それでも制度が必要になる理由
成熟した人だけなら規則はいらないか
制度については、人は信頼できないから規則で抑えるという話と、誰もが成熟して尊重し合えば規則は消えるという話がある。SAEは、善意ある成熟した主体同士にも解けない衝突が残るか、と問う。
分けられない水源を二者が必要とし、別れた親が同じ子に退出不能な責任を負い、二つの共同体が有限な空間を使う。相手を十分に理解し、自分の要求も誠実に吟味してなお、余項は残る。制度が必要なのは主体が未熟だからだけではない。複数の目的が有限の世界を共有し、承認だけでは資源を分割も、cannot-notを両立もさせられないからだ。
一回の裁定を安定した枠へ
一度の争いなら信頼する第三者に判断を頼める。しかし同種の対立が繰り返されると、誰が裁くのか、理由は何か、似た事例を同じように扱うか、裁定者を誰が問い直すかが問題になる。
制度とは安定化された仲裁である。一回限りの共同の受け入れを、公開され、予測でき、反復でき、責任を問える枠組みにする。対立が激しくなるたびに全条件をゼロから交渉せず、力の差を合意と呼ばずにすむ。表面上は個人を制限するが、深いところでは主体同士が自らへ課す共同の制限である。交差部分で単独の最終判断を手放す代わりに、他者も単独では裁けない。
制度自身を目的にしない
安定した制度は、自分の存続を最高目的にしやすい。手続を守るためだけに手続が増え、組織のために人が仕え、管理しやすさが生より上に置かれる。SAEは順序を保つ。存在が構築物に先立ち、制度は主体間の余項を扱う道具である。
これは個人の不満が常に規則を上回るという意味ではない。気に入らない判定のたびに解体する枠は、他者を守れない。ただし規則の追加は共同の交差へ遡って説明できなければならない。どの余項を扱い、誰が目的であり続けることを守り、より薄い方法ではなぜ足りないのか。慣例だけを理由にした増分は正当化されない。
権利と義務を対にする
制度が私の発言、境界、退出を守るなら、私も他者を道具にせず、正当な共同判断を守り、必要な費用を負う。権利だけでは実現不能な約束になり、義務だけでは搾取になる。参加が深く、権力が大きいほど、通常は義務も厚くあるべきだ。権力の大きい者ほど義務が軽い制度は、共同構築から支配へ変わる。
制度の必要性は人間への絶望ではなく、人が目的であるという尊重から出る。善意、強さ、確信のいずれにも最後の一言を独占させないため、私たちは互いの間に制度という席を作る。
この席は中立を名乗るだけでは足りない。裁定理由が公開され、同様の事案と比較でき、誤りを訴える経路があり、裁く側も責任を負う必要がある。仲裁者を無謬の上位主体にすれば、当事者の独占を制度の独占へ置き換えただけになる。
制度もまた主体から預かった道具であり、問い直される側にとどまらなければならない。