Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
← SAE基礎――人はいかに目的そのものとなるか
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二つの目的が出会った後、何ができるか

Han Qin (秦汉)

他者は別の場所にいる私ではない

他者理解では「相手の立場になって考える」と言われる。役立つ方法だが、私はなお自分の欲望や恐れから答えを作っている。難しいのは、同じ状況に置かれても私はその人にはならず、その人のcannot-notに自分の生の対応物がない場合だ。

SAEにおける主体の出会いは、十分に話せば必ず一致する二つの意見ではない。目的を生む二つの出所が対面することである。承認の第一歩は、相手が自分の尺度では尽くせないと認めることだ。理解は深められるが、還元不能性まで消えるわけではない。共感のために自分の目的を消すなら、それも承認ではなく自己放棄になる。

相互に鑿を入れる

双方が自他を目的として扱うなら、対立への第一の応答は征服ではなく「相互に鑿を入れる」こと(mutual chiseling)である。互いの目的の形を相手の参照枠に置き、何が本当に手放せない核で、何が習慣、恐れ、体面、無検査の普遍化なのかを確かめる。

表面の衝突が言い方から生まれ、奥の目的は両立すると分かることもある。反対に、双方が本当に通約不能だと明瞭になることもある。後者は対話の失敗とは限らない。「私はここを譲れない。同時に、あなたがそこを譲れないことも認める」と言えるのは成熟した結果だ。鑿を入れることは無限の妥協ではない。自分を保たなければ迎合になり、変えられる可能性を拒めば独白になる。

立ち去る

一方が他方を目的として認めない、または共同生活が成立しないなら、立ち去ることが最も誠実な場合がある。これは議論の敗北ではなく、関係における分岐権の行使だ。自分の目的は、相手の承認を勝ち取ったり相手を倒したりしなくても存在できる。

退出は相手も守る。「理解させる」「救う」「正す」と絡み続ければ、尊重は「私に同意した後で尊重する」へ変わる。ただし共同養育、分けられない資源、第三者への責任、共通の土地、高い退出費用があれば、去ること自体が新しい害を生む。

解けない余項と仲裁

互いに鑿を入れても対立が残り、退出もできないとき、主体間の余項が現れる。そこで外部仲裁へ委ねるのは主体性の敗北ではない。各自が自分の事件の最終裁判官を務めながら、相手にも共通の判決として受け入れさせることはできないと認める行為だ。

道は三つある。検討で変わりうる部分には相互に鑿を入れ、絡み続ける必要がなければ離れ、退出不能な交差には共同で仲裁を置く。制度は第三の場所から始まる。他者を深く承認するとは、完全に分かることではない。理解の限界を、相手が存在する資格の欠如へ変換しないことである。

三つの道に絶対的な順番はない。危険が迫る場面で対話を先に求めれば、被害を長引かせる。退出不能な責任があるのに去ることだけを理想化しても、第三者へ費用を移す。どの交差が残り、誰が負担を引き受けるかを見て、承認を保てる経路を選ぶ必要がある。

本篇はSAE基礎論文5をもとに、一般読者向けに独立して再構成した。完全な論証と学術上の境界は原論文にある。 How Is the Inter-Ontological Possible. 原論文 ↗ · DOI ↗