本文を読む
Non Dubito

SAEとデカルト『省察』 · 第四篇 · 名前が働く

精神と肉体が、議論する

相手を「精神」と呼び、相手を「肉体」と呼ぶ。やり取りの終わりには、名前を持った、その人自身を認め直します。

Han Qin ·

第五反論を書いたのは、ガッサンディです。長い反論で、のちにデカルトがフランス語版へ寄せた声明でも、その長さに一言触れています。

ただ、この往復で目につくのは、分量よりも呼び名です。

自分でつけた名前

第二省察で、デカルトはあるところまで進み、断言します。ゆえに、厳密に言えば私は考えるものにすぎない。すなわち精神である、と。さらに、この言葉の意味を私は以前知らなかった、と続けます。

自分につけた名前です。それも、つけたばかりでした。

ガッサンディは、その一文を引いて、こう続けます。ここで、私は見当違いをしていたと認めます。人を生かし、感じさせ、動かし、理解させる、人間の魂に話しかけていると思っていた。ところが相手は精神だけだった。身体どころか、魂まで脱ぎ捨てた精神だったのですね、と。

それから繰り返し、そう呼びかけます。「おお、精神よ」「おお、よき精神よ」。

乱暴な呼び方ではありません。同じくだりで、相手を優れた方とも呼んでいます。ただ、言いたいことは明瞭です。あなたが精神だけだと言うのなら、私も精神だけに話しかけましょう、と。

返ってきた呼び名

第五答弁で、デカルトはまず一言、褒めます。

あなたは続いて、嫌味のない擬人法を使われた。私を完全な一人の人間としてでなく、切り離された魂として問いただした。それによって、この反論は精緻な哲学者の精神からではなく、肉体だけから出たものだと、私に気づかせようとしているようですね、と。

そこで呼び返します。では伺います、おお、肉体よ。あるいは、好きな名で名乗ってください。あなたは精神と、これほど付き合いがないのですか、と。

この箇所を含め、何度もそう呼びます。一度は、「おお、最良の肉体よ」とも言っています。

双方が同じ呼び名を繰り返しますが、名前の出所は違います。ガッサンディは、デカルト自身の言葉から取っています。あなたが精神だけだと言うから、精神と呼ぶのだ、と。デカルトが取るのは、ガッサンディの構えです。私を切り離された魂として問うなら、その問いがどこから出るかもわかる、というわけです。

結構なことです

この往復には、ひとまとまりで読みたいところがあります。

明晰かつ判明に捉えたものが、必ずしも真とは限らないと示そうとして、ガッサンディは古人を持ち出します。多くのことを明らかに見抜けたはずの、あれほど優れた頭脳でさえ、真理は神のもとか、井戸の底に隠れていると考えたではないか、と。

デカルトの第一声は、結構なことです、でした。ここでようやく、私に反対する理由を一つ出してくださった。それより前には、どこにも見られなかったことです、と。

そのあと、こう続けます。この点では、あなたは権威に基づいて論じ、正しく論じていると認めましょう。しかし忘れないでください、おお、肉体よ。あなたがここで向き合うのは、形あるものすべてから遠ざかった精神なのです。自分より前に人が存在したかどうかさえ知らないほど、遠く離れている。だから古人の権威では、この精神は動かせないのです、と。

ここには、通り過ぎやすい一手があります。

「精神」は、もとはガッサンディが彼をからかうために使った呼び名でした。デカルトは、それを引き受け、論証を一つ防ぐのにも使います。精神だけだと言うのですね。結構です。形あるものからそこまで離れた精神なら、以前に誰かが存在したかさえ、本当に知りません。ならば、持ち出された古人も、この精神には効かないのです、と。

冗談を論駁したのではありません。その役の中に入り、それを自分のために働かせました。

終わりの一文

終わりに近づくと、彼はいったん立ち止まり、このやり取り全体に名前をつけます。結びは二文です。

まず、ここまでは精神が肉体と議論し、当然ながら多くのところで同意しなかったが、もう終わりなので、今は本当のガッサンディを認め、きわめて優れた哲学者として仰ぎ、率直な心と正しい生き方で知られる人として抱擁し、これからはできるだけその友情を得たいと望む、と。

ここで、精神と肉体は、本人によって二つの役とされます。本当の相手は、そのどちらでもなく、名前を持つ一人の人でした。

次の文では謝ります。しかし、謝る文は、そこで終わりません。

だから、反論に哲学上の自由を使ったことを許してほしいと願い、相手の反論にあるものはすべて心から受け取ったうえで、そのうち嬉しいことの一つは、これほど名高い方が、これほど長く、これほど注意して書いた論考で、私の論証に届く議論は一つもなく、結論に触れるものも、きわめて容易に答えられないものは一つもなかったことだ、と。

謝罪、受け取ること、戦果が、一文にあります。相手の反論から受け取ったものの一つとして、戦果を報告するのです。

「これほど名高い」「これほど長い」「これほど丁寧な」。そうした言葉はすべて、戦果を報告する後半にあります。この文の後半では、語り手自身が秤を握っています。相手に重みがあるほど、一つも届かなかったという報告も重くなる。前の文の「きわめて優れた哲学者」が、ここでは「これほど名高い」と響き合います。賛辞は結びの挨拶にとどまらず、そのあとの勝利宣言にも重みを添えています。

第一篇で見た一手です。序文では人数と多様さ。アルノーへの答えでは攻めの厳しさ。ガッサンディへの答えの冒頭では機敏さ。三か所で、相手の重みを使って量ったのは、触れられなかった部分でした。今回は、相手が実際に言ったことを量っています。届いたかどうかは、彼の判断です。その反論は、前に印刷されています。

試合のあとの一言

試合が終わり、勝った人がマイクの前で言います。これまで出会った中で、最も強い相手でした、と。

本心かもしれません。同時に、その言葉はもう一つのこともしています。相手が強いほど、勝利の価値が増す。話す本人がそこまで考えていなくても、その働きはあります。

だからといって、聞く人が偽善だと言うわけでもありません。心からの敬意と、確かな勝ちとして認めてほしい勝利。二つは、並んで語れるものなのです。

結び

このやり取りには、その先がありました。

ガッサンディは、そこでやめませんでした。デカルトの答弁へ、項目ごとに再反論する長い文章を書き、初めは友人のあいだだけで回しました。のちに友人ソルビエールが原稿を求め、一六四四年、アムステルダムで出版します。反論、答弁、再反論を一項目ずつ挟み込んだ配列でした。別にページを振った、デカルトの『省察』の再印刷も付いています。

デカルト自身は、その本を話題にするとき、「あの大きな本」と呼んでいます。

結果は、こうでした。デカルトの本には、ガッサンディの反論がある。ガッサンディの本には、デカルトの省察がある。精神と肉体は一通り争ったあと、互いに相手の一冊へ、とじ込まれたのです。

SAEと並べて読む · 任意の傍注

『SAE第一批判』には、誰にも、相手を単なる手段として扱う権限を与えない、という言葉があります。大事なのは「単なる」です。人の力を使うこと自体を禁じるのでなく、使うことしか残らないのを禁じます。結びには、一人の人を認める文と、その人の重みを量る文が並んでいます。それで「使うことしか残っていない」状態を免れたかどうかは、この一節だけではわかりません。これは傍注であって、論証ではありません。

関連するSAEの読みものへ
本文・版・出典

日本語版は、Non Dubitoに公開された中国語散文を底本に、読者へ向けて独立に書き直したものです。デカルトの原著や技術的な論文の全訳ではありません。元の英語版も英語の読者に向けた独立の文章で、簡体字・繁体字の中国語版には全文があります。引用や版の違いについての留保は各篇の校注に残し、参照した本文・編者の説明へのリンクを別に示します。SAEとの比較は文末の任意の傍注であり、本文の歴史的な議論を決着させる論証ではありません。

本文と版についての校注

主な箇所は、第二省察、第五反論の「考えるもの」に関する部分、それに対応する第五答弁と結びです。役としての呼び名も、著者自身の勝利宣言も、そのまま相手の人格への判決にはなりません。

呼びかけの回数と、ガッサンディの再反論を収めた本のページ数は、十分に明瞭な独立の照合が得られていません。本文は、所在を確かめられる反復と、互いの文章を収録した関係だけを残し、こうした正確な数字には論証を依存させません。