Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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SAE · Nicomachean Ethics · 日本語編集・再構成版
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人は自分自身に不正を働けるか

Han Qin (秦汉)

なぜ「自分への不正」は明らかに見えるのか

才能を浪費し、依存で身体を壊し、自分で定めた約束を破った人に、われわれは「自分に対して不公平だ」と言う。第V巻第9章と第11章のアリストテレスは、この自然な言い方を厳密な正義の言葉とは区別する。不正には、一方が過多を得、他方が過少を受ける、あるいは一方が他方に害を加えるという関係が必要である。行為者と受け手の位置を完全に一人に重ねると、厳密な文法は崩れる。

自殺の例で彼は、激情にかられて自分を殺す人は理に反し法の禁ずることをするが、不正を働く相手は自分ではなくポリスだと述べる。自分の所有物を自分から盗むことも、自分自身に対して姦通することもできない。現代の読者はそのポリス中心性に異論を持つだろうが、彼の方法的要点は、正義を無制限に内面化しないことにある。

類比として戻ってくる正義

アリストテレスは内的葛藤を否定しない。理性的部分と非理性的部分の間に、統治する者と統治される者に似た「類比的な正義」を認める。名は戻るが、地位は変わる。一人の中の葛藤は政治的関係と類似するが、一人が密かに二人の法的主体になるわけではない。

この区別は日常語を禁止しない。「自分との約束を破った」は実在の継続性を言い表す。現在の自分は過去の自分の決定を引き継ぎ、将来の自分は今のコストを負う。ただし、自分への約束は自分で改訂できるが、他人への約束は後の自分の同意だけで遡及的に解消しない。関係の差は道徳的強度を変える。

反身性は独立性ではない

SAEでは判断を自分自身へ向けられる。自分の前提を問い、過去の登録を改訂し、自分を主張の対象にできる。この反身性は不可欠だが、外部監査と同一ではない。盲点を作った装置は、その盲点の全部を発見したことを自力で保証できない。自己監査では証拠の提示者、住所の設定者、反論の重みを決める者が重なる。

アリストテレスは概念的地位を変える――厳密な正義を類比にする。SAEは実践的な信頼度を変える――同じ監査操作を内部に向けられるが、監査者と被監査者が同じ位置なら証拠力は短くなる。両者は自己内部の事例を保存しつつ、何も変わっていないふりを拒む。

作られた対立者

自己批判は二つの声を演出するため、厳密に感じられる。一方が訴追し、他方が弁護する。しかし二つの声が、最も問われるべき前提を共有していることがある。完璧主義者が自分を怠惰と非難し、労働時間で弁護するとき、両者は「価値は生産量で決まる」という地盤を共有している。争いは激しく、地盤は安全である。

「自分の最も厳しい批判者になれ」は、それゆえ不十分である。厳しさは位置の差を生まない。別の人の審問が重要なのは、人数を増やすからではなく、共有していない道と前提から問えるからだ。人は自分に不正を働けるか。日常語ではそう言える。厳密な正義では他人に対するのと同じではない。その差は細かい用語問題ではなく、なぜ自己訂正が閉じた回路になりうるかを示す。

時間を隔てた自己を債権者と債務者に見立てる比喩にも限界がある。将来の自分は現在の決定に同意しておらず、しかも成長によって価値や能力そのものが変わる。貯蓄を怠った現在の自分が老後の自分へ負担を移す場合と、過去の誓いを捨てて新しい生を選ぶ場合を、同じ「自己への裏切り」で裁くことはできない。問うべきは、どの継続性を前提にし、どの害が生じ、改訂する権限が誰にあるかである。自己関係を二者関係になぞらえるなら、似ていない部分も同時に記録しなければならない。

さらに自己監査の結論には、他者への影響が入り込む。自分を酷使する選択が家族や同僚へ負担を移すなら、事例はもはや純粋に自己内部ではない。反対に本人だけが負う不利益を、共同体が勝手に「自己への不正」と名づけて禁止すれば、保護の名による支配になりうる。関係者を正確に分けることが、自己配慮と他者の統制を混同させない。

中国語・英語稿を底本とした日本語独立再構成版。巻章は通行の区分に従う。