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Non Dubito

協力の歴史を読む · 歴史を読む 03

制裁の下で、一袋の小麦粉が届くまで

イラク · 1990—2003年

石油は売れても、代金は管理された口座を通る。食料は入ってきても、暮らしに必要なのは食料だけではない。「石油・食料交換計画」をたどり、共同の決定から食卓への道と、食卓から決定を問い直す道を考える。

Han Qin ·

実際の出来事を扱う歴史随筆です。事実、裁判上の判断、当事者の説明、筆者の解釈を分けて読み、各篇が示す時期の範囲で考えます。現行の法律や外交・医療実務を案内するものではありません。

1997年3月、「石油・食料交換計画」による最初の食料がイラクに到着した。名前だけ聞けば、石油を出して食料を受け取る、直接の交換のように思える。実際に通らなければならない道は、もっと長かった。[1]

まず石油の輸出が許可され、その収入が国連の管理するエスクロー口座に入る。物資の購入申請は所定の手続を経て、その後に輸送と配給がある。主に使われていたのは、イラク自身が石油を売って得た金だった。外から寄付された食料を配るだけの仕組みではなかったのである。[3]

一袋の小麦粉がこの道を通るところを追うと、異なる問いに出会う。誰が搬入を認め、誰が金の使い方を決め、誰が届けるのか。そして、遅れたり、足りなかったり、届いても暮らしの困難が解消しなかったりするとき、誰が最初の取り決めをもう一度見るよう求められるのか。

小麦粉が届くことは、大切なことだ。だが、その仕組みが食料を届けられることと、その下で暮らす人が自分の問題を決定の側へ伝え返せることは、同じではない。

国家に向けられた禁令が、暮らしに届く

この歴史を、ただ制裁を受けた側としてのイラクから始めることはできない。1990年8月、イラクはクウェートに侵攻した。8月6日、安全保障理事会は国連憲章第7章に基づいて決議661を採択し、貿易と資金の制限によって撤退要求を守らせ、クウェートの合法的政府の権限を回復させようとした。制裁の発端には、一国が武力で隣国を侵したという、省けない事実がある。[2]

決議は、定められた範囲の貿易や資源の供給を各国が阻止するよう求めた。同時に、厳密に医療目的の物資を例外とし、食料にも人道上の状況に応じた例外を設けていた。文字どおりあらゆる薬や食べ物を禁じた命令ではない。しかし、例外が書かれていることと、病院や家庭が必要なものを実際に手にできることのあいだには、資金、許可、輸送、設備の問題が残っていた。[2]

命令はニューヨークの文書の中で止まらなかった。各国は、自分たちが管理できる貿易、支払い、輸送の過程で制限を実施する。共同の決定は、そうした具体的な行為を通じて現実の制約となる。最後の関門を各国が守っているからといって、国際的な決定には作用がないとは言えない。

同じように、実施する側にもそれぞれの責任がある。どの制限がどこから来たのか、国内でどう実施したのか、何の搬入を認められるのか、どこで遅れたのかは、分けて調べなければならない。共同で決めたことだからといって一つ一つの実施が自動的に免責されるわけではなく、国内で実施したからといって共同の制度設計がもう答えなくてよいわけでもない。

1991年の戦争後、国連の機関横断的な調査団は、深刻な人道上の危機が迫っているとすでに警告していた。同年には、イラクが一定範囲で石油を売り、人道上の必要に充てる案が出たが、イラク政府は受け入れなかった。その後、1995年の決議986によって石油・食料交換計画が設けられた。1996年に実施の取り決めがまとまり、石油輸出が始まったあと、食料が届いたのは翌年だった。[3]

これらの日付のあいだは、何もなかった時間ではない。後に計画ができたことは、初期の困難が遅れずに処理されたことを意味しない。政府がかつて案を拒否したことも、選択したのは一方だけだったという物語にするために切り落としてはいけない。誰が違う行動を取るべきだったかを考えるなら、すでに各側が行った決定を、まず視野に残す必要がある。

もう一度戦争を起こしたくはないが、侵略を何もせずに見過ごすこともできないと考えた人々にとって、経済的圧力には理由があった。その理由は真剣に受け止めたい。しかし、爆弾を使わないことは、暮らしに代償がないことではない。圧力が生まれるかどうかと、主として誰がその圧力を受けるのかは、なお分けて見なければならない。

食料があれば、それで足りるのか

エスクロー口座は、石油収入の一部を人道物資の輸入につなぎ、使途を管理した。中部と南部では、国連の監視の下でイラク政府が配給を実施し、北部の三県では国連が計画を実施した。国中の食料を同じ機関が同じ方法で届けた、と言えば、実際の分担を取り違える。[3]

収入、承認、到着は、同じ数字ではない。国連の2003年の事業総括は、承認済みの契約、到着済みの物資、まだ生産や輸送の途中にある供給を区別し、収入は石油価格や輸出条件の影響を受けるとも説明している。承認が一件あったことを、一袋の小麦粉がすでに手渡されたこととして数えてはいけない。[1]

契約を審査する方法も、途中で変わっている。2002年に新しい手続が始まると、制裁委員会に審査のため送られるのは、それまでのような人道物資の契約の大半ではなく、主に物品審査リストに載った品目を含む契約となった。一つの固定した承認手続の図で、計画の全期間を覆うことはできない。[1]

これは単なる事務の煩雑さではない。どの関門を緩め、どれを残すかで、何がいつ届くかが変わりうる。反対に、資金がなかったり物資がまだ運ばれていなかったりすれば、承認済みの契約を一つ増やしただけでは、その分の生活保障が増えたことにはならない。

食料配給は、実際に多くの人の暮らしを支えた。制裁の中の計画だからといって、価値がなかったとすることはできない。だが、人間は必要なカロリーを埋めれば済む表ではない。配給を受け取れる暮らしと、自分の収入で適切な食料を買い、仕事を続け、家族を世話できる暮らしは、違う。

2003年9月、国連食糧農業機関と世界食糧計画の現地評価は、食料が供給されていることと、人々がそれを手にできることを明確に分けた。市場や国内生産に食料があっても、家庭に購買力があるとは限らない。報告はまた、戦争、制裁、干ばつ、経済の衰退をあわせて検討しており、すべての困難を一つの原因だけで説明してはいない。[4]

互いに代わりにならない二つのことがある。食料を届けた仕事は評価に値する。それでも、なぜ社会がこれほど配給に頼らなければならなくなったのかは、問い続ける価値がある。前者を認めるために後者をやめる必要はなく、後者を指摘するために、確かに届いた物を軽く見る必要もない。

暮らしを立て直す仕事は、物資の一覧より長い。水、電力、医療、収入は互いにつながっている。食料が増えることはとても重要かもしれないが、それだけで傷んだ生活のつながり全体が動き始めるわけではない。救援を拒むのではない。救援が果たした部分を、そのほかもすべて終わったこととして書かないための区別である。

確かめられない数字に、語らせない

イラク制裁をめぐって最もよく知られ、検証されないまま繰り返されやすい論争の一つが、子どもの死亡である。2000年、アリとシャーは1999年の調査に基づく研究を発表し、中南部では戦争と制裁の時期に子どもの死亡率が大きく上昇したと報告した。当時、広く影響を及ぼした研究結果であり、なかったことにはできない。[5]

しかし、それをそのまま、いま確定している損失の総計として扱うこともできない。2017年、ダイソンとチェトレッリは戦後の複数の世帯調査を比較し、それらは従来言われた長期的な大幅上昇を裏付けないとした。そして1999年の中南部のデータが操作されたという重大な判断を示した。根拠を伴った研究上の批判として、誰がいつ述べたかを明らかにする必要がある。裁判所が認定済みの事実へ、いつの間にか置き換えてはいけない。[6]

そこで本篇は、衝撃的な子どもの死亡総数に、文章全体の代わりをさせない。後の批判を1991年へ持ち込み、当時の人が後の研究をすべて知っていたかのようにも書かない。新しい分析によって常用されていた数字が維持できなくなっても、戦争、経済的制限、暮らしの困難そのものがなかったことにはならない。

悪化した時期があったことから、その損失の何割が制裁、何割が戦争による破壊、政府の選択、その他の条件に属するかを、ただちに計算することもできない。見せかけの精密さを拒むのは、責任を調べることの拒否ではない。責任を問う一歩一歩に、それに見合う証拠を求めることである。

大きな数字を使わなくても、具体的な問いは残る。配給を受ける人は、自分が受けた影響を理由に、独立した場所へ、その取り決めを審査するよう求められるだろうか。

ここで参照した制裁決議と物資申請の手続には、国家からの報告、契約の申請、審査、支払いがある。申請はしばしば常駐代表部や国連機関から提出される。だが、それによって、一般の住民が広範な制裁による自分の被害を直接訴え、賠償の裁判を受ける個人のための法廷ができたわけではない。[2][7]

誰も発言できなかった、ということではない。研究者は調査でき、支援機関は報告でき、国家は変更を求められる。住民の表現も完全になかったわけではない。それでも、誰かが困難を代わりに報告することと、自分の請求を扱う手続を自ら始められることは異なる。ここで考えるのは後者の道であり、世界にほかの声がなかったと宣言するものではない。

後のカディ事件にある個人の除名手続を、この歴史にもともと存在した入口として書き足すこともできない。広範な貿易制限の下で暮らす住民は、一人ずつ削除を求められる対テロ名簿の名前ではない。措置の対象を絞れば、一部の波及的な負担を減らせるかもしれない。しかし、そこには別の問いが生まれる。なぜ、この人なのか。

カディ事件と並べるのは、悪い制裁からよい制裁へ進む一本道が見つかった、という意味ではない。対象、圧力のかけ方、利用できる法秩序は異なる。比べたいのは、人がどう決定に関わり、その決定にもう一度自分と向き合うよう求める機会をどう得るか、ということだ。

一袋の小麦粉が制裁の下でも届くには、多くの人が仕事を成し遂げる必要がある。届いたとき、それは本当の支えになりうる。それでも、食卓は道の終点ではない。そこに座る人は、なお尋ねられる。なぜこの暮らしが自分にもたらされたのか。どの制限が今も必要なのか。誰が自分の理由を聞き、誰が変える力を持つのか、と。

史料と読み方について

これは実際の歴史を読む随筆であり、場面の創作でも現行法の案内でもありません。史料が記録する事実、当時の法的判断、機関自身の評価、筆者の解釈を区別しています。記録にない内心や対話は補わず、複数の被害者を一人の人物に組み合わせることもしません。英語版は英語の読者に向けて独立に書かれ、簡体字・繁体字の中国語版はいずれも全文です。本篇の日本語は、現在の中国語の随筆を底本に独立に書き直しました。題材選びを助けた最初の調査報告は、以下の原資料に代わるものではありません。また、異なる組織をすべて、理論が扱う「共通の強制的な上位者を持たない協力」とみなすわけではありません。希望する方は哲学的背景の前置論文(英語・中国語)も読めます。歴史は理論を立証するための例ではなく、問いを試す相手です。

  1. 国連イラク計画事務所:計画の概要、2003年11月21日

    当時の機関による総括。1997年3月の最初の食料、承認と到着の違い、石油価格による制約、2002年の物品審査リストの手続を確認します。計画の成果についての機関の評価であり、そこから制裁の正当性が決まるわけではありません。

  2. 安全保障理事会決議661(1990年):米国財務省所蔵の全文

    1990年8月6日。前文と実施段落2〜7にある貿易・資金の制限、医療と人道上の食料の例外、国家による実施と委員会の職務を参照します。1990〜2003年の制限が、すべてずっと同じだったとは推論しません。

  3. 国連イラク計画事務所:計画の背景

    1991年の提案に対するイラクの拒否、1995年の決議986、1996年5月の合意と12月の実施、収入の管理と地域別の実施分担を説明しています。機関による歴史の説明が、実施全体についての独立した検証に代わるわけではありません。

  4. FAO/WFP:イラクの作物、食料供給、栄養の評価、2003年9月23日

    要点と第2節、第8節。購買力、配給への依存、戦争・制裁・干ばつの複合的な影響を参照しています。2003年の戦争後の状態を1990年代全体へ直接さかのぼらせず、報告内で再紹介される1999年の死亡率推計も採用していません。

  5. アリ、シャー:イラクの制裁と子どもの死亡率(2000年)

    『The Lancet』第355巻、1851〜1857ページ。原調査研究の索引・要旨です。後に疑問を呈された当時の結論を示すために用い、制裁による死亡総数の確定値には用いません。

  6. ダイソン、チェトレッリ:イラクの子どもの死亡率と経済制裁をめぐる見方の変化(2017年)

    『BMJ Global Health』2:e000311。著者の大学リポジトリに置かれた出版版です。後の調査の比較とデータ操作についての判断には、著者と日付を明記します。司法判断とはせず、ほかに記録されている困難をそれによって消すこともしません。

  7. 国連イラク計画事務所:物資申請手続の集成

    導入と申請・支払いの部分。代表部や国連機関が提出する物資申請、商取引と管理口座の手続を扱います。住民が始める損害賠償の審理手続ではありませんが、それをもってあらゆる働きかけや国内の道が存在しないとも断じません。

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