りなく受け取るなら、民の心はおのずと疑わない。国家が受け取るからこそ、民も信じるのだ。
三つを合わせると、この話の難しさが尽くされる。紙幣が立ち続けるには、一方に元手が、もう一方に受け取る者が必要だ。そして、その二つの端のうち、一方は物であり、もう一方は信なのである。
面白いのは、三つの言葉が、互いに少しずつ引っ張り合っていることだ。第二の言葉は、元手がなければ信頼もないと言う。第三の言葉は、官府さえ受け取れば人は信じると言う。一方は蔵のなかへ根を下ろし、もう一方は役所の態度へ根を下ろしている。そのあいだで第一の言葉が、二つの釣り合いを取り、どちらかへ偏ってはならないと言う。宋の人々は、このことを二百年にわたって論じ合った。そこから生まれた三つの立場は、のちのあらゆる貨幣理論が向き合うことになる、三つの位置でもあった。
ここまでに起きた変化は、実は、短く言うことができる。
複式簿記を見たとき、物差しは記帳の便宜のため、自分から身体を脱ぎ、流通しない純粋な数になった。交子では、流通する金のほうが、金属を脱いだ。
すると、貨幣に人が要らなくなったのではなく、いっそう人が要るようになった。銅銭は、誰が持っていても、それ自体が一片の銅だ。値打ちの半分は、自分のなかにある。紙は違う。その値打ちは百パーセント、ほかの者へ懸かっている。発行した者が支払いを認めるか。官府が受け取るか。来年も引き換えるか。
紙幣では、二つの向きへの変化が、同時に進む。流通の上では、いっそう匿名になる。誰が持ってもよく、素性を問わない。一方、土台のほうでは、いっそう人に結びつく。あの約束のほかには、何も持っていないからだ。
金属を取り除いたぶんだけ、評判にかかる荷は重くなる。こちらが軽くなれば、あちらが重くなる。
だから、紙幣の登場を、貨幣から人の顔が消え始める契機とするなら、おそらく話は逆だ。むしろ、人への信頼が初めて、舞台の正面へ押し出されたのだ。それまでは、発行者に寄せる信頼の重みを、金属が半分引き受けていた。紙幣になると、その信頼だけで、すべてを支えなければならない。そして支えられるかどうかは、地下にどれほど鉱石が埋まっているかでは決まらない。最も金の乏しい年に、一つの政権が、何年か前に自分でした約束を守る気があるかどうかで決まる。
余項も、ここで新しい顔を見せる。
これまでの篇で帳簿からあふれたのは、測れないもの、測ってはならないもの、あるいは測ったのに、何にも触れられていないものだった。今度は違う。あふれ出たのは、もう一本の物差しである。
元は、紙幣が唯一の法定貨幣であり、ほかはすべて無効だと宣言した。それでも土地の売買のような、本当に大切な商いでは、人々は胸の内で銀を使って数えた。明は金銀を禁じ、銅銭を禁じ、物々交換を禁じ、換算表まで紙幣に刷り込んだ。ところが十五世紀には、銀が再び、社会全体の本当の尺度になっていた。
構は、自分だけが物差しだと宣言できる。だが、人の心にある予備の一本を、消すことはできない。
その予備の物差しは、ふだんは黙っている。構そのものが信じられなくなり始めると、浮かび上がる。外から構を倒しに来たのではない。ずっとそこにあったのだ。構が自ら信を失うことによって、それを表へ呼び戻したのである。
禁令がいつも十分には効かない理由も、ここにある。どの禁令も、していることは同じだ。ほかの物差しを使わせないようにする。だが、人が別の物差しを求めるのは、それが使えるところにあるからではない。いま手にしている一本が、すでに正確でなくなってきたからである。禁令は代わりの品を取り除けても、代わりを探したくなる理由までは取り除けない。理由が残るかぎり、代わりのものは、いつか別の姿で戻ってくる。
では、代償は誰のところへ落ちるのか。ここまでの各節に、すでに書かれている。民間の交子で取り付けが起き、一貫が七、八百文にしか戻らなければ、損をするのは券を持つ人だった。古い交子四貫を新しい一貫へ換えれば、損をするのは古い紙を握っている人だった。会子の期限を延ばし、また延ばせば、損をするのは三年の約束を信じた人だった。明の紙幣が値を失えば、損をするのは、正直にそれを受け取った人だった。
出す側は、他人の信頼を先に使うことができる。その結果を引き受けるのは、いつも、最後に紙を手にしていた人である。
その紙には、このことを書く欄だけが、一度もなかった。
交子には額面がある。何界かが書かれ、符号があり、偽造者への罰則があり、一貫につき手間と墨の費用をいくら差し引くかまで記されている。何もかも書いてあるのに、期限に引き換えられなければ、誰が損失を負うのか、その欄だけはない。忘れたのではない。書けないからだ。書けば、この紙が通用しないかもしれないと、自ら認めることになる。そして、通用しないかもしれないと自分で認めた紙は、その日のうちに、もはや金ではなくなる。だから、ただ一つ肝心なことだけは、紙の外に残すしかない。最後にそれを持つ人へ、残すしかないのである。
勘定はいまだ合わず、記帳はいまも続いている。
中国語原文の論証と史料を基に、日本語読者のために構成と文章を新たに組み直した独立編集・再構成版です。 中文・English