構が居場所を与えられない身体
ピストリウス事件は、義足に優位性があるかどうかという問いに、単純な答えを与えた事件ではない。比較の基準となる身体が存在しないとき、制度は不確かさと立証責任をどう配分するのか。その問題を浮かび上がらせた事件だった。
この篇の目次
一 見ることのできない問い
まず、この篇で何を問うのかをはっきりさせておきたい。すべてはその問いにかかっている。そして、その問いには直接答えることができない。
炭素繊維製の義足で走る選手が、健常の選手たちとオープンの大会で競おうとする。競技団体が判断しなければならないのは、その義足が、義足を使わない選手に比べて、競技全体を通じた優位を彼に与えているかどうかだ。
この判断を正面から問いの形にすると、反事実的な問いになる。もしこの選手が、あの義足ではなく、欠損のない生身の脚を持っていたら、同じ種目をどれくらいの速さで走るだろうか。
ところが、この問いの答えは観測できない。
欠損のない生身の脚を持つ彼は、存在しない。彼には膝から下の脚がない。生身の両下腿を再び生やし、一度走ってもらい、義足で走った記録と比べる。そんな実験はできない。脚を失った選手について、そのような世界の状態を実験で目にすることは、いつまでも不可能なのだ。
ここでは少し立ち止まってほしい。これまでの篇で扱った不確かさとは、性質が違う。ビーモンのあの一跳びに標高がどれだけ寄与したか。その寄与は原理的には存在する。ただ、ほかの要因と絡み合って切り離せない。これは分離の難しさだ。ランニングシューズがどれだけエネルギーを節約するか。これも原理的には測れる。ただ、個人差が大きい。これはばらつきの難しさだ。ここでの難しさは、もっと根底にある。比較しようとする相手が、そもそもこの世界にいない。隠れているのでも、測れないほど小さいのでもない。初めから生み出されていないのだ。生身の下腿が切断されると、その脚が出したはずの記録も、脚とともに、観測可能なものの中から消えてしまう。構が比較の基準にしようとする場所には、空白がある。
研究者は別の方法で、そこに近づくしかない。他の選手と比較する。同じ選手の義足の設定を変える。シミュレーションを行う。人体計測の知見から身体を再構成する。統計的に予測する。あるいは、それらを組み合わせる。スポーツ仲裁裁判所はリーパー事件で、この点を明言している。ある選手に四肢の欠損がなかった場合の成績予測は、根拠のある推定にはなっても、科学的に検証できる事実にはならない。そこには取り除けない不確かさが残る。
だから、この篇はこれまでのどの篇とも違う。
これまで構が向き合ってきた問題には、多少なりとも観測可能な事実の核があった。ビーモンの跳躍のうち、どれだけが標高のおかげなのかは計算しきれない。それでも変数は存在し、測定もされている。ただ、切り分けられない。第十二篇で、あのシューズによる記録を認めるべきかどうかは価値判断の問題だったが、論争の双方が拠って立つデータは観測できるものだった。今回は、計算しきれないというだけでも、価値判断だけの問題でもない。判断しようとするその事実が、物理的に存在せず、見ることができないのである。
事実を見ることができないとき、構はどう裁くのか。
この問題は、この篇だけのものではない。あらゆる測定の制度が、遅かれ早かれ突き当たる壁だ。測ることを仕事にする構の権威は、見えるもの、量れるものの上に築かれている。だが、判断しなければならない対象の中には、どうしても視野の外に落ちるものがある。これまでの篇では、見えないものにも、何らかの方法で近づける余地があった。散逸した原文、絡み合った原因、選ばれなかった選択肢。今回は、その見えないものが、一度も存在したことのない身体なのだ。見る、測るという構の最も根本的な能力が、見るべきものも測るべきものもない問いを前にして役立たなくなる。そのとき構は、手に負えないと認めるか、対象を見ることに頼らず裁定を下す方法を見つけるしかない。立証責任が、その方法になる。
この篇で語るのは、そのことだ。答えは意外でありながら、じつに筋が通っている。真相を確定できないとき、裁定は一つ手前の問いへと戻る。真相を確定できない代償を、誰が負うのか。その答えが、立証責任の配分だ。誰に立証責任を負わせるか。その配分が、そのまま裁定になる。
二 三つの段階を混ぜてはいけない
ピストリウスの話に入る前に、一つ約束事を置いておこう。この篇でいちばん混乱しやすいのは、ここだからだ。分けておかなければならないことが三つある。一緒にすると、すべてがわからなくなる。
一つ目。研究室が、力学的あるいは生理学的な差を測定した。
二つ目。競技団体が、その差を「優位」と呼んだ。
三つ目。仲裁の場で、その競技団体が、ある規則のもとで競技上の総合的優位を立証したかどうかが裁かれた。
この三段階は、それぞれ別の命題である。差が測定されたからといって、その差が優位であるとは限らない。優位と呼ばれたからといって、総合的な優位が法的に立証されたことにもならない。
日常の議論では、この区別がほとんどいつも消されてしまう。そこから、よくある誤解が生まれる。義足は生身の足首より多くの弾性エネルギーを返す。そう聞くと、直感的に、それなら有利に決まっている、義足を使えば得をするはずだと思ってしまう。けれども、弾性エネルギーが多く戻るというのは、切り離された一つの力学的事実にすぎない。それを優位と呼ぶには、競技全体を通して得られる利点が、同時に生じる不利を上回ることを示さなければならない。たとえば、発揮できる力の小ささ、加速の遅さ、安定性の低さを差し引く必要がある。さらに、法的に成立する総合的優位とするには、一定の立証基準のもとで利点と不利を比較衡量し、明確な結論に至らなければならない。余分に何ジュール戻るのか、という話から、競争で得をしている、という話までには、幅の広い溝が二つある。その溝を渡ろうとするたびに、観測できない反事実が行く手を阻む。
ピストリウスを例に取ろう。2007年、国際陸上競技連盟は、ドイツのケルン体育大学のブリュッゲマンのチームに検査を委託した。研究では、両脚を膝下で切断した選手一人、つまりピストリウスと、健常の短距離選手5人が、屋内の直線走路を60メートル走った。研究が挙げたのは、接地中の機械的仕事が小さいこと、義足の足首に相当する部分・膝・股関節の間で仕事の配分が大きく違うこと、脚の質量が小さいこと、ブレードが吸収する機械的エネルギーに対して、返されるエネルギーの比率が高いことだった。そこから研究は、この義足なら、より小さな代謝コストで同等の短距離走の成績を達成できるかもしれない、と推論した。
これが第一段階、測定と推論である。研究者自身が使った表現は、これらの測定が「一つの仮説を導く」というものだった。仮説であって、結論ではない。機械的仕事から導いた推論であり、存在しない、生身の脚を持つあの選手を、実験によって直接再現したわけではない。
国際陸連の公式の要約は、さらに踏み込んだ。同じ速度で走る場合、ピストリウスが使うエネルギーは、健常の走者より約25パーセント少ない、とした。これが第二段階だ。測定されたことを、優位と呼ぶ。
本当に争われたのは、力学的な差が測れたかどうかではない。差は測れている。争点は、それらの測定によって、スタート、加速、カーブ走、疲労、発揮できる力の上限、そしてさまざまな不利まで含めた、競技全体としての優位が確立されたかどうかだった。
この第三段階は、研究室での測定ではなく、法的な裁定である。三つの段階を分けることが、この篇全体の土台になる。
なぜ分けなければならないのか。それぞれについて、どこまで確かなことが言えるかが、まったく違うからだ。第一段階の測定は、確定できる。力学の数値はそこにある。第二段階、その測定を優位と呼ぶことには、すでに解釈が入る。その差が成績にとって有利か不利かは、競技全体の中に置いて判断しなければならない。第三段階、総合的優位が立証されたかを裁くのは法的な行為であり、立証基準に照らして双方の証拠を量ることになる。この三つを混ぜると、第一段階の確実さが、いつの間にか第三段階に貸し出されてしまう。力学的な差は確かだから、総合的優位も確かなはずだ、と。しかし実際には、確かな力学的差から、争いのある優位へ、さらに直接には立証できない、利点と不利を差し引いた総合的優位へと進むにつれ、確実さは一段ずつ小さくなっていく。
三 立証責任は誰が負うのか
2008年1月14日、国際陸連の理事会は、ピストリウスが使う「チーター」義足が規則144.2条第5項に違反すると認定し、その義足を使用している間は、国際陸連規則に基づく競技に出場する資格がないと発表した。
これは単なる科学上の声明ではない。出場資格についての裁定だった。
ピストリウスはスポーツ仲裁裁判所に不服を申し立てた。2008年5月16日、二日間の審理を経て、仲裁裁判所は彼の申立てを認めた。国際陸連理事会の決定を即時取り消し、この事件で審査された義足を使って、国際陸連が認める大会に出場する資格があるとした。
この裁定の要点は、仲裁裁判所が義足には優位性がないと認めたことにはない。そんな認定はしていない。要点は、立証責任を誰が負っていたかにある。
2007年の規則144.2条第5項が禁じていたのは、優位を「与える」装置だった。文の構造からも法律の構造からも、禁止の根拠となる事実は、優位の存在である。したがって、ピストリウスを出場させないためには、その優位があることを立証しなければならない。責任を負うのは、優位があると主張する側、つまり国際陸連だった。
裁定文はこう述べている。国際陸連は、自らが立証責任を負うことを正しく受け入れており、この点についてこれ以上論じる必要はない。
この一文が、この篇の最初の支点になる。
国際陸連が立証責任を受け入れたとは、あの義足が、利点と不利を差し引いても競技全体として優位を与えることを、国際陸連が示さなければならない、ということだ。そして、それは示せなかった。仲裁裁判所は、ケルンでの実験が一定速度での直線走に集中し、スタート、加速、カーブ走、そして利点を相殺するあらゆる不利を十分に織り込んでいないと指摘した。証拠は総合的優位を立証するには足りなかった。そこで立証責任の原則に従い、主張する側の国際陸連が敗れた。
ここで何が起きたのかに注意してほしい。仲裁裁判所は、義足に優位性はない、と言ったのではない。優位性があると主張する側が、必要な基準に達するまでそれを立証できなかった、と言ったのだ。この二つは、まったく違う。前者は事実そのものについての断言であり、後者は立証についての裁定である。あの反事実を直接観測できない以上、仲裁裁判所がここで下したのは後者の判断であって、存在しない身体を実際に走らせ、前者を確かめたのではない。
適用されたのは民事上の立証基準で、一般に「蓋然性の優越」と呼ばれる。この基準のもとでは、証拠が五分五分にとどまったとき、立証責任を負う側が負ける。
ふだん、この原則はあまり目立たない。多くの事件では証拠が五分五分ではなく、どちらかが強い。裁定は強いほうに従うので、立証責任を誰に置いても結果は変わらない。責任の所在が本当にものをいうのは、証拠が拮抗し、どちらとも決められないときだ。義足をめぐる事件では、中心にある反事実を観測できず、この行き詰まりがひときわ深くなる。間接的な証拠によっても決着がつかないとき、ふだんは目立たない原則が決定的になる。他の場面では隅で働いていた規則が、ここでは舞台の中央に出てくる。核心の事実は、いつまでも直接には見えない。そのために証拠の重みが片側へ十分に傾かないなら、最後に結果を決めるのは、この規則なのである。
したがって、ピストリウスが勝ったのは、義足に優位性がないと証明されたからではない。あの規則のもとでは立証責任が国際陸連にあり、国際陸連が蓋然性の優越という基準に届くまで優位性を立証できなかったからだ。立証責任の向きが、未決着の事実から生じる不利益を誰が引き受けるかを決めた。そして、その不利益の配分こそが、裁定そのものだった。
四 向きを反転させた規則改定
仲裁裁判所は、この裁定の適用範囲を明確に限定していた。他の選手や別の義足には「いっさい適用されない」と述べ、その後の事件は、それぞれの事実に即して評価しなければならないとした。
つまり、ピストリウスが勝ち取ったのは、あくまでピストリウスという選手、あの義足、そして審理された個別の事件についての判断だった。義足という装置全般に、例外扱いを認めたわけではない。
この狭さが、後になって大きな意味を持つ。規則が変わったからだ。
2015年、レームをめぐる論争と法的見解を受けて、国際陸連は規則を改定した。新しい144.3条第4項は、機械的な補助の使用を禁じた。ただし、その補助が、それを使わない選手に比べて競技上の総合的優位を与えないことを、選手が蓋然性の優越の基準で立証できた場合は例外とした。
この一文で、向きがすっかり逆になった。
旧規則では、禁止の根拠は優位の存在であり、それを立証する責任は、優位を主張する国際陸連にあった。新規則では、使用が認められる条件が優位の不存在になり、その立証責任は、使用を申請する選手に置かれた。
この変更で、研究室の測定値は一つも動いていない。科学は同じ科学のまま、反事実も観測できない反事実のままだ。変わったのは、証拠だけでは決められないとき、誰がその不利益を負うかだけである。旧規則では、証拠が足りなければ国際陸連が負け、選手は出場できる。新規則では、証拠が足りなければ選手が負け、出場できなくなる。
決められないままの同じ事実が、二つの規則のもとで正反対の結果を生む。その違いは、新しい科学的発見から来たのではない。立証責任の向きが反転したことだけから来ている。
ここで、この篇の中心命題が初めて姿を現す。決定的な事実を観測できず、その判断がつかないとき、裁定の実質をなすのは、事実そのものの確定ではなく、確定できない代償を誰に負わせるかという配分である。そしてこの配分は、規則の文言一つで反転できる。反転すれば、同じ証拠が反対の結末へとつながる。
2015年の規則は、不確かさがもたらす法的リスクを、選手に割り当てた。証拠が不確かであるとは、例外の条件が立証されていないということになる。だから選手は出場できない。
公平に見れば、当時、立証責任を選手に負わせることには、それなりの理屈があった。単なる意地悪ではない。国際陸連の立場では、装置を使い、その設定、練習の履歴、本人の成績データを握っているのは選手だ。例外を求める者に立証を求めるほうが、競争の公正さを守れ、運用上も扱いやすいと考えられた。この理由は軽くない。例外を求める人が、その例外には害がないと示すのは、多くの場面で妥当なことだ。問題は、ここにだけある特徴だった。立証を求められている事柄が、観測できない反事実に依存している。他の場面では合理的な責任配分が、ここでは、直接の実験では物理的に確かめようのないことを、本人に立証させる要求になってしまう。
五 判定を引き受けなかった研究
この規則の重みをつかむには、一つの具体的な研究に当てはめてみる必要がある。
2016年のリオ大会に先立ち、レームとドイツのスポーツ関係機関は、複数の研究機関による調査を委託した。対象は、レームを含む膝下切断の走幅跳選手3人と、経験豊かな健常の走幅跳選手7人だった。研究は、逆向きの二つのことを見つけた。
一方には不利があった。切断のあるグループでは、短距離走の最高速度と助走速度のどちらについても、平均値が健常のグループより低かった。ただし、レーム個人の速度は、健常のグループの範囲内に収まっていた。
他方には、有利に働く力学的な特徴があった。切断のある走幅跳選手は、踏み切りの際に失う水平速度が少なく、義足から返される弾性エネルギーは、比較対象の選手たちの膝より下の関節から返される量より大きかった。
だから、この研究は一つの答えを指してはいなかった。測れたもののうち、ある部分はレームに不利に、別の部分は有利に働く。しかも、それぞれが異なる単位で測られているため、そのまま足し合わせることはできなかった。
そこで研究者たちは、この篇にとってきわめて重要なことをした。判定はできない、と明言したのである。
彼らはこう述べた。研究のこの段階では、マルクス・レームの義足が総合的な優位を与えているとも、与えていないとも言えない。
これは「優位性は見つからなかった」より、ずっと強い言明だ。探したけれど見つからなかった、と言っているのではない。どちらの方向にも、この研究では判定できない、と言っている。ある技術には有利な要因が、別の技術には不利になる場合があり、それぞれの技術で何が限界を決めるかも、当時は完全には特定できなかった。研究者たちはそう説明していた。
この、判定を引き受けなかった研究を、選手に立証責任を負わせる規則の中へ入れてみよう。
規則は、優位がないことの立証を選手に求める。研究は、優位があるかどうか判定できないと言う。それなら、この規則のもとでは、選手は立証を果たしていない。判定できないことは、ないと立証されたことにはならないからだ。したがって、出場は認められない。
ここでは、立証責任の向きが結末を直接決める様子が見える。判定を引き受けなかった同じ研究でも、責任が国際陸連にあれば、国際陸連は優位を立証できず、選手は出場する。責任が選手にあれば、選手は優位がないと立証できず、出場できない。研究そのものは、どちらの側にも傾いていない。わからない、と正直に言っているだけだ。その中立な、判定不能という研究結果が、立証責任の向き次第で、選手を競技場へ入れもすれば、外へ出しもする。
研究の読み方も、当事者の間で反対に分かれた。レーム本人は、2016年5月30日の記者会見で、義足による優位は確認できなかったと述べ、それをオリンピック出場を目指し続ける根拠とした。一方、批判的な立場のベックマンらは、優位があると判定できないことと、当時の規則のもとで優位がないと立証することは別だ、と強調した。研究チーム自身の立場は、どちらの命題も確立していない、というものだった。
三つの立場、三つの言い方。見ているのは同じ研究だ。違いがあるのは研究ではなく、それぞれが立証責任のどちら側に立っているかである。
この点に、この篇の命題がくっきりと現れている。判定できないと正直に認めた一つの研究から、三者は三つの意味を読み取った。その食い違いは、研究が何を測ったかについてではない。判定できないという結果を、誰が引き受けるべきかについてだ。レームは出場を望む側に立つ。だから、優位があると判定できないとは、自分を排除する理由がないという意味になる。批判者は規則を維持する側に立つ。だから、優位があると判定できなくても、ないと立証されたことにはならず、例外の条件は満たされていないとなる。研究チームは科学の側に立つ。だから、どちらの命題も確立していない、それだけのことになる。研究そのものは中立で、判断を他者に委ねた。他者がどう判断するかは、立証責任がどちら側に置かれているかに左右される。
その年、国際陸連の会長は、レームはその段階では優位の不存在を立証していないと述べた。国際陸連との協議の後、レームは2016年リオ大会への出場資格を求めないと確認した。
六 向きを元へ戻した裁定
立証責任の向きは、その後、もう一度元へ戻された。今度は、裁定によってだった。
2020年、リーパーの事件がスポーツ仲裁裁判所に持ち込まれた。リーパーは両脚を膝下で切断した短距離選手で、義足で出した自分の記録を、健常の選手の記録と同じ順位表で扱うよう求めていた。
仲裁裁判所は、この事件で二つのことをした。二つは、分けて見なければならない。
一つ目は、立証責任についてだ。仲裁裁判所は、2015年に責任を選手へ移した条項を、違法かつ無効とした。障害のある選手に差別的な影響を与え、この責任の転換は必要性も比例性も欠いているというのが理由だった。とりわけ、隣接する一般的な技術規則では、立証責任が競技連盟に置かれていた。裁定文の第359段落は、この規則は「競技上の総合的優位が存在しないことの立証責任を選手に課す限りにおいて、違法かつ無効である」と述べている。仲裁裁判所が行ったのは、その部分の切除だった。機械的補助の禁止そのものを丸ごと消したのではない。切除後について、第362段落は、リーパー、あるいは義足の使用を望む他の障害のある選手が、その特定の義足から競技上の総合的優位を得ていることを立証する責任は、国際陸連が負うとした。
こうして立証責任の向きは、2008年と同じ形に戻った。選手が優位はないと示すのではなく、競技連盟が優位はあると示す。リーパーは、この点では勝った。
二つ目は、優位の有無という実体の問題だ。仲裁裁判所は続いて、この事件の具体的な証拠に照らすと、ワールドアスレティックスは、リーパーのあの特定の義足が競技上の総合的優位をもたらしていることを、実際に立証したと認定した。とりわけ、義足によって可能になる身長と、それに伴う脚の長さが、四肢の欠損がなかった場合の推定上の彼より、速く走れるようにしていた。したがって、この点でリーパーは敗れた。申立てが認められたのは、一部だけだった。
この二つを分けるところに、この篇の最も微妙な要所がある。分けることで、命題全体が単純すぎる標語に変わるのを防げる。
立証責任の向きは、どこから出発するかを決める。証拠だけでは判定できないとき、誰がその不利益を負うかを決める。しかし、それだけで到着点が決まるわけではない。リーパー事件では、立証責任はワールドアスレティックスに置かれた。それでも、この個別の事件では、ワールドアスレティックスは、蓋然性の優越の基準に達するまで優位を立証した。だから、責任が競技連盟側にあっても、選手は敗れたのだ。
立証責任の向きは、唯一の決定要因ではない。決定的な出発点なのである。証拠が五分五分なら、それが勝敗を決める。だが、証拠が五分五分にとどまらず、どちらかが必要な基準に達するまで立証できたなら、実体についての判断が、立証責任による決着の仕方に優先する。リーパーの義足の高さは、まさに、証拠が拮抗したままではなく、基準を満たす立証に達した例だった。
義足の高さそのものにも、少し目を向ける価値がある。この観測不能の領域で、比較的つかみやすい数少ない事柄の一つだからだ。両脚を切断した短距離選手では、義足の高さが、立ったときの身長と脚の長さを直接決める。他の条件が近ければ、脚が長いほど歩幅も長くなる。これを判断するために、存在しない生身の身体を再現する必要はない。義足の実際の寸法と、人体計測で知られる一般的な関係から推定できる。リーパー事件でワールドアスレティックスが必要な基準まで立証できたのは、観測不能な反事実に全面的には依存しない、こうした足場があったからだ。それは、前に述べた理屈を裏側から確かめてもいる。比較的確かに推定できるものが一つでもあれば、立証責任による既定の結末は後ろへ下がり、実体についての証拠が裁定を引き受ける。
だから仲裁機関は、競技連盟による立証責任の配分を退けながら、適法に配分し直された責任のもとで、それでも選手の出場を認めない判断を維持できる。立証責任と実体は、分けて読むべき二つの判断なのだ。リーパー事件は、その区別を最もはっきり示した。
七 責任の向きを決めても、許される不確かさの量は決まらない
ここまでに、この競技の立証責任は三つの段階を経て、二度、向きを変えた。
2007年の規則は、優位を与える装置を禁じ、立証責任を国際陸連に置いていた。ピストリウス事件で国際陸連はその責任を引き受け、立証できず、選手は出場できた。
2015年の規則は、優位がないことの立証を選手に求め、責任を選手側へ移した。レームは、判定できないとする研究を前に、立証を果たせず、出場できなかった。
2020年のリーパー裁定は、選手に立証を求める条項を切り除き、責任を競技連盟に戻した。そして戻された責任のもとでなお、ワールドアスレティックスは、リーパーのあの義足の優位性を立証した。選手は一部敗訴した。
三つの段階と二度の反転に、三つの異なる結末が対応している。その違いの大きな部分は、科学の進歩ではなく、立証責任の向きから生じている。ただし、リーパー事件では、具体的な証拠が立証基準に届いたことも結果を決めた。ここで言いたい核心はこうだ。決定的な事実を直接観測できず、間接的な証拠でも決着がつかない領域では、裁定の実質は立証責任の配分になる。その配分は規則上の選択であり、文言や裁定によって反転できる。証拠が未決着のままなら、責任が反転すると、結果も反転する。
ただし、ここで一つ限界を示しておかなければ、この命題は行きすぎてしまう。
立証責任の規則が決めるのは、証拠が拮抗したときに誰が負けるかだ。科学の方法を決めるわけではない。最低限必要な標本数も、認められる比較対象も、利点と不利を合算する計算法も定めない。「蓋然性の優越」という言葉は、天秤が釣り合ったとき、どちらへ倒れるかを教えるだけで、その天秤でどう量るべきかは教えてくれない。
この区別は重要だ。立証責任にできることと、できないことの境界を引くからである。できるのは、証拠からは判定できないときにも、結論を出すことだ。科学がはっきり言えないからといって、事件がいつまでも宙づりにならないよう、裁定を保証する。できないのは、科学がどこまで進めば「はっきりした」と言えるのかを決めることだ。よりよい研究方法、より適切な比較対象、競技の各局面の利点と不利を合計する方法。それらは科学と政策が答える問いであって、立証責任には答えられない。だから立証責任は、最後に裁定を支える規則なのだ。真相に届かないところで、裁定だけは底が抜けないように支える。真相へ至る道ではない。その道を進めないと認めた後にこそ、出番が来る。
したがって、立証責任を移せば、研究室の測定を何一つ変えずに法的な結果を変えることができる。しかし、科学上の不確かさをどこまで許容してよいかは、それではわからない。義足の利点と不利を差し引いた優位は、どんな方法で、何と比べ、どう集計して判断するべきなのか。この深い問いについて、立証責任の規則は一言も答えていない。答えが出ないときに、その代償を誰が負うかを決めるだけである。
これが、ここで構の置かれた状況だ。目の前には、観測できない事実がある。生身の脚を持つあの選手は存在しないため、その身体の実際の成績を直接確定することはできない。証拠によっても決着がつかなければ、構は一つ手前に退き、真相を確定する代わりに、確定できない代償を誰に負わせるかを配分する。そして、退いたその場所にさえ、どちらへ配分するかを決める客観的根拠はない。国際陸連に負わせるのか、選手に負わせるのか。それ自体が価値と法の選択だ。その選択は三度なされ、途中で向きを変え、最後には初めの側へ戻った。
八 構に収まらない身体
この篇を締めくくろう。
この構は、一つの仮定の上に立っている。成績は比較でき、比較には共通の土台が必要だという仮定である。健常の選手同士なら、その土台は生身の身体だ。個々の身体は違っていても、どれも同じ種類のものである。筋肉、腱、骨が、神経の制御のもとで働く。この共通の種類に属することが、比較を可能にしている。
義足で走る選手は、その共通の種類という枠を破る。身体が推進力を得る仕組みの一部が、生体ではない。競技用義足は基本的に受動的な装置であり、その剛性、形状、取り付けの位置や角度、加わる力に応じて、エネルギーを蓄えて返す。同時に、脚の質量、力の腕の長さ、関節ごとの仕事の配分を変える。それは、生身の脚と同じ種類のものではない。
こうして構は、自分の比較の枠組みでは居場所を用意できない身体に向き合う。その身体を健常の選手たちとの比較に入れるには、義足が総合的な優位を与えているかどうかに答えなければならない。だが、その問いは、観測不能な反事実を要求する。生身の脚を持つ、あの選手だ。
これが、この篇の余項である。その姿は、シリーズ全体でも初めてのものだ。
これまでの余項は、名簿に載らなかった名前、計算しきれない原因、裁かれなかった技術、選ばれなかった選択肢、適法なのに比べられない記録だった。それぞれ違う仕方で帳簿の外に落ちたが、どれも、かつて存在したもの、あるいは指し示せるものに関わっていた。今回の余項は違う。物理的に存在しない事実なのだ。生身の脚で走る、あの選手。その姿の彼は一度も存在せず、いつまでも観測できない。構が判断しようとするものは、帳簿の外にあるのではない。この世界そのものの中にない。
存在しない事実を前にして、構はそれを直接確定することができない。判断がつかないときにできるのは、一歩退くことだ。真相を確定する代わりに、確定できない代償を誰が負うかを配分する。
この後退は、シリーズを通じて構が繰り返してきた動作の、最も極端な形である。これまでの多くの篇でも、構は閉じきれなくなると一歩退いていた。原因を計算しきれなければ、原因は記さず結果だけを記す。技術の優劣を裁けなければ、過程は扱わず成績だけを扱う。記録に数えるべきか決められなければ、どちらも成り立つ二つの選択肢から一つを選ぶ。退くたびに、届かないものを手放し、届くものを守ってきた。今回は、最も遠くまで退く。確定しようとする事実そのものにさえ届かない。その事実が存在しないからだ。だから最後の防衛線まで下がる。真相に届かないのなら、少なくとも、届かないことの不利益を誰が負うかは決めよう。徹底した空白に向き合い、証拠でも決着をつけられないとき、構がなお立っていられるのは、この位置しかない。それが立証責任だ。閉じきれない構が、最後につかめるものなのである。比較の相手が存在しないため、義足に本当は優位性があるのかを、直接確かめることはできない。だが、結論が出ないとき、その不利益を誰が負うのかは明らかにできる。裁定は、真相の確定から代償の配分へと退いた。その配分の向きが二度反転したことは、退いたこの場所にも、客観的に定まった足場がないことを示している。
ここで、この篇を、どちらが勝つべきだったかという結論にしてはいけない。そこは十分に慎重でなければならない。ピストリウス、レーム、リーパーには、それぞれ本人の言葉がある。ピストリウスは、求めているのは、障害のある選手が健常の選手と公正に競う機会だと言った。レームは、判定できないとする研究を、優位性の証拠として扱うべきではないと言った。これらは選手の規範的な立場であり、科学的証拠ではない。この篇は、その立場の間に裁定を下さない。仲裁裁判所もまた、法的な立証基準のもとで判断を下したのであって、観測不能な反事実そのものを、直接見て確かめたわけではないのだから。
歴史上、四肢のあり方が他と異なる選手が、オープンの競技に加わった例はある。デュトワはオープンウォータースイミングで泳ぎ、アイザーは木の義足で体操のメダルを獲得した。これらは、歴史が人を受け入れた記録ではある。しかし、炭素繊維製義足の問題の先例にはならない。利点と不利を差し引いた優位という基準で裁かれたことがないからだ。示しているのは、四肢の違い自体が、必ずしもオープンの部への出場資格を奪うわけではない、ということにとどまる。競技の力学を変えるかもしれない機械的補助を使わざるをえないとき、観測できない事柄について誰が立証責任を負うのか。その問いには答えていない。
この構は、義足が何ジュールの弾性エネルギーを返すかを測れる。一回の踏み切りでどれだけ水平速度が失われるかを測れる。一つ一つの記録を、センチメートル単位まで測れる。測れないのは、義足を使うこの身体が生身の身体だったなら、どれほど速く走るかだ。その身体は存在しないからである。この存在しない事実を前に、証拠によっても答えが出ないとき、構に残されるのは、わからないことの代償を誰が負うかを決めることだ。その決定は三度なされ、向きは途中で変わり、最後には元へ戻った。それでも、そのたびに本当に知りたかったあの身体の実際の成績は、同じように、徹底して、直接には知りようがないままだった。
物差しは、まだ正しく測れていない。それでも、測り続けている。