四つの変数がそろうとき
ビーモンの8メートル90は、選手にも、標高にも、風にも、測定装置にも属していた。記録が求めるのは一つの数字だが、同時に居合わせた原因を、一つずつ切り分けることはできない。
この篇の目次
一 測れなかった測定
1968年10月18日、メキシコシティ。男子走幅跳決勝。
ビーモンがあの一跳を跳んだとき、風速計の読みはちょうど毎秒2メートル。記録が公認される上限だった。距離は8メートル90。
その一跳は、当時使われていた測定装置の測定範囲を飛び越えてしまった。光学式測距装置のレールが短すぎて、着地点まで届かなかったのである。審判は昔ながらの鋼製の巻尺に持ち替え、公式の距離を確定するまでに、およそ二十分を要した。
この話から始めるのがふさわしい。今回の文章で語ろうとすることが、すでに一枚の絵になっているからだ。
正確に測るために作られた装置が、大きすぎる出来事に出会って測れなくなり、巻尺に戻るしかなくなった。あの装置は、1968年のこの構が到達しえた精度の頂点だった。それが、いちばん必要とされた瞬間に役に立たなくなった。故障したわけではない。一跳のほうが、設計の範囲を超えていたのだ。
ここには、ささやかな皮肉がある。測定装置がどこまで測れるかは、設計者が過去の成績の幅をもとに決めている。つまり、あのレールの長さには、それまで人間が跳んだ最長の距離と、そこに加えた妥当な余裕が織り込まれていた。ビーモンはその余裕の先まで跳んだ。それまでの歴史全体が、可能なことの境界として引いていた線を越えたのである。装置に測れなかったのは、出来が悪かったからではない。過去をもとに作られた装置に対して、あの一跳は、過去に属していなかったからだ。
そして、あの巻尺が8メートル90を測り出した一跳をめぐっては、その後も測れないことが残った。今度は距離ではない。原因が測れなかった。
あの日、四つの変数が一度にそろった。標高、風、新しい助走路、そして選手本人の状態。この四つが同時にその場にあり、一つの跳躍に一緒に作用した。あとからそれぞれの寄与を切り分ける方法は、どこにもなかった。記録の取り方が粗かったからではない。これから見るように、物理的に、初めから絡み合っていたからだ。
だから、今回の問いは、メキシコシティがビーモンをどれだけ助けたのか、ではない。その問いに答えはない。なぜ、いまも答えがないのか。そして、正確に測ることを仕事とする構は、何に起因するのかを突き止められない出来事に出会ったとき、何をするのか。それが今回の話である。
まず、四つの変数から見ていこう。
二 片方には損失、片方には利得
メキシコシティのオリンピック陸上競技場は、およそ標高2240メートルにあった。
標準大気の関係式から換算すると、そこの空気密度は1立方メートルあたり約0.98キログラム。海面高度の約80パーセントである。気圧は、海面高度の標準気圧の約76パーセントだった。
この二つの数字のなかに、大会全体を二つに分けるものが潜んでいる。
空気が薄くなると、二つのことが起きる。しかも、向きが逆だ。一つは空気抵抗が小さくなること。高速で動く物体にかかる抵抗は、空気密度が低くなれば減る。だから、短距離走や跳躍では、薄い空気が味方になる。もう一つは酸素が少なくなること。人間の最大酸素摂取量は、標高が上がるほど下がる。だから、持久系種目では、同じ薄い空気が足を引っ張る。
同じことが、ある種目群には利得となり、別の種目群には損失となる。
面白いのは、どちらも同じ空気分子の話なのに、効果が反対を向くことだ。空気に求めている役割が違うのである。抵抗の問題は、動く物体が空気のなかをどう通り抜けるかに関わる。酸素の問題は、身体が空気からどうエネルギーを得るかに関わる。空気が薄ければ、前者には道が開き、後者には供給が足りなくなる。一つの大会が、100メートルを走る人と1万メートルを走る人を同じ空の下に置く。だが、その空の意味は、二人にとってまるで違う。空がえこひいきしているのではない。二つの種目が、空に違うものを求めているのだ。
これは大会前から、すでに計算されていた。ピューが1965年に発表した研究は、標高が上がると最大酸素摂取量が下がるため、有酸素運動の能力が低下する一方、空気密度の低下によって空気抵抗も減ることを指摘している。つまり、大会が始まる前に、結果が種目群ごとに分かれると予測した人がいた。短距離走と跳躍では成績が伸び、持久系種目ではタイムが落ちる、と。
この大会の成績は、その予測を現実のものにした。
短距離走では、スミスの200メートル、19秒83が世界記録。エバンスの400メートル、43秒86も世界記録で、人類初の44秒切りだった。ヘメリーの400メートルハードルは48秒12で世界記録。大会前の世界記録は48秒8だった。跳躍ではビーモンが、それまでの記録をはるか後ろへ置き去りにした。
持久系種目では、ケイノの1500メートル、3分34秒91はオリンピック記録だったが、大会前の世界記録3分33秒1より遅かった。1万メートルについての公式記述には、5000メートルの通過が15分00秒6とある。1924年のオリンピック決勝よりも遅いペースだった。
投てきは、その中間に位置する。マトソンの砲丸投は20メートル54で、大会前の世界記録21メートル78に届かなかった。ルシスのやり投は90メートル10。オリンピック記録となる大きな一投ではあったが、短距離走や跳躍で起きたような、爆発的な突破ではない。
大会全体の成績を種目ごとに並べると、はっきりした境目が見える。薄い空気は、すべての成績を一様に引き上げたのではなかった。一部を押し上げ、別の一部を押し下げた。その境界は、ピューが大会前に計算していた場所に、ちょうど重なっている。
これは、この構にとって具合の悪いことだった。記録制度の全体が、同じ種目の成績なら会場をまたいで比較できる、という前提に立っていたからだ。ところがメキシコシティは、標高が変わると、種目によって成績が逆向きにずれ、ずれ幅もそれぞれ違うことを示した。会場は無視してよい背景ではない。成績を系統的に書き換える変数であり、その書き換え方は種目ごとに違う。比較可能性の上に築かれた構が、この大会で、比較可能性の物理的な限界にぶつかったのである。
標高についていちばん大事なのは、そこだ。一方向の恩恵ではない。両刃の剣なのである。どちらの刃が働くかは、その種目が空気に抗うことに頼るのか、酸素を消費することに頼るのかで決まる。
三 論争は開催地が決まった日から
この物理的な関係に、1968年になって初めて気づいたわけではない。メキシコシティが開催地に選ばれた1963年、その日からすでに論争になっていた。
当時の報道によれば、特に低地の国々のコーチやスポーツ医が、持久系種目と高地順応の問題を心配していた。それでも、国際オリンピック委員会は開催地を変えなかった。
競技を海面高度の土地へ移す案は、実際に大会前からあった。当時かなり影響力のあった報道には、イギリスとベルギーの一部のスポーツ関係者が、持久系種目を海面高度で実施するよう提案したとある。想定する代替地の例として、海沿いのベラクルスにも明確に言及していた。国際オリンピック委員会の方針になることはなかったが、開催地変更が実際に論じられていた証拠ではある。
各国のオリンピック関係機関やスポーツ医学の研究機関も、実際に動き出していた。今回確認できた資料のなかで最も明瞭なのは、イギリスオリンピック委員会が1965年に行ったメキシコ高地研究プロジェクトだ。オリンピック関係資料と同委員会のアーカイブ目録に、その記録が残っている。標高の問題が、すでに組織として取り組む課題になっていたことを示す有力な証拠である。新聞で話題になっていただけではなかった。
ここで、確かめられることと、確かめられないことを分けておく必要がある。
イギリスのそのプロジェクトが存在したこと、大会前に広く不安があったこと、開催地変更が論じられたことは、確認できる。確認できないのは、各国が国際オリンピック委員会に提出した医学的見解を全部集めると、どのような資料群になるのか。そして、開催地変更を求めた正式提案の一つひとつが、どのような原資料の足跡を残しているのか、という全体像だ。そうした懸念が存在したことは確かである。だが、各国の提出内容を漏れなく比較できる帳簿は、今回、示すことができない。
この空白には、気に留めたい点がある。大会前に反対していたのは主に低地の国々であり、予定どおりの開催を支持する側には、高地にいる開催国自身が含まれていた。高地で競技すべきかどうかをめぐる立場は、その国自身がどの高さにいるかと関係していた可能性が高い。第4回で見た種目削除の採決でも、その種目を唯一擁護したのは、そこから最も利益を得ていた国だった。立場は損得に従って動く。ここでも、おそらく同じことが起きていた。ただ、それを確かなものにするには、いま手にない完全な比較帳簿が要る。したがって、ここでは可能性を指摘するにとどめ、断定はしない。
大会前の科学が、国際オリンピック委員会をどれだけ安心させたのかについては、研究者の見解が分かれている。蓄積する生理学研究によって、順応と計画で対処できる大会だと見えるようになった、という読み方がある。一方で、委員会は科学的知見を政治的には取り込んだものの、持久系の選手にとっての公平性の問題は、結局解決しなかった、という読み方もある。どちらも二次文献に見られる。
この見解の分かれ目で、少し立ち止まりたい。今回の話全体が、ここに小さく映っているからだ。
ここで科学は、問題を解決したのではなく、取り込まれた。高地が持久系種目に不利であることは、計算できる物理的事実であり、ピューはすでに計算していた。その事実は反駁もされず、取り除かれもしなかった。ただ、予定どおり開催された大会の下に覆い隠されたのである。構は、自分に都合の悪い、しかも計算の済んだ事実に出会っても、それを論破する必要はないのかもしれない。事実はそこに置いたまま、自分はいつもどおり動き続ければよい。
このことは、後半でもう一度、もっとはっきりした姿で現れる。
四 四つの変数は一つも取り出せない
では、四つの変数を、ビーモンのあの一跳に重ねてみよう。
一つ目は標高。空気抵抗を小さくする。空気抵抗は、助走中の加速にも、地面を離れたあとの空中移動にも作用する。したがって標高は、助走と空中移動の両方に影響する。
二つ目は風。あの日の追い風は毎秒2メートルで、公認の範囲内だった。風もまた、助走に作用し、空中移動に作用する。やはり二つの局面を同時に変える。
ここで標高と風には、決定的な問題が生じる。同じ仕組みを通じて働くのである。どちらも空気抵抗を変えることで、速度と距離に影響する。つまり、データの上では両者の効果に共線性がある。毎秒2メートルの追い風による利得と、高地の薄い空気による利得は、物理的には同じ種類の利得だ。重なってしまえば、どこまでが風で、どこからが標高かとは言えない。ある研究の推定によると、標高約2250メートルでの100メートル走の利得は、公認範囲内の毎秒2メートルの追い風にほぼ相当する。あの日のビーモンは、ほぼ同じ量で、しかも同じ質の助けを、二つ同時に受けていたことになる。
この共線性が、原因を切り分けられないことの技術的な核心である。もう一段、はっきりさせておこう。二つの変数が違う仕組みで働くなら、原理的には分けられる。それぞれが違う場所に、違う痕跡を残すからだ。ところが標高と風は、同じ道を通る。データに残るのも同じ種類の痕跡であり、重なったあとには、そのどの部分がどちらから来たかを示す印がない。測定精度の問題ではない。どれほど精密に測っても、測れるのは合わさった痕跡だけだ。すでに合流した二つの源を、別々に測ることはできない。
三つ目は助走路。従来のシンダー走路に代わる、ポリウレタン製の全天候型走路だった。助走と踏み切りを変えたが、空気力学には直接作用しない。合成素材の走路は足のグリップを安定させ、接地中の速度の損失を減らし、シンダー走路にあった多くの不確定さを取り除いた。前の二つとは働き方が違う。人と空気のあいだではなく、人と地面のあいだに作用する。
四つ目は、選手本人の状態だ。競技上の調子、覚醒の水準、当日その場での心身のあり方。こうしたものは、あらゆる部分に作用する。しかも、機械でそのまま観測することはできない。
この四つは、どれ一つとして、あの一跳から単独で取り出して秤に載せられない。
記録が細かくなかったからではない。どんなに細かく記録しても、取り出せない。構造そのものが絡み合っているからだ。標高と風は同じ仕組みを共有し、互いに分離できない。走路は助走に作用し、助走の効果は踏み切りを通じて空中移動に伝わり、空気の作用と混ざる。本人の状態は四つの局面すべてに作用する。これは精度の問題ではない。識別可能性の問題である。
精度が足りないことと、識別できないことは、別の問題だ。その区別が、今回の文章全体に関わる。精度が足りないとは、測れてはいるが、測り方が粗いということだ。原理的には、もっとよい機器に替えれば改善できる。識別できないとは、それらの量を構造上、別々には測れないということだ。どんな機器に替えても役に立たない。問題が機器ではなく、量どうしの関係にあるからである。メキシコシティの問題は、初めから終わりまで後者だった。だから、よりよいデータがあれば原因を切り分けられる、と期待するのは方向が違う。いくらデータを増やしても、ほどけないほど絡んだ四つの変数は識別できない。
ここで、もう一つの区別を明確にしておきたい。今回の核心にあたる。
モデルを作れることと、識別できることは同じではない。モデル化とは、一組の仮定を置き、そこから数字を計算することだ。識別とは、その仮定に頼らず、観測データから各要因の実際の寄与を、一つずつ確定することだ。ビーモンの一跳はモデル化できる。実際、さまざまな人が違う仮定を置いて、違う数字を出してきた。だが、識別はできない。あらかじめ仮定を置かずに四つの変数の寄与を分けられるほど、豊かな観測の組み合わせが存在しないからである。
しかも、必要となる観測は、1968年には残されなかった。ビーモンの踏み切りの完全な運動学的データは、いま手に入らない。あの跳躍の瞬間、助走路全体に広がっていた正確な風の場もない。靴と地面の相互作用に関する変数も、踏切板と砂場の上でその瞬間に生じていた局所的な突風の構造もない。どれも、現代の因果モデルが最も欲しがるものだ。その欠落が、四つの変数を切り分ける試みにいまだ答えが出ない、中心的な理由なのである。
五 一跳の大きさは、何を問うかで変わる
ビーモンの一跳を分解しようとした人はいる。しかし、得られたのは合意された一つの値ではなく、互いに異なる一群の推定値だった。
よく引用されるウォード=スミスの1986年の分析は、ビーモンの跳躍について、標高と風の効果を直接モデル化している。その後の空気力学研究による整理では、公認範囲内の追い風と標高を合わせた利得は、約31センチメートルと推定されたという。一般向け、あるいはやや専門的な紹介のなかには、いわゆる海面高度・無風条件での換算値を、もっと広い幅で示すものもある。だが、それらはモデルの出力であって、測定結果ではない。
世間に受け止められるとき、この区別は、ほとんどいつも失われる。31センチメートルのような具体的な数字は、何かを測った末の結論に見える。標高と風が合わせてそれだけ助けたと、誰かが実際に測ったかのように読めてしまう。だが、その数字は、一組の仮定のもとでモデルが計算した値だ。仮定を替えれば、数字も替わる。モデルの出力を測定結果と思うのは、この種の論争で最もよくある誤解である。その結果、本来確定できないものが、確定したように見えてくる。数字の確かさが、仮定の不確かさを隠してしまう。
推定が食い違うのは、単に数値の大小について意見が違うからではない。もっと深いところで、何を比較の単位とするのかが違っている。
ある立場からは、こう問う。同じ選手が同じ状態で、あの一跳を海面高度、無風の場所で跳んだなら、どこまで行っただろうか。
別の立場からは、こう問う。メキシコシティの条件は、選手にあの状態が生じる確率を、どれほど高めたのだろうか。
これは、因果関係についての二つの違う問いだ。第一の問いも、すでに相当に仮定に依存している。一度も起きなかった、海面高度での「あの一跳」を考えなければならないからだ。第二の問いは、現存するデータでは、ほとんど答えようがない。その人が当日あの状態に入れるかどうかを、一そろいの条件がどう左右したかを問うているからである。
二つの問いがあるというだけで、わかることがある。成績の原因をきれいに分けられないとき、原因の尋ね方そのものも枝分かれする。明確な問いが一つあって、答えだけが見つからないのではない。問い自体が一つではない。尋ね方が違えば、進む先も違う。そして、そのどの先も、同じように検証できない。
ここで立ち止まって見たいのは、これらの問いがすべて、すでに公認された一つの成績に向けられていることだ。
ビーモンの跳躍は、初めから終わりまで有効だった。本物であり続けた。風速は規則に収まり、規則どおりに測られ、承認され、記録表に載った。その何割がメキシコシティの条件によるのかを、コーチや統計家や物理学者が問い続けても、帳簿のなかでの地位は、一秒たりとも揺らがなかった。
この構の基本的な性質である。これまでにも繰り返し見てきたように、帳簿が記すのは数字であり、その数字が生まれた原因ではない。8メートル90が記録表に入るために必要なのは、風速の読み、距離の測定、そして承認の署名だ。なぜその数字になったのかは、要求されない。原因は帳簿の外の話であり、いつまでも論争を続けられる。そのあいだも、帳簿の内側は微動だにしない。
これは実のところ、この構の欠陥ではなく、動き続けるための条件である。原因をすべて分解してからでなければ成績を認められないとしたら、認められる成績はほとんどなくなる。どの成績の背後にも、風があり、会場があり、その日の調子があり、分解できない無数のものがあるからだ。帳簿は結果だけを記し、原因を記さない。一見粗雑なこの方法こそが、原因の絡み合いがいつまでもほどけない世界で、記帳を続けられる理由なのだ。説明を手放すことで、記録することを可能にしたのである。
ビーモンの記録は1991年まで残り、パウエルが公認条件下で8メートル95を跳んで、ようやく塗り替えられた。二十三年。この長さが、原因をめぐる問いを、一度きりではなく、長く続く問いにした。記録表の頂点に、あの一跳は二十三年間掲げられていた。その二十三年間、どれだけがあの人に属し、どれだけがあの日のメキシコシティに属するのか、誰にもはっきり言えなかった。
六 統括機関は別の問題を解いた
あのような大会を前に、この構は、その後何をしたのか。そこに、今回の話を最もよく表す事実の一つがある。
標高には、手をつけなかった。
ワールドアスレティックスの長年の方針では、高地の成績にも記録としての公認資格がある。同団体の公式記録集には、国際陸上競技連盟は、高地での成績と低地の競技場での成績を区別しない、と明記されている。一方、標高が短距離走や跳躍の成績を実質的に助けうることから、統計家たちは、非公式の低地記録一覧を独自に作り続けている。
ここに二冊の帳簿が現れる。一冊は公式記録表で、標高を区別しない。もう一冊は、統計家が独自に維持する低地の一覧で、高地の成績を除いてある。両者は並存するが、公式の帳簿は、もう一方を正式な帳簿として認めることはない。第4回でも並行する帳簿を見たばかりだが、ここにもある。構は、自分の正式な帳簿の外で、自分の仕事に携わる人々の手になる影の帳簿に補われている。その影の帳簿が記しているのは、まさに正式な帳簿が記すことを拒んだものなのだ。
この影の帳簿のあり方は、考えるに値する。統計家たちが独自に維持していて、公的な地位は何もない。それでも作られ続けているのだから、相当数の人が実際に必要としている。その人たちにとって、公式の帳簿は一つの現実を取りこぼしている。標高が確かに助けている、という現実だ。こうして公式帳簿の完全さは、傍らでもう一冊をつけ、その不足を補う人々に支えられているのである。構が自分の帳簿の純粋さにこだわるほど、その周囲には、こうした影の帳簿が育つ。構が認めるのを拒んだ現実を、引き受けるために。
国際陸上競技連盟が、高地専用の公式記録表を設ける寸前まで行ったことがあるのか。この点は、後年の多くの紹介から受ける印象よりも曖昧だ。非公式の低地記録の変遷表が存在することは、確認できる。公式の方針が一貫して高地の成績を公認してきたからこそ、それが必要になった。ただし、高地専用の記録簿を正式に採用する直前まで進み、それをどんな論争の末に退けたのか、経緯を一つずつ追える資料は、今回確認できた原資料からは確証を得にくい。方針がどうなったかは確かだ。だが、提案の歴史全体は、多くの概説が思わせるほどまとまっておらず、公開資料のなかではもっと断片的なのである。
この構が実際に手を動かしたのは、別のところだった。
1970年代半ばまでに、国際陸上競技連盟は別の境界線を選んだ。高地専用の記録表ではなく、計時規則を厳しくするほうへ進んだのである。ワールドアスレティックスの歴史年表には、1976年、短距離走の世界記録は自動計時によるものだけを認めることに連盟が合意した、と記されている。
これは、決定的な文書上の手がかりだ。
あのような大会が突きつけた諸問題のなかで、この構が最終的に規則で処理したのは、最も制御しやすい問題だった。標高は規則では動かせない。地理だからだ。風には上限を設けられるが、できるのはそこまでである。合成素材の走路はすでに標準になり、後戻りできない。徹底して規格化できるのは、計時だけだった。計時は構自身の装置であり、自分の装置なら、完全に管理できるからだ。
だから、計時を規格化した。
この動きの形を、最後まではっきりさせておこう。構は、手に負えない問題の山に出会うと、そのなかの自分に扱える一つへと向かい、そこへ力を集中する。計時が最も重要な変数だったからではない。むしろ逆で、ビーモンの一跳に計時は何の作用もしていない。走幅跳なのだから。この構が計時を規格化したのは、いちばん重要だったからではなく、いちばん制御できたからなのだ。
ここには、陸上競技に限らない行動の型が見える。組織が一群の問題に向き合い、扱えない問題と扱える問題が混じっていれば、ほぼ必然的に、扱えるほうへ注意と資源を向ける。そして、そちらだけをますます精緻にしていく。やがて能力そのものが偏った形に育つ。制御できる方向では極端に発達し、制御できない方向では、ほとんど空白のままになる。外から見ている人は、そこまで力を注いでいるのだから、そこがいちばん重要なのだと思いやすい。実際には、最も力を入れやすい方向だったにすぎない。
制御できることと、重要であることは別だ。構が取り組む問題を選ぶとき、ついていくのは重要性ではなく、制御可能性である。標高のほうが重要だった。成績を実質的に変え、しかもその寄与を切り分けられないからだ。計時は成績を変えない。成績を書き留める精度を変えるだけである。この構は、成績を変えてしまう重要な、しかし扱えない問題を残したまま、成績を変えない副次的な、しかし完全に扱える問題に取りかかった。
次回は、その計時の仕組みと、その仕組みがまた何を残したのかを扱う。
七 すでに認められた先例
明確にしておきたい。高地での成績にも記録資格があるというのは、紙の上だけの空文ではない。実際の先例がある。
男子100メートルの公式な、あるいは広く認められた記録の変遷には、ハインズがメキシコシティで出した9秒95と、その後カルビン・スミスがコロラドスプリングズで出した9秒93が含まれる。どちらも高地の競技場だ。だからこそ統計家たちは、のちに非公式の低地記録一覧を維持することになった。
ハインズの9秒95には、もう一つ意味がある。男子100メートル史で繰り返し取り上げられる節目であり、公認条件下で人間が10秒を切ったことを示す、公式の画期的な記録の一つなのだ。その歴史的な成績が、ほかならぬ薄い空気のなかで生まれた。この構が最も大切にする突破の瞬間の一部は、構自身が有利だと知っている条件下で起きている。それでも構は、丸ごと受け入れた。最も輝かしい記帳の脇に、但し書きの星印はつけなかった。星印をつければ、輝きが純粋ではなくなるからだ。
この二つの先例が示しているのは、高地の成績が、しぶしぶ容認されたのではないということだ。全面的に受け入れられた公式記録だった。ハインズの9秒95は、正真正銘の世界記録である。薄い空気のなかで出されたにもかかわらず。そして、薄い空気が助けたと、誰もが知っていたにもかかわらず。
ほかの高地の競技場、ヨハネスブルク、ナイロビ、エルパソ、デンバーについては、今回、都市ごとに、公認を裏づける同じだけ有力な資料を見つけることはできなかった。確かに言えるのは、高地での成績にも記録資格があるという原則と、その原則が実際に適用されたことだ。会場ごとの先例を網羅する資料は、今回集められた原資料の範囲では、なお揃っていない。
ここには、これまでの回につながる点が一つある。触れておきたい。
第2回で見た1914年の最初の記録表は、二十年にわたり、異なる会場、異なる条件で出された過去の成績を、あとから公認して並べたものだった。生まれた日から、内部は不揃いだったのである。ハインズの9秒95と海面高度での9秒95は、同じ100メートルの記録変遷表に並ぶ。誰もが、それらは同じものではないと知っている。それでも表は、区別しないことを選んだ。その代償として、表の隣り合うどの二つの成績も、比較可能だとは保証されない。
これは、第4回の末尾にあった十種競技と七種競技の例とは、ちょうど逆向きだ。あちらでは、表の内部の比較可能性を守るため、二つの表を合わせることを自ら拒んだ。通約できないままにして、それぞれの完全さを得た。こちらでは、一つの表の完全さを守るため、表の内部の比較可能性を自ら手放している。比較できなさを引き受けて、分裂しない一つの一覧を得たのだ。
二つの方法は矛盾するように見えるが、同じ構が、違う状況で違う勘定をしたのである。比較可能性と完全性は、同時には最大にできない。種目を分ける場面では比較可能性を選び、高地の成績を扱う場面では完全性を選んだ。どちらを取るかは、分ける代償と、合わせる代償のどちらが大きいかで決まる。標高を区別するなら、世界のあらゆる高さについて換算の仕組みを用意しなければならない。それはできないから、区別しないほうを選んだのである。
八 すべてが働き、切り分けられない
今回の話を、まとめよう。
ビーモンの一跳について、よく語られる説明が二つある。証拠は、そのどちらも支持していない。
一つは、あの一跳を生んだのはメキシコシティだ、という説明。これは言いすぎである。同じ決勝で、ベアは8メートル19で銀メダル、ボストンは8メートル16で銅メダルだった。走路は同じ、標高も同じ、風もいずれも公認の範囲内。それでも、8メートル90に近いところまで跳んだのは一人だけだった。メキシコシティがあの一跳を生んだのなら、なぜほかの二人には生まなかったのか。条件は全員にあった。あの一跳は、一つしかなかった。
この反論は、もう一歩進められる。条件は必要だが、十分ではない、ということだ。あの条件がなければ、おそらくあそこまで遠くには跳べなかった。だが、あの条件があっても、あの一跳が生まれるとは限らない。同じ条件で、ほかの二人が跳べなかったことが、その証拠である。必要だが十分ではない。つまり、条件とその人のどちらも欠かせない。どちらも欠かせないとは、寄与を配分できないことの、もう一つの言い方でもある。この跳躍の何割が条件で、何割が人なのかとは言えない。両方とも、その跳躍が起きるための前提であり、前提どうしのあいだに百分率は存在しないからだ。
もう一つは、全員が同じ走路、同じ標高で跳んだのだから、条件など本当は重要ではない、という説明。これも言いすぎである。ここまで見てきたように、標高の効果はデータ上、毎秒2メートルの追い風に相当する。あの日のビーモンには、その標高に加え、毎秒2メートルの本物の追い風もあった。重要ではないと言うのは、物理を無視することになる。
長く残る歴史の真実は、この二つの単純化より狭いが、どちらよりも強い。四つの変数は、すべて働いた。だが、データは、それらをきれいに切り分けることを許さない。
この言葉は、未完成の結論に聞こえるかもしれない。記録が足りないせいで、保留するしかない問いに見えるかもしれない。そうではない。これが、出来事そのものの形なのである。
これまでの回で、余項はしばしば、この構が外へ取りこぼしたものだった。名簿に入らなかった名前、捨てられた計時の読み、過去にさかのぼって公認されなかった成績。帳簿の外にあるが、一つひとつは明瞭だ。名前は一つの名前であり、読みは一つの読みだった。
ビーモンの一跳にある余項は違う。帳簿の外にはない。あの一跳は、堂々と記録表の頂点にいる。余項は、その数字を生んだ原因であり、その原因は分けられない。標高の分、風の分、走路の分、本人自身の分。それらは失われたのではない。初めから四つの別々の取り分として存在したことがなかった。あの一跳のなかで、一つの8メートル90になった。ひとたび一つになれば、もとへは戻せない。
これまでの余項と並べてみると、この余項の特異さが見える。これまでは、構と、構が取りこぼしたものとの関係だった。取りこぼされたものは構の外にあり、境界もはっきりしていた。今回の余項は構の内側、それも構が最も誇る記帳のなかにある。排除された他者ではない。大切に保存された成績自身の、どうしても説明しきれない部分なのだ。構は、何かを帳簿の外に締め出せる。だが、すでに記した成績のなかで絡み合う原因の塊を、きれいに取り除くことはできない。大切に記せば記すほど、その塊をいっそう固く抱え込むことになる。
これは、余項の新しい姿である。これまでの余項は、構が受け止めなかったものだった。外で待っていた。ここでは構が受け止め、記し、承認した。そのあとで、自分が記した数字のなかに、二度と分けられない四つのものが入っていると気づく。構は、この成績を自分のものにできる。だが、この成績の説明を、自分のものにはできない。
着地点まで届かなかった、あの測定装置に戻ろう。
あれは、1968年のこの構にとって、精度の頂点だった。それでも、あの一跳を前にすると、巻尺に戻らざるをえなかった。巻尺は8メートル90を測り出した。その数字は正しい。だが、その巻尺も、役に立たなくなった光学装置も、構がその後、力を尽くして改良したあらゆる計時・測距の機器も、測れるのは結果だけだ。どこまで遠く跳んだのかは、測れる。なぜそこまで遠く跳べたのかは、どんな機器にも測れない。測ろうとする四つのものが、すでに空中で、一つになっているからだ。
物差しは、まだ正しく測れていない。それでも、測り続けている。