Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
← SAEの『ニコマコス倫理学』
SAE · Nicomachean Ethics · 日本語編集・再構成版
06 / 13

石はもう手を離れた

Han Qin (秦汉)

取り返せなくなる前の責任

第III巻第5章の議論は厳しい。人は徳を自分の手柄としながら、悪徳だけを「そうなってしまった」ものとしたがる。アリストテレスは、美しい行為も醜い行為もわれわれによるなら、徳と悪徳は関連する意味で同じく自発的だと論じる。法も、強制や個別的事情への免責される無知を区別する一方、自ら招いた無知――飲酒による泥酔が例である――には責任を認める。

「彼はもう注意できない人なのだ」という異論に、アリストテレスは、注意しない生活の積み重ねがその人を作ったと答える。始めには不正な人や無節制な人にならないことが可能だった。しかし性向が確立した後、今すぐそうでない人になることはできない。

行為と状態は別の意味で自発的である

投げられた石の比喩はこの構造を示す。手を離れる前、投げるか投げないかは自分にあった。離れた後に呼び戻せないことは、運動の始点が自分ではなかったことを示さない。ただし性格が完全に不変だという話でもない。倫理学全体が教育と習慣化を前提にしている。問われているのは、現在の反転不可能性が、自発的な歴史の不在を証明するかどうかである。

個々の行為は、当事者が個別的事情を知り、運動の始原が当事者の内にあるとき自発的である。性向は、個々の増分が見えにくいまま行為によって形成されたという別の意味で自発的である。現在の困難が本物であることと、その困難の形成に本人の行為が関与したことは両立する。

習慣が変える行為の地形

SAEは自由意志の理論ではない。主体が判断を中止し、問い直せるという条件は、認識的な応答可能性の空間を示すのであって、どの行為者もすべての瞬間に実践的に他行為可能だと証明するものではない。アリストテレスとの比較は形の比較であり、自由の相互証明ではない。

それでも、習慣化はSAEの帳簿だけでは見えにくい事実を示す。反復は項目を追加するだけでなく、何が選択肢として見え、どの反応が自然で、別の道を思い出すのにどれほどの力が要るかを変える。一回ごとの判断記録は合理的に見えても、その列が作り変えた地形は別に記述しなければならない。

過去の全能感を避ける

この議論は容易に残酷になる。あらゆる現在の制約を以前の自発的行為へと遡って「自分でこうした」と言えば、貧困、暴力、差別、病気などの社会的・身体的条件が消えてしまう。石の比喩は構造を示すが、すべての石を誰がどれほど自由な手で投げたかを教えない。

だから責任は個別的に登録されなければならない。当事者は情報を持っていたか、実際の代替経路があったか、どの行為がどれほど性向に寄与し、何がその経路を狭めたか。SAEの射程と根拠への要求は、過去への全能的な責任拡大を止められる。石は手を離れた。その言葉は投げた人を免責せず、同時に石がまだ手の中にあるふりもしない。

この区別は、非難よりも介入の時期を変える。性向がまだ形成途中なら、小さな反復、環境の変更、助言へのアクセスが将来の選択地形を大きく変えうる。すでに依存や恐怖が選択肢を狭めているなら、「以前は選べた」という回顧だけでは現在の出口にならない。過去への責任判断と、現在どの支援が必要かという実践判断を同じ量刑表にしてはならない。形成の歴史を認める目的は、人を永久にその過去へ固定することではなく、どの段階で何がまだ動かせるかを正確に見ることにある。

責任を歴史として捉えるなら、修復もまた歴史を要する。謝罪の一文や一度の節制は重要でも、長年形成された性向をその場で消去しない。反復して作られた地形は、反復して別の道を通ることで少しずつ変わる。だから「もう変われない」と「今すぐ変われる」の二択を退け、現在可能な小さな選択と、なお本人だけでは開けない条件を同時に記録する必要がある。

中国語・英語稿を底本とした日本語独立再構成版。巻章は通行の区分に従う。