Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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SAE · Nicomachean Ethics · 日本語編集・再構成版
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どこからが「過ぎる」のか

Han Qin (秦汉)

中庸に目盛りはない

「徳は中庸である」という要約は、しばしば算術的な穏当さを連想させる。二つの極端を測り、真ん中に立つ。だが第II巻のアリストテレスはその図を何度も拒む。中庸は「われわれにとって」の中間であり、思慮ある人が定めるように定まり、行為は個別的事情にかかわる。怒りがどこから過剰になり、寄付がどこから浪費になるかを、万能の数値で示せない。

第9章が与えるのは公式ではなく三つの目安だ。より誤りの大きい極端から離れる。自分が傾く方向を見定め、曲がった木を矯めるように反対へ引く。そして快楽に対して特に警戒する。これらは同じ人を同じ方向へ動かす助言ではない。無謀に傾く人と、恐れに傾く人では矯正方向が逆になる。

方向と中間点の違い

中庸は妥協ではない。残酷と慈悲の半分、優秀と失敗の半分が徳になるわけではない。過剰と不足は、行為の領域、相手、時機、目的、方法によって定まる。「われわれにとって」という語も、心地よさを物差しにする相対主義ではない。欲望は情報であると同時に、判断を歪める力でもある。

結局、最後の一歩は知覚に委ねられる。この人に、この時に、この理由で、どれほど怒るのが適切かは、普遍的論証だけで決められない。それは境界が存在しないことを意味しない。境界は現実だが、どの個別事例にも先回りする目盛りにはならないということだ。

四相的な監査ができること

SAEの四相的形式は、一つの区別について、一方に入るか、他方に入るか、異なる条件のもとで両方に入るか、そもそもその区別の管轄外かを開いておく。たとえば、親の介入は子の安全を支えつつ、同時に子自身が学ぶ空間を奪いうる。支援か支配かの二択に押し込めず、条件を分けることはできる。

ただし表は行為を選ばない。今夜どれほど介入するか、いつ声をかけるかは、次の判断である。SAEは「両方」をただちに論理的失敗としない帳簿を与え、アリストテレスは、自分の傾きを知り、反対方向へ引くという今日から使える練習法を与える。一方は判断の形を明示し、他方は判断者を動かす。

最後の一インチ

倫理理論は、十分な入力を与えれば最後の判断までルール、得点表、最適化で消去できると約束したがる。アリストテレスの拒否は反理性主義ではない。対象の性質に合わせて精密さを求める、という理性の自己制限である。実践は個別的であり、だからこそ思慮が必要になる。

SAEも、監査表の記入を事例の完了と混同すれば、別の精密さの幻想になる。何が問題の住所か、何が証拠か、誰に反論の資格があるか、その一つ一つも判断である。偏りを補正し、分岐を開示し、負債を記録できる。その後に残る一歩は、道具が到着する前と同じく、誰かが責任を負って行う判断である。

ここで重要なのは、精密さを断念することと、適切な精密さを選ぶことの違いである。倫理的判断に小数点以下の閾値がないからといって、理由を示さなくてよいわけではない。怒りの強さを数式で出せなくても、相手が誰で、何が起こり、どの害を止めようとし、別の手段がなぜ不十分だったかは説明できる。説明は行為を機械的に産出しないが、後から都合よく「中庸だった」と名づける自己免許を妨げる。中庸の曖昧さは判断者への白紙委任ではなく、判断者により具体的な応答責任を課す。

また、自分の傾きを反対へ矯める助言は、反対の極端を新しい徳にする命令ではない。臆病な人が勇気を学ぶため大胆な訓練をしても、無謀を目標にするわけではない。補正の方向と到達すべき位置は異なる。この区別がなければ、個別化された訓練を、誰にでも当てはまる過激な処方へ変えてしまう。中庸は静止点ではなく、偏りを知った行為者が状況ごとに作る均衡である。

中国語・英語稿を底本とした日本語独立再構成版。巻章は通行の区分に従う。