Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
← SAE第一批判:十二の読解
SAE基礎テキスト · 日本語編集・再構成版
07 / 12

問う者を誰が問うのか

Han Qin (秦汉)

自己問答だけでは足りない

自分で自分を厳しく問い続けても、問いの選び方、前提、見落としは同じ視野に属している。自己批判は重要だが、それだけで独立した検査になったとは証明できない。他者の問いは、自分では立てなかった切断を持ち込み、見えなかった住所の誤りを露出させる。

ただし他者性は真理の免許ではない。批評家も自分の分岐と公準を持ち、誤読し、権威を借りることがある。「外から来た」という事実は独立性の可能性を高めるが、正しさを自動的に保証しない。問う者もまた問いの台帳へ入る。

無限後退をどう止めるか

監査者を監査する者、その監査者を監査する者を無限に求めれば、どの判断も開始できない。第一批判は絶対的な最終保証で連鎖を止めない。ある時点の公開された前提と手続で暫定的に判定し、その判定自体を後日の再審へ開いておく。

これは何でも同じという相対主義ではない。証拠が多く、住所が明確で、反論へ応答した主張は、資格を隠す主張より強い。終わらないのは審査の可能性であり、現在の判断能力ではない。判決は出せるが、裁判所を永久閉鎖しない。

人ではなく主張を問う

批判が人物評価へ滑ると、理論の住所問題が忠誠や人格の争いに変わる。第一批判が診断する単位は主張である。誰が言ったかは発生史や権力関係を理解する手掛かりにはなるが、結論の代わりにはならない。

16DDが示す相互承認も、互いを無条件に正しいと認めることではない。相手を問いを発し、拒み、再記述できる主体として扱うことだ。公開監査の強さは、最後の裁判官を持たない点ではなく、誰にも永続的な裁判官席を与えない点にある。