どの身体を測ってよいのか
1928年の女子800メートルは、女性には「走れない」と証明したレースではない。制度が、見ること、参加の資格、記録の公認を、それぞれ別の部屋に振り分ける仕方を示した一例だった。
一 九人とも走りきった
1928年、アムステルダム。女子800メートル決勝。
スタートしたのは九人。九人全員が完走者として記載されている。上位六人のタイムは、いずれもレース前の世界記録を上回った。優勝したラトケが2分16秒8、二位の人見絹枝が2分17秒6、三位のゲンツェルが2分17秒8。以下、トンプソン、ローゼンフェルド、マクドナルド、ドリンガー、キロスヴナと続く。
九位はウェーフェルという。よく目にする結果の一覧表には、彼女の正確なタイムが載っていない。
この一事に重い意味を背負わせる必要はない。初期の成績表で最下位の数字が一つ欠けている理由など、いくらでも考えられる。記入漏れ、転記の際の脱落、そもそも計時されなかった可能性。気に留めておきたいのは、空欄になっている場所だけだ。六人が世界記録を上回ったレースで、唯一数字を持たないのは、最後に走ってきた人だった。構が一つのレースに払う関心は、順位が下がるにつれて薄くなる。名簿のいちばん下の一枠は、その手が最も離れやすい場所なのだ。
どの意味でも、成功したレースだった。初めてオリンピックに採用された種目で、九人が完走し、六人がそれまでの世界記録を上回った。測ることがこの構の目的なら、このレースで起きたのは、望みうる最良の結果だった。
ここからもう一歩、話を進められる。六人が一度に従来の世界記録を上回る。種目が始まったばかりの時期には、よくあることだ。それまでの記録が生まれた場では、参加する人の裾野がはるかに狭かったからである。つまり、あの成績表には二つのことが同時に記されていた。九人が速く走ったこと。そして、この種目の帳簿は、それまでまだ薄かったこと。前者は競技の事実、後者は制度の事実だ。そして後者こそ、この種目が自分の歴史を積み重ね始めたしるしだった。本来なら、構にとってこれほど歓迎すべき兆候はない。
残されたフィルムは、今も見ることができる。映っているのは、フィニッシュのあとで、何人かが少しのあいだ座り込んだり、芝生に横になったり、明らかに息を切らしていたりする姿だ。800メートルを走ったあととしては、珍しくない。
レース後に女子選手を診察した医師は、ベルクマンだった。数分後、彼女は脈拍、血圧、全身の状態を調べ、すべて正常だと述べている。
だから、この出来事について証拠が何を示すかは、初めからはっきりしていた。公式成績表があり、映像があり、現場で診察した医師の証言がある。三つは互いを裏づけ、同じ結論を指している。九人がとても速い800メートルを走り、そして疲れた。
三つの証拠は、それぞれ性質が違う。その違いが、裏づけ合う力を強くしている。成績表は制度の産物であり、手続きによって作られ、判断を差し挟まない。映像は機械の産物であり、自分が何を撮っているかを知らない。証言は専門知によるものであり、判断する資格を持つ人が、現場での判断を言葉にしたものだ。互いに無関係な出どころから来た三つが、同じ出来事を指していた。証拠によって一つの出来事を確かめるという意味では、これはかなりよく確かめられた状態だった。
そのあとに起きたことは、この三つとは関係がなかった。
二 新聞では五人、あるいは六人
1928年8月3日前後、いくつかの大手紙が、このレースの記事を載せた。
『タイムズ』はレース後について、そこかしこに身体が崩れ落ち、見るからに苦しんでいたと描写し、そこから女子800メートルは危険だと結論づけた。
『ニューヨーク・タイムズ』のウィリアムズは、この種目が女性の体力に求めるものは大きすぎると書いた。さらに、九人のうち六人がフィニッシュ後に倒れ、数人は人に支えられてその場を離れた、とも記した。
『シカゴ・トリビューン』のシャイラーに至っては、女子陸上のスター五人がオリンピックのレースで崩れ落ちる、と見出しに掲げた。
カナダの『トロント・スター』では、マーシュが8月3日の一面でトンプソンとローゼンフェルドを取り上げ、疲労を大きく見せることを記事の売りにした。
このいくつかの文章を、前節の三つの証拠と並べてみよう。
公式成績表では、九人完走。『ニューヨーク・タイムズ』では、六人が倒れた。『シカゴ・トリビューン』では、五人が崩れ落ちた。
これは解釈の食い違いではない。倒れた人数は、数えられる。完走した人数と同じように数えられる。示されている数字が違う。しかも、同じ午後、同じフィニッシュラインについての数字が違うのだ。
ただし、ここで言いすぎてはいけない。少し座り込むことと、力尽きて崩れ落ちることのあいだには、たしかに描写の幅がある。同じ動作を、休息とも書けるし、身体がもたなかったとも書ける。だから、数字そのものが作り話だったとは限らない。見たものを、ある基準で分類したのかもしれない。その基準が、成績表の基準よりずっと緩かったということだ。肝心なのは、誰かが嘘をついたかどうかではない。描写と数えた結果が食い違ったとき、力を持ったのは描写だった、ということだ。
もう一つ、明らかにしておくべきことがある。この節では、それがいちばん大事だ。
この四人の記者のうち、当時フィニッシュラインのそばに立っていたと確証のある人は、一人もいない。現在の研究で確認できるのは、記事にある署名と所属紙、そして掲載日までだ。自分の目で見たのか、場内で聞いた話をもとに書いたのかは、残された資料では判断できない。四本の記事、四人の居場所。そのすべてが未確定である。
また、ドイツ語とフランス語の主要紙については、原文を直接引用できる紙面の複写を、今回の調査では確保できなかった。惨事として描くこの語りは英米だけの例外ではなく、国境を越えて広まっていた、という点では現在の研究は一致している。ただ、それを具体的な本文で確かめるには、各国の国立図書館にあるマイクロフィルムや紙面の複写に戻らなければならない。どれほど広い範囲で、どんな言葉によって繰り返されたのか。いまはそこまで細かくは言えない。
この欠落には、実際に分析を左右するところがある。見えているのが英語圏の四本だけなら、当時の語りは数紙が同じ題材をそれぞれ記事にしただけなのか、それとも言語をまたぐ共通の枠組みだったのか、判断しにくい。前者なら報道の偶然に近く、後者なら一つの時代が共有した先入見に近い。現在の研究は後者に傾いているが、その傾きを支える原文は、今回ここに示せない。だから、以下の分析は、読める四本に立脚するしかない。見えない部分に代わって結論を出すことはできない。
前回述べたことが、ここではそのまま当てはまる。構に何が見えるかは、出来事がどのような形で紙の上に残るかによって決まる。
今回の問題は、同じ出来事が二つの形で紙の上に残り、その二つが違う数字を示したことだった。
一方は成績表。計時員、審判、大会の記録手続きによって作られる。その仕事は、起きたことを正確に記すことに尽きる。もう一方は新聞記事。売らなければならない紙面によって作られる。その仕事は、読者に読む価値があると思わせることだ。
効力を持ったのは、後者だった。
この点は、きちんと述べておく必要がある。新聞への不満と読まれやすいが、そうではない。第二回で見たように、近代の記録制度が最初に帳簿としたのは、商業新聞だった。ウィルキンソンがそれを選んだのは、当時、十分な規模と十分に長い連続性を備えた資料が、それしかなかったからだ。つまり新聞は、かつてこの構を成り立たせたものだった。同じ媒体が、一方では構に身体を与え、他方では構の測定を覆した。別々の二件ではない。一つのことの両面だ。知らせをすべての人に届けられるものは、誤った数字もすべての人に届けられる。しかも、同じ速さで。
三 残されなかった採決
アムステルダムのあと、国際陸連は、女子800メートルを1932年大会の種目から外すと決めた。
当時の理由を伝える一次証言として読めるのは、ベルクマンの言葉だ。彼女の説明では、代表たちは、倒れ込む娘たちの光景に衝撃を受け、人道上の理由から票を投じたという。同時に、ドイツ代表はこの種目を残そうとした、とも述べている。
ドイツ代表が残そうとした。この点を、少し取り出して見ておこう。あの大会の優勝も、新しい世界記録も、ドイツのものだった。つまり、採決の場でこの種目を擁護する理由を持っていた唯一の側は、そこからいちばん多くを得た側でもあった。誰かを褒めたり貶したりする話ではない。採決での立場の分かれ方は、しばしば得失によって決まる。そして、当時この種目から何かを得た国は一つだけだった、という話である。
ここから生まれる結果は、構造的だ。始まったばかりの種目は、長く続いている種目より、必ず支持者が少ない。いくつもの国に既得利益を育てる時間が、まだなかったからだ。だから、規模が縮小されるとき、新しい種目はいつも最初に削られる側に入る。その種目自体のよしあしとは関係がない。構が種目を削るとき、実際に票を分けているのは各国の利害の分布であり、その分布は種目の年齢についてくる。
そして、もっと広く流布している説がある。国際オリンピック委員会は、その直後に採決を行い、女子の競走距離の上限を200メートルまで引き下げた、というものだ。
公開され、確認できる議事録には、この説に対応する記載が見つからない。
確認できるのは、別のことだ。1931年までには、国際オリンピック委員会が女子の陸上参加全体について採決し、賛成十六票、反対三票で、1932年大会に女子陸上を残している。ただし議事録には、論点ごとの討議内容は保存されていない。女子800メートルだけについて行われた採決の票数も、直接確認できる形では残っていない。
だから、先の説は未確定のままにしておくしかない。必ず間違っているというのではない。支えとなる一次記録を、今のところ示せないということだ。
ここで、すでに三度目となる形が現れている。ひと言、指摘しておこう。
第二回では、最初期の記録申請書の原本が見つからなかった。第三回では、ソープが自分の行為を認めた手紙、コーチの内部のやりとり、二つの委員会のあいだの往復書簡一式が、今日では行方不明だった。そして今回は、三十二年を支配した決定の、個々の理由が記録されていない。
三度とも、誰かが破棄したわけではない。残ったものには共通点がある。どれも、動き続ける機械が日々生み出すものだった。競技成績の年鑑は毎年印刷される。学生の記録は分類されて保存される。全体の採決の票数は議事録に書き込まれる。こうした仕事には、それをしてくれる仕組みがある。残らなかったものにも共通点がある。どれも一回きりだった。ある話し合い、一通の手紙、一度の討論。用が済めば、それで散ってしまう。
その結果、構が後世に残すのは、たいてい結論であって、そこに至る推論ではない。
これは、過去を判断するうえで現実の制約になる。1928年の種目削除が、いったいどんな考えから生まれたのかを知ろうとして、手に入るのは、採決の結果、医師一人の回想、後世の語り直しだ。当日の出席者が何を言ったかは、手に入らない。だから、動機についての結論はどれも、結果と文脈からの推測に立つしかない。そして推測は、議事録なら得られる確かさには、決して届かない。これは受け入れるべき限界だ。いっそう力を込めて読み解けば越えられる障害ではない。
四 内側にあった理由
ここで、二つの方向を、どちらもたどってみなければならない。今回は、両方に確かな材料がある。無理に揃える必要はない。
一つの方向は、種目削除の主因を、女性の能力についての誤った判断に見る。根拠はすでに挙げた。公式成績表では九人全員が完走し、上位六人が従来の世界記録を上回っている。現存するフィルムは、大勢が失神したという通説を裏づけない。現場の医師は、禁止は性急で感情的だったと述べ、診察した選手たちの生理的な状態は正常だったとしている。ベルクマン以外にも、メッセルリがのちに、自分も現場にいたと述べている。彼によれば、「力尽きて倒れた」とされた姿は、病的な虚脱というより、敗れたあとの涙や感情の反応に近かった。またテイラーは、一部の選手がレース後に短いあいだ倒れ込んだのは、緊張や競争に伴う感情のためであり、距離そのものに耐えられなかったのではない、と説明した。
ベルクマンは、さらに重要なことも言っている。短距離走の神経的な緊張は、長距離走より有害かもしれない、と。
この言葉が重いのは、当時その場で得られた医学的見解が、あの決定を支持してはいなかったとわかるからだ。選手を診察した医師は、その結果を見たうえで、反対方向の判断を示していた。
もちろん、その言葉自体も、一人の医師の意見にすぎない。証明された結論ではない。あの決定が誤りだった証拠として使うなら、注意が要る。それでは、検証されていない専門的判断を、別の、やはり検証されていない専門的判断で否定することになる。重要なのは別の点だ。当時、医学的な見解は一つにまとまっていなかった。一方、種目削除を支持した側は、のちに、当時の医学的合意に従ったのだと語られがちである。ここで「合意」という言葉は使えない。当時、合意はなかった。
もう一つの方向は、この決定にも、当時の医学と組織運営の文脈では独自の理由があり、その時代の知識の枠組みのなかでは筋が通っていた、と見るものだ。
その枠組みは、大きく三層からなる。第一に、女性の身体をまず生殖と育児のための身体として捉え、適度な運動はよいが、過度な、あるいは競争的な持久運動は、健康や生殖に害を及ぼしうると考える。第二に、人前にさらされるレース後の見苦しい光景を、運営上の問題として扱う。つまり、問題なのは選手が傷ついたかどうかではなく、観客が何を目にしたかだ。第三に、オリンピックの女子種目を、いわゆる美的な種目に寄せたいという希望がある。1930年、国際オリンピック委員会会長のバイエ=ラトゥールが示した主張は、この方向を向いていた。
三層のうち、最も注意したいのは第二層だ。選手の身体の状態とは、まったく関係がないからである。問題にしているのは、目に映る姿だ。そして、それこそ、前に見た新聞が提供したものだった。
この一層を取り出す理由は、もう一つある。第一層が問うのは、選手の身体に害があるかどうかだ。これは証拠で検証できる主張であり、のちに実際に検証され、覆された。ところが、第二層の観衆に与える印象や、第三層の美的な好みは、身体への害を主張しているわけではない。印象や好みには、事実と同じ意味での正誤はなく、健康についての証拠だけでは覆せない。三層の理由に支えられた決定は、健康上の理由を失っても、残る二層の上に立ち続けられる。証拠が積み重なっても、決定が必ずしも変わらないのは、そのためだ。
だから、この二つの方向は、対立する二つの説明ではない。同じ出来事のなかで噛み合っている。新聞が光景を大きく見せ、その光景が代表たちの判断に入り込み、当時の知識の枠組みには、世間の目にどう映るかを正当な理由とする通り道が、もとから用意されていた。三つは、一つずつでは種目削除を引き起こすのに足りない。合わされば足りた。
一つ、はっきりさせておかなければならない。1928年前後の医学論文と教科書を、一篇ごと、一版ごとに並べた一覧は、今回の公開資料の調査では作れなかった。再構成できるのは、制限する側の知識の枠組みと、制限に反対する側の、現場にいた医療者の証言までだ。一つずつ照合できる文献目録は再構成できない。それは、そのような目録が存在しないという意味ではない。今回見える範囲にはない、というだけである。
最後に見ておきたいのは、二つの方向のあいだにある時間差だ。
誤った判断は、のちに証拠によって体系的に根拠を崩されていった。それでも、種目を管理するあの論理は、規則の歴史に長く残った。本稿の後半で見るように、1978年になると、女子5000メートルと10000メートルを拒む理由は、もう女性の身体では耐えられないというものではない。世界的な参加の広がりが不十分だというのだ。理由は変わった。扉は同じ場所にある。
五 もう一冊の記録簿
アムステルダムよりずっと前から、別の仕組みがすでに動いていた。
ミリアは1920年代、独立した女子の国際競技会を組織することで、国際オリンピック委員会と国際陸連に圧力をかけた。国際女子スポーツ連盟が開いた主要な大会は四回。1922年のパリ、1926年のヨーテボリ、1930年のプラハ、1934年のロンドンである。
この連盟がしていたのは、大会を開くことだけではなかった。1922年から、女子の世界記録を公認していた。
この点が、この節の核心だ。記録の公認は、大会運営のおまけではない。国際競技連盟の最も重要な仕事の一つである。定め、公認し、公表する。それをすることは、自分たちは「この数字は有効だ」と言える機関なのだ、と宣言することに等しい。
注目したいのは、その権限を誰も与えていないことだ。国際女子スポーツ連盟は、上位の機関から記録を公認する権利を授けられたわけではない。自分たちで始めた。そこへ選手が参加し、報道する人が現れ、その数字を本当の記録として受け取る人がいた。それで、実際にその機能を持つようになった。第二回では、どんな成績表にも出どころが必要であり、その出どころに資格を与えることは、表自体にはできないと述べた。ここに現れているのは、その裏側だ。ある機関は、それをし続けることによって、自らを、その出どころにすることができる。
こうして1922年から1936年まで、女子陸上の成績には、二冊の帳簿があった。
1926年、一つの妥協が成立する。ミリアは、それまでの「女子オリンピック」という名称を「女子世界競技大会」に変えることに同意した。引き換えに、1928年のオリンピックには女子陸上が入る。この取引から、彼女の戦略が見える。並行するあの体制は、永久に存続させるためのものではなかった。交渉の切り札だったのである。
ただし、妥協の約束は、額面どおりには果たされなかった。実際に1928年のオリンピックに入った女子陸上は、一通りの種目が揃ったものではなく、ごく限られた数種目だった。そのため英国女子陸上競技協会は、選手団の派遣を拒否した。十種目と約束されたのに、五種目しか与えられなかった、というのが理由だった。
種目の平等を求め、女性がボイコットを行った。近代オリンピック史でも、きわめて珍しい例である。そしてボイコットの対象は、ほかでもない、ふつうは勝利として語られる、あの受け入れだった。
1936年、国際女子スポーツ連盟は国際陸連に吸収される。
「吸収」は、これまでの回に登場した、どの処理とも違う。相手の帳簿を一括して無効にすることでも、二冊をそのまま並べて残すことでもない。今日のワールドアスレティックスによる女子世界記録の変遷の説明にも、最初期の世界記録の一部は、あの連盟が1922年に公認したものだと書かれている。つまり、吸収された帳簿の項目のいくつかは、今も正式な記録の系譜に入っている。
だが、どの項目がそのまま引き継がれ、どの項目がのちに黙って無効になったのか。今、一件ずつわかる一覧はない。公開資料で、権威が移ったことまでは確かめられる。しかし、項目ごとの引き継ぎ目録は作れない。
だから、現在の帳簿には、もう存在しない機関から来た項目がいくつもあるのに、表面からは、それがどれなのかわからない。構は競争相手を呑み込んでも、自分の帳簿のどの行を呑み込んだのか、印をつけたりはしない。
対照的なのは、この並行する帳簿が、存在していたあいだ、一度も無効と判定されなかったことだ。ずっと本物だった。実際に動く国際機関が公認し、現実の選手がその記録を追っていた。消えたのは、否定されたからではない。それが仕えていた目的の一部が達成され、組織した人たちも、初めから長く存続させるつもりではなかったからだ。構は、敗れることによってだけ終わるのではない。完成することによって終わる場合もある。
もっとも、そうきれいに言い切るわけにはいかない。達成されたのは、ミリアの側の目的だけだからだ。四回の女子世界競技大会で成績を残した選手にとって、その帳簿が役目を果たし終えたかどうかは重要ではない。自分の名前が、そのあとも帳簿に残ったかどうかが重要なのだ。そして、その問いには、今日答えられない。一件ずつの引き継ぎ目録が存在しないからである。構がどう終わるかは、それを設計した人と、それに記録された人とで、同じ意味を持つわけではない。
六 ゼッケンのない人、ある人
女子800メートルは、1960年のローマ大会で復活した。
1928年から1960年まで、三十二年。
ところが、この復活には、「この日」と指せる日がない。1960年のローマで、すでにこの種目があったことは確かだ。だが、誰が、何年の、どの会議で、復活に向けた最後の手続きを済ませたのかは、公開資料からは特定できない。一度の会議で名誉回復が宣言されたと見るより、1950年代を通じた女子種目の拡充と、国際陸連および国際オリンピック委員会による採用種目の範囲の見直しが実を結んだ、と考えるほうが堅実だろう。
ここで、少し立ち止まっておきたい。
扉を閉じたときには、具体的な行為があった。一度の採決。理由が語られる場。議事録に書き込める結論。開けたときには、それがない。扉を開く過程は十数年に散らばり、それだけでは完結しない動きがいくつも積み重なってできている。そのため今日、いつ開ききったのか、その瞬間を指すことができない。
構は、閉めるときと開けるときとで、同じ動きをしない。閉めるには、一度の決定が要る。現状に逆らわなければならないからだ。開けるには、現状がゆっくり変わり、その扉をもはや必要としなくなるだけでよい。そして後者は、記録を生まない。
こうした出来事を振り返るとき、いつも扉を閉めた出来事のほうが思い起こされるのも、そのためだ。1928年には、指し示せる対象がある。採決があり、理由があり、引用できる言葉がある。1960年には、それがない。だから、のちの語りは、どうしても閉めた瞬間を中心に展開する。開けていった十数年には、引用できる節目が乏しく、語りのなかではほとんど空白になる。構がどう記録するかによって、後世の人が何を覚えていられるかが決まる。しかも、構が記録しているのは、よりによって自分が下した最悪の決定なのだ。
その後、女子種目が揃っていく年表は、公式の成績ページから作ることができる。1500メートルは1972年のミュンヘン。3000メートルとマラソンは1984年のロサンゼルス。10000メートルは1988年のソウル。三段跳は1996年のアトランタ。棒高跳とハンマー投は2000年のシドニー。3000メートル障害は2008年の北京。
1928年から2008年まで、八十年。
その長い線の中ほどに、時期の近い二つの出来事がある。対照が、実にくっきりしている。
1966年、ギブはスタート地点の脇の茂みからボストン・マラソンの列に加わり、3時間21分40秒で走った。ゼッケンはなかった。
1967年、スウィッツァーは名前をイニシャルにして申し込み、ゼッケンを手に入れた。そして、番号をつけてボストン・マラソンを完走した最初の女性になった。
二人に対して、この構の反応はまったく違った。
ギブについて、当時問題にされたのは、本当に全コースを走ったのかという主催者側の疑いだった。つまり、出来事そのものが起きたことを否定する、という扱いだ。名簿に載っていないのだから、取り消すべきものが何もない。できるのは、その成績が成立するのかと疑うことだけだった。だが、それを反証する方法もなかった。彼女は初めから、計時と出場確認の仕組みの外にいたからだ。
スウィッツァーには、その場で手を出し、コースから追い出そうとした。ゼッケンがあり、帳簿に載り、指し示せる一つの項目だったからだ。
前回のソープの一件と、同じ形が繰り返されている。本名を使った人は処分され、偽名を使った人は無事だった。今回は、さらに直接的だ。帳簿に入った人こそ、つかまえられる人なのである。帳簿に入らなかった人に、構は何もできない。そして、まさにそのために、彼女は完走しなかった、と言うことができる。
二つの扱いは、代償も違った。スウィッツァーに手を出した場面は、連続した写真になって残った。のちに最もよく知られる証拠となったその写真は、かえって主催者に大きな不利をもたらした。ギブへの疑いは、映像には残らない。疑いは言葉であって、動作ではないからだ。構が見える項目を扱えば、構自身の動きも見えるようになる。見えない人を扱えば、その動きもまた見えない。可視性は双方向に働く。当時の構は、そこまで考えていなかったかもしれない。
1972年、女子の部が正式に設けられた。のちに主催者は、草創期の優勝者としてギブを認めている。
七 記録を先に、資格をあとに
1978年、国際陸連の女子委員会は、女子5000メートルと10000メートルについて、世界記録の公認と国際競技種目としての地位を求めた。
国際陸連は、このときは拒んだ。世界的な参加の広がりが、まだ十分な水準に達していないという理由だった。
1980年には、二種目の世界記録を公認した。それでも、当時の世界選手権や国際競技会の体系には加えなかった。そのため、新種目に関する当時の規則によって、この二種目は1984年のロサンゼルスに間に合わなかった。
この経緯では、二つのことを分けて見る必要がある。
第一は、順序だ。記録を先に認め、種目としての資格はあとにした。つまり、何年かのあいだ、公式に公認された世界記録が存在するのに、公認した当の機関は、その種目を自分の主要大会に入れなかった。測定はすでに動いていた。受け入れの扉は、まだ開いていなかった。
第三回では、順序は逆だった。まず参加資格の線を引き、それを越えた人だけが測られる資格を得た。ここでは、まず測る。測り始めてずいぶんたってから、受け入れの話になる。二冊の帳簿は、あの二冊のままだ。ただ今回は、前後が入れ替わっている。どちらの順序でも、必ずその二冊のあいだに挟まれる人がいる。
第二は、理由そのものだ。
参加の広がりが足りない。この言葉を拒否の根拠にするとき、構造的な問題が生じる。ある種目が世界でどれほど行われるかは、その種目がオリンピックに入っているかどうかに、大きく左右されるからだ。オリンピック種目でなければ、各国はその種目の代表枠を設けず、育成に資源を投じず、若い選手もその道を選ばない。参加が広がらないので、いつまでも基準に届かない。
この扉は、扉を通って初めて得られるものを、通る前から持っているよう申請者に求める。
誰かがわざと仕掛けた罠ではない。規模を抑えたい機関には、どの種目を正式に採用する価値があるかを判断する基準が必要だ。普及度は、考えられる基準のなかでも最も中立で、最も測りやすい。問題は、その基準の意図にはない。数学的な形にある。結果になるはずのものを、条件にしているのだ。
こういう形は、ほかにもよくある。ある技術は、普及しなければ安くならず、安くならなければ普及しない。ある言語は、使う人がいてこそ学ぶ価値が生まれ、学ぶ人がいてこそ使う人が生まれる。違いは、それらの例にはふつう、スイッチを握る一つの機関がいないのに、ここにはいることだ。循環のなかに、例外を認めるかどうか決められる機関があるなら、その循環は、ただ自然に生じる遅れではなくなる。同時に、可能だった選択をしなかったことの結果でもある。この点は判断するうえで重要だが、誰かの悪意を指しているわけではない。
1984年、女子長距離選手数人がカリフォルニアで訴訟を起こし、その年のロサンゼルス・オリンピックに女子5000メートルと10000メートルを加えるよう、控訴裁判所に命令を求めた。彼女たちの主張は、国際オリンピック委員会の新種目に関する規則が、歴史的に女性を一段低い地位に閉じ込め、女子選手に対する構造的な差別を持続させている、というものだった。
第九巡回区控訴裁判所は、暫定的な差止命令を出さないとした判断を維持した。多数意見は、その規則は文面上、男女に同じように適用されるのだから、自らが解する法律上の性別による分類には当たらない、とした。
ここでは、原告の訴えと裁判所の判断を、分けて読まなければならない。
判決の反対意見には、近代オリンピック初期の歴史が、女性に対する公然たる差別によって汚されていたことが明記されている。また、カリフォルニアのその反差別法は、原告にもっと有利な形で適用されるべきだった、と論じている。
つまり、この裁判で、国際オリンピック委員会は一度も差別をしていないと認定されたのではない。この訴訟の具体的な構成のもとでは、現行規則を理由に、司法がただちに種目追加を強制することはできない、と多数意見が判断したのだ。この二つは、まったく違う。後世の語り直しは、しばしば一つにしてしまう。
多数意見の推論そのものにも、目を向けておこう。このシリーズで繰り返し出会う形だからだ。ある規則は、字面ではすべての人を平等に扱う。しかし、その規則が働く現状は、平等ではなかった歴史によって作られている。規則は、できあがった分布を引き受け、それを中立に扱う。この中立は、偽装ではない。本当に中立なのだ。重要なのは、非対称な出発点に対して中立を保っても、結果は対称にはならないということだ。
ここでは、多数意見にもその位置を認めておきたい。裁判所が向き合っていたのは、その規則が公正かという問いではない。一つの訴訟のなかで、国際組織に二種目の追加をただちに命じられるか、という問いだった。二つの問いには、別々の答えがありうる。裁判所が後者に自分の仕事を限ることは、逃げではない。反対意見は歴史を語り、多数意見は、この訴訟で司法に何ができるかを語る。語っている対象が同じではないのだから、両者が並び立つこと自体は矛盾しない。
法律上の差別に当たるのかどうかは、また別の問いだ。1984年の多数意見と反対意見は、その問いに違う答えを出した。
八 二つの部屋
今日、1928年に閉じられた扉は、もう開いている。
パリ・オリンピックは、出場枠の意味では男女平等を達成した。一方、国際オリンピック委員会自身が示す種目数は、男子157、女子152、混合20である。
陸上に残る非対称は、もはや主として、ある種目が女子には設けられていない、という形ではない。同じ種目が、違う形に作られている。男子は110メートルハードル、女子は100メートルハードル。ハードルの間隔も高さも違う。混成競技は、男子が十種、女子が七種だ。
この変化そのものが、本稿で最も大事なことだ。能力を理由とする排除から、規則の違いへと移った。
1928年の理由は、女性にはその距離に耐えられないというものだった。今日の理由は、歴史的な伝統、競技成績を比較できること、そして規則の連続性である。前者は証拠によって覆せるし、すでに覆された。後者は覆せない。身体について何かを断言しているわけではないからだ。言っているのは、これだけである。この種目は、ずっとこうだった。変えてしまえば、変更の前後で成績が比べられなくなる。
この転換には、公平でありたい。身体についての誤った断言から、帳簿の連続性についての正しい断言へ移った。どの意味でも進歩であり、それを迫ったのは、先立つ数十年に積み上がった証拠だった。構は、成り立たない理由を捨て、成り立つ理由に取り替えた。ただ、見落としてはならないことがある。扉の位置は、ほぼ動いていない。動いたのは、扉に書かれた言葉のほうだ。構は、形を変えずに根拠を変えられる。そして、根拠を変えること自体が、しばしば批判に押されて実現する。
そして、その言い分は正しい。
十種競技と七種競技では、実施する種目の組み合わせが違い、得点表も記録一覧も別々だ。その成績を、互いに換算することは永遠にできない。見落としではない。そう設計されている。それぞれの内部では、時代を越えて成績を比較できるようにする。そのために、二つのあいだでは比較できない状態を、永久に保たなければならない。
第五回以降、何度も見ることになる構造が、ここでは初めて、これほど明瞭な形で現れている。二冊の帳簿が並んでいるのは、どちらかが相手に勝ったからでも、どちらかが無効になったからでもない。比較できるという性質が、一冊の帳簿の内部でしか実現しないからだ。一列の数字を続かせるためには、別の列と一つにすることを拒まなければならない。一冊一冊の帳簿の完全さは、ほかの帳簿との通約不可能性を代価にして手に入れられている。
ここが、本稿と第一回がつながる場所でもある。古代の勝者一覧が生み出したのは名前だけで、成績を比較できる性質ではなかった。だから、長さの違う四本の走路は、誰にとっても問題にならなかった。のちの構は、比較できることを選んだ。それを目的にした以上、絶えず境界を引かなければならない。どの成績なら並べられ、どの成績は並べられないか。一本引くたびに、線の外に落ちるものが増えていく。八十年のあいだに、境界の根拠は身体から参加の広がりへ、さらに伝統と連続性へと変わった。だが、境界の数は減らなかった。
1928年の、あの午後に戻ろう。
九人が、とても速い800メートルを走りきった。成績表には九つの名前と八つのタイムが記された。九位のウェーフェルの秒数は、よく目にする一覧表には残っていない。映像は残り、その場で診察した医師は証言を残した。それらは、そのあとに起きたこととは関係がなかった。
本当に力を持ったのは、数本の記事だった。書いた人たちがフィニッシュラインのそばにいたかどうかは、今では判断できない。
この構は、自分で測ったものを手にしていた。装置のすべては、あの成績表を作るためにあった。そのために計時員を置き、審判を置き、記録の手続きを設けた。それから、芝生の上の彼女たちの姿を一目見て、自分の測定を脇に置いた。
物差しは、まだ正しく測れていない。それでも、測り続けている。