Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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SAE · Nicomachean Ethics · 日本語編集・再構成版
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自足はどこまで数えるのか

Han Qin (秦汉)

二種類の無限後退

第I巻第2章でアリストテレスは、すべてが別のもののためだけに選ばれるなら、欲求は無限に後退し、空しくなると言う。そこで、それ自身のために選ばれ、他のものがそのために選ばれる終極が必要となる。第7章はそれを幸福(エウダイモニア)と同定し、名誉、快楽、知性、諸徳はそれ自身のためにも選ばれるが、同時に幸福のためにも選ばれると整理する。

同じ第7章で、彼は幸福の自足性を孤立と取り違えない。一人の生だけでなく、両親、子、妻、友、同郷市民を含む。だが祖先、子孫、友人の友へと伸ばせば、こちらも無限に進む。そこで彼は境界が必要だと認め、詳細は別の機会にゆだねる。

理由の連鎖と関係の名簿

二つの無限は同じ問題ではない。第一は「何のためか」という理由の連鎖であり、それ自身のために選ばれる最終目的で止められる。第二は「誰を含めるか」という名簿である。人生の最終目的をどれほど深く理解しても、結婚式に何親等まで招くか、過去の同僚の利害を今の決定にどこまで入れるかは自動的には決まらない。

実践が有限だから線を引く必要がある、という事実は、この線が正しいという理由にはならない。予算が有限であれば打ち切りは必要だが、現在の受給者が正しく、排除された人の要求が軽いことはそこからは出ない。限界の必要性と成員資格の規則は別物である。

局所的な獲得は空しいか

SAEも、根拠を別の根拠から無限に借りる主張を疑う。しかしその解決を単一の最高目的に求めない。この患者への診断、この紛争で明らかになった違いのように、一回の切断は局所的でありながら実在的な獲得を生む。それは「最高善に一歩近づいた」とは言わない。距離を測るための峰を先に置かないからだ。

この違いは、アリストテレスの問題を解消しない。局所的獲得が一つの行為を空しくないものにできるとしても、それが一生の最高善になるとは主張しない。アリストテレスの自足性は一生を選ぶに値する形としてまとめる。SAEの獲得は、今回の判断が何を得たかだけを承受する。要求される資格が異なる。

誰を入れるかは残る

SAEは名簿を自動印刷できない。引かれた線について、誰が除かれ、基準が一貫し、影響を受ける人に応答の位置があるかを問える。また、検討されたうえで重みづけが下げられた人と、最初から視野に入らなかった人を区別できる。だが形式だけから最終的な参加者の範囲は出ない。

アリストテレスの誠実さは、自足性が孤立を意味しないと示しつつ、関係の外延をその概念だけで決めたことにしなかった点にある。理由の連鎖は幸福で止まる。関係の円はどこまで広がるか。その二つの成果の間に、倫理学の大きな未決領域が残る。

境界の決定には、目的論とは別の政治的手続きが要る。家族、都市、国家、人類という同心円を描いても、近い者を常に優先すべきか、遠い者への重大な害を近い者への小さな利益より軽く見てよいかは決まらない。災害医療なら患者、家族、地域の住民、将来の患者が同じ決定に関わる。誰を数えたかだけでなく、誰の声が決定過程に届き、誰が異議を申し立てられるかまで設計して、初めて境界は暫定的な正当性を持つ。自足性は関係を幸福の外へ追い出さないが、関係者の選び方そのものを代行はしない。

しかも境界は一度引けば終わるものではない。決定の影響が予想より広がったとき、当初は外部とされた人が新しい関係者になることがある。正当な境界とは、永遠に動かない線ではなく、線を動かす条件と再審の入口まで公にされた線である。誰を含めるかについての誤りは、目的そのものを理解していても起こりうる。最終目的が欲求の連鎖を止めても、参加資格の改訂可能性までは止めない。

中国語・英語稿を底本とした日本語独立再構成版。巻章は通行の区分に従う。