Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
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大知道徳経解
第六章 · 全八十一章

渓谷と母

秦汉(大知)· Han Qin

本章の中国語原文

帛書の校訂本文 · 本注で採用した読み

浴神不死,是谓玄牝。玄牝之门,是谓天地之根。绵绵呵其若存,用之不堇。

底本と句読点について

著者の『道德经注·君子不器』で採用した帛書の校訂本文に基づきます。甲本・乙本を参照し、校訂や補字を加えたもので、どちらか一方を一字ずつ写した翻刻ではありません。章番号は通行本に、句読点は本注に従います。閲覧言語を切り替えても、経文の中国語表記は変わりません。

本章のもとになった論文を読む(英語・中国語)

一 玄妙に読まれてきた二千年

第六章は、身近なところから読める。谷を流れる水、母体に育つ新しい命。ここで借りるのは生成のイメージであって、どの川も枯れないとか、一人の母親が産み続けなければならないという話ではない。

ところが二千年このかた、この章は玄妙なものをたたえる讃歌として読まれてきた。

注釈家たちは「谷神」の二字を目にしたとたん、深遠なほうへと駆けだした。「谷のまんなかの虚空」だの、「虚霊の神」だの、「神を養って死なずにすむ法」だの——代を追うごとに、解釈は玄妙さを増していった。

だが老子が使っているのは、どう見ても、あの時代の誰もが毎日目にしていたものである。山あいの谷川。村の牝牛。

秘伝の行法を説いているのではない。

言っているのは、ごくありふれたことだ。

このことは止まらない。

二 「浴」と「谷」――まず流れを見る

本篇が用いる帛書の整理本文では、最初の字は「浴」。通行本では「谷」である。まず、この二つを並べておきたい。

ただし、字の成り立ちと、そこから何を読み取るかは別の話だ。「浴」は水を表す偏に、音を表す「谷」を組み合わせた字で、『説文解字』は身体を洗うこととする。「水を含む山谷」が本義だとは、そのまま言えない。ここで「谷」とどう通じるかは、この本文での用字の問題である。

山谷の「谷」から穀物の「穀」という意味が生まれた、と単純に説明することもできない。異体や字の通用、後世の簡体字を、古い注者がこの章を穀物の話として読んだ証拠にはできない。

それでも「浴」の字が、この散文に見せてくれるものはある。

谷の奥に隠れた神を探す前に、まず水辺へ目を戻してみる。水が供給され、目の前を流れてゆく。いま手にすくった一杯が、その流れのすべてではない。

これは渓流のイメージを手がかりにする読みであり、偏から唯一の正解を証明する話ではない。「谷」と読んでも、谷と水とのつながりは失われない。

この絵に沿って読み進めると、渓流、出産、綿綿とした持続、用いても尽きないことが一本の線でつながる。すでに現れた一つのものを、生まれてくる働きの全体と取り違えないことだ。

川は枯れることがあり、一つの命にも終わりがある。「不死」は、どの川も、どの身体も永遠に続くという保証ではない。生成の働きは、そこから生まれた一つの形では尽くせない、とここでは読む。

これが本篇の「浴神不死」からの道筋である。一つの絵を開くために、ほかの読みをすべて閉じる必要はない。

字形と語義

三 玄牝の門、天地の根

続く一句。

「浴神は死せず、是を玄牝と謂う。」

谷川の水の流れは止まない。このことを「玄牝(げんぴん)」と呼ぶ。

玄牝とは何か。

玄については、第一章で述べた。玄とは、鑿構循環そのものである。

牝は、めすである。といっても、のちの文化でいう「陰柔の美」のような、抽象的な「陰の原理」のことではない。老子の時代、牝のいちばん素朴な意味はこうだった——

子を産む母体。

だから、玄牝を合わせるとこうなる——

循環として働く、産む仕組み。

「神秘的な陰の原理」ではない。循環が、産むという次元で具体的にとった姿である。

水は谷川から、こんこんと流れ出る。
子は母体から、生まれ出る。

老子はここで、この二つをひとつに合わせている。

なぜか。

二つは、同じひとつのことが、異なるスケールで働いている姿だからである。

天地のスケールでは、止めようもなく湧き出る余項は、水の流れとして現れる。
生き物のスケールでは、止めようもなく湧き出る余項は、出産として現れる。

スケールは違っても、構造は同じである。

第四章はこう語った。道は井戸のようなもので、汲めば汲むほど湧く。人の造ったもののイメージである。
第六章はこう語る。道は谷川のようなもの、母体のようなものだ。命そのもののイメージである。

イメージが、しだいに根本へと近づいていく。人の造った井戸から自然の谷川へ、さらに命を宿す母体へ——もうこれ以上は絞りようのないところまで、一歩ずつ絞りこんでいく。

続く一句。

「玄牝の門、是を天地の根と謂う。」

門とは何か。出入りするところである。

玄牝の門——湧き出てくる入り口である。

無から有へ移る、その一瞬。大地を破って芽が萌え出る、その刹那。母体から新しい命が湧き出る、その刹那。

天地の根は、どこにあるのか。

この一句がほんとうに言っていることの深さは、ここにある——伝統的な宗教のイメージにある「神は天上にいる」「根は高いところにある」という図を、そっくりひっくり返しているのである。

老子は言う。

根は高いところにはない。根は、湧き出るそのひとつひとつの点にある。

無から有が生じる、その一瞬一瞬——それが天地の根である。

これは第一章の読みに通じる。「有」は「万物の母」の名であって、「有」が何かに名前をつけるのではない。母は高いところにいる生産者ではなく、生じることを可能にする位置である。

同じように、根とは宇宙の底にある何かの実体ではない。根とは、ひとつひとつの湧き出しが起こりうるようにしている、その構造である。

老子は上を見ない——天上に神を探しはしない。
下も見ない——宇宙の底に実体を探しはしない。
いちばん近いところを見る——水が谷川から流れ出る、そのひとつひとつの点を。子が母体から出てくる、そのひとつひとつの点を。

天地の根は、そこにある。

四 綿綿であって、轟然ではない

次の一句。

「綿綿として其れ存するが若し。」

綿綿とは、細く長く、途切れずに続くことだ。蚕が糸を吐くのに似ている。一本一本はごく細いが、けっして切れない。

「其れ存するが若し」——在るようでもあり、在らぬようでもある。

これは、第四章の「湛として、或いは存するに似たり」を、言い方を変えて言いなおしたものである。

余項の働きは、なぜ綿綿としているのか。

余項の働きは、けっして轟々と姿を現すものではなく、細やかに、絶えずそこに在るものだからである。

谷川の流れは、まさにそうだ。谷川が「力をこめて流れている」ところなど、誰も見たことはない。ふと気づけば、水はいつも流れていて、止まったためしがない。一滴一滴はごく細いが、綿綿として絶えない。

命が育つ過程にも、ゆっくりした積み重ねが見える。見えないところで日々変わり、ある日、新しい姿が現れる。どの妊娠も順調だという保証でも、出産の苦しさを消す話でもない。大きな変化が、いつも大きな音を立てるとは限らないということだ。

湧き出しの仕組みは、いつも綿綿としている。轟然とではない。

これは第四章の「湛として、或いは存するに似たり」と、まったく同じことだ——

目を凝らして探せば、見つからない。それは構ではないから、つかめない。
探さずにいれば、そこにある。それはあらゆる構に共通する条件で、いつも働いているから。

構をきつく締めるほど、余項は逃げる。
構をゆるめるほど、余項は現れる。

この章は同じことを、水と母体のイメージに移して、もう一度語っている。

水が供給されていれば、渓流は流れ続けられる。通り道をふさぐと、流れる先や水のたまる場所が変わる。ここで言いたいのは、すべての障害が悪いということではない。自分による制御を、流れそのものと取り違えないことだ。

もっと日常的な場面を考えよう。子どもが自分で言葉を組み立てているのに、横から大人が次々と続きを言ってしまう。その子の言葉が出てくる前に、ほかの人の答えが場所を埋めてしまう。

支えることと、代わりに仕上げてしまうことは違う。出産のイメージも、医療の要否を決める根拠にはならない。必要な医療の支えは、命を守るためにある。

「綿綿として其れ存するが若し」——細やかに、絶えず、人目を引くこともなく、そこに在る。

これが、湧き出しのありのままの姿である。

五 「尽きず」であって、「勤れず」ではない

最後の一句。

「之を用うれども堇(つ)きず。」

「堇」は「尽」に通じる。用いても尽きない。尽きることがない、ということだ。

通行本は「之を用うれども勤(つか)れず」と書く。用いても骨が折れない、という意味である。

一字の違いだ。

だが、字の向いている方向はまったく違う。

帛書の「堇きず」——用いても尽きない。字が強調しているのは、尽きないことである。湧き出す仕組みとしての余項は、いつまでも湧きつづけ、涸れることがない。
通行本の「勤れず」——用いても骨が折れない。字が強調しているのは、手間のかからなさである。力を入れなくても使える、と。

どちらの読みも成り立つ。だが、言っていることの深さが違う。

通行本の「勤れず」は、この章を「上手な使い方」の筋へ引っぱっていく。老子が、何かを楽に使いこなすコツを教えているかのように。

帛書の「堇きず」は、この章を「湧き出す仕組み」の筋につなぎとめる。老子が語っているのは、けっして涸れることのない働きなのだ。

章全体の筋は、湧き出しである。

浴神は死せず——湧き出しは止まない。
玄牝の門——湧き出しの入り口。
綿綿として其れ存するが若し——湧き出しのありさま。細やかで、絶えない。
之を用うれども堇きず——湧き出しの仕組み。尽きない。

四句を、一本の筋が貫いている。

通行本の「勤れず」は、この筋の最後の一句で向きを変えてしまった。向きが変わると、章全体がどこかばらけて読める。前の三句は湧き出しを語っているのに、最後の一句だけが唐突に「楽に使える」話になる。リズムが途切れるのである。

帛書の「堇きず」は、この筋を最後まで歩ききる。

では、湧き出しはなぜ尽きないのか。

それが満たされた容器ではないからである。

容器は、使えば減る。桶に水を張って、ひしゃくで一杯汲めば、一杯ぶん減る。

だが余項は容器ではない。余項は過程である。鑿構循環が回っているかぎり、余項は湧きつづける。

谷川は明日も水を流す。次の母体が、また次の命を産む。

尽きないのは、蓄えが多いからではない。そもそも蓄えではないからだ。それはいつまでも湧き出しつづける仕組みなのである。

六 同じことを、もう一度

第六章は、第四章をもう一度演じなおしたものである。

第四章は、人の造ったもの——井戸——のイメージで、止めようのない余項の湧き出しを語った。
第六章は、命そのもの——谷川と母体——のイメージで、同じことを語る。

なぜ、もう一度語るのか。

イメージの層が違うからである。

井戸は人が造ったものだ。井戸の水は、人が掘って出したものである。読者はこう考えるかもしれない。井戸はしょせん人の造ったものではないか。「之を用うるも有た盈たざるなり」も、人工物にそなわる性質にすぎないのかもしれない、と。

老子はイメージを、谷川と母体へ絞りこむ。どちらも人の造ったものではない。これは、命そのものが働く仕組みである。

第六章まで読めば、読者にはもう「人工物の性質にすぎないのかもしれない」という逃げ道は残っていない。

止めようのない湧き出しとしての余項——それは天地のありのままであり、命のありのままである。

人の造ったものの外にあるのではない。内にあるのでもない。

世界とは、ただそのように動いているものなのだ。


第六章は、じつは何も新しいことを言っていない。第四章の命題を、別のひと組のイメージでもう一度語っているだけである。

なぜ、そんなことをするのか。

人が本を読むとき、抽象的な命題は一度読んだくらいでは素通りしてしまいやすい。だがイメージの層が切り替わると、読者はあらためて目にすることになる——

ああ、これは同じことだ。
ああ、別のことに見えたあれも、同じことだったのか。
ああ、なにもかもが、このひとつのことだったのだ。

道を井戸として書いても、このこと。
道を谷川として書いても、このこと。
道を母体として書いても、このこと。

第六章を読み終えるころには、読者はもう異なるスケールで起きている、同じひとつのことを目にしている。

このあとの章も、同じように進んでいく。ますます多くの、異なるイメージを使って、同じことを語りなおしていく。語りなおされるたびに、読者はもう一度それを見る。見える人には、それが同じひとつのことだと、いっそうはっきりしてくる。見えない人は、美しいたとえをたくさん読むことになる。

老子は強調しない。説明しない。論証しない。

ただ、さまざまなイメージで、同じひとつのことを何度でも敷き広げてみせるだけである。

綿綿として其れ存するが若し。

之を用うれども堇きず。