水に似たり
本章の中国語原文
帛書の校訂本文 · 本注で採用した読み
上善似水。水善利万物而有静,居众人之所恶,故几于道矣。居善地,心善渊,予善天,言善信,正善治,事善能,动善时。夫唯不争,故无尤。
底本と句読点について
著者の『道德经注·君子不器』で採用した帛書の校訂本文に基づきます。甲本・乙本を参照し、校訂や補字を加えたもので、どちらか一方を一字ずつ写した翻刻ではありません。章番号は通行本に、句読点は本注に従います。閲覧言語を切り替えても、経文の中国語表記は変わりません。
一 「似」はたとえではない
上善は水の若し。
『道徳経』のなかで、いちばんよく引かれる一句である。
日本酒の銘柄にもなっている。書の掛け軸でも見かけるし、石に刻まれているのも見かける——たいていは流れる水の絵と、ひとくさりの叙情的な文章が添えられている。
だがこの四字は、引かれるとき、ほとんどいつも詩的なたとえとして読まれている——「最高の善は、水のように美しい」と。
老子は文人ではない。詩的なたとえをこしらえているのではない。
老子が「似」の字(あるいは「若」、あるいは「如」)を使うところでは、いつも構造にかかわることを言っている。
二つのものが、同じひとつのことをしている。
「似ている」のではない。構造が同じ——同型なのである。
「上善は水に似たり」は、ひとつの宣言である——最高の善と、水の動きとは、構造のうえで同じひとつのことだ、と。
この章を読みとくには、まず水が何をしているかを見なければならない。
水がどれほど美しいかを見るのではない。水の物理を見るのである。
二 水を見る
老子の時代、誰もが毎日、水を見ていた。
田に水を引く農夫は、水を見ていた。洗濯をする女たちは、水を見ていた。遊ぶ子どもたちは、水を見ていた。竿で舟を操る船頭は、水を見ていた。
水にはいくつかの特徴がある。どれも物理の事実であって、文学のたとえではない——
一 水は低いほうへ流れる。
重力のもとで、外から持ち上げる力がなければ、水は低いほうへ流れる。普通の渓流の話であって、水を高いところへ送れないという意味ではない。謙虚であろうとする意志を、水に与える必要もない。
二 水には決まった形がない。
四角い器に入れれば四角くなり、丸い器に入れれば丸くなる。水には、維持すべき「私はこういう形だ」という構がない——出会った境界に、そのまま沿っていく。
三 水は形をもたないが、石をうがつ。
ひとしずくの水では、何ひとつうがてない。だが、しずくが絶えず落ちつづければ、石に穴があく。水は自分の硬さで石に勝つのではない——絶えず続くことで勝つのである。
四 水には静けさがある。
水と力くらべをすれば、ふだん水はこちらに譲る。水の内側は、もともと静かだからだ——「争わなければ」という騒がしさを帯びていない。だが、低いほうへ向かう水の流れを本気で長くせき止めようとしても、一生もちこたえる堤などない。
どれも、農耕の社会に生きる人々が毎日見ていたことである。
老子は、何か玄妙な「水の徳」を説いているのではない——川べりの小川を指さして、こう言っているのだ。
水を見てごらん。水は、こんなふうに動いている。
三 「静有り」であって、「争わず」ではない
第八章の原文、第一句。
「水は善く万物を利して、静有り。」
水は、あらゆる草木に水を飲ませ、あらゆる獣の渇きをいやし、大地に生気を与える——これは水がしている仕事である。「何もしない」のではない。
だが水は、この仕事をするとき、「これをしなければ」という騒がしさを帯びていない。「自分が大切な存在だと証明しなければ」もない。「感謝されなければ」もない。
ただ、自分の物理に従って低いほうへ流れていく。流れたところが、おのずと潤う。
静有り——水の内側は、静かである。
この字の違いに気をつけてほしい。
帛書は「静有り」と書き、通行本は「争わず」と書く(「水は善く万物を利して争わず」)。
字の向いている方向が、まったく違う。
「争わず」と読めば、水が自分から、争いに加わらないことを選んでいるように聞こえる——水はもともと争いたかったのに、こらえることを選んだかのように。これでは水が、物理の対象から、意志をもつ主体へと引きずりこまれてしまう。
「静有り」と読めば、水の内側がもともと静かなのだと聞こえる——争おうという思いなど、そもそもない。水の動きは、意志による自制から出てくるのではない。水の物理としての性質そのものである。
一字の違いだが、言っていることの深さはまったく違う。
この字の違いが、なぜ大事なのか。
もし水が「自分から自制して争わない」のだとすれば、善いことをするのは、意志で保ちつづけなければならない美徳になってしまうからだ——争わずにいるたびに、自制の力を振りしぼらなければならない。これは道徳の修養である。
だが老子は、そういうことを一度も説いていない。
意志で保ちつづけなければならないものは、どれも、構を立てて力を費やしているのである。
水が善いことをしても、消耗しない。水の内側には、もともと「争わなければ」という騒がしさがないからだ——自制する必要がないのである。
これが「善く万物を利して、静有り」のほんとうの意味である——事をなす。だが内側に、「なさなければ」という騒がしさがない。
第二章の「不言の教え」の、物理版である。
四 低いところと、七つの場面
続く一句。
「衆人の悪む所に居る、故に道に幾し。」
たいていの人が嫌うものは何か。
低いところである。
誰もが上へ行きたがる——高い地位へ、体面の保てるほうへ、注目の集まるほうへ、権力のほうへ。低いところへ行くのは、失敗であり、卑しいことであり、見向きもされないことだ。
ところが水は、まさにその低いところにいる。
自分から低いところを選んでいるのではない——物理のうえで、低いところにいるほかないのである。
ここが、水と道の近いところだ——道もまた、「低いところ」にいるほかないものなのである。
道とは何か。道とは、普遍の余項である。余項とは、構を立てるたびに、いつもはじき出される部分だった——構が立てられたその高いところには、けっしていない。構が届かないところ、構では覆いきれないところ、その下に、いつもいる。
人は、自分を目立たせようとして構を立てるとき、いつも上へ向かって鑿を入れる——周りより高い位置を探して、そこに立とうとする。
だが道は、水と同じく、そうした高い位置にはいない。
道は、どの構も届かない、その下にいる。
だから「衆人の悪む所に居る」とは、自分から卑しい身に甘んじる美徳のことではない——道のいる構造上の位置が、そもそもそこにあるということなのだ。
「道に幾し」——「幾」は近い、ということだ。老子がここで精確な字を選んでいることに気をつけてほしい——「水は道である」ではなく、「水は道に近い」なのである。水は、あくまで具体的な物質であり、それ自身の物理的な限界をもつ。道は普遍の余項であり、どんな具体的な物質をも超えている。だが、水の動き方と道の動き方とは、構造のうえで同型である——だから水は、道にいちばん近い物なのである。
水の全体としての位置を語り終えると、老子は続く七句で、水の物理を、人がさまざまな場面でどう動くかに重ねてみせる。
「居は地を善しとし、心は淵なるを善しとし、予うるは天を善しとし、言は信を善しとし、正は治を善しとし、事は能を善しとし、動は時を善しとす。」
この七句は、「水のように生きよう」というたとえではない——水の物理を、人生の七つの場面で具体的に実行したものである。
居は地を善しとす——自分のいるべき位置を見つける。
水は低いほうへ流れる。居ることにすぐれた人は、自分の位置を見つけ、人と位置を争わない。誰かがやらなければならないことがあり、あなたにはそれができ、あなたはそれをした——そのとき、あなたがそのまま、その事をなす位置になっている。
心は淵なるを善しとす——心は深い水のように沈み、静かである。
深い水は急がない。逆巻かない。見せつけない。心のすぐれた人は、内側が騒がない。深い淵のように。
予うるは天を善しとす——与えることは、天が雨を降らせるように。
天が雨を降らせるとき、相手を選ばない——降るべきときに降り、「この土地にその値打ちがあるか」とは問わない。与えるときは、相手が必要としているものに従い、「与えてやる」という身ぶりを帯びない。
この一字には、大きな字の違いがある。次の節で、これだけを取りあげる。
言は信を善しとす——言葉は、水面の波紋のように偽りがない。
水面に波紋が立つのは、何かが落ちたからだ——ふりをしているのではない。言葉にすぐれた人の言うことは、ほんとうに内から湧き出たものであって、こしらえたものではない。
正は治を善しとす——治めることは、水が川筋をととのえるように。
水は地形に沿って流れる。よい治め方もまた、民自身のリズムに沿って進む。これは第三章の双方向の涵育と、じかに呼応している。
事は能を善しとす——事をなすことは、水が石をうがつように。
水が石をうがつのは、力をこめるからではない。絶えず続くからである。事にすぐれた人は、力ではなく、続けることに頼る。
動は時を善しとす——動くことは、潮の満ち干のように時にかなう。
潮が時を違えず満ち干するのは、水が自分で決めているのではない。天地全体のリズムの一部なのである。動くことにすぐれた人は、自分勝手に決めつけず、時の流れに従う。
七句を合わせれば、水の物理が七つのスケールで同型のまま展開されたもの、ということになる。
五 「予善天」であって、「与善仁」ではない
七句の三つ目——「予うるは天を善しとす」——は、この章にあるもうひとつの大きな字の違いである。
帛書は「予善天」——与えることは、天に従うことにすぐれる。
通行本は「与善仁」——人と交わることは、仁愛にすぐれる。
二字とも入れ替わっている——「予」が「与」に、「天」が「仁」に。
通行本のこの改字で、字の向いている方向はまったく変わってしまった。
「予うるは天を善しとす」——与えることの拠りどころは、天に従うことである。天の雨のように相手を選ばず、相手の必要に応じる。
「与うるは仁を善しとす」——与えることの拠りどころは、仁愛である。儒家の美徳としての「人との接し方」である。
違いはどこにあるのか。
「予善天」の「天」は、自然の法則である——天がどう動くか、そのとおりに与えることが進む。「与える者」という身ぶりを帯びない。
「与善仁」の「仁」は、人が立てた物差しである——「仁」を、人と接するときの基準にする。「仁か、仁でないか」という判断の枠が立てられる。
この改字は、たちまち第五章とぶつかる。
第五章はこう語っていた。「天地は仁ならず」「聖人は仁ならず」——老子ははっきりと、「仁」という物差しを外している。老子にとって仁は、初めから置かれている選択肢ではない。
通行本の「与善仁」は、その「仁」の字を押しこみなおしている——構造のうえでの効果として、この章は仁徳の物差しへと引き戻され、第五章の立場とのあいだに軋みが生じる。
この二つの文が本篇の読みに緊張を生むことは論じられる。ただし、「天」と「仁」の違いだけで、特定の時代や学派が意図的に本文を変えたとは断定できない。年代や動機には、独立した本文上の証拠が必要だ。ここで比べるのは読みに及ぼす効果であり、儒家の伝統全体を裁くことではない。
帛書の「予善天」は、読んだ感じが違う——与えることの拠りどころは、天に従うことであって、仁愛という美徳ではない。
この区別は、暮らしのなかではとても具体的だ。
「与善仁」に従えば——与えるとき、心のなかに判断がひとつある。「この人は、助けるに値するだろうか」「これは仁愛にかなうことだろうか」——与えることには条件がつき、「仁」の物差しでふるいにかけられる。
「予善天」に従えば——与えるとき、相手を値踏みしない。与えるべきときに与え、相手の必要に応じ、選ばない——天の雨が、降る土地を選ばないように。
二つの読みが言っていることの深さは、大きく違う。
六 争わないことは、争うことの反対ではない
第八章の最後の一句。
「夫れ唯だ争わず、故に尤(とが)無し。」
「尤」とは、怨み、とがめ、過ちのことである。争わないから、とがめがない。
この句は、処世術としてじつに読まれやすい——「人と争わなければ、人から恨まれない」と。それは世渡りの知恵であって、老子ではない。
老子が言っているのは、もっと根本的なことである。
「争わない」は、「争う」の反対ではない。
いちばん陥りやすい誤読は、「争わない」を「争いに加わらないことを選ぶ」と読むことだ——「争おうと思えば争えるが、争わないほうを選ぶ」と。
この読み方をすれば、「争わない」はひとつの自制になる——意志で保ちつづけなければならない美徳である。
これでは、たちまち老子の一貫した構造に背いてしまう。
老子の「争わず」のほんとうの意味は——「争う」を、初めから選択肢として置かないことである。
「争う/争わない」というこの物差しそのものが、水の動きのなかにはない。水が低いほうへ流れるのは、「地勢に打ち勝つ」ことでもなければ、「競争を降りる」ことでもない——水はそもそも、「争うべきか否か」という選択肢の枠のなかにいない。水にとって争いは、ひとつの選択肢ではない。そもそも起こらないことなのだ——選択肢の枠がなければ、選ぶということもない。
これは第五章の「天地は仁ならず」と、同じ一手である。
「天地は仁ならず」——仁に反対しているのではない。仁という物差しが、天地の選択肢にないのである。
「水は争わず」——争いに反対しているのではない。争いという物差しが、水の選択肢にないのである。
だが、ここでもうひとつの誤読を封じておかなければならない——
争いを初めから置かないことは、けっして争わないことと同じではない。
いちばんよく見かける誤読は、「争わず」を「永遠に争わない」と読むことだ——すると、こう問う人が出てくる。「老子は争わないことを説く。では、理不尽なことに出くわしたらどうするのか。争うべきことは、どうするのか」。
この読み方は、「争わず」をまたしても新しい、強いられた初期設定に仕立ててしまう——「けっして争わない」が、またひとつの物差しになる。
これもまた、老子に背いている。老子が「争う」をいま初めの位置から外したばかりなのに、読者はすぐさま「けっして争わない」を新しく初めの位置に据えてしまう。
ほんとうの「争わず」は、こうである——争いは、初めから置かれている選択肢のなかにない。だが、争うべきときには、やはり争える。
水は、争いを初めから置いてはいない。だが川の水は、峡谷にさしかかれば激しくほとばしる。洪水は、堤の前まで来れば堤を押し流す。しずくは、石をうがたねばならないとなれば、絶えず打ちつづける。
力をこめるべきところで、水はけっして退かない。
ただ、「力で押し返す」ことを、ふだんの構えにしていないだけである。
これは、老子自身がのちに語るいくつかのことと対応している——
第三十一章「兵は不祥の器……已むを得ずして之を用う」——兵を用いることを初めから置いてはいない。だが、やむをえないときには用いる。
第六十七章「慈なるが故に能く勇なり」——勇を用いることを初めから置いてはいない。だが、どうしても守らなければならないものがほんとうにあるとき、慈しむ者は誰よりも勇敢になる。
「争わず」は、初めからとっている構えであって、永久の禁止令ではない。
争いを初めから置かないことは、争えないことと同じではない。ただ、争いを第一の選択肢にしないだけである。
ほんとうに「やむをえない」に出くわしたとき——内側から、どうしてもせずにはいられないことに出くわしたとき——そこで争わないのは、その「やむをえない」を裏切ることになる——善き人は、やはりそれをなす。しかも、争いを初めから手段としている人たちより、弱いわけではない——ふだん無用の争いに費やさずにきた力を、すべてこの一度のためにとっておいたのだから。
だから、老子は人に弱くあれと教えているのではない。
老子が教えているのは、争いを、初めから置かれている位置から外すことである——争うまでもない場面で費やされる力を節約して、ほんとうに争わざるをえないその一度のためにとっておくことである。
七 上善とは方向である
この章を読み終えると、読者はついこう思ってしまう——
「上善は水の若し」は、ずいぶん高い基準に聞こえる。自分には、水のようにはなれない、と。
これもまた、「上善」を、越えなければならない終着点の敷居として読んでいるのである。
老子は一度も、そういう意味で言っていない。
第七章の「街じゅうの人がみな聖人だ」と、同じ構造である——
上善とは、ある方向に向けられた心の用い方であって、すっかり到達したひとつの実体ではない。
じつは自分のものではない位置を争わずにいるたびに——あなたはその瞬間、「居は地を善しとす」のなかにいる。
言葉をこしらえずに話すたびに——あなたはその瞬間、「言は信を善しとす」のなかにいる。
相手を選ばずに与えるたびに——あなたはその瞬間、「予うるは天を善しとす」のなかにいる。
七つすべてをやり遂げるまで待たなくていい。
どの瞬間にも、どの場面にも、一度ずつ機会がある——この瞬間に、この一つをなせば、あなたはその一瞬、「上善」の位置にいる。
ある瞬間にはいて、次の瞬間にはいない。その次の瞬間には、またいる——位置は瞬間ごとのもので、門はいつでも開いている。
老子が「上善は水に似たり」と言うのは、あなたの手の届かない高みを立てるためではない。
老子は、あなたにこう告げているのである——
水の方向は、そこにある。
あなたは、いつでもその方向へ一歩を踏みだせる。
その一歩を踏みだせば、あなたはその瞬間、上善の位置にいる。