Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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SAE · Nicomachean Ethics · 日本語編集・再構成版
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友と真理、どちらも大切である

Han Qin (秦汉)

一撃の前に境界を引く

『ニコマコス倫理学』第I巻第6章で、アリストテレスは普遍的な「善そのもの」を批判する。しかし、その論説をもたらしたのは「友人たち」であるため、それを取り除くのはつらい、とあらかじめ認める。通俗的には「プラトンは友だが、真理はもっと友だ」と要約される場面である。ただし重要なのは、論驳の後で悪意のなさを弁明したのではなく、論驳に入る前に、何を解体し何を判決しないかを示したことだ。

アリストテレスはプラトンの名を被告席に置かない。普遍善論には容赦しないが、説の敗北を説いた人全体への宣告にはしない。プラトン自身も『国家』第X巻で、ソクラテスにホメロスへの幼時からの愛着を認めさせつつ、人を真理より重んじてはならないと言わせた。弟子は、師を批判する身振りそのものを師から学んだのかもしれない。

アリストテレスが拒むもの

彼の標的は、多くのものを善と呼ぶ日常語ではない。健康、徳、知性、適切な時機は、それぞれ異なる範疇において善と言われる。それらの多様性を、分離して存在する単一の善で一括して説明するより、実践の場に返すほうがよい。医師が扱うのは抽象的な健康ではなく、この患者の健康である。倶然的なものを扱う倫理学に、数学と同じ精密さを要求することもできない。

ここでのSAE――初出では「人を目的として捉える枠組み」――との接点は局所的である。SAEは、ある判断が何を対象とし、どの前提と射程のもとで成立し、何を回収し残したかを問う。一つの言葉の多義性を分析するアリストテレスと、判断の所在地を監査するSAEは、同じ方法ではない。双方が拒むのは、ある場所で成功した説明を、無対地にどこへでも持ち運ぶことである。

主張から人格へ飛ばない

議論では、一つの反論がしばしば一人の伝記全体へ拡大される。「この主張は成り立たない」が「あなたは信頼できない」に変わり、一つの誤りがその人の動機、人格、生全体を説明したことにされる。むろん主張が悪意や軽視を示す場合はある。ただしその追加判断には、論驳そのもとは別の根拠が必要だ。

SAEの「登録」の言葉を使えば、記録されるべきは主張、射程、根拠、反論、未決の負債である。著者名は出所を示すが、これらの欄を代替しない。しかも監査者も最終審級に立つわけではなく、自分の前提を持ち込む。人を判決から守ることは、主張を批判から守ることではない。証拠が稼いだだけの射程で、厳密に批判することである。

友情は中立ではない

真理を優先するなら、友情は消去すべきだ、と読むのも誤りである。難しさは相手が友だからこそ生じる。アリストテレスは愛着を否定せず、それに結論を決める管轄権を与えない。友は相手の説を最善の形で組み直し、批判の後にもその場に残る理由を持つ。友情は判断を歪めもするが、批判者の注意を訓練することもある。

ここでアリストテレスは完成した理論を与えるのではなく、批判の姿勢を見せる。愛された理論に免責を与えず、同時に友人をその理論へ縮減しない。それは誤りへの甘さではなく、証拠が何を言えるかに関する精密さだ。SAEはこの姿勢を自説の証明には使えない。ただ、射程の異なる二つの言葉を混同しないという、共通の紀律を強く確認できる。

この精密さの節度は、友への忠誠にも向けられる。人格、教説、後世の学派を一つの対象にまとめれば、教説への批判がそのまま人物への背信に見えてしまう。反対に「論証だけを見る」と言って関係史を消せば、なぜその異論が語りにくかったかが見えない。何を批判し、何を保留し、どの関係を損なう可能性があるかを別々に記すことで、友情を真理の例外にも、真理を友情の免罪符にもしない。この分割こそ、抽象的な中立より誠実な批判を可能にする。

中国語・英語稿を底本とした日本語独立再構成版。巻章は通行の区分に従う。