Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · 世界サッカーシリーズ — 第01篇、全22篇

基礎を据える

初日からその姿を固定したがった構

(起点:1930年ウルグアイ・ワールドカップ)

Han Qin (秦汉) · 2026年
この篇の目次

一 基礎を据えるとは、無から何かを生むことではない

一九三〇年七月三十日、モンテビデオのセンテナリオ・スタジアム。ウルグアイはアルゼンチンを四対二で破り、初代ワールドカップ王者となった。観衆十万人というのは、後に広まった話だ。公式記録では六万八千人余り。どちらの数字を採るにせよ、あの日の群衆も、その後ひと晩続いた熱狂も、確かにあった。ウルグアイは翌日を祝日とし、ラプラタ川の対岸、ブエノスアイレスでは、敗戦を受けて暴動が起きた。

後から語るなら、この日を、すっきりとした出発点にするのはたやすい。世界のサッカーはここから始まった、と。だが、この一日は、逆の方向から見てみる価値がある。

基礎を据えるとは、無から何かを生み出すことではない。否定すること、鑿を入れることなのだ。そうして削り出されたものは、真理ではない。沈殿したもの、化石である。しかも、その化石ができあがった初日から、守り手たちは、その姿をそこへ固定しようとする。もう動かないでくれ、と。こうしてできた構は、初日から止まりたがり、初日から止まれない。

一九三〇年という「出発点」の下には、少なくとも四つのものが積もっている。どれも無から生まれたものではなく、それより前の否定が残した沈殿物だ。一つ目は、サッカーのルール。一九三〇年より何十年も前から、争いが続いていた。二つ目は、プロ選手。一つの理想が、一九三〇年よりずっと前から繰り返し排除しようとして、それでも排除できなかった存在だ。三つ目は、国際サッカーを統べる組織。一九三〇年より前に形を得ており、形を得たその日から、旧秩序へ頭を下げていた。四つ目は、大会そのもの。何もないところに設けられたのではなく、押しとどめられない現実に迫られて生まれた。四つを重ねて見れば、基礎が据えられたとされるあの瞬間も、すでにその姿を固定したがりながら、すでに固定できずにいた構が、一九三〇年に始まりと見なされたにすぎない。

この四つは、サッカーという構のいくつかの異なる面に対応している。ルールという面。組織という面。プロ化が引き寄せる商業という面。そして、ピッチでどうプレーするかという戦術の面も、一九三〇年には、変わることを強いられていた。同じ一つの構が持つ別々の顔であり、このとき、それぞれが互いを動かしていた。ルールが一つ変われば戦術が組み替わり、理想が一つ崩れれば組織が変わる。

二 成文化という鑿 統一をもたらしたのは宣言ではなく競争だった

近代サッカーは、一八六三年に一夜にして生まれたわけではない。

一八六三年十月二十六日、ロンドンでイングランド・サッカー協会、FAが設立された。目的は、明確なルールを定めることだった。だが、新しいルールができたからといって、たちまち天下が統一されたわけではない。その後も長年、ほかのルール、とりわけシェフィールド系のルールと併存していた。それ以前には、重要な先駆けとなった、折衷的なケンブリッジ・ルールもある。つまり、一八六三年は出発点というより、選択肢が長い時間をかけて絞られていく過程の一歩だった。その前には、学校、大学、クラブ、地域ごとに異なるルールブックが競い合っていた。争点は抽象的な哲学ではない。手を使ってよいか。相手のすねを蹴ってよいか。オフサイドをどう判定するか。タッチラインを割った球は、手で投げ入れるのか、足で蹴り入れるのか。ゴールラインを越えた後は、どう再開するのか。どれも、試合をどう動かすかという具体的な話だった。ルールの成文化は、まず、こうした細かく具体的な場所で、一寸ずつ争って勝ち取られたのである。

この争いで排除されたのは、個々のルールだけではない。フットボールはどうあるべきかという、一まとまりの考えだった。新しいFAのルールがすねへの蹴りを禁じると、ラグビー校の伝統に近いブラックヒース・クラブは脱退した。一つの技術的な細目で折り合えなかったからではない。彼らが求めるフットボールは、別のものだった。ぶつかり合いを認め、球を抱えて走ることを認め、身体の競り合いをもっと重んじる競技である。実のところ、最初のFAのルールでも、手を使うことはある程度認められていた。決定的だったのは、その後、少しずつ、「ドリブルして蹴る」流れを、「持って走る」流れから分けていったことだ。その境界の両側に、二つの異なる競技が育った。一つがサッカー、もう一つがラグビーである。分かれる前は、まだ切り分けられていない、同じ一つの塊だった。

しかも、新しいルールは、競争相手をたちまち一掃したわけではない。シェフィールド系のルールは一八六三年以後も重要で、その地域のクラブは、自分たちのルールを使い続けていた。FAのルールが、広く受け入れられていたわけではなかったのだ。空中で競り合った後のキャッチの扱いや、フリーキックなど、ケンブリッジとシェフィールドのやり方には、実質的な違いがあった。いわゆる統一は、長年かけて、一方がもう一方を押しのけたことで実現した。標準を一つ発表すれば済む話ではなかった。

そして、これらのルールブックの下には、さらに古い層がある。成文化される前、フットボールとは、そもそも一つの遊びではなかった。無数にあった。学校も町も人の集まりも、それぞれの習慣で球を蹴っていた。人数も、場所も、手を使ってよいかどうかも、何をもって勝ちとするかも、決まっていない。そのあいだを裁く共通の審判はなく、自分たちのものだけが本物だとは、誰にも言えなかった。成文化が最初にしたのは、この、誰もが自分の流儀でやっている混沌に鑿を入れ、境界を削り出すことだった。こちらはフットボールに数える。あちらは数えない。最も深い一刀である。まだ形のなかった塊を切り分け、形の定まった構にする。境界の外へ切り落とされたプレー、成文のルールに入り込めなかった土地ごとの遊び方は、この構に収まらない最初の余項となった。消えたのではない。もはやフットボールとは呼ばれなくなっただけだ。

サッカーという構は、命令を一つ出すことで築かれたのではない。競争に勝つことで築かれた。統一とは、一枚の標準書ではなく、一つの戦いに勝った後の姿である。いまは自然で、当然に見える形も、突き詰めれば、どれもかつての否定が残した化石だ。その否定によって排除されたものも、本当に消えたのではない。別の場所へ退いただけである。

ルールそのものも、まるで固定されてはいなかった。繰り返す折衷によって成文化が進んだ、最もわかりやすい例がオフサイドだ。一八六三年に採用されたのは、最も厳しい形だった。パスを出す味方より相手ゴールに近ければ、それだけでオフサイドになる。厳しすぎて、攻撃はほとんど身動きが取れない。そこで一八六六年には緩和され、自分と相手ゴールのあいだに相手選手が三人いれば、オフサイドではないことになった。二十世紀の初めにも、ルールブックに載っていたのは、この三人という形である。そして、肝心の改正が来る。一九二五年、三人が二人に変わった。

オフサイドが、いつまでも定まりきらないルールなのは、攻撃と守備の均衡線を引くものだからだ。守備の側へ寄せすぎれば、試合は退屈になり、得点が減る。攻撃へ寄せすぎれば、守備は空洞になり、試合の行方を見守る緊張も失われる。だが、どこがちょうどよいのか、固定した答えはない。選手も監督も、そのときのルールの穴を、いつも考えているからである。一つ前の不均衡を新しいルールが直したと思えば、塞ぎきれなかった場所から新しいプレーが入り込み、均衡をまた崩し、次の改正を迫る。この線は、何度でも引き直される運命にある。釣り合いを取ろうとしている、その対象自体が、どこか一か所にとどまってはくれないのだから。

三から二へ。数字が一つ減っただけで、攻撃側がかわすべき相手は一人少なくなった。すぐに攻撃が有利になり、従来のフォーメーションを支えていた、守備の幾何学も揺らいだ。旧時代の均衡と、その後の戦術の激変をつないだ、競技規則という蝶番だった。守り手たちが欲しかったのは、明確で安定した、一度定めればそれで済むルールである。だが、一八六三年から一九二五年まで、ルールは変わり続けた。しかも、どの改正にも理由があった。一つ前のルールでは覆いきれなかったものが、改正を迫ったのだ。「明確」であるはずのルールが、繰り返し、自分を明確でなくしていく。構は閉じきりたい。完成した状態にとどまりたい。それでも、覆いきれない余項が、そのたびに、もう一度こじ開ける。ルールという顔に働くこの論理は、一八六三年から一九二五年のあいだに、すでに形を得ていた。その後のサッカー史では、いっそう鋭い形で、繰り返されていくことになる。

三 アマチュアという理想 本質を装う化石

初期の国際サッカーの秩序で、最も深い亀裂を生んだのは、アマチュアとプロの問題だった。

プロ化を迫ったのは、イングランド北部だった。北部のクラブ、とりわけFAカップによって勢いを得たクラブが、南部のアマチュア理想からサッカーを引きはがし、一八八五年、FAにプロ化を認めさせた。ここには、これ以上ないほど明確な階級の問題がある。労働者階級の選手と北部のクラブが求めたのは、報酬だった。サッカーをすれば仕事を休むことになり、けがの危険も負う。自分の手で稼ぐ人は、暇のある紳士のように、無償で時間を差し出すわけにはいかない。一方、FAがアマチュアの理想を維持するやり方は、まさに中上流層と上流層の影響力を守っていた。純粋なアマチュア・サッカーというものは、単に試合の好みを語る言葉ではない。誰にピッチへ立つ資格があるのか、誰が決めるのかという取り決めでもあった。誰がプレーできるかを、無報酬でプレーする代価を誰が払えるかに、結びつけたのである。

いま聞けば、遠い時代の話に思えるかもしれない。だが当時、サッカーの内部に走る、最も鋭い社会的な断層だった。港湾労働者も弁護士も、この競技を愛している。ところが、アマチュアでいる代価を払えるのは、弁護士だけだ。サッカーをアマチュアのものと定義することは、口に出さずに、有閑階級の競技と定義することに等しかった。サッカーの稼ぎで暮らしを補う人を、認められない影の存在へ追い込むか、いっそ門の外へ閉め出す。だから、アマチュアとプロの争いは、報酬についての技術的な論争にとどまらない。この競技は、いったい誰のものなのかをめぐる争いだった。アマチュアを守るとは、サッカーは誰の手にあるべきか、その一つの答えを守ることである。

アマチュアという理想は、本質的には一種の植民化だった。条件つきのものを、無条件のものに見せかける。「本当のサッカーはアマチュアだ」という言葉こそ、その偽装である。ある階級、ある時代のなかで沈殿した、条件つきの遊びの形を、永遠に変わらないサッカーの本質だと言う。化石なのに、自分は律だと名乗るのだ。その理想の守り手は、自分たちがサッカーの魂を守っていると、心から信じていた。実際に守っていたのは、歴史のある一段階の断面にすぎなかった。

この植民化は、必ず失敗する。排除しようとするものを、消し去ることができないからだ。排除の対象は、プロ選手だった。仕事を休んだ分と、引き受けた危険に対して、報酬を求める人である。その要求の背後には、素朴で、頑として動かない事実がある。この人の時間と身体は、この人自身のものだ。アマチュアの理想は、それを否認する。選手を、自分の暮らしを支えなければならない人としてではなく、紳士のある種の趣味を保つための手段として扱う。だが、この事実は、否認して消せるものではない。イングランドでは一八八五年、プロ化を認めざるをえなくなった。その後も、この排除された者は、しぶとく育ち続け、近代サッカー全体の幹となり、ついには、自分を排除しようとした秩序を、内側から空洞にしていった。

この秩序が守ろうとしたのは、ピッチに立つ二十二人のプレーだけではない。その周囲に広がる、社会的な取り決めの全体だった。一九二五/二六年のルールブックには、英国で日曜日のサッカーに参加することを禁じる条項が、まだはっきりと記されている。六人制の小規模な試合など、いわゆる「非正規の試合」も、所管団体の同意がないかぎり、規制の対象だった。大げさな理屈を述べた条文ではない。だが、初期のサッカー当局が、試合のルールを書くだけでなく、サッカーを取り巻く社会秩序を保とうとしていたことを、これほど具体的に示すものはない。何曜日にプレーするのか。どの組織の下で行うのか。どの規模なら、正式な試合として数えられるのか。守り手が固定したかったのは、どうプレーするかという動作だけではない。誰が、いつ、どのような取り決めの下でプレーするか、その全体だったのである。

社会の取り決めを丸ごと守りたいという衝動は、最後に、それを抱いた者自身へ牙をむいた。一九二〇年代後半、アマチュア資格をめぐる対立は、折り合いのつかないものになった。国際オリンピック委員会、IOCは、アマチュアの範囲を、もっと純粋なものにしたい。一方、国際サッカー連盟、FIFAは、排除される選手や国を減らすため、もっと緩い定義を望んだ。英国の四協会は、プロであること自体に、抽象的に反対していたわけではない。そもそもイングランドでは、一八八五年にプロ化を認めている。彼らが反対したのは、本物のアマチュアが、事実上のプロを相手に戦わされることだった。争っていたのは、結局、「アマチュア」という言葉の意味そのものなのである。仕事を休んだ分の補償を受ける労働者は、アマチュアなのか。名目上は給料をもらっていないが、クラブが用意した閑職に就く人は、どうなのか。どこに線を引いても、納得しない人が出る。分けようとしている競技への愛と生計は、多くの選手の身の上では、もともと分かちがたいからだ。この争いによって、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドは、一九二八年にFIFAを脱退し、第二次世界大戦後まで戻らなかった。アマチュアの純粋さを守りたかった側が、自分の手で、世界のサッカー組織の外へ出ていったのである。保守的に閉じようとする衝動が、それを抱く者を罰した。守り手たちは、門を固く閉ざそうとするほど、まず自分たちを門の外へ閉め出してしまった。

四 守り手は姿を固定したがり、新しい組織まで旧秩序へ頭を下げる

姿を固定したいという衝動は、ルールだけでなく、組織のなかにもあった。「新しい」はずの国際組織まで、設立の初日から、旧秩序に頭を下げたのである。

FIFAは、一九〇四年五月二十一日、パリで設立された。創設に加わったのは、ベルギー、デンマーク、フランス、オランダ、スペイン、スウェーデン、スイスを代表する七つの協会、またはその代理だった。ロンドンのイングランド・サッカー協会は、そのなかにいない。この不在は、きわめて重要だ。英国はなお、この競技の象徴的な中心を占めていたからである。発祥の地が加わらない国際組織は、初めから、一つの空席を背負っていた。

その心持ちは、創設者自身の言葉に隠しようもなく表れている。ベルギーのサッカー界を率いたド・ラヴレー男爵は、最初の一年、FIFAは紙の上にしか存在しなかったと語った。サッカーでは、英国の同意と協力がなければ、まともなことは何もできなかったからだという。別の創設者は、会長の座はイングランド・サッカー協会に帰すべきだとさえ書いた。これらの言葉が伝えるのは、英国がいつまでも全能だったということではない。創設者たちが、どう考えていたかである。新しい国際機関は、古い守り手に取って代わるのではなく、彼らに譲歩することで、正統性を得ようとした。新しいものは古いものを覆したかったのではない。古いものに認めてもらいたかった。基礎が据えられるころのサッカーは、最も未来を感じさせる部分でさえ、骨の髄まで従順で、後ろを向いていた。

奇妙な始まりである。世界中のサッカーを管理するために生まれた組織が、最初の一年には、自分には何もできないと認めていた。本当に決める力を持つのは、まだ加入さえしていない、古い権威だったからだ。新しい組織は、独自の設計図を携え、旧秩序に取って代わろうとしたのではない。慎ましい招待状を携え、昔からの守り手に、どうか認めてくださいと頼みに来た。この生来の恭順ぶりが、その後長いあいだ、世界のサッカーにおける「新しさ」を限られたものにした。何をするにも、まず「古いもの」へ、お伺いを立てなければならなかった。

旧秩序へのこの譲歩は、制度として固定され、その残骸は、いまも見える。サッカーの競技規則を管轄する国際サッカー評議会、IFABは、一八八六年、英国の四協会によって設立された。当初、規則を定める権限は、この四協会が独占しており、FIFAが加わったのは、一九一三年になってからだ。そして、最初の取り決めを引き継ぐ現在の仕組みでも、英国の四協会が各一票、FIFAが四票を持ち、規則を一つ変えるには、四分の三の賛成が要る。この投票の仕組みは、生きた残骸である。英国が、自分を、この競技の創設者であると同時に守護者でもあると考えた時代から来ている。一世紀が過ぎ、世界中の何十億もの人々が注目する競技になっても、規則を一つ変えるには、発祥の地の四協会が守る関門を通らなければならない。化石は、ひとりでに消えはしない。制度のなかに祀られ、とうに手放すべきだった影響力を、なお振るい続ける。

基礎を据えるころのサッカーは、ルールから組織、投票権に至るまで、何重にも守りを固め、元の姿を保とうとする構だった。守り手たちは、自分の手にある形こそ、サッカー本来の姿であり、守るに値する、もう変えるべきではないと信じていた。サッカーで最もよく見られる、閉じきろうとする衝動である。「試合を完全に支配してやる」という征服の衝動ではなく、「これこそ本物だ、手を触れるな」という保守の衝動だ。その後のサッカー史でも、これは何度も戻ってくる。顔を変え、あるときはアマチュアを、あるときは特定の「正しい」プレーを、あるときは商業に汚されない純粋さを守る。そして、そのたびに、同じ壁に突き当たる。守りたいその形自体が、前の否定の化石にすぎず、自分の余項を封じきれないのだ。

五 世界は固定されない 南米の台頭と、生まれざるをえなかった開かれた大会

壁にぶつかるきっかけは、世界そのものの変化だった。

一九三〇年のワールドカップは、空白を埋めたのではない。一九〇八年から一九二八年までのオリンピックのサッカーは、多くの国にとって、すでに当時最高峰の国際選手権として機能していた。とりわけ、オリンピックという大きな枠組みをIOCが管理する一方、サッカー競技そのものの運営や監督はFIFAが担っていたからだ。だから、最初のワールドカップの誕生は、どちらも成り立つ二つの事実が交わるところにある。一九三〇年は、独立したFIFAワールドカップの第一回だった。だが、サッカーが事実上の国際選手権を持った、最初の機会では決してなかった。

つまり、FIFAはすでに、サッカー界全体のために、四年ごとの選手権を開いていたのである。ただ、それは他人の看板を掲げ、他人の決まりに従う大会だった。会場も、チームも、観客もある。欠けていたのは、ただ一つ。最も優れたプロ選手を招き入れる権利だ。アマチュアをめぐる決まりが耐えがたいものになれば、自分のボールを持ち帰って、別に大会を開く。それは、ほとんど自然な成り行きだった。

しかも、そのオリンピックのピッチでこそ、世界は変わった。一九〇八年と一九一二年、表彰台に上がったのは、同じ三か国だった。英国、デンマーク、オランダ。順位まで同じで、古い中心は、まだ安泰だった。一九二〇年は、ベルギー、スペイン、オランダ。この大会の決勝には、チェコスロバキアが試合途中で引き揚げたことが、影を落とした。そして一九二四年、ウルグアイが優勝し、スイスとスウェーデンが二位、三位となる。一九二八年には、ウルグアイが連覇を果たした。最初の決勝を引き分け、再試合でアルゼンチンを破り、三位はイタリアだった。わずか数年で、表彰台のいちばん高い場所は、北西ヨーロッパから南米へ移った。

ウルグアイの二度のオリンピック優勝は、取るに足りない前奏ではない。二十二チームが参加した一九二四年大会は、それまで開かれたなかで、最も国際的なサッカー大会と見なされている。ウルグアイの勝利は、ヨーロッパがもはや、最高水準のサッカーを独占していないことの証しとして受け取られた。南米の一チームが、ヨーロッパの人々のオリンピックで、そのとき最も優れたサッカーを皆に見せたのである。ヨーロッパと英国を、揺るぎない中心とするサッカー世界。その守り手たちの思い描いた世界に、南米のチームが、ヨーロッパの地で、衆人環視のなか、穴を開けた。

一九二四年大会は、真の出会いでもあった。それ以前、南米とヨーロッパのサッカーは、ほぼ別々の水域で育ってきた。ウルグアイが持ち込んだ、軽やかで、ドリブルと短いパスの連係を重んじるプレーは、当時ヨーロッパで主流だった、力を生かし、ロングボールを前線へ放り込むやり方とは大きく違った。ヨーロッパの観客も選手も、それを間近で見るのは初めてだった。一つの競技に、一つのルールしかないように見えても、違う土地では、まるで違う身体が育つ。その後のサッカー史で、国どうしが競うものの大きな部分は、これである。単なる勝ち負けではない。異なるサッカー文化、この競技をどうプレーすべきかという異なる理解が、同じ芝の上でぶつかり合う。一九二四年、ウルグアイがヨーロッパへ持ち込んだのは、優勝だけではなかった。サッカーは別のやり方でもできる。しかも、より優れたプレーができる。その証明だった。守り手の目には唯一正しく見えたやり方も、実は、数あるやり方の一つにすぎなかったのである。

古い取り決めを維持できなくしたのは、ほかならぬ、アマチュアという足かせだった。資格の制限によって、優れた選手があまりにも多く、オリンピックの門の外へ置かれた。FIFAも、自分たちの競技の最高峰の大会を、これ以上IOCの管理に委ねたくなかった。こうして一九二八年五月二十六日、アムステルダムのFIFA総会は、ワールドカップの創設を決議する。アマチュアかプロかを問わず、すべての選手に開かれた大会だった。

ワールドカップが生まれたのは、誰かが開放を歓迎したからではない。排除されていたプロ選手と、過小評価されていたヨーロッパの外の世界が、合わさって、その誕生を迫った。アマチュアの理想は、プロという現実を覆いきれず、古い大会は、すでに台頭した南米を収めきれない。余項が臨界点まで積もり、新たな否定を迫った。その産物が、ワールドカップなのである。

誰かがあらかじめ設計図に描き、そのとおりに建てたのではない。矛盾が、もう持ちこたえられないところまで押し詰められ、殻を破らざるをえなくなった出来事だった。守り手が固定したかったのは、アマチュアで、ヨーロッパと英国を中心とするサッカーの姿だった。だが、その形では、自分の余項を封じきれない。こうして、開かれた大会が生まれざるをえなくなった。開放を信じて創設に動いた人は、ほとんどいなかったにもかかわらず。ここでの開放は、理想ではない。閉じきろうとして失敗した後に、残った裂け目である。

六 排除された者たち 基礎を据える時点での余項

開催地は、一九二九年五月、バルセロナで開かれた第十八回FIFA総会で決まった。六か国が関心を表明し、開催国を選ぶために、二十三か国がバルセロナに集まった。ウルグアイがすでに、より強い支持を集めていると知ると、イタリアは立候補を取り下げた。モンテビデオが選ばれたのは、ウルグアイがオリンピックの現王者だったことに加え、一九三〇年が、同国の憲法制定百周年に当たっていたからだ。国の誕生を祝う節目に、ワールドカップを結びつける。小国にとっては、めったに得られない栄誉だった。

ウルグアイの招致は、物質的な裏づけが抜きん出ていた。八万人の収容を計画したセンテナリオ・スタジアムは、一九二九年七月二十一日に着工した。開催国は、スタジアムも大会も、百周年の祝典に直接結びつけていた。そして、招致案で最も実のある約束は、多額の開催費を負担し、渡航費を補助するというものだった。南米の小国が、より大きなヨーロッパの立候補国を抑えられた鍵は、ここにある。世界のサッカーの物語へ、金が初めて、はっきりと入ってくる。これで最後になるはずはなかった。

では、結局、ヨーロッパから来たのは、なぜ四チームだけだったのか。

これを「ヨーロッパのボイコット」として語るのは、粗すぎる。複数の理由が入り混じっており、政治や象徴以前に、移動と手配の問題があった。ヨーロッパのチームは、往復の船旅と大会への参加を合わせて、およそ二か月、本国を離れなければならなかった。プロリーグを持つ国では、とりわけ深刻だった。クラブは、それほど長く選手を送り出したがらなかったからだ。二か月も手放せば、シーズンの半分近くを失うことになる。FAの事務局長フレデリック・ウォールが、モンテビデオへ代表を送ることを断った手紙も残っている。加えて、英国の各協会は、アマチュアをめぐる争いから、一九二八年にFIFAを脱退していた。不満はあったし、行きたがらない人もいた。だが、何より大きかったのは、航海、費用、選手を出さないクラブ、そしてアマチュア資格をめぐる英国とFIFAの制度的な決裂だった。この排除は、まず構造の問題であり、象徴の問題は、その次だった。

ただし、「ボイコット」という説明を正すことは、排除そのものがなかったことを意味しない。それは、紛れもなくあった。ヨーロッパから参加したのは、ベルギー、フランス、ルーマニア、ユーゴスラビアの四チーム。英国が欠けたのは、各協会が一九二八年にFIFAを脱退していたからだ。イタリア、オランダ、スウェーデン、ハンガリーは、招致に名乗りを上げながら参加しなかった国として、記録に残っている。「世界」を名乗る選手権に、世界の大部分がいない。この欠落こそ、基礎が据えられる時点での、最大の余項だった。消化されず、開いたまま、後に何十回と続くワールドカップが、少しずつ埋めるのを待っていた。

この余項には、両面がある。悪役が企てたボイコットでもなければ、誰にも責任のない偶然でもない。傲慢と孤立の物語にすれば、現実に横たわる航海の負担と、アマチュアをめぐる制度的な決裂を見落とす。純粋に移動や手配の問題とすれば、自分を中心に置き、出向くほどのことはないとする英国の姿勢が、確かにあったことを見落とす。全面的に肯定することも、全面的に否定することもできない。だからこそ、覆いきれない余項なのである。傲慢だったと判じても、落ち度はなかったと判じても、気持ちよく言い切る裁定は、この余項のうち、本当に収まりのつかないところを、ついでに均してしまう。

七 大会そのものと、一九三〇年という「途中の時点」

第一回ワールドカップには、招待された十三チームが参加し、予選はなかった。ヨーロッパから四、南米から七、北米から二。グループステージの後、準決勝と決勝を行う方式だった。

予選も、出場枠の争奪もない。十三チームは、直接招かれた。このことが、当時、この競技の世界がどれほど小さかったかを示している。後のワールドカップでは、百を超えるチームを何段階にもわたって絞り、出場枠は各大陸が争う希少なものとなる。だが、一九三〇年には、招待を送り、誰が来てくれるかを見るだけでよかった。来られるチームは、それだけしかない。大西洋を渡ってもよいというチームを集め、試合を始めた。そのときの「世界」は、ずっと小さく、ずっとまとまりの緩いものだった。門の外へ誰かをふるい落とす必要が生じるほどには、まだ育っていない。まず、自分を大きくしなければ、「世界」という名に釣り合わなかった。

センテナリオ・スタジアムは、大会が始まる前から、すでに記念碑になっていた。顕彰の塔を擁するこのスタジアムは、百周年の祝典を象徴する中心だった。工期をあまりに詰めたため、開幕当初の一部の試合は、スタジアムが完全に整うまで、別の会場で行うしかなかった。この大会のために突貫工事で築いていた記念碑が、まだ建ちきらないうちに、大会は始まってしまったのである。

ウルグアイとアルゼンチンは、どちらも準決勝を六対一で制し、決勝へ進んだ。二試合とも、これほどの大差がついた。ラプラタ川を挟む両国は、当時、ほかのすべてのチームを、大きく引き離していた。相手は、それぞれユーゴスラビアと米国。つまり四強のうち、三チームが南北アメリカから、ヨーロッパからは一チームだけだった。多くの人に「ヨーロッパ不在」と記憶される大会で、実際の力は、そのとき、大西洋の向こう側にあった。基礎を据える時点で排除されていたのは、確かにヨーロッパの大部分だった。だが、最後まで勝ち残ったのは、まさに旧秩序が過小評価していた、新世界の側である。

決勝は、一九三〇年七月三十日に行われた。記録によれば、ウルグアイとアルゼンチンの、九十七度目の対戦でもあった。両国は、それ以前からの宿敵である。ワールドカップ決勝は、この長い因縁へ、最大の舞台を用意した。十二分、ドラドが決め、ウルグアイが先制する。だが、ペウセレとスタビレが一得点ずつを挙げ、前半はアルゼンチンが二対一で折り返した。後半、ウルグアイが試合をひっくり返す。五十七分にセア、六十八分にイリアルテが得点し、八十九分にはカストロが、四対二の勝利を決定づけた。

当時のウルグアイの新聞は、スタビレの前半のゴールは、オフサイドと判定されるべきだったと不満を記した。その訴えは、今日まで残っている。これほど何度も語り直されてきた「出発点」でさえ、結果のなかには、判定の偶然が埋め込まれている。認められるべきではなかったかもしれないのに、認められたゴールがある。勝敗は、何らかの必然で決まるものではない。こうした、すっきりとは勘定できないものが、いつも残る。一九三〇年、オフサイドだったと訴えられながら、笛の鳴らなかったあの場面も、その最も早い現れの一つにすぎない。

もう一つある。いったい何人がその場にいたのかさえ、はっきりしない。決勝の公式観客数は六万八千人余りだが、後に広まった物語では、九万人、さらには九万三千人とされることも多い。大会全体の総観客数は、いっそう数えにくい。同じ日にセンテナリオで行われた二試合では、観客が同じ一群として記録されることが多く、各試合の人数を単純に足せば、同じ人々を何度も数えてしまうからだ。基礎が据えられる瞬間を、いったい何人がその目で見たのか。この大会の最も基本的な事実にさえ、勘定しきれない端が残る。出発点として繰り返し讃えられる瞬間なのに、その人数自体が、閉じきらない余項なのである。記録の不注意なのではない。基礎を据えるという出来事の、本性なのだ。それは、境界が明瞭で、内部の統一された全体であったことなどない。数え上げようとするほど、確かなことの言えないものが、指のあいだからこぼれていく。

戦術においても、一九三〇年は、途中の時点だった。支配的な言語は、なお2-3-5のピラミッドである。十九世紀末から受け継いだ、ポジション配置の基本文法だった。バック二人、ハーフ三人、その前にフォワード五人が並んで押し上げる。一九三〇年の先発メンバーにも、この形ははっきりと見える。ウルグアイもアルゼンチンも、十一人は、この古典的なバック、ハーフ、五人のフォワードという並びであり、後のように抜本的に組み替えられた、近代的な構造ではなかった。きわめて攻撃色の強い配置だ。五人のフォワードとは、それだけ多くの人を前に置くことを意味する。その配置が成り立ったのは、古いオフサイド・ルールが、均衡を支えていたからだった。

ところが、このフォーメーションの足場となる競技規則は、すでに変わっていた。一九二五年、オフサイドの基準となる守備側の人数が三人から二人へ減ったことで、すぐに攻撃が有利になり、古いピラミッドを支える守備の幾何学も揺らいだ。後の戦術史は、この改正を、WMが生まれる直接の刺激と捉えている。チャップマンがアーセナルへ移ったのは、ちょうどルールが変わった一九二五年だった。改正は、フォワードの列とセンターハーフの再編を促し、センターハーフを二人のバックのあいだへ下げて、守備を補わせることにつながった。WMの功績をすべてチャップマン一人に帰すのは、適切ではない。後の物語は、クラブも国もまたぐ、もっと広い過程を、一人の天才の物語へと縮めてしまいがちだ。ジョナサン・ウィルソンの『Inverting the Pyramid』に代表される現代のサッカー戦術史の概説は、いま標準となっている、この語り方を広めた。一九二五年のオフサイド改正を、世界中に普及したピラミッドから、WMのような新しい守備構造へ移る、大きな蝶番として捉える語り方である。ルールブックに直接書かれていることと、後からの戦術的な解釈は、やはり別のものだ。それでも、大きな方向は明らかである。ルールが動けば、プレーは組み替えられざるをえない。

WMという名は、ピッチ上の並び方から来ている。中盤にいたセンターハーフを二人のバックのあいだまで下げ、相手センターフォワードを専らマークさせる。後ろの五人を結ぶとW、前の五人を結ぶとMに見える。肝心なのは、従来のピラミッドが攻撃を基本に据えた配置だったのに対し、WMは初めて、「どう攻めるか」と同じ重さを「どう相手を防ぐか」に与え、フォーメーションのなかに、それを解決する専用の位置を設けたことだ。サッカー史上、最初の大きな守備革命である。まさにこのとき起きたのは、一九二五年のオフサイド改正によって攻撃側が有利になり、守備を組み直さなければ、受け止めきれなくなったからだった。ルールという顔が動けば、戦術という顔も、変わるよう迫られる。この二つは、別々の持ち場だけを受け持っているのではない。同じ構の身体で、互いを引っ張る筋肉なのだ。

だから、一九三〇年のサッカーは、橋の上にいた。標準のOSは、まだピラミッドだった。だが、自分の余項を覆いきれない旧体系は、一九二五年の改正によって、すでに先へ押し出され始めていた。基礎が据えられるその瞬間自体が、凍りついた出発点ではない。変化を強いられている途中なのだ。その後の戦術の展開も、WMからカテナチオへ、トータルフットボールへ、ティキタカへ、ハイプレスへと、どの一歩も同じ動きを繰り返す。試合を掌握したかに見える体系が、自分では覆いきれない余項を生み、次の体系を呼び出す。一九三〇年は、その動きを初めて、世界の目の前に置いたにすぎなかった。

あの決勝で有名な「二つのボール」は、まったくの伝説ではない。両チームが自分たちのボールを使うと言い張り、審判のランゲヌスは、前半と後半で一つずつ使わせるしかなかった。実際にあったのは、この争いと、ハーフタイムのボール交換である。交換こそがウルグアイ逆転の決定的な理由だったという劇的な語り方は、後から加わったこじつけにすぎない。それでも、最初のワールドカップ決勝では、誰のボールを使うかまで争い、争った末に、半分ずつ譲ったのだ。基礎を据えるという出来事は、初めから、統一された閉じた全体ではなかった。消化されないさまざまな相違を、ひとまず寄せ集めた姿だった。完成した始まりに見えて、実際には、なお競り合う余項の山を、一試合のなかへ、どうにか収めただけなのである。

試合後の余波は、ラプラタ川の両岸で激しかった。ウルグアイは決勝の翌日を祝日とし、祝いは夜通し続いた。ジュール・リメの祝賀の手紙も記録されており、そこでは、モンテビデオの一九三〇年と、ウルグアイの一九二四年、一九二八年のオリンピック優勝が、明確に結びつけられている。一方、ブエノスアイレスでは、敗戦後、民衆の暴動が起き、この大会を、アルゼンチンとウルグアイの長年の因縁へ、深く埋め込んだ。熱狂であれ暴動であれ、こうした反応は、大会規約で設計できるものではない。管理しきれるものでもない。主催者が組み立てたのは、試合を行う仕組みだった。そこへ人々が注ぎ込んだものは、その仕組みに収まる量を、はるかに超えていた。

八 止まりたいのに、止まれない構

世界のサッカーの基礎を据えるとは、一度、鑿を入れることだった。その否定は、ほかのフットボールを排除して、「サッカー」という構を築いた。真理ではない。化石である。そして、その化石ができた初日から、守り手は、その姿を固定したがった。アマチュアの純粋さを守りたい。サッカーを取り巻く社会秩序を守りたい。英国が中心であるという地位を守りたい。新しいはずの国際機関まで、古い守り手へ頭を下げ、旧秩序への譲歩を、自分の制度に書き込んだ。基礎が据えられるころのサッカーには、ルールから組織まで、後ろを振り向き、いまある姿を祀り上げたがる態度が、至るところににじんでいた。

だが、この構は閉じきれない。排除したいプロ選手を排除できないのは、その人の時間と身体が、その人自身のものだからだ。維持したいヨーロッパ中心の配置を維持できないのは、南米がオリンピックのピッチで、すでにそれに穴を開けたからだ。固定したいルールを固定できないのは、古いルールでは覆いきれないものが、何度も改正を迫るからだ。ついに、この、覆いきれない余項こそが、ワールドカップそのものを生ませた。開放を信じて創設に動いた人はほとんどいないのに、開かれた大会が、生まれざるをえなくなった。そして、生まれるやいなや、基礎を据える時点での最大の余項が、姿を現す。「世界」を名乗る選手権に、世界の大部分がいない。守り手が門を閉めたがるほど、門は閉まらない。閉めようとして失敗するたび、かえって構は、より開けた場所へ、一歩ずつ押し出されていった。

「第一回ワールドカップ」という名は、正確であると同時に、一つの事実を覆い隠している。一九三〇年は、確かに、独立したFIFAワールドカップの第一回だった。だが、サッカーを統べる側の構想では、一九二四年と一九二八年のオリンピック・サッカーは、すでに世界選手権だった。また、すべてを一人の偉人の功績に帰すのも、頼りにならない。ジュール・リメが中心人物だったことは、もちろん確かだ。だが創設は、オリンピックという先例に、アマチュアをめぐるIOCとの綱引きに、南米の実力に、開催地を競う外交折衝に、そして金を出すというウルグアイの決断に、支えられていた。「一人の偉人が世界のサッカーを創設した」とは言えないのは、リメが重要でなかったからではない。制度と地理的な力関係の地盤が、とっくに敷かれていたからだ。整然と、一点だけに起源を置く説明は、ほとんどいつも、歴史の単純化である。出発点として祀られるどの瞬間にも、その背後には、もっと長い否定の鎖がつながっている。

こうした構造すべての下には、もっと静かなものもある。仕事を休み、危険を引き受けることに報酬を求めた選手が望んだのは、ある種の趣味の道具ではなく、自分の暮らしと自分の身体を持つ一人の人として扱われること、それだけだった。そして、ひと晩眠らなかった街。対岸の暴動。一試合の勝ち負けを、途方もなく重く受け止める群衆。ルールと組織と大会方式、そのすべての下に、彼らは静かにいる。書き込まれることは少ない。だが、ずっとそこにいる。

物語は、ここから始まる。初日からその姿を固定したがった構と、初日から固定できなかったその運命。そこを本当に貫くのは、特定のチームでも、偉人でもない。サッカーそのものだけでさえない。一つの律だ。構は閉じきろうとし、余項は消えようとしない。それゆえ、循環は止まらない。サッカーは、この律がとりわけ鮮明に見える標本なのである。これほど多くの人が、これほど長いあいだ、これほど深くかかわり、何度も鑿を入れ、構を築き続けるものは、ほかにそう多くない。一九三〇年は、すっきりとした出発点ではなかった。橋の上の、ある一瞬だった。次にどこへ行くべきかは、誰にも定められていない。循環は、まだ回り始めたばかりだった。