Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · 陸上競技シリーズ · 日本語独立再構成版
第 14 篇 / 全23篇

分類しなければ動けない

女子カテゴリーの出場資格を定める基準は、六十年にわたって繰り返し置き換えられてきた。2025年、ワールドアスレティックスはSRY遺伝子検査へと舵を切った。その転換は、分類とは自然の境界を発見することではなく、制度の境界を選ぶことなのだと、あらためて浮かび上がらせる。

Han Qin (秦汉)
この篇の目次

一 競技の前に下さなければならない判断

女子の競技を始める前に、済ませておかなければならないことがある。主催者は、誰がこのカテゴリーに入れるのかを決めなければならない。

その判断を、競技が終わるまで先延ばしにはできない。出場登録にも、招集にも、記録の公認にも、メダルの授与にも必要だからだ。号砲が鳴る前に、スタートラインに立つ一人ひとりは、ここに立ってよいと、すでに判断されている。女子カテゴリーは、まず生理学上の事実としてあるのではない。出場資格を分ける分類としてある。競技の前に下さなければならない、二者択一の、実行可能な決定なのだ。

この篇で扱うのは、その決定である。そして、その決定の根拠となる線が、六十年のあいだに何度も引き直されてきたことである。

前の第十三篇では、構が、物理的に存在しない事実を前にして、立証責任の配分へと退く姿を見た。存在しない事実とは、生身の手足を持つ、その選手のことだった。この篇で扱うのは、隣り合ってはいるが、別の問題だ。ここで構が向き合うのは、存在しない事実ではない。どうしても行わなければならない分類である。だが、その分類の基準は、連続し、重なり合い、多くの要因がともに形づくる生理学的な現実の上に置かれている。その現実を、きれいに二つに分けることはできない。

まず、この篇で何をし、何をしないのかを、はっきりさせておきたい。

誰が正しいのかは裁かない。女性の真の定義も示さない。それは一篇の文章で示せるものではなく、どの仲裁廷も示したことがないからだ。ここで記録したいのは、一つの確かな事実である。この六十年、「誰が女子カテゴリーに入れるのか」に答える基準は、少なくとも七つの段階をたどってきた。そこで起きたのは、同じものをより正確に測ることの積み重ねではない。測る対象そのものが、繰り返し別のものに取り替えられてきたのだ。

この事実自体は、立場を問わない。この問題についてどちら側に立とうと、基準が七つの段階を経てきたことは、確かめられる歴史上の事実である。そして、その事実にこそ、この篇で語りたい構の置かれた状況が表れている。

最初にこの点を定めておくのは、この篇が守るべき節度のすべてが、ここにあるからだ。女子カテゴリーには明確な境界が必要だと、強く考えることはできる。いまの境界は間違った場所に引かれていると、強く考えることもできる。その両方と、両者のあいだにあるさまざまな立場のどれも、この篇が裁く対象ではない。見たいのは、どの境界が正しいかではなく、この構がどんな境界を引くときにも直面する、共通の難しさである。構は、競技の前に実行できる、明確な二者択一の判断を示さなければならない。だが、その判断の根拠はどれも、それ自体が明確に二分されているわけではない生理学的な現実から取り出される。この難しさは、どの立場にも等しくつきまとう。

二 判断基準がたどった七つの段階

まず、基準が置き換わってきた道筋を並べてみよう。それが、この篇の土台になる。

1966年前後、一部の国際大会では、医師による外見の確認や身体検査、婦人科的な診察が試みられた。判断基準は、身体の外見だった。

1967年、国際陸上競技では、性染色質検査、いわゆるバー小体検査が使われ始める。口腔粘膜の細胞を採取し、不活性化した一方の性染色体がつくる性染色質を探す。基準は外見から、細胞内の染色体の標識へと移った。

1990年代、国際オリンピック委員会はポリメラーゼ連鎖反応、PCR法に切り替えた。ある性染色体に特有の配列を検出するもので、通常は性決定に関わる遺伝子配列や、ほかの特異的なDNA配列を標的とした。基準は性染色質から、特定の遺伝子配列へと移った。

2011年、国際陸連は高アンドロゲン症の女性選手に関する出場資格規則を公表した。基準は遺伝子配列から、血清テストステロン値と、アンドロゲンに対する感受性の判断へと移った。

2018年、規則の対象は、特定の性分化の違いへと改められた。適用の条件には、規則が列挙する特定の身体的条件、一定値以上の血清テストステロン、そして十分なアンドロゲン感受性が含まれた。基準は、テストステロンが高いこと一般から、特定の身体的状態へと絞られた。

2023年、テストステロンの上限はさらに引き下げられ、対象種目も、限られた距離の走種目から世界ランキング対象大会の全種目へと広がった。同時期のトランスジェンダー選手に関する規則は、テストステロンを何年間抑制したかだけを見るものではなくなり、男性の思春期を経験したかどうかを見るものになった。基準に、発育の履歴が加わったのである。

2025年、ワールドアスレティックスは再び遺伝子配列の検査に切り替え、生涯に一度のSRY検査を導入した。性分化に違いのある選手とトランスジェンダー選手を別々に扱っていた旧制度に代わるものだった。基準は一巡して、遺伝子配列へと戻った。ただし今回は、統一された一度限りの事前スクリーニングという役割を担う。

外見、性染色質、ある性染色体に特有の配列、血清テストステロン、特定の性分化の違い、男性の思春期、そして再び遺伝子配列。七つの段階で、判断の拠り所は形を変えてきた。測る対象を何度も替え、最後には、遺伝子配列を新たな役割で用いるところへ戻ったのである。

ここで、見落としやすいことを指摘しておかなければならない。これは、一つの検査が七段階にわたって改良された歴史ではない。同じものを、そのつどより正確に測れるようにする。それなら改良と呼べる。ここでは、それだけではなく、測るもの自体が繰り返し替わっている。外見と染色質は同じものではない。染色質とテストステロンも、テストステロンと思春期の履歴も、同じものではない。だから、「女子の分類はずっと存在してきた」というのは正しい。だが、それは「女子の出場資格を定める科学的な定義は、ずっと同じだった」という意味にはならない。分類はあり続け、基準は替わり続けた。替わってきたのは精度だけではない。対象なのだ。

この違いには、実際の帰結がある。七つの段階が、同じものを少しずつ正確に測る過程だったのなら、最新の基準は、それ以前のすべての基準を改良したものであるはずだ。同じことを、よりよく測っているはずだ。だが、事実は違う。最新の遺伝子スクリーニングは、テストステロンをいっそう精密に測るものでも、染色質をいっそう精密に測るものでもない。そのどちらとも違うもの、ある遺伝子配列の有無を調べている。それはテストステロン基準の改良ではなく、置き換えである。つまり、将来いつか、遺伝子からさらに別のものへと基準が移れば、それも遺伝子基準の改良にはならない。また一度、置き換えが起きるのだ。この構は、一つの道をどこまでも進んでいるのではない。何度も道そのものを替えている。

この点は、第七篇で見た十種競技の採点表と通じており、しかも、より切実だ。あちらでは、異なる種目の成績をどう換算するかという一つの問いに、五つの異なる答えが与えられていた。こちらでは、誰を女性と数えるかという一つの問いに対し、七つの段階を通じて、判断の基準が繰り返し置き換えられてきた。違うのは、採点表で替わったのは換算の規則だったのに対し、こちらで替わるのは、一人の人間が競技に参加できるかどうか、その入口を支える根拠そのものだということだ。

三 どの基準も本当に測りたいものを測っていない

それぞれの基準の科学的な限界を見ると、最初から最後まで変わらないことが一つ見えてくる。どの基準も、本当に判断しようとしているものを、直接には測れていない。

本当に判断しようとしているものとは、規則を支持する側の言葉でいえば、その選手が特定の種目において、男性の思春期にアンドロゲンが作用したことによる、十分に大きな競技上の優位を持つかどうかである。

ところが、どの基準も、測っているのは別のものだ。

バー小体検査が調べるのは、不活性化した性染色体が細胞内に見えるかどうかである。運動能力は測らない。性腺の働きも、アンドロゲンの作用も測らない。バー小体を持たない女性の一部は、最初のスクリーニングで不適格とされうる。一方、バー小体はあるが、アンドロゲンの顕著な作用を受けてきた人が通過することもある。女性かどうかを確実に判定する検査でもなければ、競技上の優位を調べる検査でもない。1991年の原著論文は、この種のスクリーニングによって、女子選手のおよそ504人に1人が不当に排除される可能性を推計した。

PCR法が調べるのは、特定の遺伝子配列があるかどうかである。バー小体より直接的ではある。だが、その配列が正常に発現しているのか、身体がアンドロゲンに反応するのか、思春期にどんな表現型の変化が起きたのか、ある種目でどれほどの優位が生じたのかを、それだけで判断することはできない。特定のDNAを検出する感度は上がった。だが、その結果を出場資格にどう結びつけるかという問題は解決していない。1996年のアトランタ五輪では、女子選手3,387人が検査を受け、8人は一次検査の結果を再確認する必要があるとされた。その8人は、最終的には全員、出場を認められている。その性染色体に特有の物質が検出されても、必ず不適格であるとは見なされなかったのだ。

テストステロンという基準は、生理的な仕組みに近づいているように見える。だが、これも完全な代理指標ではない。筋肉がアンドロゲンにどう反応するかも、思春期の発育も、個別種目の成績も、直接には測っていない。エリート選手693人の競技後の検体を分析した研究では、特定の測定条件と閾値の下で、男女のテストステロン値の分布に重なりが生じうることが示された。これは、すべての男性とすべての女性の一回の血清測定値が決して重ならない、という絶対的な命題には反する。しかし、それだけでは、重なる範囲にいる一人ひとりのアンドロゲンへの反応、思春期の経験、成績上の優位がどうなっているかはわからない。

遺伝子配列を使う基準は最新のものであり、優位性との隔たりも最もはっきりしている。新規則の最初の関門は、検体からその配列が検出されたかどうかだ。その選手の現在のテストステロン値を測ることでも、その人の優位性を推定することでもない。この検査は、標的の配列が検体内にあるかという問いには、高い精度で答えられる。だが、その精度で種目の成績を予測できるということにはならない。しかも、規則そのものが、完全型アンドロゲン不応症について例外を設けなければならない。遺伝子の標識が存在することと、アンドロゲンが実際に働くことは、一対一に対応していない。そのことを、例外自体が示している。

だから、七つの段階に現れた基準には、共通の性質がある。どれも、外見、染色質、遺伝子、ホルモンといった、明確に捉えられるものを測る。だが、判断したいもの、ある種目での十分に大きな競技上の優位を、直接測れる基準は一つもない。どの基準も代理であり、測りにくいものを、測れるもので代用するための身代わりである。そして、代理と、それが代わりを務めるものとのあいだには、越えられていない溝が残り続ける。

この溝は、科学の発達が足りないためにあるのではない。もっと構造的な理由がある。判断したいもの、ある種目での十分に大きな競技上の優位は、それ自体が、一度の測定で捉えられる単一の量ではないからだ。思春期の発育、ホルモンに対する筋肉の反応、骨格や心肺の構造、そして、それらが特定の種目でどのように成績へ変わるか。多くの要因がともに働いて生じる結果なのである。外見であれ、遺伝子であれ、ホルモンであれ、どんな基準も、その長い連鎖の一つの環しか捉えられない。一つの環に鎖全体の代理をさせれば、ほかの環は必ずこぼれ落ちる。だから、この溝は、よりよい検査が現れるのを待てば埋まるものではない。判断される対象そのものの、複合的な成り立ちに由来するのだ。

四 その線は一度も計算で導かれていない

テストステロンが基準となった時代、この溝は、きわめて具体的な問いとして現れた。その閾値は、どうやって決まったのか。

2011年の規則は、一定の優位率を一つの公表値に換算したものではなかった。正常な男性の範囲を基本的な境界とし、そこにアンドロゲン感受性の判断を組み合わせていた。つまり、その閾値は、臨床上の基準範囲とカテゴリーの考え方から来ていた。テストステロンが一単位増えるごとに何秒速くなるかを、計算して得た値ではない。

2018年の規則は、具体的な数値を示した。国際陸連はそれを、性分化に違いのない女性の圧倒的大多数より明らかに高く、通常の男性の範囲より低い、運用可能な境界だと説明した。測定誤差や個人の値の変動にも余地を残すものだとした。仲裁記録の中で専門家たちが示した範囲は、おおまかにいえば、多嚢胞性卵巣症候群のない女性では非常に低く、男性ではそれよりはるかに高かった。選ばれた数値は、この二つの群の平均値ではない。あの大会データの研究が示した効果量から、数学的に導かれた結果でもなかった。

ここが、この節の要点である。この値以上なら必ず一定割合以上の優位が生じ、わずかに下回れば生じない。それを証明する、公表された用量反応モデルはない。仲裁では、申立人側の専門家が、この点を明確に疑問視した。競技団体の回答が主に頼ったのは、基準範囲、アンドロゲンの生理学、そして行政的な運用の可能性だった。だから、この閾値を、規範的かつ臨床的な境界として説明することはできる。だが、1%台から4%台というあの効果量から、厳密に算出した値だとはいえない。

2023年、その数値は再び引き下げられた。公式の説明では、新しい値は、通常の女性の基準範囲の上端により近いものとされた。公表された規則には、守るべき義務と期限が書かれている。だが、その新しい値と、競技における何%かの効果とを、一つひとつ対応させる計算は添えられていなかった。なぜ陸上競技の全種目で、まったく同じホルモン値を採用すべきなのか。それを説明する公表モデルも、同じく存在しない。

2025年、基準が遺伝子配列に切り替わると、この問題は別の形で残った。検査の正確さは、分析上の正確さである。その配列があるかないかには、正確に答えられる。だが、その配列が検出されることと、特定種目での具体的な優位とのあいだに、どのような量的関係があるのかには、やはり答えていない。基準は、連続したホルモン値から、遺伝子の有無へと変わった。効果量を導き出す過程が欠けているという問題は、最初から最後まで、埋められないままだった。

これは、このシリーズの前の数篇と、一本の線でつながっている。第七篇では、十種競技の採点表の係数について、導出の全過程を示す公表資料がなかった。第十二篇では、ランニングシューズの40ミリという線に、公表された導出過程がなかった。第十三篇では、義足の総合的な純優位性は、直接測る変数ではなく、証拠に適用する法的な基準だった。この篇では、どのテストステロン閾値も、効果量から計算して得たものではない。

四つの場所に、四本の精密な線がある。だが、どの線も、なぜまさにそこなのかを言い切れない場所に引かれている。これは、ある一つの団体の不手際ではない。この種の境界が共有する境遇である。分けようとするものは連続しており、そこで突然、すべてが許容できるものから許容できないものに変わる、自然な切れ目はない。対象が連続している以上、どんな線も、人が切って設けるほかない。そして、切って設けた線は、説明できる。擁護もできる。だが、それが正しい線だと証明することはできない。

五 全体の差を一人ひとりに配ることはできない

この篇は結論を出さない。だが、結論を出さないことは、双方の最も強い論拠を示さないことではない。この節と次の節では、規則を支持する側と反対する側、それぞれの最も説得力のある主張を並べる。そのあいだに、判定は下さない。

まず、双方が認めながら、正反対の使い方をする一つの事実から見ていこう。

筋力、速度、持久力を競う種目の大半では、成人のエリート層の男女のあいだに、およそ10〜12%の成績差がある。規則を支持する側は、思春期のテストステロンが引き起こす筋肉量、ヘモグロビン、骨格、心肺の変化を、その差を生む主な仕組みの一つと考える。この集団全体としての差が、女子カテゴリーを設ける中心的な経験的根拠である。

この事実が、双方の議論に共通する出発点となる。だが、そこには重要な限界があり、その限界についても双方は認めている。集団全体の差だけでは、ある特定の女性が10〜12%の優位を持つことを、直接証明できない。

全体と個人は、別のものである。ある集団の平均的な差が12%だからといって、その集団の誰もが、もう一方の集団の誰よりも12%速いということにはならない。分布は重なり、個々人の値にはばらつきがある。だから、確かな集団差から、特定の個人の優位へと進むには、一段、越えなければならない。その一段を、集団の数値そのものが越えてくれるわけではない。

では、その一段を、双方はそれぞれどう扱うのか。

規則を支持する側は、こういう。一人ひとりの選手が何%の優位を持つのかを正確に検査できないからこそ、管理可能なカテゴリー規則を使うほかない。出場資格については、競技の前に、実行可能な二者択一の判断を下さなければならない。一方、科学が扱う変数は、しばしば連続し、重なり合い、不完全である。どこに境界を引いても、その境目に位置する事例は生じる。だから競技団体は、規則の影響を受けるすべての人が、すべての競技で、まったく同じ優位を持つと証明する必要はないと主張する。カテゴリーの次元で用いる代理基準が合理的であり、証拠が十分であり、手続きが一貫していると示せばよいのだ、と。

規則に反対する側は、こういう。男女の集団全体の差を、特定の女性にそのまま割り当てることはできない。血清テストステロンは、筋肉の反応や思春期の発育、種目の成績を余すところなく表す代理指標ではない。しかも、性分化に違いのある選手の標本数は、そもそもきわめて少ない。中心となる研究の多くは観察研究であるか、性分化に違いのない集団を対象にしたものだ。規則は、規制しようとするその特徴が、十分に大きく、その種目との結びつきが十分に明確で、十分に再現性のある優位を生むことを示すべきだ。一般の男性のデータから、類推で済ませるべきではない、と。

二つの主張は、同じ事実の上に立っている。10〜12%という集団差と、それを個人には割り当てられないという限界だ。そして、同じ事実から正反対の結論へ進む。一方は、個人を測れないのだから、カテゴリーを使うしかないという。他方は、個人を測れないのだから、集団から類推したカテゴリーによって個人を排除してはならないという。

この篇は、どちらが正しいかを裁かない。どちらにも成り立つ論理がある。その論理は、同じ限界に対する、二つの異なる応答の上に立っている。

なぜこの点が重要なのか。一つのことに目を向けると、よくわかる。双方が争っているのは、じつは集団差が存在するかどうかではない。10〜12%という数字は、双方とも受け入れている。争っているのは、確かな集団全体の事実を、特定の個人に割り当てられないとき、どうすべきかということだ。一方は、それならカテゴリーに退いて判断するしかないと答える。個人を測れない以上、実行できるのはカテゴリーによる判断だけだからだ。他方は、それならカテゴリーを使って個人を排除してはならないと答える。その人の実際の状態は、カテゴリーの平均像から大きく離れているかもしれないからだ。これは、事実についての二つの見解の食い違いではない。不確かさをどう扱うかについての、二つの態度である。対立があるのは、科学の層ではない。科学が尽きたあと、それでも決定を下さなければならない層だ。そして、その層の上に、決着をつけてくれる、もう一段高い科学は存在しない。

六 かみ合わない証拠

具体的な科学的証拠をめぐっても、双方の対立ははっきりしている。その中に、この篇で最も動かしがたい一節がある。

規則を支える中心的な研究は、2017年の分析である。二回の世界陸上競技選手権から得られた2,000件を超える選手の観測値を使い、男女をそれぞれ遊離テストステロン値で群分けし、競技成績を比較した。女子の標本では、いくつかの種目で、テストステロンの高い群が低い群を、およそ1%台から4%台上回った。

これは、大会データを用いた観察研究であって、無作為化試験ではない。そして、いくつもの方向から批判を受けた。

一つは、データの質である。公表データを検証した研究者は、重複する記録、ありえない成績や誤った成績、データ修正の不透明さを指摘した。仲裁で扱われた証拠にも、かなりの割合の選手が二回の世界選手権に重複して出場していたこと、一部の標本を分類できなかったこと、ドーピングの要因が独立に分析されていなかったことが記録されている。規則を支える側の研究者は、一部の誤りを修正した。ただし、それらの問題によって全体的な関係が覆ることはないとした。

もう一つの批判には、この篇でとりわけ足を止めておく価値がある。

その研究が有意な効果を挙げた女子種目には、いくつかの走種目に加え、ハンマー投と棒高跳が含まれていた。ところが2018年の規則は、400メートルから1マイルまでを対象にし、ハンマー投と棒高跳を対象にしていなかった。逆に、規則の対象となった1,500メートルと1マイルについて、元の研究は、対応する有意差を挙げていなかった。

つまり、根拠とされた研究と、規則が実際に対象にした種目が、かみ合っていない。研究が効果を示した種目の一部は、規則に入らなかった。規則が対象にした種目の一部には、研究で効果が示されていなかった。

この不一致は、外部の批判者だけが訴えたものではない。仲裁廷自身が記録している。多数意見は規則を維持したが、1,500メートルと1マイルの証拠の基盤については、明確に懸念を表明した。規則を支持する側は、対象種目の範囲は、生理的な仕組み、距離の近い種目からの類推、ほかの証拠にも基づいていると説明した。批判する側は、そうした事後的な選び方が、規則は研究結果から直接導かれたのだという説明を弱めると指摘した。

これは、第十一篇と通じている。あちらでは、やりの設計変更は、平らに着地してしまう問題と飛距離への対処だと説明された。その二つを同じ変更で処理したため、あとから、主にどちらのためだったのかを言い切れなくなった。こちらでは、規則は研究で証明された優位を取り除くためだと説明される。だが、規則が扱う種目と研究が扱う種目がかみ合わないため、規則が研究から導かれたのか、それとも別の考慮から生まれ、あとで研究によって支えられたのかが、はっきりしなくなる。構が語る理由と、実際に行うことのあいだには、隙間がある。

この隙間を、欺瞞と読む必要はない。よりありそうなのは、そもそも規則というものが、一つの研究から一本道で導かれるものではないということだ。生理的な仕組みについての一般的な理解、隣接する種目からの類推、運用のしやすさ、そして関係者どうしの駆け引き。それらが同時に働き、研究は数ある材料の一つになる。だから、規則と研究がかみ合わないことは、誰かが意図的に研究を歪めた証拠とは限らない。規則は、しばしば研究の直接の産物であるかのように語られるが、初めからそうではないのかもしれない。この点は、第七篇の採点表の係数とも通じている。精密で、科学の顔をしているものの実際の来歴は、見た目よりはるかに雑多なことが多い。そして、理由と実際のあいだのこの隙間は、精密な根拠を最も必要とする場所でこそ、精密そうな外観に覆い隠されやすい。

ほかの証拠を見ても、対立は続く。ある無作為化対照試験では、エリートではない若い女性たちに十週間テストステロンを投与し、疲労困憊に至るまで走り続けられる時間の改善が測定された。一方、筋力や瞬発力の一部の指標では、群間の有意差はなかった。支持する側は、無作為化という設計によって、観察研究より強い因果関係の証拠が得られたと考える。批判する側は、標本が小さいこと、被験者がエリートではないこと、介入が十週間しかないこと、評価したのが正式な競技タイムではなく疲労困憊までの走行時間であることを指摘する。さらに、健康な女性に外から短期間ホルモンを投与しても、性分化に違いのある選手が生涯を通してたどった発育を、まるごと再現することはできないとする。

競合する証拠が並んでいる。どちらも、相手を完全には圧倒していない。そして、この篇は、証拠自身が出していない決着を、代わりに出そうとはしない。

七 四つの審理が扱ったのは同じ問いではない

セメンヤの事件は、四つの審理の段階を経た。この篇が判定を下さない理由を理解するには、そのどの段階も、最も根本的な問いに決着をつけたわけではないと、見定めるのがよい。

最初は、スポーツ仲裁裁判所である。2019年、多数意見は、2018年の規則には差別性があると認めた。だが、その時点の証拠に照らせば、女子の競技カテゴリーを守るという目的のために、必要であり、合理的であり、比例性を満たす手段であるとして、異議申立てを退けた。同時に、規則を公正に運用できるのか、選手は継続して閾値を満たせるのか、薬の副作用や秘密保持のリスクをどうするのか、そして1,500メートルと1マイルには十分な証拠がないのではないかという点に、重大な懸念を示した。

仲裁廷が何をしたのかを、よく見ておきたい。そこで問われたのは、現にある証拠で規則を維持するに足りるかどうかだった。影響を受ける選手の全員が、必ず同じ優位を持つと証明したわけではない。個人のテストステロン値から、競技の秒数を正確に計算できる式を示したわけでもない。規則を実際に運用してみて、不可能である、あるいは過度に困難であるとわかれば、比例性についての結論は変わりうる。その留保も明示した。裁いたのは、その時点の証拠の下で、この具体的な規則を有効と認められるかどうかであって、女性の定義ではなかった。

第二段階は、スイス連邦最高裁判所である。2020年、裁判所は仲裁判断の取消しを求める申立てを退けた。ただし、そこで行われたのは、きわめて限定された仲裁判断取消しの審査だった。科学的証拠のすべてを、もう一度評価し直すことが中心の問いではない。あの仲裁判断がスイスの公序に反するかという、非常に厳しい要件を満たすかどうかが問われた。確認されたのは、スイス仲裁法が限って認める取消事由では、その判断を取り消せないということだ。科学的結論のすべてが正しいと、独立に確認したわけではない。

第三、第四段階は、欧州人権裁判所である。2023年、小法廷は4対3で、スイスが欧州人権条約に違反したと認めた。だが、スイス政府が大法廷への付託を求め、それが認められたため、小法廷の判決は確定判決にはならなかった。

2025年7月10日、大法廷が最終判決を下した。15対2で、スイスは条約第6条第1項、公正な裁判を受ける権利に違反したと認めた。セメンヤは事実上、自由に選ぶ余地なく仲裁裁判所の専属的な管轄に服していたこと、争いが基本的な人格と身体に関わる権利に及んでいたこと、それにもかかわらず、スイス連邦最高裁判所による公序のきわめて狭い解釈では、十分な保障が与えられていなかったことが、その理由だった。

ここは、よほど慎重に読まなければならない。最も誤解されやすいのが、この段階だからだ。

大法廷は、スイスが公正な裁判を受ける権利を侵害したと認めた。同時に、差別、私生活、実効的な救済に関する申立てについては、スイスとの十分な領域的な結びつきがなく、それらの申立てに関してセメンヤはスイスの管轄下にないとして、不受理とした。これは管轄についての結論であり、性分化の違いに関するあの規則が、実体の面で差別に当たらないと判断したものではない。大法廷は仲裁裁判所の判断を取り消していない。国際陸連の規則を無効とも宣言していない。セメンヤに女子種目への出場資格を直接与えたわけでもない。

つまり、これは審査の範囲が異なる四つの手続きの段階だった。第一段階は、その時点の証拠の下で規則が有効かを審査した。第二段階は、仲裁判断を取り消せるかを審査した。第三段階では、2023年の小法廷で条約違反の訴えが審理されたが、その判決は大法廷への付託によって確定しなかった。第四段階が判断したのは、スイスの提供した司法手続きが公正だったかどうかである。誰を女子競技に出場できる女性と数えるべきか。この最も根本的な問いに、抽象的で最終的な答えを与えた段階は、一つもない。手続き上の勝訴は、規則が実体の面で無効だということにはならない。そして、女子の出場資格を何によって定めるべきかという実体上の問いには、四つの段階を経ても、なお最終的な裁定がない。

四つの段階の役割分担は、この種の問題に共通することを明らかにしている。最も根本的な問いに、どの審理機関も答えようとはせず、あるいは答えることができない。仲裁裁判所は、その時点の証拠の下でこの規則を有効と認められるかに範囲を限った。スイスの裁判所は、その仲裁判断を取り消せるかに範囲を限った。人権裁判所の最終判決は、その手続きが公正だったかを判断した。それぞれが一歩退き、自らの権限の内にある、より狭い問いだけを扱い、最大の問いはその場に残した。これは責任逃れではない。誰を女子競技に出場できる女性と数えるべきかという最大の問いは、法律や仲裁が一度の判断で永久に決着させられるものではない。そのことを、どの機関もわかっているのだ。だから、それぞれが自分の扱える小さな部分を扱う。大きな部分は、宙に浮いたまま残る。

八 どこに引いても連続体を切る線

ここまでをまとめておこう。ただし、まとめることは、やはり答えを示すことではない。

この構は、果たさなければならず、しかも、きれいには果たせない仕事を抱えている。競技の前に、すべての出場申込者を二つのカテゴリーに分けなければならない。それを避けて競技を運営することはできない。運営は、二者択一の、実行できる決定を要求する。だが、そのための基準は、外見であれ、染色質であれ、遺伝子、ホルモン、思春期の履歴であれ、連続し、重なり合い、多くの要因がともに形づくる生理学的な現実の上に置かれている。

これが、この篇の余項である。その姿は、これまでのどの篇の余項とも違う。

前の数篇で見た余項は、名簿に入らなかった名前であり、計算しきれない原因であり、裁定されない技術であり、選ばれなかった選択肢であり、比較できない成績であり、存在しない身体だった。それぞれに、それぞれの残り方があった。この篇の余項は、基準そのものが収めきれない連続性である。性に関わる生理的な特徴は、人々のあいだで、互いに重ならない二つの山に分かれているわけではない。連続して分布し、重なり合い、多くの要因によって形づくられた一つの地形をなしている。分類は、その地形に、はっきりした線を切り込むことを求める。

どこに線を引いても、それは、もともと自然な切れ目のない連続体を切ることになる。基準が七つの段階をたどってきた理由は、ここにある。それは、七つの段階を通じて真の線に近づいてきた、ということではない。発見されるのを待つ真の線など、そこにはないからだ。自然の境界がないところに、そのつど測れるものを拠り所として、七通りの境界を設けてきたのである。どの境界も、自分こそ唯一正しい位置にあるとは証明できない。その位置自体が、存在しないからだ。

これは、第十二篇で見たことの、より根本的な形である。あちらでは、ランニングシューズの優位性は連続しており、自然な切れ目がないため、40ミリという線は、人が引くほかなく、証明することはできなかった。こちらでは、性に関わる生理的な特徴が連続し、自然な切れ目がないため、どんな基準も、どんな閾値も、人が引くほかなく、証明することはできない。違うのは、シューズの線を引き損ねたときに問われるのが、ある用具による成績を認めるべきかどうかであるのに対し、こちらでは、どこに線を引くかが、一人の人間の身体、職業、尊厳、そして自己のあり方に触れるということだ。その人が、ずっとそうであった自分のまま、競技に出られるかどうかに触れる。だから、この線が一度動く重さは、用具の仕様が変わる重さとは比べものにならない。

これほど重い問題だからこそ、この篇には、格別の抑制が要る。どちらかの側に立つ文章にして、すでに十分騒がしい論争へ加わることは、たやすい。だが、このシリーズが行おうとしているのは、それではない。見続けているのは、閉じきれないものを前にした構の動きであって、構自身にも下せない裁定を、代わりに下すことではない。この問題での構の動きは、明確だ。分類はしなければならない。だが、正しいと証明できる分類の線は見つからない。そこで、何度も基準を取り替える。そのつど理由を述べ、そのつど異議を受け、そのつど終点には届かない。その動きを観察することと、論争に加わることは、別のことである。この篇がするのは、前者だけだ。

最初に定めた約束を、ここでも守らなければならない。どこに線を引くべきかは裁かない。記録するのは、六十年のあいだに、境界の設け方が少なくとも七つの段階をたどってきたということだ。そのつど、線を引く機関は理由を示した。そのつど、その理由は異議を受けた。そして一度も、今回はついに正しい場所に引けた、と告げる最終的な裁定は下されなかった。

具体的な人に触れるとき、この篇が用いるのは、本人が公に語った言葉だけである。ある選手は、2005年に自ら書いた文章で、一律に行われる遺伝子検査を、女性がスポーツに参加するうえでの余分な障壁だと述べた。ある選手は、仲裁での証言の中で、自分は女性であって男性ではないと強調した。ある選手は、優位性の十分な証拠がないまま、生まれ持った身体を排除の理由にしてはならないと、仲裁で主張した。これらは、本人たちの立場と経験であり、本人たちが自ら語ったことだ。どこかの機関から漏らされたものではない。この篇は、本人が公表していない医療記録を、一つも語り直さない。あの仲裁廷も結局、この問題を、一枚の検査結果から読み取れる答えへと単純化することはなかったのだから。

今日、競技団体ごとに、線は別々の場所に引かれている。思春期の履歴によるところもあれば、遺伝子によるところもある。別にオープンカテゴリーを設けるところもあれば、なお基準を変え続けるところもある。位置がこれほど異なること自体、この問題には、誰もが同意し、科学からそのまま読み取れる解がないことを示している。もしあれば、とっくに一つの場所に収束していたはずだ。それぞれの種目で、誰もが同じ世界記録の線を目指すように。収束していないのは、収束すべきその一点が、存在しないからである。

この構は、一人の人間のテストステロン値を測ることができる。ある遺伝子配列が存在するかどうかを調べることも、集団の平均的な成績差が何%かを測ることもできる。だが、連続し、重なり合うあの地形の上で、女子カテゴリーの境界を、いったいどの一点に置くべきなのか。それを測ることはできない。その一点は、測定できる事実ではないからだ。それは、引かなければならず、しかも、どこに引こうと唯一正しいとは証明できない線なのである。そして、この構は、六十年のあいだに、その線に七通りの形を与えてきた。

物差しは、まだ正しく測れていない。それでも、測り続けている。