幸福は死を待たなければならないか
「結末を見よ」の罠
第I巻第10章で、アリストテレスはソロンの古い教えを検討する。生きているうちは誰も幸福と呼べず、結末を見なければならないのか。だが、それなら死んだときに初めて幸福になるのか。幸福を徳に即した活動とするなら、死者は活動しない。幸福が存在しなくなったときにだけ「幸福だった」と言えるのは、述語が対象の後から到着することになる。
しかし死は帳簿を完全に封印しない。死後の名誉や不誉、子孫の幸不幸は先祖にまったく触れないのか。かといって、遠い子孫の運命によって死者が幸福と不幸を往復するのも奇妙だ。第11章で彼は、後世の出来事はいくばくか影響しうるが、幸福な者を不幸に、不幸な者を幸福に翻すほどではないと限定する。
不死性なしの安定
アリストテレスは運の集計から活動へ重心を移す。有徳な活動は外的善より安定し、良い人は逆境においても立派に耐える。大きな災厄は無関係ではないが、幸福を一つの偶然でただちに反転するカメレオンにするのでもない。生きている人を幸福と呼ぶことは、将来の無傷を予言することではなく、すでに行われている生の形を判断することだ。
彼が付す「人間として」の留保は重い。幸福に神的な不可侵性を求めず、同時に「今気分がよい」へと縮小しない。習慣、選択、逆境に対する態度が時間的な型を作る。幸福はその型についての可謬的だが正当化可能な判断である。
生の終わりと再検討の終わり
SAEは、判断される対象の終了と、判断そのものの完了を分ける。契約が終了しても、隠された条件が後で発覚すれば評価は変わる。歴史的事件が終わっても、当時は声を持たなかった人の証言によって射程は引き直される。死は行為を閉じるが、どの出来事が生全体を代表するかというすべての法廷を閉じない。
しかしここでSAEはアリストテレスから学ぶべきものがある。個々の登録――この主張、この前提、この負債――を精密にしても、一生は単なる項目の束ではない。「完き生」という文法的主語は、継続、反転、習慣、以前の行為と現在の関係を一つの伝記に保持する。項目の監査と伝記の形式は互いに代わらない。
最後の日は最終判決ではない
訃報は「勇気ある生」「浪費された生」「最後に傷ついた善い生」と総括したくなる。本人が新しい行為で反証できないから、総括が最終的になったように感じられる。だが閉じるのは行為の列であり、意味ではない。反対に完全な情報が来るまで判断をすべて保留するのも、人間的な認識を不可能にする。
アリストテレスは、生きている人の幸福を語ることを許し、それを一瞬の感情ではなく持続する活動に根づかせる。SAEは、現在の登録に十分な根拠がありながら、後の修正に開かれていることを許す。両者は互いを証明しない。それでも、有限性は無知でも全知でもないという同じ緊張を示している。
ここから、評価の更新と人物の無限再審を分ける必要も生じる。新しい資料が一つ見つかるたびに生全体を白から黒へ塗り替えるなら、判断は情報量に振り回される。反対に最初の評伝を固定すれば、沈黙させられた当事者は永久に不在となる。何が判明し、どの範囲の叙述が変わり、なお変わらない根拠は何かを明示することが、死後の再検討を占いにも断罪にもさせない。完結した生についても、判断は範囲を限定して暫定的に完了できる。
ソロンの教えは、幸福を死後に延期せよというより、現在の一場面を生全体と取り違えるなという警告として読める。成功の頂点にいる人にも、その活動が偶然の追い風だけで支えられていないかを問う。逆境にある人にも、今日の損失だけでそれまでの徳ある活動を無効にしない。この時間の厚みが、現在形の判断と最終確定の間を支える。