Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · 陸上競技シリーズ · 日本語独立再構成版
第 06 篇 / 全23篇

0.24秒

手動計時と全自動計時は、0.24秒という継ぎ目で、どう一枚の表に縫い合わされたのか。それは自然に成り立つ換算ではなく、新たな制度を正式なものに据えたときに残った、歴史の継ぎ当てだった。

Han Qin (秦汉)
この篇の目次

一 一度の疾走、二つの数字

ハインズが1968年にメキシコシティで走ったあの100メートルには、その後の記録の変遷をたどると、二つの数字がある。

一つは9秒9。手動計時。もう一つは9秒95。全自動計時。

走ったのは、一度きりだ。二つのレースでも、二人の選手でもない。ハインズがあの日、あのレーンで走りきった、同じ100メートルである。二つのシステムが同時に時間を測っていた。一方は人が時計を押し、もう一方は機械が作動する。そして、二つの数字が出た。

スミスの200メートルも同じだ。19秒8と19秒83。エバンスの400メートルも、43秒8と43秒86。一度の疾走に、二つの数字がある。

些細なことに見える。片方は十分の一秒まで、もう片方は百分の一秒までなのだから、精度が違うだけではないか。だが、そうではない。9秒9と9秒95は、一つの数を粗く書いたものと細かく書いたものではない。異なる二つの測定システムが、同じ出来事を測って得た、異なる二つの結果なのだ。

まず、この点を押さえておかなければならない。この先の話はすべて、ここから始まる。数字に意味を持たせるには、それを何で測ったのかを知る必要がある。9秒9と9秒95が違うのは、どちらかが間違っているからではない。一方は人の指で押され、他方は機械の回路で作動したからだ。人の指と機械の回路では、同じ瞬間の捉え方がもともと違う。だから、ハインズは結局どれだけ速く走ったのか、という問いに、測り方を離れた答えはない。9秒9で走ったし、9秒95でも走った。どちらの言い分を聞くかによる。

前回の話は、二冊の帳簿のところで終わった。公式記録表は標高を区別せず、統計家たちは私的に低地の記録一覧を維持している。二冊は併存しているのに、公式の一冊はもう一冊を認めない。あれは標高をめぐる二冊の帳簿だった。今回は計時をめぐる二冊である。しかもこちらは、標高の話より根本にある。成績そのものの数字の中に入り込んでいるからだ。ハインズの一度の疾走は、同時に二冊に属し、二つの数字で記されている。

問題は、記録表には数字を一つしか置けないことだ。

そこで、この二冊をつなぐものが必要になる。それが、ある定数だった。0.24秒。

二 ある位置での平均値

0.24という数字は、どこから来たのか。

後世の陸上競技文献は、一様にその出どころを、熟練した手動計時員を対象とする研究に求めている。1972年のミュンヘン・オリンピックとギーセン大学に関わる研究である。入手できる最もよい概説によれば、この研究で得られた手動計時と自動計時の平均差は、計時員またはスターターが発令銃の近くにいる場合には約0.18秒、100メートルの直線では約0.24秒、200メートルのカーブでは約0.26秒だった。

ここで最も大切なことは、この三つの数字の中に隠れている。

0.24は、どこにでも通用する定数ではない。特定の位置関係のもとで得られた平均値だ。計時員が100メートル直線のフィニッシュ地点に立てば平均差は0.24秒。200メートルのカーブ側の端に立てば0.26秒。発令銃の近くなら0.18秒。位置が変われば、数字も変わる。

つまり、この定数は、生まれたそのときから定数ではなかった。位置に応じて変化する量がとる、値の一つだったのである。のちに人々は、そのうちの一つ、0.24を取り出して、定数として使うようになった。

しかも、選ばれたのが三つのうち真ん中の値だったことにも、目を向けたい。0.18は発令銃の近く、0.26はカーブに対応し、0.24はその間にある。間の値を汎用の定数にするのは、一見、折衷案のようだ。しかし、ここで折衷に筋は通らない。個々のレースは折衷ではないからだ。直線か、カーブか。計時員は銃に近いか、近くないか。そのどちらかである。直線かカーブかが決まっているレースに、間の値をあてはめても、どちらにも完全には合わない。この定数は、その選ばれ方の時点で、すでにどの具体的なレースにも属さなくなっている。

そして、それが平均値であることには、もう一つ、さらに重要な意味がある。

平均値は、いくつもの数から求める。その中には0.24より大きい数も、小さい数もある。平均値が表しているのは、そのどれか一つの具体的な数ではなく、数の集まりの中心だ。平均値を定数として使うとは、本来ばらばらに散らばっていた一つひとつの数を、その集まりの中心で置き換えることなのである。

どれほど散らばっていたのか。それが今回の核心だが、今回調べた範囲では、直接の答えは得られない。直接確認した1970年代の原論文からは、ミュンヘンとギーセンに関わるあの研究の標本数も、分布の全体像も、標準偏差も見つからなかった。後世の紹介はあの数字を平均値と呼んでいるものの、元の表を示していない。標本数も標準偏差も信頼区間もなく、公表された統計量が、個々の測定値から求めた平均なのか、それとも条件ごとに集計した平均なのかさえ、明示していない。

したがって、いま確かに言えるのは、0.24が特定の位置についての平均値だということだ。その平均を生んだ数の集まりが、もともとどれほど散らばっていたのかは、確かめられない。

この空白は、小さな問題ではない。平均値が役に立つかどうかは、その背後にある数の散らばり方に左右される。すべてが0.24のすぐ近くに密集していれば、一つひとつを0.24で置き換えても、誤差は小さい。大きく散らばっていれば、多くの値に対して0.24は当てにならない。その当てになるかどうかを決める肝心なものが、いま手に入らないのである。

三 散らばった数字たち

原論文は手に入らない。だが、その後、似たことを測った別の研究があり、そこでは散らばりの大きさが見えている。

男子大学生81人の40ヤードダッシュを調べた研究では、経験豊富な計時員による手動計時と電気計時の平均差は0.22秒、上下のばらつきは0.07秒だった。経験の少ない計時員では、平均差0.26秒、ばらつき0.08秒だった。

まず、二つの平均値、0.22と0.26を見よう。どちらも0.24の近くにある。0.24は悪くない数字だと、裏づけているように見える。

次に、二つのばらつき、0.07と0.08を見る。本当に重要なのはこちらだ。

ばらつきが0.07秒あるということは、平均差が0.22秒でも、ある一回の計時では、差が0.15秒かもしれず、0.29秒かもしれないということだ。この幅は0.15秒近くある。100メートルにおける0.15秒は、途方もなく大きい。金メダルと入賞にも届かない成績を分けるほどの差になる。

実際の歴史に置いてみると、もっとよくわかる。百分の一秒で競ってきた時代を通じて、金と銀の差が0.1秒に満たなかった例は数えきれない。ところが、ここで言っているのは、この換算定数をある一回の計時にあてはめる、その不確かさだけで0.15秒に達しうるということだ。つまり、二つの手動計時の成績を、この定数で換算して比べるなら、0.15秒より小さい差に意味はない。換算そのものが、それほど揺れるからだ。この定数は二枚の布を縫い合わせられても、それより細かな精度で順位まで縫い出すことはできない。

だから、この研究が示しているのは、こういうことだ。この定数は平均としては信頼できるが、一件ごとの値については信頼できない。多数の計時結果の全体的な傾向を表すなら、正確である。だが、特定の一回を補正するために使えば、大きく外れることがある。しかも、その一回でどれだけ外れたのかを知るすべがない。

ここには、前回と通じる構造が現れている。少し立ち止まっておきたい。

前回、ビーモンの一跳をめぐる問題は、四つの変数が一つの数字に合流すると、そこから元へ戻れないことだった。今回は逆だ。一つの平均値を一件一件にあてはめたあと、その一件にはどれだけ正確に合ったのかがわからない。前者では、多くの原因が一つの結果になってしまい、切り分けられない。後者では、一つの平均が多くの個別の値に取って代わり、検証できない。どちらも、この構が不確かさをどう扱うかという話であり、どちらも、帳簿をつけ続けるために、検証できないものを受け入れている。

このことは、もっと一般的に言える。このシリーズを通じて繰り返し現れる話だからだ。帳簿をつけ続けようとする構は、遅かれ早かれ、自分では取り除けない不確かさにぶつかる。そのとき、とれる態度は二つある。立ち止まり、不確かなものを一切記さない。そうすれば、記せることはごく少なくなる。あるいは、検証できない処理の仕方を受け入れ、不確かさを一つの数字や定数に押し込んで、記し続ける。長く動き続ける構は、ほぼすべて後者を選んだ。その代償として、帳簿に載る一つひとつの数字の中には、その構自身にも検証できないものが、少しずつ封じ込められている。

この定数については、手動計時は電気計時より必ず0.24秒速い、というよく聞く説明もある。これは成り立たない。手動計時は速くもなれば、遅くもなる。計時員の動作、訓練、先読み、そして走路の位置関係による。歴史上のあの定数は、平均に対する補正であって、すべてのレースに機械的にあてはまる真理ではない。長年この分野に携わってきた統計家も、いつでも0.24秒速くなるという話は誤解だと、明確に指摘している。同時に、よく訓練された計時員に限れば、0.24秒は平均的な取り決めとしておおむね使えるとも認めている。

この二つは、必ず一緒に言わなければならない。この定数は、取り決めとしては使えるが、個々の事例を記述するものとしては信頼できない。両方が同時に成り立っている。だからこそ、使われ続けながら、疑われ続けてもいるのだ。

四 手動計時はなぜいつも切り上げられるのか

手動計時と電気計時の違いをさらに広げているのに、しばしば見落とされることがある。

手動計時の端数処理は、近い方への丸めではなく、切り上げなのだ。

確認できる国際陸連の規則では、手動計時によるトラック競技のタイムは、次の長い十分の一秒へ切り上げて読む。百分の一秒まで測れる時計や、手で操作するデジタル計時器を使っていても、小数第二位がゼロでないタイムは、すべて次の長い十分の一秒へ切り上げる。たとえば10秒11は、10秒2になる。

つまり、手動計時のタイムは、常に遅くなる方向へ調整される。10秒11は、どう見ても10秒1の方に近いのに、10秒2と記される。四捨五入ではない。切り上げるだけで、切り捨てない。

この規則には、見落としやすい帰結がある。手動計時のタイムは、記される時点で、すでに一度、遅い方へ調整されている。その調整は、どんな換算よりも先に行われる。だから、手動計時は電気計時より0.24秒速いと言うとき、比較に使われている手動のタイムは、実はすでに遅い方へ丸められた数字なのだ。指で時計を押して得た実際の読みと、最終的に成績表に載る数字の間には、切り上げという一段階が挟まっている。この層は見落とされがちだが、そのために、手動と電気の本当の隔たりは、表面に見えるより複雑になっている。

なぜ、そうするのか。手動計時には、もともと系統的な偏りがあるからだ。人が時計を押すときは、スタートで押し遅れがちで、フィニッシュでは先読みして早めに止めることがある。そのため、全体としてタイムが速く出る傾向がある。切り上げは、その速く出る傾向を大まかに補うものだ。手動では速めに出るのなら、読み取る際には遅い方にだけ寄せ、速い方には寄せない。

こうして、手動計時の成績には、二層の調整が重なる。第一層は切り上げで、遅い方へ寄せる。第二層は0.24秒という定数で、さらに遅い方へ一段足す。どちらも同じ向きに働き、手動計時の数字を電気計時の数字に近づけている。

電気計時も切り上げるが、単位はもっと細かい。現行規則では、1万メートル以下のトラック競技は、すでにぴったりの値である場合を除き、次の長い百分の一秒へ切り上げて読み、換算し、記録する。1万メートルを超えるトラック競技は次の長い十分の一秒へ、ロードレースは次の長い一秒へ切り上げる。

並べてみると、この構の端数処理には、一貫したやり方がある。タイムを少し遅く見せることはあっても、速くは見せない。すべての切り上げは、上へ、つまり遅い方へ向かう。

そこには、記録という構の性質に関わる理屈がある。一つの記録が公認されると、それは以後のすべての人が超えるべき目標になる。端数処理のために実際より速く見える記録を作れば、後の人たちは、実態以上に高い目標を超えなければならない。それは後の人に不公平だ。逆に、端数処理によって少し遅く見せるなら、せいぜい、そのときの一人が少し損をするだけで、後のすべての人を巻き込まずに済む。

だから、この構は、避けられない端数処理の選択に際して、その誤差を、後のすべての人ではなく、いまの一人に引き受けさせることを選ぶ。これは意図的な偏りであり、その偏りが守っているのは、いまの成績の正確さではなく、帳簿の連続性である。

実は、この選択の背後には、公平さをめぐる非対称な判断がある。いまの一人に損をさせれば、一人が一度、損をする。後のすべての人を実態以上の目標に向き合わせれば、多くの人が、何度も損をする。二つの害を比べ、この構は、後の大勢を守るために、いまの一人へ不利益を集中させる。擁護できる選択ではある。だが、中立ではない。いまの選手と未来の選手の間で、制度的に未来の側に立っている。そして未来の側に立つことは、帳簿の側に立つことでもある。帳簿は、未来に読まれるためにあるからだ。

五 千分の一秒は中にあるが、外には出ない

現代の計時システムは、内部では千分の一秒を使っている。だが、それを記録の公式な精度にはしていない。

確認できる国際陸連の規則では、全自動計時システムは発令銃によって自動的に始動し、その遅延は一定で、かつ1ミリ秒未満でなければならない。つまり、システムの内部ではミリ秒単位で時間を捉えている。それでも、公表されるタイムは、種目の距離に応じて0.01秒、あるいは0.1秒までしか読まれない。

ここには、奇妙なことがある。この構は千分の一秒まで測れるのに、百分の一秒までしか公表しないと決めている。自分の持つ精度の一部をシステムの中にとどめ、外へ出さないのだ。

なぜ、千分の一秒を記録の精度にしないのか。確認できる規則本文には、その理由を説明する元の条文が見つからない。使わないとは定めているが、なぜ使わないかは書かれていない。実際の理由は、ほぼ間違いなく標準化と歴史の連続性だろう。ただ、その理由は、確認できる原文の中で明言されてはいない。

しかし、この出来事がどんな形をしているかは見て取れる。そして、前の数回の話にもつながる。

構が公表する精度は、到達できる最高の精度ではない。自分が引き受けると決めた精度である。千分の一まで測って、百分の一まで公表する。その間の一桁を、みずから手放している。手放すことには、はっきりした利点がある。百分の一秒なら、それまでの何十年分もの成績につなげられる。

ここから、一つの一般的な理屈が見えてくる。すでに動いている測定システムでは、精度は高ければ高いほどよいわけではない。自分自身の歴史と両立しなければならない。一回だけを切り離して測るなら、もちろん精度は高いほどよい。だが、何十年分もの過去のデータと並べて比較する測定で、精度が突然一段上がれば、過去のすべてのデータとの間に、埋められない隙間ができる。だから、この構の精度は、自分の過去に縛られている。技術が進むたび、好きなように公表精度を上げることはできない。一段上げるたびに、歴史との比較可能性が失われるからだ。1968年のハインズの9秒95は、百分の一秒までの数字である。いま千分の一秒に切り替えれば、これまで百分の一秒で記されたすべての記録が、厄介な立場に置かれる。古い記録には、その次の桁がわからない。新しい成績には、その桁がある。両者の間に、また比較できない状態が生まれる。

だから、この構は、その一桁を使わずにでも、過去との比較可能性を守ろうとする。ここでの選択は、第5回で見た高地の成績の扱いと同じだ。一枚の表を過去から未来へつなぐために、本来は得られる正確さの一部を、みずから手放す。精度と連続性を同時に最大にはできない。この構は、連続性を選んだ。

とはいえ、千分の一秒は消えたわけではない。システムの内部にあり、順位を決める必要があるときには使われる。つまり、この構は順位には到達できる最高の精度を使い、記録には歴史につながる少し粗い精度を使っている。誰が勝ったかを決めるときの精度と、帳簿に書き込むときの精度が違う。二つの精度が併存する。ここにもまた、二冊の帳簿がある。

六 換算ではなく、正式な地位を与える

1976年、国際陸連は、短距離の世界記録には自動計時だけを認めることに同意した。発効日は1977年1月1日だった。

この出来事で最も誤解されやすいのは、古い手動計時の記録に0.24秒を足し、電気計時に相当する値へ換算したのだろう、という見方である。

この構は、そんなことはしていない。

切り替えのあと、過去の成績の扱いは三つに分かれた。第一に、同じレースに当時から全自動計時の値があれば、その値を電気計時の基準として残す。第二に、その種目で手動計時による記録がなお認められるなら、手動計時または電気計時の記録として残す。第三に、種目そのものが廃止されたなら、記録の公認対象から外す。

まず、第一の扱いを見よう。これが、いちばんよく事情を示している。

ハインズの100メートルについて、古い手動計時の一覧は、1977年より前の9秒9を引き継いでいた。一方、独立した電気計時の一覧が設けられると、そこには、1968年10月14日にメキシコシティで走った9秒95が、電気計時の記録として載った。そして、1977年1月1日からは、百分の一秒単位の電気計時が必須であると記された。

つまり、この構は9秒9に0.24秒を足して9秒95に換算したのではない。同じレースの時点ですでに存在していた9秒95に、正式な地位を与えたのである。

この違いは重要だ。9秒95は、9秒9から計算された数字ではない。初めからそこにあった。ハインズのあの走りは、当時すでに二つのシステムで測られており、手動の側が9秒9、電気の側が9秒95を出していた。1977年にこの構がしたのは、以後は電気計時の方を基準にすると宣言することだった。すると、以前からありながら、それまで公式ではなかった9秒95が、公式になった。

スミスの200メートルも、エバンスの400メートルも、扱いはまったく同じだった。19秒83は初めからあった。43秒86も初めからあった。この構は古い帳簿を換算したのではない。その隣にずっと併存していた別の数字に、正式な地位を与え、それから、古い帳簿の数字が属する欄を無効にしたのだ。

これは、第2回に出てきた話と同じ構造をしている。この構が最初に覚えたのは、加えることだった。どう減らすかは教わっていない。ここでも同じだ。古い数字を新しい数字に直したのではない。それなら、引き算を一度して、足し算を一度することになる。そうではなく、以前からある数字の地位を引き上げると同時に、古い数字が並んだ欄を丸ごと失効させた。ここでも行っているのは、すでに存在する何かを認めることであって、何かを消して別のものと入れ替えることではない。

この好みは偶然ではない。この構が置かれた根本的な立場に関わっている。すでに帳簿に書いた数字を消すには、ある権限が必要になる。過去の記載は間違っていたと宣言する権限だ。ところが、この構が、第2回に出てきた権限を与える条文以来、一貫して受け取ってきたのは、登録する権限であり、抹消する権限ではなかった。だから、帳簿を変える必要が生じるたびに、変更を抹消ではなく登録の形にしようと工夫する。すでにある数字に正式な地位を与えるのは登録だ。それを公式へ引き上げるのも登録だ。古い欄から資格を取り去るのも、一つの区分が自然に期限切れになるようなもので、積極的な抹消とは見えにくい。持っていない権限を、こうして迂回する。

ここで、いまも手に入っていないものについて説明しておかなければならない。1977年以前の短距離、ハードル、リレーの全記録を漏れなく挙げ、それぞれが規則上どう処理されたのかを明記した行政上の一覧を得るには、当時の国際陸連の記録集や総会議事録を直接調べる必要がある。確認できる資料からは、このやり方が明確に見え、代表的な具体例もわかる。だが、公式の一括処理表は得られていない。したがって、処理の型は確かだが、一件一件の扱いを、今回すべてそろえることはできない。

メートル法ではない短距離やハードルの種目は、さらに別の扱いだった。換算されたのではなく、記録一覧から削除されたのである。世界陸連の歴史ページによれば、マイルを除くヤード・ポンド法の種目は、1976年の決定で削除された。メートル法の等価な値に換算されることなく、帳簿からそのまま消えた。

七 一本の糸で二枚の布を縫う

ここまで来れば、0.24という定数を、本来の位置に戻して見ることができる。

それは、縫い合わせるための糸だ。

手動計時が一枚の布なら、電気計時はもう一枚の布である。二枚は別の機械で織られ、縦糸と横糸の組み方が違う。一方の最小の升目は0.1秒、他方は0.01秒だ。それでも、この構は、二枚をつなぎ合わせた一枚の完全な表を必要とする。0.24は、その二枚を縫う糸なのである。

縫い合わせの糸には、こういう性質がある。全体としては丈夫だが、一針一針は緩い。平均で0.24秒という糸なら、二枚をおおよそそろえ、見た目にはまずまずの一枚の表に仕立てられる。だが、一針ずつを見ると、ある一回の手動計時を、電気計時のどの点に合わせるべきか、この糸は正確に示せない。こちらへ0.05秒ずれることも、あちらへ0.05秒ずれることもある。全体はそろっていても、部分はずれている。

これは、平均値で個々のものを扱うあらゆる方法に共通する性質だ。平均的な体格に合わせて作った机は、集団全体にはちょうどよくても、とても背の高い人や低い人には合わない。平均差に合わせた換算定数も、計時の集まり全体はそろえられるが、個別の一回ではずれる。違いは、机のずれは一目でわかるのに、計時のずれは見えないことだ。照らし合わせるべき、その選手の実際の電気計時の読みがないからである。見えないずれは、見えるずれより危うい。ずれがないものとして扱われるからだ。

だから、この定数は使われ続け、同時に批判され続けている。

批判する側は、現実の計時員たちに一つの固定した定数をあてはめるのは、しばしば粗すぎると言う。ある観察者が、ある地域の高校大会の決勝で、電気計時と、名目上のバックアップとして取られた手動計時を比べたところ、平均差は0.40〜0.45秒に達していた。0.24秒をはるかに上回る。その観察をもとに、こうした環境で0.24秒を使えば、参加標準記録の判定や組分けが実質的に歪む、と指摘した。これは、査読付きの陸上競技専門誌に載った研究ではない。長く統計と解説に携わり、現場を直接見てきた人による、実測に基づく批判である。

擁護する側は、よく訓練された計時員を対象とし、また、いまなお手動計時と電気計時を同じ表に載せざるをえない仕組みで運営上の比較可能性を保つためなら、こうした固定の定数はなお妥当だと言う。ランキングの仕組み、混成競技の換算、そして長年使われてきた学術的な指針には、この論理が組み込まれている。

実は、どちらも正しい。ただし、それぞれが正しく述べている対象が違う。

双方がどこで正しいのかを見定めること。それが、今回たどり着きたい場所だ。どちらかの側につくより、真相に近づけるからである。測定をめぐる多くの論争は、一方が正確だと言い、他方が正確ではないと言っているように見える。だが実際には、一方は全体の話をし、他方は個別の話をしている。二つは同時に成り立ちうる。0.24は全体には使えても、個々には信頼できない。これは、これから解消すべき矛盾ではない。平均値を個別の事例にあてはめれば、普通に起こることだ。そのあり方を認める方が、信頼できるか、できないかのどちらかだと言い張るより、ずっと誠実である。

擁護する側が正しいのは、二枚の布を縫う方法として、0.24は全体には使えるという点だ。この構には、実際にそういう方法が必要である。なければ二枚を一枚の表にできない。一方、批判する側が正しいのは、一針一針では、この糸が正確ではないという点だ。計時員の力量が、もとの平均値を生んだ熟練者集団から離れれば、ずれは非常に大きくなりうる。

公平にまとめるなら、この定数にはいまも制度上の使い道があるが、一件ごとの精度は弱い。全体としては丈夫で、部分では緩い縫い糸である。そして、その二つの性質は、どちらも本当だ。

注目したいのは、この構がその後、実際にどう対応したかである。この定数だけを取り上げて、擁護したり改訂したりする公式文書を出したわけではない。行ったのは別のことだ。記録の公認に全自動計時をより広く求め、認証されたスタート情報システムを要求した。そして、換算式はおおむね各国、学術の分野、ランキング、混成競技に委ね、中核となる世界記録の公認では使わないようにした。

つまり、この構は縫い糸を改良しようとはしなかった。中核の表を、できるだけ縫わずに済むものにしたのである。中核の記録は電気計時だけを認める。布は一枚だから、縫う必要はない。糸はそのまま周辺に残り、まだ二枚の布をつながなければならない場所で使われる。ここにも、前回と同じ型がある。完全には解けない問題に出会ったとき、この構は、それを解くのではなく、構の周辺へ移し、中核がもう触れずに済むようにするのだ。

八 手動計時は認められているが、もうものを言わない

今日でも、世界陸連の規則は手動計時を認めている。公認された公式計時方法の一つである。

現行規則が認める公式計時方法は三つある。手動計時、フィニッシュ地点の写真判定システムによる全自動計時、そしてトランスポンダー計時だ。したがって、公式の成績を生む方法として、手動計時の正当性が失われたわけではない。全自動計時を求められない大会で使う場合や、全自動計時のバックアップとして使う場合には、いまも有効である。

手動計時が失ったのは、規則上の正当性ではない。短い距離の種目で、記録の公認に同等の立場で関われる地位だ。現行規則では、800メートル以下の種目の記録には、全自動計時が必須とされている。

この状態は、立ち止まって見ておく価値がある。この構が古いものを扱う、典型的なやり方だからだ。

手動計時は廃止されていない。廃止するなら、決定を下して条文に書き込み、いまなお手動計時を使う、より下位のあらゆる大会に向き合わなければならない。この構がしたのは、手動計時を規則上は残しながら、いちばん肝心なところでの資格を取り去ることだった。手動計時はまだある。公式のタイムも出せる。だが、そのタイムは、短い距離の種目の記録表には入れない。

これは、第3回で見た「アマチュア」という言葉の結末と、同じ手口である。アマチュアは、ある日突然、廃止を宣言されたわけではない。「アマチュアとは規則を守る者である」という新しい定義によって、中身を抜かれた。それ以後、この言葉は、規則の外側にある何ものも指さなくなった。手動計時も廃止されていない。ただ、記録に関わる資格を取り去られ、重要でない場所でだけ通用する方法になった。構は、手放したいものを扱うとき、いきなり切り落とすことは少ない。多くの場合は、形だけを残す。まだそこにあるが、もう効かないようにするのだ。

こうした空洞化が、直接の廃止より巧みなのは、ほとんど反発を招かないことだ。手動計時をそのまま廃止すれば、それに頼る下位の大会はすべて、ただちに影響を受け、反対する理由を持つ。だが、記録についての資格だけを取り去るなら、そうした大会は従来どおり手動計時を使える。影響がないのだから、反対もしない。本当に記録を重視する最高水準の大会は、もともと電気計時を導入する余裕があるので、やはり反対しない。こうして、この構は、どちらからも強い反対を受けずに、手動計時の地位を静かに変えた。何かを形骸化する方が、廃止するよりずっと抵抗が小さいことが多い。一人ひとりに、自分は影響を受けていないと思わせられるからだ。

そして、あの縫い糸、0.24秒は、今日も制度の中で使われている。

米国陸上競技連盟は、混成競技の手動計時を換算する際には、400メートル未満の種目に0.24秒を、400メートルに0.14秒を加えるよう、いまも指示している。同連盟の青少年向けエントリー案内にも、手動計時の参加資格タイムを全自動計時の標準記録に照らす際、距離に応じて0.24秒を加えるのか、0.14秒なのか、あるいは加算しないのかが説明されている。全米高校協会連盟も、手動計時を全自動計時へ換算する0.24秒の規則を、いまなお公表している。

だから、0.24と0.14という二つの数字は、今日も縫い続けている。縫っているのは、もはや中核の世界記録表ではない。参加資格、組分け、ランキング、混成競技といった、手動と電気を並べなければならない周辺の表だ。中核の表はすでに一枚の布になったが、周辺の表はいまも二枚を継いだものであり、あの糸を必要としている。

ハインズの、あの一度の疾走に戻ろう。

9秒9と9秒95。一度の疾走の、二つの数字。この構は最後に9秒95を選び、手動の9秒9を古い一覧へ退かせた。その9秒9は、種目の規則が変わるにつれて、古い一覧もろとも、徐々に資格を失っていった。9秒95が選ばれたのは、ハインズが本当にどれだけ速く走ったかに、より近いからではない。その本当の数字は、誰にもわからない。千分の一秒まで測る機械が得るのも、結局は、その機械のシステムの中での一つの読みである。9秒95が選ばれたのは、ある時点から、機械の織る布を基準にすると、この構が決めたからだ。

真相を発見したのではない。基準を一つ選んだのである。

前回は、一つの成績を生んだ原因を切り分けられなかった。今回は、一つの成績の数値が、どちらの布で測るかによって変わる。二つの話が述べているのは、同じことだ。この構が記す数字は、どれも出来事そのものではない。ある装置、ある定数、ある端数処理、ある選ばれた基準を通り抜けたあと、帳簿に残された一つの痕跡である。痕跡は正確だ。照合できるし、比較もできる。だが、その痕跡と出来事の間に挟まったものは、一つとして帳簿に入らない。

ここまでの六回は、この地点で一つにまとまる。この構は、名前しか載っていない古代の一覧から出発し、新聞、ストップウォッチ、電気計時、写真判定と、より精密な測定を築いてきた。一歩進むたびに、記されるものはそれだけ正確になった。だが、どれほど正確になっても、記されるのは痕跡であり、出来事ではない。名前はその人ではない。9秒95は、ハインズが本当にどれだけ速く走ったか、そのものではない。8メートル90は、ビーモンの一跳を生んだ原因のすべてではない。構が精密になるほど痕跡は鮮明になるが、痕跡と出来事の間の隙間は、いつまでも残る。ただ、どんどん細くなり、ほとんど見えなくなる。すると人は、もう隙間はないと思う。隙間は、ずっとある。

物差しは、まだ正しく測れていない。それでも、測り続けている。