この版について
日本語版について:中国語原作をもとに、日本語の読者に向けて独立に書き直した版。原文は同じページで簡体字と繁体字を切り替えて読める。
三人のゼントラーディ兵が、自ら志願した。
志願したのは、身体を人間の大きさまで縮める調査員の任務だ。小さくなってあの街に潜り込み、情報を集める。
太めの一人がワレラ。小柄なのがロリー。背が高く、髪の長いのがコンダ。
三人は街へ入った。
街で目にしたもの
何を見たのか、少し並べてみよう。
人が食事をしている。支給品を腹に入れるのではない。調理されたものに味があり、湯気が立ち、何人かで一つの食卓を囲んでいる。
人が買い物をしている。選び、比べ、値切り、なくても困らないものまで買っている。
人がけんかをしている。けんかが終わっても、一緒にいる。
人が恋をしている。これは長いこと調べた。自分たちの分類のどこに置けばいいのか、いちばんわからないものだったからだ。
人が歌っている。舞台の上ではない。道で、店で、仕事をしながら、一人でふっと口ずさんでいる。
どれも、三人に見せるためにしていたことではない。
この点が、この一篇の核心だ。だから、はっきりさせておきたい。
誰も彼らに働きかけてはいない。そもそも、彼らが何者なのか誰も知らない。忍び込んできたのだから。地球の文明をご紹介しましょう、と前へ出てきた人間はいない。討論も、説得も、一度もなかった。
彼らが見たのは、見せる相手がいなくても続いている、この街の姿だった。
説き伏せられたのではない
三人は説得されたのでも、感化されたのでもない。その暮らしに浸かり続けるうちに、ほぐれていったのだ。
これが、この一篇で下す判断だ。ただし、よくある描き方とは区別しておく必要がある。
よくある筋書きなら、誰かがよりよい生活を見せられ、心を動かされ、立場を変える。そこには、何かを与える側がいて、説得するという行為があり、「こちらのほうがよい」という判断がある。
ここには、それがない。
三人は招かれたのではなく、自分たちで潜入した。任務は情報収集だ。初めのうちは、何を見ても、していることは同じだった。これは何か。使えるか。脅威はあるか。
そうして見ているうちに、あまり帰りたくなくなった。
作品は、どこかの回で「わかった」と言わせたりしない。ただ街にいさせる。一日、また一日と過ごし、だんだんなじんでいく。ついには「文化の虜になった」と言われるようになる。
しかし「虜」は、彼ら自身の言葉だ。自分に起きたことを、そうとしか表せない。彼らの語彙では、人が何かに捕らえられ、自由を失うことは、虜になることだからだ。
あの人形
その後、三人は一度、自分たちの艦隊へ戻る。
手ぶらではなかった。地球の文化が生んだ品々を持ち帰った。その一つが、リン・ミンメイの人形だった。
持ち帰ったものを、仲間の兵士たちに見せた。
上官の許可は取っていない。
その結果、多くの兵士が「文化」に目覚めた。
この物語で最も重要な仕組みが、ここにある。少しゆっくり見ていこう。
宣伝活動ではない。寝返りを誘う工作でもない。どんな意味でも心理戦ではなかった。
三人の下級兵士が艦内で、持って帰ってきたものを同僚に見せていただけだ。
広がり始めたのは、そこからだった。
手順がどれほど簡単か、見てほしい。三人が戻ってきて、一つ何かを取り出し、そばの者に見せる。演説はない。論証もない。「こう生きるべきだ」という話も、一つもない。
伝わっていくのは主張ではない。一つの品物だ。
主張なら反論できる。禁止できる。批判できる。だが、人形は主張を成さない。ただそこにあり、目に入る。そして後から、思い出される。
この広がりを運んだのは、一体の人形だった。
おもちゃだ。人間の世界では、何の重みもないようなもの。大量生産され、女の子たちに売られ、床に落ちれば誰かが拾い上げて、ぱんぱんとほこりを払う。
けれども「おもちゃ」という分類を一度も見たことのない社会へ入ると、それは、その分類の最初の実例になる。
その後、彼らは何をしたか
三人はもう一度身体を縮め、集団で脱走して、あの要塞へ向かう。
三人だけではない。一団で、だ。
戦うために造られた兵士たちが、自分の艦隊を抜け出し、ついさっきまで撃ち合っていた相手の側へ走っていく。理由は、あちらの暮らしをしてみたいから。
作品はこの出来事を、かなり抑えた調子で扱う。高揚させる音楽を脱走にかぶせず、誰にも宣言をさせず、人間の側も両腕を広げて歓迎したりはしない。
厄介で、混乱に満ち、具体的な問題をいくつも片づけなくてはならない投降だった。
戦争が終わってから
では、あの三人はどうなったのか。
作品は具体的に描いている。マクロス・シティで暮らし、いくつか仕事を替えながら、まじめに働いている。
いくつか、仕事を替えた。
この一篇がたどり着くのは、その一言だ。
一つの機能しか持たないように造られたものが、最後には、ある街で仕事を替えている。
ここには、その一文を置くだけにしておく。評は加えない。
ごく小さなことだとも読める。三人は何か大きな仕事を成し遂げたわけでも、何者かになったわけでもない。ただ、普通の仕事をいくつか見つけて、働いただけだ。
違う読み方もできる。
その違いは、出来事の中にはない。読む人が何でそれを測るかにある。この一篇は、その物差しを差し出さない。
ただ、確かめられる事実を一つだけ添えておこう。作品は、彼らがまじめに働いていたと記している。
同じ道を選ばなかった者たち
最後に一つ、付け加えておく。続く二篇への入口になるからだ。
すべてのゼントラーディが、同じ道を進んだわけではない。
見ても、つまらないと思う者がいた。耐えられないと思う者もいた。これは汚染であり、除去しなくてはならないと考える者もいた。
この三つの反応は、どれも作中で実際に起こる。それぞれを示す人物もいる。そして作品は、後の二つを無知や頑固さとして片づけていない。
一つの生き方しか知らなかった者が、別の生き方を目にしたら、どう反応するのか。この作品には、その答えがいくつもある。
ワレラ、ロリー、コンダの変化が示すのは、出会いによって可能性は開かれても、一人ひとりの答えまでは決められない、ということだ。そこにとどまる者がいれば、嫌になる者もいる。変化そのものを、除去すべき汚染と見なす者もいる。
最も徹底して拒絶したのが、ボドルザーだった。文化によって兵士たちが本来の機能から離れつつある。その点を正確に見抜いた彼は、地球と、すでに文化に触れてしまった味方の艦隊を、一緒に消し去ると決める。