行為をすること、その人になること
見かけ上の循環
第II巻の習慣化論は循環して見える。正義な行為をすることで正義な人になり、節制ある行為で節制ある人になる。だが正義な行為をするなら、その人はすでに正義なのではないか。初心者が、まだ持っていない徳の行為をどうして行えるのか。
第4章の答えは、行為の種類と行為者の状態を分ける。文法の正しい文は、偶然にも、誰かに教えられても書ける。しかし文法家として書くには、自分の文法知に基づく必要がある。徳の場合はさらに厳しく、行為者が何をしているか知り、それを選び、それ自身のために選び、確立した揺らぎない性向から行う必要がある。
結果に人全体は入っていない
一度の正解を理解、一度の従順を同意、一度の成功を良い判断の証明とするのは現代の組織でも起こる。子どもは大人から与えられた言葉で謝り、従業員は処罰を避けるために公平な手順に従うかもしれない。行為は対方にとって現実の意味を持つが、そこから動機や安定した性格全体を読み取ることはできない。
SAEも一つの産出物から生産者の地位判断へ飛ぶことを警戒する。「この結果は正義に適っている」と「この人は正義である」は射程が異なる。後者は時間、動機、反実仮的な場面にまで及ぶ。一回の結果には、そのすべてを支える力はない。
選択と署名
アリストテレスの条件のうち最も難しいのは、その行為自体のために選ぶことだ。同じ外観の行為でも、評判、安全、報酬の手段として選ぶことと、正しいがゆえに選ぶことは、どのような人を形成しているかという問題で異なる。結果の受け手にとって動機だけがすべてではないが、徳の形成を論じるなら無視できない。
SAEの「署名」は部分的な平行物を与える。判断は、その前提をすべて自作したから自分のものになるのではない。それを引き受け、反論に応答する責任を負うことで自分の判断になる。ただし署名は一つの判断に属し、性格は多数の判断と行為を越えて持続する。この時間的統一は署名だけでは作れない。
沈殿と性格の間
SAEには「沈殿」という考えがある。いったん努力して得た区別が、後には再構成せず使える地盤になる。これは習慣化に似ているが、同じではない。アリストテレスが記述するのは、欲望、快苦、選択、理性が一人の性格になる過程だ。SAEが沈殿と呼ぶのは、判断と認識の地盤が定着する過程である。
「この分け方は定着した」から「この人は定着した」には進めない。一方、アリストテレスは、性格が長い時間の反復を通じてどう生じ、その人の行為の安定した源泉になるかを示す。二つの理論は一つの誤り――成果が出た瞬間に人の身分も変わったとみなすこと――を拒む。だが人の形成と認識の定着は、互いの証明にはならない。
だから習慣化の初期には、教師、法律、共同体の模範が独特の役割を持つ。初心者は理由を完全に所有する前に、正しい型を借りて行為する。その借り物の行為にも相手を守る現実的価値があるが、外からの監督が消えた後に同じ選択が続くかは別に確かめなければならない。教育の目的は模倣を偽物として退けることではなく、模倣の中で快苦の感じ方と選択の理由を組み替え、やがて本人が行為の源になるようにすることだ。一回の署名は責任の所在を示し、長い習慣はその署名を可能にする人を形成する。
ここには評価の非対称性もある。相手を助けた一度の正しい行為は、たとえ偶然でも助けられた側にとって消えない。だが行為者を徳ある人と評価するには、偶然以上の根拠がいる。逆に一度の失敗は具体的な害への責任を生むが、それだけで全人格を悪徳と確定しない。結果、選択、性向を別々の射程で記述することが、行為を軽くせず人を一場面へ閉じ込めない。