鑿構周期律 · アメリカ大統領シリーズ — 第08篇、全26篇
第8篇 リンカーン(上)――守り抜くために書き換える
この篇の目次
一 存続の答えを戦争に求める
前篇の終わりで述べたように、ブキャナンのあの冬、この構はすでに憲法上の袋小路に入り込んでいた。対立はあらゆる檻を破り、この構自身の論理からは、戦争以外の答えがもう出てこなくなっていたのである。リンカーンが就任した1861年3月から、奴隷解放宣言が効力を持つ1863年1月まで。この構は初めて、対立を受け入れて抱え込むことではなく、戦争によって、自らが存続できるかどうかに答えなければならなくなる。
この時期の歴史は、一人の偉人の意志がいかにして危機を押し返したかという物語に仕立てやすい。だが、そう書けば本当の構造を見失う。肝心なのはリンカーン個人の意志そのものではなく、同時に進み、互いに絡み合う二本の筋だ。一つは、生きるか死ぬかの危機にある連邦で、大統領が主導して戦時の行政権を急速に膨らませていく過程。もう一つは、できるだけ制度の周縁に置かれ、地方ごとの制度として扱われてきた奴隷制が、戦争の論理に押され、連邦の中心課題へと一歩ずつ入り込んでいく過程である。この間、リンカーンは連邦の分裂を認めないという立場を貫いた。しかし連邦を守るために用いた手段が、逆に、連邦と奴隷制の関係を書き換えていった。ここに本篇の本当の主題がある。この構を守り抜くには、ついにはこの構そのものを変えなければならなかった。
この要請には深い逆説が潜んでいる。この構が当初目指したのは、まさに閉じ切ることを求めず、対立を消し去ろうともせず、対立のためにいくつもの檻をつくり、そのなかで対立が公然と展開し続けられるようにすることだった。ところが今、その最も深い余項がすべての檻を破ってしまった。抱え込むという道は尽きている。残された道は一つ、戦うことだ。だが戦うとなれば、この構は、もともとの自分にはなかった姿を取らざるをえない。動員し、徴兵し、封鎖を行い、人身保護令状の効力を停止する戦時国家になる。そして、ずっと周縁に置き、正面から扱う勇気を持てずにいた余項に、手を触れなければならない。この構にとって、この戦争は外から与えられた試練であるだけではなかった。自分自身を書き換える行為でもあったのである。
ここで、歴史を語るうえでの歯止めを一つ置いておきたい。この時期を「まず連邦を守り、次に奴隷制を廃止した」という一本道の物語にしてはならない。より正確には、リンカーンは公の発言では長く連邦の維持を前面に掲げていたが、戦争そのものが実行可能な政策の境界を絶えず動かし、奴隷制に反対する政策を、周縁的な手段から戦争目的の一部へと押し上げていったのである。
二 就任時の危機とサムター要塞
1861年3月4日、リンカーンが就任の宣誓をしたとき、連邦の危機はもはや潜在的な危険ではなかった。現実に国が割れていた。正式な就任に先立ち、すでに七つの奴隷州が連邦を離れ、モンゴメリーに南部連合政府を樹立していた。そのため、最初の就任演説には二つの仕事が同時に託された。一方では、すでに奴隷制のある州でそれに干渉するつもりはないと明言し、南部をなだめる。他方では、州が一方的に連邦を離脱することの合法性を、きっぱりと否定する。演説の終わりにある「われわれは敵ではなく、友人なのです」という言葉は、抽象的な感傷ではない。既存の奴隷制には干渉しないことと、連邦は分裂させないこと。その二つの間で、憲法秩序に残された最後の均衡を保とうとする言葉だった。
リンカーンはサムター要塞へ大軍を直接送り込むのではなく、まず糧食だけを補給する計画を立て、要塞の守備隊とサウスカロライナ州知事にあらかじめ知らせた。州知事への通知では、補給が妨げられないかぎり、別途の通知なしに兵員、武器、弾薬を送り込むことはなく、ただし要塞が攻撃された場合は例外とした。これはきわめて政治的な策だった。先に武力を使う責任を、できるかぎり南部連合の側に負わせようとしたのである。南部連合は守備隊に撤退を要求し、拒まれると1861年4月12日の明け方に砲撃を始めた。約34時間後、守備隊の司令官は降伏した。南部が先に撃ったことの政治的意味は大きい。これによってリンカーンは、離脱の是非をめぐる論争だった危機を、反乱を鎮圧するために北部をより広く動員する機会へと変えることができた。
サムター要塞が陥落すると、リンカーンは4月15日に召集令を出し、各州に計7万5千人の民兵の提供を求めた。この瞬間、それまで離脱していなかったアッパーサウス、南部北縁の諸州は情勢を見直した。ヴァージニア、アーカンソー、テネシー、ノースカロライナが相次いで連邦を離脱する。対立を抱え込もうとするこの構の言葉は、ここで完全に、強制の論理に道を譲った。
三 短期決着の幻想が崩れ、境界州が足かせになる
第一次マナサスの戦いは、短期間で反乱を鎮圧できるという幻想を打ち砕いた。1862年秋のアンティータムに至ると、戦場の現実はいっそう苛酷になる。アンティータムの死傷者・行方不明者の総数には、資料によって多少の違いがある。よく用いられる公式の集計では2万2700人余りだが、2万3千人以上とする数え方もある。いずれの数字を採るにせよ、アメリカ史上、一日で最も多くの死傷者・行方不明者を出した戦闘だったという点では、広く認識が一致している。
初期のリンカーンの反奴隷制政策を実際に縛っていたのは、戦場だけではない。境界地帯の奴隷州もまた、大きな制約だった。メリーランド、ケンタッキー、ミズーリ、デラウェアが連邦にとどまることは、初期の政治計算すべてを支える条件の一つだった。1862年7月12日、境界州選出の議員たちに宛てた訴えで、リンカーン自身、彼らには同数のほかのどの議員たちにもまして、事態をよい方向へ動かす力があると明言している。1861年から1862年にかけて、リンカーンの反奴隷制政策は、さらに優先される一つの条件に従わなければならなかった。境界州を南部連合の側につかせては、絶対にならなかったのである。
この制約それ自体が、この構の最も深い余項の両面性を、戦時において鋭く示している。境界州は、連邦に残った奴隷州だった。リンカーンがそれらをつなぎとめようとするなら、この戦争を奴隷制そのものに向けられた戦争に見せるわけにはいかない。そう見えた瞬間、いつ南部側に転じてもおかしくなかった。最も深い余項は、戦争によって、もはや扱わずにはすまないところまで追い込まれてもなお、自分なりのやり方で、自分がどう扱われるかを制限していたのである。
リンカーンが当初、戦争の目的は連邦を守ることであって、直接の奴隷制廃止ではないと公言し続けたのも、そのためだった。1862年8月22日、新聞人ホレス・グリーリーに宛てた手紙で、彼は、この闘争における何にもまして重要な目標は連邦を救うことであり、奴隷制を救うことでも壊すことでもないと書いている。この手紙が置かれた政治的な文脈は決定的に重要だ。公開の言論の場に出された手紙であり、境界州と北部の保守的な支持者を引き続きつなぎとめる必要に応えたものだった。歴史の読み方にも修正が要る。この手紙を、リンカーンは奴隷制廃止など気にかけていなかったという本音の告白として、機械的に読むわけにはいかない。なぜなら、その一か月前の7月22日、彼はすでに奴隷解放宣言の草案を閣議に示していたからである。
四 戦時大統領権限の拡大
制度の歴史として1861年を見るとき、ひときわ注目すべきは、リンカーンが連邦議会の休会中に重大な戦時措置を次々と先行させ、後から議会に追認を求めたことだ。4月15日に7万5千人の民兵を召集し、4月19日には最初に反乱を起こした七州の港湾封鎖を宣言した。さらに4月27日、フィラデルフィアからワシントンに至る軍事上の連絡路沿いで、必要に応じて人身保護令状の効力を停止する権限を軍に与えた。7月4日の特別教書では、自分は「国民の要求と公共の必要に迫られ、危険を承知で行動した」と公に認め、これらの措置は「厳密に合法であったかどうかにかかわらず、まず実行し、そのうえで議会の承認を求めるものだった」と率直に述べている。
人身保護令状をめぐる争いは、この時期の大統領権限の拡大を最もよく表す事例だ。1861年4月27日、リンカーンが最初に認めたのは、必要がある場合に、フィラデルフィアからワシントンまでの一帯でこの保障を停止することに限られていた。その後に起きたメリーマン事件は、最高裁判所全体による正式な判決ではない。首席判事トーニーが、巡回裁判の判事として扱った事件だった。トーニーの主張の核心は明瞭である。大統領が一方的に人身保護令状の効力を停止することはできず、その権限は議会にしかない。また軍は、軍法の管轄下にない一般市民を軍事犯扱いして長期間拘束する権限を持たない。もし大統領がこの保障を停止できるのなら、アメリカ大統領は英国の王権をも上回る専断的で絶対的な権力を手にすることになる、とトーニーは書いてさえいる。
しかし、さらに重要なのは、トーニーの見解を受けても、リンカーンが政策を撤回しなかったことだ。7月4日の教書で彼は、公然と弁明した。憲法はたしかに、反乱や侵略の際にこの保障を停止することを認めている。ただ、どの部門がそれを行使するのかを明記していないのだ、と。この構は例外状態の権限を誰に帰属させるか、あらかじめきれいに決めておかなかった。あるいは、決めておくことなどできなかったのかもしれない。できたのは、後から議会が追認し、平常どおり選挙を行うことで、大統領が先んじて行使した例外的な権力を、もう一度、抑制と均衡の枠のなかへ引き戻すことだった。
こうした一連の戦時権限の拡大をめぐって、歴史研究の議論は今なお完全には収まっていない。初期の古典的な議論は、しばしばリンカーンを「立憲的独裁」の範疇に入れてきた。その後は、この見方を修正しようとする研究が増えている。リンカーンは選挙を廃止せず、議会を取り払わず、立法による承認を繰り返し求めたのだから、本来の意味での独裁体制と単純に同一視はできない、というのである。本篇で大切なのは、どちらかに軍配を上げることではない。避けられない憲法上の賭けであり、危険な越権の先例であり、形式を残したまま権力の実質を膨らませる危機への対処でもある。これらの解釈を、並べて見ておくことだ。
ここで、本シリーズがずっと追ってきた筋につなぎ直そう。ワシントンは先例を使い、ジェファソンは既成事実の引力を使い、ジャクソンは民意からの直接の授権を使った。ポークは国境での一件の衝突を戦争の始動に使った。そしてリンカーンに至り、行政権の拡張は戦時の一つの頂点に達する。ただし、アメリカのこの構にとって、とりわけ重要な違いがある。リンカーンの権限拡大は激しかったが、つねに制度の形式の内側にとどめられた。選挙は平常どおり行われ、議会は平常どおり開かれて追認し、裁判所は平常どおり異論を発した。閉じ切ろうとする衝動は戦時に増幅されたが、その衝動がこの構そのものになることまでは許されなかった。ここに、真の独裁体制との決定的な境界がある。
五 戦争禁制品から没収法へ
この時期を貫く一つの筋が大統領権限の拡大だとすれば、もう一つは、奴隷制が戦争のなかで、地方ごとの制度から連邦の戦争政策の中心へと移っていく過程だ。その最初の切り口となったのは、抽象的な道徳宣言ではない。いわゆる「戦争禁制品」だった。
1861年5月、ヴァージニアのモンロー要塞で、バトラー将軍は、連邦側の防衛線へ逃げ込んできた人々を南部の奴隷所有者に返すことを拒んだ。彼らは没収できる「戦争禁制品」だとしたのである。この扱いによって、連邦は厄介な問題に手をつけざるをえなくなった。奴隷は財産であると同時に労働力であり、さらには自ら行動する主体にもなりうる。戦争が始まるや、この構は戦争の実際の必要に迫られ、ずっと周縁に置いてきたものに触れなければならなくなったのだ。
バトラーの「戦争禁制品」という言い方自体、よくよく味わってみる価値がある。これは道徳的判断ではなく、法律と軍事の技術的な分類だった。この人々は自由であるべきだと言ったのではない。敵が戦争に使っている財産だから没収できる、と言ったのである。ところが皮肉なことに、人間をなお財産として扱うこの論理こそが、初めて制度の内側から、古い枠組みをこじ開けた。没収したこの財産をどう扱うのかと問い始めれば、ある事実から逃げられなくなるからだ。彼らは財産だけではない。自分の足でこちらへ逃げてきて、働き、どちらにつくかを選ぶ人間なのである。
続く二つの没収法が、この変化を一歩ずつ制度にしていった。第一次没収法は1861年8月6日に成立し、反乱を支えるために使われていた逃亡奴隷について、南部連合側の所有者が権利を主張することを認めなくした。第二次没収法は1862年7月17日に効力を持ち、反乱者の奴隷は自由を得られるとさらに踏み込んだうえで、大統領が必要かつ適切と考えるかぎり、アフリカ系の人々を可能なかぎり多く雇い入れる権限を認めた。
ここでは、この出来事が構造として何を意味するのかを見定めたい。最も深い余項が中心へ入ってきたのは、当初、道徳上の転換があったからではない。戦争のために何を手段として使えるかという論理によってだった。連邦が奴隷を扱い始めたのは、まず彼らが南部連合の労働力であり、戦争遂行能力の一部だったからである。その労働力を奪えば敵を弱らせられる。この構が、避け続けてきた余項に触れたのは、突然道徳に目覚めたからではなく、戦争にそうすることを強いられたからだった。しかし、いったん手を触れれば、もう後戻りはできなかった。
六 奴隷解放宣言――戦争のための措置
予備的な奴隷解放宣言が出されたのは1862年9月22日、アンティータムのちょうど五日後である。ここには、必ず一緒に記しておくべき三つの要点がある。第一に、リンカーンはなお、憲法に基づく関係を実際に回復することが戦争の正式な目的だと述べていた。第二に、反乱中の州が1863年1月1日までに連邦へ復帰しなければ、その域内の奴隷はその日から永久に自由になると宣言した。第三に、それと同時に、境界州での補償付きの奴隷解放と、国外への植民・移住という二つの方針を語る言葉も、なお残していた。
最終版の奴隷解放宣言は1863年1月1日に発効した。その法的な性格は、きわめて明確に書かれている。リンカーンは「陸海軍の最高司令官として与えられた権限」に基づき、「前記の反乱を鎮圧するための、適切かつ必要な戦争措置として」この命令を発した。つまり法律と憲法の次元では、これは何よりもまず戦争のための措置であり、通常の民事法としての全国的な奴隷制廃止法令ではなかったのである。
さらに重要なのは、適用範囲が厳密に限られていたことだ。アーカンソー、テキサス、ミシシッピなどの反乱地域を名指しする一方、ルイジアナのいくつかのパリッシュ(郡)とニューオーリンズは明確に除外した。のちにウェストヴァージニアの一部となる48郡、さらにヴァージニアのうち、すでに連邦の支配下にあったいくつかの郡と都市も除外された。したがってこの宣言は、境界奴隷州の奴隷を解放したわけではない。また、すでに連邦の支配下にあり、適用から除外された南部地域の奴隷を、その場で解放したわけでもなかった。
ただし、限界があったということは、効果がなかったということではない。これこそ先ほどから繰り返し述べてきた両面性であり、両方を同時につかまえておかなければならない。この宣言は戦争の性格を根本から変えた。その変化は通常、三つの効果が重なったものとして説明される。南部連合を支える労働力の基盤を弱め、連邦軍の作戦と兵員募集の論理を変え、ヨーロッパ、とりわけ英国の世論のなかで、「これは奴隷制をめぐる戦争なのだ」という理解を強めた。その結果、南部連合を正式に承認する余地は、さらに狭まったのである。
奴隷解放宣言が法的にはまず戦争措置だったということは、その効力が戦争と結びついていたということでもある。戦争が終わり、この権限の根拠が消えれば、それがもたらした自由まで揺らぎはしないか。戦時の便宜として行ったことは、平和が戻ってもなお成り立つのか。これこそ、この構が次に向き合わなければならない問いだった。その答えは、憲法修正第13条を待たなければならない。
七 解放された者が、解放する者になる
最も深い余項が中心へ入ってきた。その制度上の帰結として、とりわけはっきり目に見えたのが黒人の従軍だった。奴隷解放宣言は、条件を満たす者を合衆国の軍務に受け入れるとはっきり宣言している。終戦までに、約17万9千人のアフリカ系アメリカ人が連邦側の陸軍に、さらに約1万9千人が海軍に従軍した。合計は19万8千人近くに達する。
戦争禁制品から没収法へ、そして奴隷解放宣言と黒人の従軍へ。もともと財産の名のもとに扱われていた奴隷たちは、連邦の戦争遂行能力の一部として、さらには将来の市民としての資格を求める主張を担う存在として、国家の中心に組み込まれ始めた。解放された者が、解放する者になったのである。そして黒人兵の参加は、市民としての地位と政治的権利を求める彼らの主張を、著しく強めた。本シリーズを貫く最も深い筋が、ここで初めて向きを反転させる。これまでのどの篇でも、あの余項は排除され、押し戻され、周縁へ追いやられてきた。ところが今、かつて政治共同体から締め出されていた人々が、武器を手に取り、連邦のために戦うことによって、一歩ずつ自らをその共同体の中心へと押し進めている。
とはいえ、ここもきれいな右肩上がりの曲線には描けない。黒人兵は軍のなかで長く不平等な扱いを受け、給与は白人兵より低く、捕虜になれば黒人ゆえの危険にもさらされた。最も深い余項は、中心に入り込む途上でも、これまで背負ってきた不平等をなお伴っていたのである。「すべての人は平等である」という言葉は、黒人兵たちが命を懸けてそのために戦っていたそのときでさえ、彼らに対して本当の意味で、完全に果たされていたわけではなかった。
八 結び
1861年から1863年までの歴史を本シリーズのなかに置き直したとき、何より覚えておきたいのは、全篇を貫くあの見立てだ。守り抜くために、書き換える。
この構は初めて、対立を抱え込むことではなく、戦争によって存続できるかどうかに答えた。そして、自らを守るために行ったことは、絡み合う二本の筋に分かれている。一つは、戦時の行政権の拡大だ。本シリーズで見てきた、行政権が押し広げられていく長い流れは、戦時の一つの頂点に達した。だがこの構は、その膨張を扱うにあたり、すべての抑制と均衡を廃した非常体制に自分を変えてしまうことはなかった。選挙は平常どおり行われ、議会は平常どおり追認し、裁判所は平常どおり反対した。異論を押しつぶして閉じ切ろうとする衝動は、戦争によって増幅されはしたが、つねに制度の形式の内側につなぎとめられていた。
もう一つは、最も深い余項が周縁から中心へ押し出されていく筋である。戦争禁制品という財産の論理から、二つの没収法へ。そこから戦争措置としての奴隷解放宣言へ、そしてついには黒人の従軍へ。この構が何世代にもわたって避けてきた奴隷制が、初めて、戦争によって連邦のど真ん中へと押し込まれた。ただし大切なのは、この書き換えが当初、道徳的な覚醒から生まれたのではなく、戦争のために使えるものを使うという論理から生まれたことだ。戦争が、この構を、ずっと避けてきたものに触れざるをえなくしたのである。
リンカーン本人を評価するときも、奴隷解放宣言を評価するときも、二つの面を一緒につかまえておかなければならない。リンカーンは気の進まない解放者だったのか、それとも奴隷制に断固として反対する人物だったのか。歴史研究には、少なくとも混同すべきでない三つの解釈がある。一つは彼のためらいと保守性を重く見る。もう一つは、彼は慎重だったが、しぶしぶ解放したわけではないと見る。さらにもう一つは、彼も共和党の人々も初めから、奴隷制を制限することを連邦を救う仕事の一部と考えていたと見る。三つから一つを選ぶより、並べて捉えるほうがよい。
次に描くのは、この戦争がどのように終結へ向かったのか、そしてこの構が、戦争措置よりもさらに徹底したやり方で、最も深い余項との関係を書き換えようとした過程だ。「自由の新たな誕生」という言葉がゲティスバーグで語られる。一つの憲法修正条項が、解放を戦時の便宜から恒久的な憲法上の保障へと変えようとする。そして一発の銃弾が、すべてが始まったばかりのそのとき、この構をここまで導いてきた人物を撃つ。それが、リンカーンの物語の後半である。