鑿構の周期律 · 古生物 · 09

エディアカラ:どのマスにも収まらない

葉やマットレスのような生命は、なぜ今もなじみの分類に収まらないのか。

秦漢 · 読了の目安:約42分 · 公開日

一 15歳の少年

1957年の春。イングランド中部、レスター近郊のチャーンウッドの森でのことだ。15歳の少年が友人2人と岩登りに出かけ、使われなくなった採石場の岩壁に、葉の形をした跡を見つけた。長さは20センチ余り。中央に軸が1本通り、その両側に枝が規則正しく並んでいる。羽根にも、シダの葉にも見えた。

少年の名はロジャー・メイソン。彼は拓本を取って家に持ち帰った。父親は地元の牧師で、レスター大学の地質学者トレヴァー・フォードと面識があった。

フォードは現地を訪ね、翌年、正式に論文を発表して名前をつけた。属名はチャーンウッドから、種名はメイソンにちなんで、チャルニア・マソニ。この化石は今もレスターの博物館に展示されている。メイソン自身も後に地質学者になり、晩年には武漢の中国地質大学で教えた。

最初にそれを見たのは、メイソンではない。その前年、同じく15歳だった少女ティナ・ニーガスも、同じ森でよく似た跡を見つけていた。

学校に戻って先生に尋ねると、あそこの岩石は先カンブリア時代のもので、先カンブリア時代の岩石に化石はない、と言われた。彼女はそれ以上尋ねなかった。その経験がこの化石の発見史に書き加えられたのは、半世紀も後のことだ。

さらに20年ほど前にも、レスターには週末になると自転車で田舎へ化石を探しに行く少年がいた。父親はレスター・ユニバーシティ・カレッジの学長。その少年が、後に自然ドキュメンタリーを撮るデイヴィッド・アッテンボローである。

晩年の彼は、チャーンウッドで探そうと思ったことは一度もなかった、と語っている。あそこの岩石は先カンブリア時代で、何も入っていない。それは誰もが知っていたからだ。彼には第四節でもう一度登場してもらう。

その「誰もが知っていた」ことには、出どころがある。ダーウィンも『種の起源』で頭を悩ませていた。カンブリア紀の化石は、出てきたときからすでに複雑なのに、その下には何もない。

20世紀半ばには、カンブリア紀より前の地層に、大型で複雑な構造をもつ生物がいるはずはない、というのが教科書の常識になっていた。「先カンブリア時代の大型化石」は、その空白に真っすぐ落ちてきた。

それ以前にも、似たものは何度となく報告されていた。そのたびに、返ってくる言葉は二つだった。地層の年代を間違えたのだ。それとも、そもそも生物ではないのだ。

1868年、現在はカナダの一部であるニューファンドランドで、円盤状の跡が見つかった。1872年には、カナダ地質調査所の古生物学者ビリングズがそれらに名前をつけている。その地層は、当時、あらゆる複雑な生命より古いと考えられていた。後の研究者たちは、その円盤を無機的な団塊と解釈するほうを選んだ。

この名前が再び確かな足場を得るには、20世紀末のタイプ標本の再調査を待たなければならなかった。1930年代前後には、ドイツの研究者が南西アフリカ、今のナミビアで、大型の軟らかい体の化石をいくつも記載した。だが、先カンブリア時代の大型動物を受け入れる枠組みがなかったため、これらの標本は長いあいだ、カンブリア紀のものとして理解されていた。

突破口に最も近づいたのは、1946年のオーストラリアでの発見だった。27歳の地質学者スプリッグは、南オーストラリアのフリンダース山脈にあるエディアカラ丘陵で、いくつかの廃坑が再び採掘に使えるかどうか調べていた。

昼食を取ろうと腰を下ろし、砂岩を1枚ひっくり返したとき、その表面の円盤状の跡に気づいたという。1947年に発表した論文の題名には、フリンダース山脈の前期カンブリア紀のクラゲ、とあった。ただし、「前期カンブリア紀」の後ろに括弧が一つ。その中に、疑問符が一つ。その疑問符には、相いれない二つのことを同時に信じていた一人の人間が刻まれている。これはどう見ても古すぎる。だが、そこまで古いはずはない。

チャーンウッドで事情が違ったのは、化石が見つかる前に、その岩層の年代がすでに決まっていたことだ。根拠は地域の地層どうしの関係と、上下の岩層との対比だった。化石は一つも使われていなかった。

年代を決める証拠と、化石そのものの証拠が、互いに独立していた。 「実はその地層もカンブリア紀だった」という逃げ道は、ここでは使えない。残る道は二つしかなかった。先カンブリア時代にすでに大型で複雑な生物がいたと認めるか、この跡は生物ではないと証明するか。あの葉のあまりに規則的なつくりは、後者の道も険しくしていた。

一つの珍品をめぐる話を、海底全体の問題へと変えたのは、ニューファンドランドだった。1967年、ニューファンドランド・メモリアル大学のインド出身の大学院生ミスラが、アヴァロン半島南岸で先カンブリア時代の地層を測量していたとき、海辺の岩の表面に、何百、何千という化石を見つけた。その一帯はミステイクン・ポイント、「取り違えられた岬」と呼ばれている。名の由来は、昔の海難事故だ。霧の日、船長たちはここを近くの別の岬と見誤り、舵を切ったとたんに暗礁に乗り上げた。

そこでは多くの層の表面が、一瞬にして火山灰に覆われていた。ポンペイのように、群集まるごと、その場で埋まったのだ。残されたのは海底のスナップ写真だった。同じ層の表面にいる個体は、みな同じときに生きていた。

だから密度を求め、並び方を調べ、大きさの分布を比べられる。ミステイクン・ポイントは2016年に世界遺産に登録された。もう一つの宝庫が、ロシアの白海沿岸の崖だ。こちらの研究は1970年代に始まった。

その崖では毎年、春になって雪と氷が解けると、表面が一層崩れ落ち、新しい化石の層が現れる。かつてそこは浅い海だった。個体の保存は精細で、体と、その持ち主の行動の跡とを、同じ層の表面でつなぎ合わせることができる。

この時代自体が正式な地質年代の単位になったのは、ようやく2004年のことだった。始まりを定める標準断面には、南オーストラリアのフリンダース山脈にある沢筋が選ばれた。岩肌には銅製のプレートが埋め込まれ、約6億3500万年前という境界線の位置を示している。国際地質年代表に新しい「紀」が加わるのは、およそ120年ぶりだった。その名が、エディアカラ紀である。

年代は決まった。だが、何の仲間なのかは決まらない。同じ時間の枠の中に、まったく異なる体がいくつも並んでいる。今回は、人々がそれらを何度も分類のマスに入れようとしてきた話、そして、なぜそのマスにはいつも収まりきらないのかという話をしよう。

二 そこにいたもの

まずは何の仲間かを急がず、見えるものを記述してみる。

早くから見分けられた大きな一群に、チャルニアのような葉状の体がある。今ではまとめてランゲオモルフ類と呼ばれている。名前はナミビア産のランゲア属に由来し、ランゲアという属名は、その土地で調査をしたドイツの地質学者ランゲにちなむ。

いちばん重要な特徴は、同じ単位を入れ子状に繰り返して、体がつくられていることだ。主軸から一次の枝が伸びる。その枝自体が、全体と同じ形をした二次、三次、時には四次の小さな枝からできている。

小さな一部分を拡大しても、やはり全体と同じ姿に見える。樹木の小枝と幹は同じ形ではない。ところが、この化石では、どの段階の単位も同じ模様を繰り返している。

定量的な研究で求められたフラクタル次元は、属によって異なり、およそ1.6から2.4のあいだにある。限られた厚みの中へ、表面積をきわめて大きく詰め込んでいたことになる。今のサンゴやウミウチワ、菌糸体、植物にも、枝分かれした姿になるものはある。だが、一段ごとに全体を複製し、それをさらに入れ子にしていくこのつくり方は、どれにもない。

植物には似ているが、日の光で暮らしていたわけではない。ミステイクン・ポイントの群集は、水深数百メートルより深い、光の届かない海にいた。あれほど広い表面は、むしろ海水に溶けた栄養分や酸素を吸収するためだった可能性が高い。

繁殖もしていた。2015年、ケンブリッジの研究者たちは、森林の樹木分布を分析する統計手法を借り、ニューファンドランドの三つの岩面で、1000を超える個体の位置を測った。すると、ある紡錘形の葉状体は塊になって生え、塊ごとに大きな個体のまわりを小さな個体が取り巻いていた。イチゴがランナーを伸ばして新しい苗を増やす、その並び方によく似ていた。

葉状の仲間の大きさには、かなり幅がある。数センチほどのものもいれば、葉状や紡錘状の体の一部はメートル単位にまで育ち、極端なものでは2メートル近くになる。

平たく、卵形で、横に筋の走る仲間のうち、ひときわ目を引くのがディッキンソニアだ。スプリッグが、当時の南オーストラリアの鉱務局長ディッキンソンにちなんで名づけた。中国語名に「水母」、つまりクラゲという語が残っているのは、初期の見立て違いの名残である。

長さ4ミリ未満のものから約1.4メートルのものまであり、体全体は薄く平たい。縦の軸に沿って肋骨のような単位がずらりと並び、楕円形のエアマットに見える。同じ層の表面を、爪ほどのものから洗面器ほどのものまで、大小の個体が埋め尽くしていることも珍しくない。そのおかげで、成長のしかたが見えてくる。新しい単位を片方の端に一つずつ足し、すでにある単位は、体とともに横幅を広げていった。

左右の二列が厳密な鏡像なのか、それとも少しずれているのかは、ずっと議論の的だった。小さな違いに聞こえるが、その重みは大きい。厳密な鏡像なら、環形動物にあるような体節の特徴にあたる。

左の単位が、右の二つの単位の隙間に向かい合う。そんな並び方は、今の動物にはほとんど見られない。だから横筋が見えたとしても、まず、どんな横筋なのかを見なければならない。

三放射相称の仲間を代表するのは、トリブラキディウムだ。ふつうは直径数ミリから5センチほどの、浅い浮き彫りのような円形で保存される。中央には曲がった主腕が3本あり、およそ120度ずつ間をあけ、みな同じ向きにねじれている。3枚羽根の風車のようだ。

流体力学のシミュレーションでは、この体が水流を乱し、水中の粒子を特定の場所へ落とせることが示されている。現生動物には、左右相称にも、放射相称にも、五放射相称にも、収まる分類群がある。五放射相称なら、ヒトデやウニの属する門だ。だが、成体の体が三放射相称になる門は、現生動物には一つもない。

はっきりと左右対称で、しかも摂食の跡と結びついているのが、キンベレラである。名は、若くして亡くなった化石採集者キンバーにちなむ。1964年、オーストラリア中部へ向かう調査の途中で遭難した人だ。体は楕円形から洋ナシ形で、前後も左右もあり、大きいものは10センチ余りになる。

その体の化石と繰り返し一緒に見つかるのが、扇状に並んだ、対になった引っかき跡だ。一本ごとに半径を変えている。人が一か所に座り、目の前の地面を熊手でかき、ひとかきするたびに少しずつ向きを変えたように見える。かいていたのは、海底の微生物マットだった。何より大事なのは、この跡がしばしば一体の死骸へ直接つながっていることだ。誰がかいたのかが見える。

生痕化石の大半は、誰が残したのかわからない。体と跡が結びつけば、得られる情報は一段増える。何かが動いたとわかるだけではない。餌を取った方向、動作の繰り返し、使った器官がどのように地面に触れたかまで読み取れる。ただ、その餌をかき取る器官そのものは、化石に残っていない。

泥に半ば埋まっていた仲間もある。ナミビアのエルニエッタは、袋や杯の形をした立体的な体をもつ。多くの個体が、半分を堆積物に差し込んだ姿勢で保存されている。復元するなら、泥の中に立つ姿で描かなければならない。

この仲間は、ほかのいくつかの化石と一緒に論じられることが多い。どれも、キルティングや管の列、仕切られた部屋を思わせる姿をしているからだ。格子状に縫い目を入れた敷き布団のように見える。まとめて扱われる理由は、その見た目の近さだけである。

管状の化石は、最も雑多な顔ぶれだ。細長い軟らかな管が群れたもの、有機物でできた数センチほどの管、そして杯形の管節が一つずつ重なり合ったクラウディナ。クラウディナではすでに鉱物化が起きていて、硬い殻をつくった動物としては最古級のものの一つだ。名は、アメリカの古生物学者クラウドにちなむ。

生痕化石は、少しずつ複雑になっていく。 早い時期の層にも、表面を引きずっただけの跡や、マットの下で餌を取った跡はある。約5億5100万年前から5億3900万年前になると、連続して移動したことがより明確にわかる跡や、浅い潜り穴が現れる。エディアカラ紀の生痕の大半は、微生物マットの表面か、そのすぐ下、数ミリから数センチの浅いところに限られていた。堆積層全体を大規模にかき混ぜるまでには、まだ至っていない。

最後に、数字を二つ。肉眼で見える大型の化石記録全体では、大きさに少なくとも3桁の開きがある。数ミリから2メートル近くまで。「エディアカラ生物」に典型的なサイズはない。

属や種の数にも、決まった整数の答えはない。専門のデータベースでは、記載された大型生物はおよそ200種とまとめられている。過去の命名をより広く拾った一覧では、属名は約247。そのうち整理者が有効とみなしたものは約164属で、同物異名や正体の定まらない化石も数多く交じっている。

命名には、人の足跡も残る。2018年、南オーストラリアで見つかった小さな円盤は、退任して間もないアメリカ大統領にちなんでオバムスと名づけられた。同じ年、レーズンほどの楕円形の小化石には、アッテンボリテスという名がついた。子どものころ、チャーンウッドへ化石を探しに行かなかった、あの人にちなんでいる。ある仲間がいくつの成員をもつかは、いくつの名前を有効と認めるかで変わる。そしてその判断は、今も書き直され続けている。

三 入れられてきたマス

最初の段階では、一つずつ、今の動物の門の中に似たものを探した。

1947年、スプリッグは南オーストラリアの円盤状の体を、そのままクラゲとして記載した。発見を『ネイチャー』に送ったが、掲載は断られた。翌年、ロンドンの国際地質学会議で報告しても、ほとんど誰も取り合わなかった。

転機をもたらしたのは、オーストリア生まれで、アデレード大学で教えていたグレースナーだった。1950年代の終わり、彼はエディアカラ丘陵の化石を世界各地の似た標本と比較し、それらがカンブリア紀以前のものだと確かめた。スプリッグ自身は後に石油探査へ転じ、さらにフリンダース山脈の北端に牧場を買い、野生動物の保護区にした。

その後20年余り、グレースナーと同僚たちの基本的な考え方はこうだった。円盤や放射状の体は、クラゲのような腔腸動物。葉状の体はウミエラ。左右に単位を繰り返す平たい体は、環形動物か節足動物。この枠組みが魅力的だった理由は単純だ。現代の門に属する初期の仲間が先カンブリア時代にすでにいたのなら、奇妙な姿は「見慣れた動物が、不完全に保存されたもの」で説明できる。

ディッキンソニアは、はっきりと環形動物に分類されたことがある。1966年には横方向に繰り返す単位が体節だと解釈され、1972年にはゴカイのような多毛類として復元された。ところが、後に見つかった大量の標本にも、確かな口、肛門、腸、疣足は見えず、内部の体節も確認できなかった。左右の「体節」まで、食い違っている可能性がある。

チャルニアの仲間は、長いあいだウミエラに入れられていた。どちらにも主軸があり、その両側に「葉」が繰り返し並ぶ。遠目にはよく似ている。ウミエラは刺胞動物で、一本全体が多数の小さなポリプからできている。一つひとつのポリプには触手と口がある。今も深海の泥底に群れをなして立ち、触れると光るものもいる。

だが、チャルニアの枝は、さらに小さな自己相似の単位からできている。ポリプは一つも見つからない。遠くからは似ていても、近づけば、つくり方がまるで違う。

こうして「現代の門の祖先」たちは、一つずつその座を退いた。どの例でも、何かの判定基準が通用しなくなっていた。初期の研究がいちばんよく頼ったのは、輪郭を見比べることだった。円盤はクラゲに、羽のような葉はウミエラに、横筋は環形動物の節に似ている。

現代の系統解析が求めるのは、ほかの分類群と比較できる相同形質だ。第二篇で、この区別を説明した。似ているのは、共通祖先から受け継いだからかもしれないし、別々に進化して似た姿になったからかもしれない。系統樹をつくるのに使えるのは前者だけだ。エディアカラの型取り化石の多くには、外形と反復する単位、表面の模様しか残っていない。「似ている」が使えなくなると、門を判定できる形質は、ほとんど残らない。

第二の案は、土台からつくり直した。ドイツのテュービンゲン大学で、生涯を生痕化石の研究に費やしたザイラッハーは、1989年前後、これらの生物を動物界と並び立つ、すでに完全に絶滅した大きな分類群だと提案した。後に、ヴェンド生物と名づけられる。

彼は、それらに共通する「エアマット」式のつくりを考えた。液体の入った小部屋が列をなし、一枚の薄い敷物を縫い合わせたように体を組み上げている。この議論には、機能の面から見て、明確な筋道があった。

多くの化石は大きいのに極端に薄い。小部屋を繰り返すことで、体積に対する表面積の比を大きくできる。しかも、確かな口や消化器系の見えない標本が多い。そこで彼は、溶けた有機物を体の表面全体で吸収していたか、共生微生物からエネルギーを得ていたのではないかと考えた。このモデルでは、広大な面積、わずかな厚み、繰り返す小部屋が、同じ生理的な制約から生まれたことになる。

この案の最大の難点は、それ自身にも全員が収まらないことだった。キンベレラは方向を決めて餌を取り、ディッキンソニアは移動し、食べた跡を残した。末期には硬い殻をもつ管状の動物までいる。「口をもたず、全身の表面で吸収する」という統一モデルには、これらを詰め込めない。葉状体だけを見ても、三次元復元によって、枝の一部は継ぎ目に沿って開いていたことがわかった。密閉した袋とは違う。

第三の案は、アメリカのオレゴン大学のレタラックから出た。1990年代から、典型的なエディアカラ化石の一部は地衣類に近いのではないかと主張し、2013年には『ネイチャー』に、南オーストラリアの化石を含む地層の一部は実は古土壌であり、これらの生物は陸上に暮らしていた、と発表した。

根拠とされたのは、層の表面の割れ目や団塊、土壌のような層の並び、そして土壌形成による変化と彼が解釈した同位体のデータだった。ディッキンソニアの一部は、押し固められた後にも大きな起伏を保っていて、軟らかな水生生物の死骸より、しなやかで丈夫だったように見える。

まず反論が出たのは、堆積学からだった。それらの化石層には波の跡があり、嵐によって運ばれた砂の層がある。海でできたことの明らかな地層へ連続しており、同じ生物の一部は、海成の石灰岩からも見つかる。

地球化学をめぐる争点は、その化学変化が土壌の形成でしか起こりえないものか、という点に集中した。初期の続成作用、海底の微生物マット、海の堆積物の隙間にある水でも、複雑な化学的分化は起こせる。このモデルには今も支持者がいるが、主流にはなっていない。

第四の案は、巨大な単細胞生物、あるいは多核生物というものだ。2003年には、エディアカラの海底を主に占めていたのは微生物マットと巨大な原生生物ではないかと提案され、一部の型が、現代の深海にいる巨大な有孔虫の仲間と結びつけられた。

実際、今の深海底には、一つの細胞で10センチ以上に育つ、この仲間の生物がいる。この案なら、口も腸も筋肉も必要ない。巨大で、多くの核をもち、薄くて表面積の広い体も受け入れられる。

難点は、分子系統学によれば、現生のその仲間が有孔虫の中でもずいぶん後になって枝分かれした一群だということだ。5億6000万年前の葉状体を直接そこへつなぐには、歴史を大幅にさかのぼらせなければならない。2011年には、この単純な対応づけを退ける論考が出た。ただし、小部屋に分かれた化石の一部が大型の原生生物である可能性までは、否定していない。

第五の案は、最も素朴だ。その跡の中には、そもそも一個の生物ではないものがある。2007年、いくつかの円盤化石を調べた研究者は、その一部が、マイクロメートル単位の糸状体が微生物マットの中で集まり、成長したものではないかと提案した。

ニューファンドランドの円盤は、最初、無機的な団塊とされた。その後も、円盤状の多数の「属」が、実は別々の葉状生物の付着盤だったり、同じ生物が異なる埋まり方をした姿だったり、微生物マットの構造だったりする可能性が示された。「円盤形の跡が一つあれば、円盤形の生物が一ついた」。これは、タフォノミー、つまり生物が化石として残る過程の研究によって、早くから破られた仮定の一つだ。

これらの案は、先の案を次の案が順に置き換えてきたわけではない。現代の動物の門、独立した大分類群、地衣類、巨大な原生生物、微生物の集まり。それぞれが、異なる属について部分的に成り立っている。むしろ、同じものの山に何枚もの網を同時にかぶせ、それぞれが一部分ずつを覆っているようなものだ。

四 決着のついた少数

2018年に発表される研究のために、オーストラリア国立大学の博士課程の学生ボブロフスキーは、ロシアの白海沿岸へ向かった。探していたディッキンソニアは、海辺にそそり立つ高さ数十メートルの崖に埋まっていた。ヘリコプターで入り、ロープで体をつり下げ、一枚ずつ砂岩を削り落とした。そのあたりにいるのは、クマと蚊だけだった。

欲しかったのは、特別な標本だった。白海のその岩層は、数億年のあいだ、あまり深く埋もれることも、強く熱せられることもなかった。そのため、ディッキンソニアの化石の一部には、きわめて薄い有機物の膜が残っていた。

膜の中に、無傷の分子があるわけではない。年月に削られ、分子の炭素骨格だけが残っている。第五篇で取り上げたコレステロールの仲間は、真核生物には広く見られ、細菌では珍しい。動物の体では、炭素が27個のものが中心になる。藻類や菌類は、主に炭素が28個、29個の仲間を使う。

結果はこうだった。ディッキンソニアの膜では、炭素27個の仲間が約93パーセントを占めた。化石のすぐ上と下、わずか数ミリ離れた岩石では、1割ほどしかなかった。

同じ砂岩の中で、数ミリ離れただけなのに、分子の組成がまるで違う。 研究チームはそこから、ディッキンソニアは動物だと判断した。名づけられてから70年余りで初めて、外形に頼らない判断が得られたのだ。

判断されたのは「動物」であって、どの門かではない。チームは外からの汚染を除くため、さらに二つの検証をした。一つは、場所を見ること。後から岩石に染み込んだ石油が信号のもとなら、化石と周囲の岩石で組成は似たものになるはずで、化石の輪郭にぴったり沿って濃集はしない。もう一つは、熱成熟度を見ること。試料の熱による変質の程度はきわめて低く、高温でできてから移動してきた石油とは合わなかった。

2025年前後には、このデータを改めて点検する研究も出た。専門家のあいだでは、二つの疑問が長く残っていた。異性体の比率が異常なのは、外から来た石油のせいではないか。元の研究では絶対量と全有機炭素量が完全には公開されておらず、一部のバックグラウンド補正を独立に検証できない、という問題もあった。

再検討の結論では、「ディッキンソニアのところにだけ濃集する」という分布を自然につくれる汚染の仕組みは、今のところ見つからない。信号は、やはり元からそこにあったものと考えるほうが合う。ただし、既存のデータでは、汚染の可能性をすべて完全に除けるわけではないとも認めている。

コレステロールも、動物だけのものではない。ほかの真核生物にも、少量をつくれるものがいる。だから重みがあるのは、ほぼ一方に偏りきった比率、化石と周囲の岩石との対照、そして、ほかの証拠との一致なのだ。

ディッキンソニア自身も、別の証拠を残していた。ロシアのイワンツォフは、白海の岩の表面で、一部のディッキンソニアの後ろに、それと同じ形の跡が、次第に薄くなりながら連なっているのを見つけた。微生物マットに腹をつけ、その下にあるものを腹側から消化し、吸収する。食べ終わると少し移動して、また腹をつける。

その跡の列は、食卓の列だった。2022年、ボブロフスキーのチームは、キンベレラの化石に残る分子も分析し、体内に腸があり、藻類と細菌を食べていたと考えた。

一方、ディッキンソニアには腸の兆候が見つからなかった。腹の面全体を地面につけて、吸収していたらしい。二つの動物、二つの食べ方。そのどちらも、数億年前の分子に書き込まれている。

キンベレラがたどった道は、また違う。初めはクラゲとされ、後には箱虫類に入れられた。1997年、ロシアのフェドンキンとアメリカのワゴナーが、白海の大量の標本から、海底に暮らす動物として復元した。前後と左右があり、腹側には筋肉質の足、背中には丈夫な覆いがある。二人はこれを「軟体動物に似た左右相称動物」と呼んだ。さらに後になると、対になったあの引っかき跡と死骸が、ロシアでも南オーストラリアでも、何度も一緒に見つかった。

「左右相称動物」までなら、かなり確かな足取りだ。「軟体動物の近縁」と言うには、もう一歩踏み込まなければならない。化石には歯舌も、外套膜も、鰓も保存されておらず、典型的な殻もない。現在の慎重な言い方は、左右相称動物である可能性は非常に高く、軟体動物との関係は有力な仮説だ、というものになる。

中国にも一例ある。2019年、中国科学院南京地質古生物研究所の陳哲らが、湖北省宜昌の長江三峡地域にある石板灘で、節のある虫を発見した。宜昌の古い名を取り、イリンギア、夷陵虫と名づけられた。

体には節が連なり、左右対称で、その後ろには、自分で這ってつけた道筋が直接つながっている。約5億5100万年前から5億3900万年前のあいだに、自ら這って移動していた左右相称動物だ。

ここ数年は、もっと細かな位置づけも出てきた。2022年、チャーンウッドでまた一つの化石が報告された。細い茎の上に一対の杯が載り、その口には触手の跡がある。

研究者たちはそれを刺胞動物の冠群に置き、知られている最古級の捕食動物の一つと考えた。属名の意味は「夜明けのランタン」、種名はアッテンボローにちなむ。子どものころチャーンウッドへ来なかったあの少年の名前は、結局、この森に残ることになった。2024年には華南でも、海綿に似た化石を海綿動物の冠群に置く研究が出た。

これらの例は、特別に恵まれた保存状態と、判定に使える十分な形質がそろえば、エディアカラ化石も厳密な系統解析にかけられることを示している。ただ、確かな結論はしばしば、「動物」「左右相称動物」「骨格をもつ動物」という段階で止まる。 記載された約200種の大型生物のうち、独立した分子の証拠があるもの、体と生痕が結びつくもの、あるいは判定に足りる形質が残るものは、ごく一部でしかない。

五 マスと木

残る大多数は、どこで行き詰まるのか。それを知るには、まずマスのつくり方を見る必要がある。

界、門、綱、目、科、属、種。この分類階級の骨組みをつくったのは、スウェーデンのリンネだ。1735年に出した『自然の体系』の初版は、大判でわずか11ページしかなく、界、綱、目、属、種の5段階に分かれていた。門と科は後世の人が加えたものだ。「門」を加えたのは、1866年のドイツのヘッケルだった。

リンネは、創造主がつくった万物の目録を編もうとしていた。まだ進化論はなく、種は変わらないものと考えられていた。マスを引いておけば、ものは一つずつ、その中へ入れられる。

入れるマスを間違えることもある。初版ではクジラと魚が一緒だった。1758年の第10版になってようやくリンネは、肺で呼吸し、子を産んで乳を与えることから、クジラを哺乳類へ移した。

やってきただけで、マスを突き破るものもある。1799年、オーストラリアからロンドンへ、カモノハシの皮が一枚送られてきた。カモのくちばし、ビーバーの尾、カワウソの毛皮。

調べた大英博物館のショーは、誰かが別の動物にカモのくちばしを縫いつけた悪ふざけではないかと疑った。はさみを手に、縫い目まで探したという。その後、卵を産み、しかも子に乳を飲ませることもわかった。今ではハリモグラとともに、哺乳類の中で一つの独立した枝をなしている。

この仕組みの核心は、入れ子であることだ。どの分類群も、どれか一つ上の分類群の中に、まるごと収まらなければならない。一つの属は、一つの科の中へ。一つの科は、一つの目の中へ。半分は内側、半分は外側、というわけにはいかない。現在の動物は30余りの門に分けられ、各門には判定用の一覧がある。脊索動物には脊索、節足動物には節に分かれた付属肢と外骨格、軟体動物には外套膜が必要だ。

ダーウィン以後、人々はマスを家系図として読み替えた。正式な分類群は、「ある共通祖先と、そのすべての子孫」に対応するべきだ。そこで問いは、「どんな名前をつけるか」から、「保存されたどの形質によって、どの枝と固有の祖先を共有すると証明できるか」に変わった。

このシリーズでいう「構」は、突き詰めれば一本の線を引くことだ。線の内側は数え、外側は数えない。線は、一組の判定基準のように人が引くこともあれば、一枚の膜のように自然が引くこともある。今回の構は、この分類のマスである。一つひとつの境界を、判定に使う形質の一覧が引いている。

化石を一つ掘り出したとしよう。ある現生の門が後に受け継いだ特徴を一つもっている。もっと古い特徴もいくつかあり、それとは別に、後には完全に消えてしまう、その生物だけの特徴もある。

それは、その門に属するのか。属すると言うには、その門の特徴が一式そろっていない。属さないと言うには、その門とだけ共有するものを、確かにもっている。

こうした場合のために、古生物学者は一対の概念をつくった。冠群とは、ある現生の分類群に属する、現存するすべての成員の最も近い共通祖先と、その祖先から生まれたすべての子孫を合わせたものだ。

幹群とは、絶滅した傍系の枝である。ほかのどの現生分類群よりもその冠群に近いが、冠群の共通祖先より前に枝分かれしている。冠群と幹群を合わせて、トータルグループと呼ぶ。

クジラはよい例だ。今いるすべてのクジラとイルカ、それらの最も近い共通祖先のすべての子孫。これがクジラの冠群になる。5000万年前、現在のパキスタンのあたりには、オオカミほどの大きさの動物がいた。パキケトゥスという。

1981年、アメリカのミシガン大学のジンゲリッチが、パキスタン北部の地層で見つかったその頭骨を報告した。脚は4本あり、川辺を歩いていた。ところが、耳の中の骨は、すでにクジラにしかない形になっていた。

ほかのどの現生動物よりもクジラに近い。だが、クジラの冠群には入らない。クジラの幹群なのだ。クジラだと言えば、歩くではないか。クジラではないと言えば、耳の中にはクジラの骨が入っている。

幹群という言葉は、まさにこういう動物のためにある。門をトータルグループとして定義するなら、幹群の成員も、その門に入れてかまわない。

エディアカラで困るのは、そのもう一段手前だ。幹群のかなり古いところにいる生物は、後にある門が受け継ぐ形質を、一つか二つしかもっていないかもしれない。残りは祖先の姿で、そこに、後にはまったく消えてしまう独自の特徴がいくつか加わる。

現代の門の判定表を一式そのまま当てはめれば、どの門にも似ていない。かといって、門を際限なく古いほうへ広げれば、伝統的な判定の中身が空になってしまう。系統樹は切れ目なく枝分かれし、分類階級は一つひとつの箱になっている。 前者を後者に詰めようとすれば、いつも何かがマスとマスのあいだに引っかかる。

さらに根は深い。幹群のどこに置くかを決めるための形質すら、足りない標本が多い。枝分かれ、円盤、横筋の列。どれも、別々の系統で独立に生まれうる。

砂岩の型取りがよく残してくれるのは、全体の輪郭、大きさの比、体の前後、繰り返しの型、枝分かれの順序、表面の模様、付着のしかた、そして大小の個体を並べて得られる成長の系列だ。体と移動の跡が同じ層にあれば、動いた方向も加えられる。

反対に、抜け落ちやすいのは、系統を考えるときに最も役立つ内部の形質そのものだ。胚葉、神経、筋肉、消化管、体腔、血管、口と肛門、感覚器。表面のある溝が、解剖学的な構造なのか、腐敗してできたしわなのか、砂に押されてついたものなのか。それ自体がしばしば議論になる。

同じ化石でも、形質のコード化のしかたを変えれば、まったく別の位置に落ちることがある。意見の食い違いの一部は、化石をデータへと置き換える段階で生まれている。

収まらないものに出会ったとき、取れる動きは二つある。ザイラッハーが行ったのは一つ目だ。今あるマスに入らないのなら、動物界と並ぶ大きなマスを、もう一つ足す。

現在の形態群という方法が行うのは、二つ目だ。まずランゲオモルフ類、ディッキンソニア形類、エルニエッタ形類と呼んでおく。その名は、目に見える体のつくりだけを述べる。一つの単系統の門や界であるとは約束しない。どんなつくりかを先に明らかにし、何者なのかは、ひとまず空欄にしておく。

界を一つ増やしても、未知の関係に名前がつくだけだ。足りない情報は、一つも増えていない。

六 三つの群集

エディアカラの化石は、ふつう三つの群集に分けられる。名は、最も代表的な産地から取って、アヴァロン、白海、ナマ。この分け方のもとになったのは、2003年の統計解析だ。世界各地の大型化石の属を、見つかる場所に応じてクラスター分析すると、はっきりした三つのまとまりが得られた。

アヴァロン群集は最も古く、約5億7500万年前から5億6000万年前。代表的な産地は、ニューファンドランドのミステイクン・ポイントと、イングランドのチャーンウッドだ。多くは光の届かない深い海に暮らしていた。海底にはフラクタルな葉状体が群れ立ち、一部は円盤で泥に固定され、背の高いものは海底から1メートル余りも伸びる。葉緑素のない、背の低い森のようだった。

這って動くものは少ない。ミステイクン・ポイントでは化石の採集が許されず、研究者にできるのは、岩の表面で型を取り、写真を撮り、三次元スキャンをすることだけだ。観光客はガイドに続いて岩面へ上がる前に、靴を脱がなければならない。履いていてよいのは、靴下だけである。

白海群集は約5億6000万年前から5億5000万年前で、代表的な産地はロシアの白海と南オーストラリアだ。南オーストラリアのニルペナでは、研究者たちが数十年にわたり、古い海底を一層ずつ、面ごと掘り出してきた。一枚一枚の岩面には、ディッキンソニア、トリブラキディウム、キンベレラと、その生痕が元のまま並んでいる。剝がした岩は、野外で元の位置関係のまま敷き直される。床板を組み戻すようにして、太古の海底を端から端まで歩けるようになる。

ここには、房のように群れて育つ管状の生物がいる。研究者たちは、研究を率いた人の母親の名を取って、フニシア・ドロテアと名づけた。有性生殖をしていた最古級の動物の候補の一つだ。2026年、これらの化石は、フリンダース山脈の世界遺産登録推薦を支える重要な要素となった。

ナマ群集は約5億5000万年前から5億3900万年前で、中心はナミビアにある。主役の顔ぶれが変わる。袋形のエルニエッタ、さまざまな軟らかい管、そして硬い殻をもつクラウディナだ。

クラウディナの殻には、整った小さな丸い穴がよく見られる。捕食者が開けた穴だと広く考えられており、知られている最古級の捕食の証拠の一つだ。クラウディナは、中国の陝西省南部にある同時期の地層にも多い。

典型的なディッキンソニア形類は、ここでは明らかに少なくなる。先ほどのイリンギアが見つかった石板灘も、この時期にあたる。そこの化石は石灰岩に保存されている。砂岩が中心のエディアカラ化石としては、珍しいことだ。

エルニエッタは、体の半分を砂に埋め、群れをなしてひしめいていることが多い。2019年、その形をコンピューターに取り込み、水流をシミュレーションした研究が出た。密集すると、前列がかき起こした戻り流れを後列の個体が受け、水中の餌の粒子が杯の口に入りやすくなる。水を濾して食べていた可能性がある。

三つの群集に違いがある理由は、三通り考えられる。

一つ目は、時間だ。最初の統計解析でも、三つのまとまりには全体として前後関係が見られた。その後の高精度の火山灰年代も、典型的なアヴァロンの群集が明らかに古いことを裏づけた。火山灰は天然の時計である。灰の中にはジルコンという小さな結晶があり、結晶になるとき、わずかなウランを取り込む。ウランは一定の速さで鉛へと崩壊する。ウランと鉛の比率を測れば、その灰が降った年代を、わずか数十万年の誤差で計算できる。ミステイクン・ポイントでは、何層もの化石が何層もの火山灰に挟まれ、一層ずつ個別に年代を測れる。

二つ目は、生態だ。2004年以降、アヴァロン型の群集は深く、水の動きの弱い場所に偏り、白海型は浅海に多く、ナマ型はまた別の浅い海の環境と結びつく、という点が強調されてきた。異なる環境の群集は、同時に生きていたのかもしれない。ただ、それぞれが違う深さにいた。

三つ目は、保存だ。深海の火山灰、浅海の砂岩による型取り、ナマの立体的な砂の鋳型。それぞれ、どんな体形が残りやすいかが違う。

2016年の統計解析は、答えの輪郭を示した。世界規模のデータベースをクラスター分析し、環境も調べたが、それでも明瞭な三つのまとまりが得られた。岩石の性質や埋没・保存の偏りだけでは、違いのすべてを説明できない。一方、群集どうしの時期は重なってもいる。時間、生態、保存という三つの変数が、同時に働いているのだ。

それぞれを検証する方法はある。時間なら火山灰の年代、生態なら堆積相、保存ならタフォノミー。難しいのは、切り分けることだ。ある群集に一つの属がいないのは、その時期にはまだ出現していなかったからかもしれない。その環境に住んでいなかったのかもしれない。その条件では残らなかったのかもしれない。分布表の上では、三つとも同じ一つの空欄になる。 空欄は、なぜ空いているのかを教えてはくれない。

名前も印象を偏らせる。2026年に発表された研究では、カナダ北西準州のマッケンジー山脈から、白海型とはっきり認められる群集が見つかった。

その場所は当時、太古の北アメリカ大陸の一部だった。地質学者がローレンシアと呼ぶ大陸だ。白海群集という統計上のまとまりは役に立つ。ただ、その名は最初に見つかった場所から取られているのであって、当時そこだけに分布していたという意味ではない。

初期の形態的多様性を描く曲線にも、同じ問題がある。研究者はまず、識別できる属の外形をコード化する。体の前後、対称性のあり方、枝分かれの段階数、付着のしかたなどだ。それを多変量解析によって「形態空間」に投影し、時間とともにどう広がり、どう縮むかを見る。この種の曲線が最も敏感に反応するのは、入力である。 ある属を有効とするか。同じ体が異なる残り方をしたものを、いくつもの属に分けていないか。ある産地で地層の下面だけを採ったのか、それとも上面も採ったのか。その一つひとつが、曲線を変える。

七 デスマスクとシリカ

では、こんな軟らかな体が、どうして砂岩に残るのか。あれほど粗い砂粒が、軟らかな体の表面にあるミリ単位の細部を、どうやって写し取れるのか。砂浜に手形を押しても、細かなところはすぐに崩れてしまう。

最も古典的な答えは、南オーストラリアのゲーリングが1999年に体系的に提案した「デスマスク」モデルだ。名前は昔の習慣から借りている。人が亡くなった後、石膏や蝋で顔の型を取り、その人の面影を残す。ナポレオンにもベートーヴェンにも、そうしたマスクが残されている。

生きているとき、海底には微生物マットが途切れず敷かれていた。第一篇で出てきた、あの敷物だ。生物が死ぬと、すぐ砂に覆われる。マットの細菌が有機物を分解して硫化物を放出し、それが水中の鉄と反応して、死骸の表面に薄い鉱物の膜をつくる。

この膜が、軟組織が腐りきる前に、ミリ単位の起伏を固定する。後にその上の砂が膠結し、精密な鋳型になる。型をつくるのは、死骸の表面に急速に育った鉱物の膜だ。砂は、その型の形を固定しているだけである。

2012年、実験室の水槽で、これを試した研究がある。死んだハチノスツヅリガの幼虫を、微生物マットに覆われた砂に埋めた。数週間後、本当に死骸のまわりに、鉄と硫黄を含む鉱物の沈殿ができた。微生物マットのない対照群では、細部の残り方がずっと悪かった。

鉱物化の速さと、腐敗の速さの競争である。条件の幅は狭い。鉄と硫黄が十分にあり、埋まるのが十分に速く、あの微生物マットもなければならない。一つ欠けても、保存の窓は閉じる。だから残るのは、たいてい体の外側の表面で、軟組織そのものは残らない。

2016年、南オーストラリアの試料を調べた研究者は、多くの化石のまわりに、このモデルが予想する黄鉄鉱がないことを見つけた。代わりにあったのは、ごく早くできたシリカ、二酸化ケイ素による膠結だった。そこから、別の仕組みが提案された。先カンブリア時代の海水にはケイ素が豊富にあり、有機物の表面に薄いシリカの膜が急速に析出した。早い段階でのシリカの膠結が、砂粒を動かないようにしたというのだ。

化石にじかに接する膠結物は、砕屑性の石英とは元素の比率が違う。隙間も、押し固められる前にすでに埋まっていた。そのころは、海水から大量のケイ素を取り込む珪藻や放散虫がまだいない。海水中のケイ素は、今よりはるかに多かった。

ミステイクン・ポイントは、また別の方法だ。そこには砂の型がない。生きている群集に火山灰が直接降り積もり、葉状体を押し倒して、その場で跡にした。多くの岩面で、何百、何千という葉状体が同じ方向に倒れている。埋まった瞬間の、海底の水流の向きだ。立っていた森が、一夜にして同じ流れに倒される。その姿のまま、5億年以上が過ぎた。

エディアカラ型の保存とは、いくつもの仕組みの集まりである。土地ごとに、配合が違う。

微生物マットは、その中で少なくとも三つの仕事をした。海底を粘りでつなぎ、安定させ、できたばかりの浅い跡がすぐ水流に消されるのを防ぐ。ごく小さな範囲に急な化学的勾配をつくり、鉱物化を促す。

さらに、しなやかな有機物の境界面となり、上の砂と下の泥がじかに混ざらないようにする。多くの生物が暮らす足場であると同時に、保存装置の一部でもあった。

後にこの種のマットが減った、最も直接的な理由は、餌をかき取り、穴を掘り、表層の堆積物をかき混ぜる動物が増えたことだ。平らにつながったマットに、繰り返し穴が開くようになると、広い面積を閉じたまま保つ境界面にはなれない。この化石をつくった条件一式を壊したのは、後から来た生物自身だった。

保存の窓も、ある一点でぱっと開いたり閉じたりしたわけではない。こうした砂岩の型取り化石は約5億7500万年前以降、とりわけ豊富になるが、もっと古い地層にも、もっと若い地層にも、似た例が少しずつある。

窓が閉じた理由には、少なくとも三つの並行した説明がある。生物による持続的なかき乱しで、微生物マットが弱くなった。海洋のケイ素循環が変わり、早期のシリカ膠結が起こりにくくなった。

そして、生物自体が本当に絶滅し、保存する相手がいなくなった。三つとも同時に成り立ちうるが、そこから導かれる予測は違う。最後の説明では、その生物が実際に死に絶えている必要がある。前の二つには、その必要がない。

この保存のしかたは、体を強く選り分けてもいる。精密な砂の型が最も残りやすいのは、センチ単位以上の大きさがあり、海底に接していて、ある程度の面積と丈夫さをもつ底生の体だ。幅広く平たい体、丈夫な表皮、盛り上がった模様。極端に小さいもの、極端に薄いもの、触れただけで崩れるもの、水中を漂って海底に触れないもの、そして体の内部の器官が残る可能性は、ずっと低い。

立体の生物を、一枚の二次元の外観へ「編集」してしまうこともある。表面の繰り返し模様はきわめて細かく残しながら、中の組織はすべて削除してしまうことがある。硬さの違う各部分は、押しつぶされ、引き伸ばされ、しわになる。

だから、表面の一本の「節の境目」は、生物の構造かもしれないし、折れ曲がりや腐敗、あるいは砂粒による型取りが強調したものかもしれない。かつての「横筋があるから、環形動物の体節だ」という推論がつまずいたのは、ここだった。

私たちに見えているエディアカラの群集は、選別を経た名簿である。ただし、2016年の統計解析は、その名簿の背後にも、生物の実際の違いがあると注意を促した。三大群集の違いは、わかっている岩石の性質や保存の要因だけでは説明しきれない。

八 すべてを囲うマス

カンブリア紀が始まるころ、エディアカラ型の軟らかな体の化石は、記録からほぼ姿を消す。カンブリア紀の始まりも、ニューファンドランドで定められている。ミステイクン・ポイントから約200キロ西の海岸だ。基準は、ある潜り穴の化石が初めて現れる地点。何かの虫が泥の中を掘りながら向きを変え、枝分かれする穴を連ねた。エディアカラ紀は、銅のプレートで始まり、虫の穴の列で終わる。あの生物たちはどこへ行ったのか。答えは、少なくとも三つある。

一つ目は、本当に絶滅したのであり、その引き金は環境だった、というものだ。2022年、世界規模のデータベースを使った推計では、白海群集からナマ群集へ移るあいだに、統計上の単位のおよそ8割が存続しなかったとされた。

失われ方には偏りがある。残ったのは、相対的に表面積の大きい形が多い。薄く平たいほど生き延び、厚みのあるものは消えた。研究者はこれを、酸素の乏しくなる出来事があったためと解釈した。表面積が大きければ、ガス交換がしやすい。

この8割は、収集できた大型化石のデータベースから得た数字だ。難しいのは、「酸素が乏しくなった」と「その酸素不足が、まさにこの仲間を絶滅させた」が、二段階の推論だということにある。エディアカラ紀後期の記録は、堆積盆地ごとに時期がそろっていない。

二つ目は、新しく来た動物に取って代わられた、という説明だ。穴を掘る動物が一匹いれば、堆積物の中の酸素も、隙間の水の化学も、微生物マットの連続性も変えられる。安定したマットの表面に頼っていた生物は、食べられなくても、住む場所を失いうる。

クラウディナの殻の穴は、捕食者がすでに現れていたことも示している。この案が難しいのは、規模の問題だ。末期の潜り穴も全体としてはまだ浅く、多くの場所で、無傷の微生物マットと大型の軟体生物が、長く共存していた。

三つ目は、まだいたのに見えなくなった、という説明。「チェシャ猫」モデルと呼ばれる。チェシャ猫は『不思議の国のアリス』に出てくる、少しずつ姿を消し、最後には笑いだけを宙に残す猫だ。

作者のキャロルはオックスフォードの数学講師だった。第六篇の赤の女王は、彼の書いた続編に出てくる。砂岩の型取りには、安定した微生物マットと、初期にできる特殊な鉱物、そしてほとんどかき乱されないことが必要だ。その条件が失われれば、同じような軟らかな生物が生き続けていても、記録の中では見えなくなる。

このモデルからは、検証できる予測が一つ出てくる。もっと若く、しかも偶然あの特殊な保存条件が再びそろった地層なら、エディアカラ型の姿が、ときおり見えるはずだ。実際に、見つかっている。

1998年には、年代が明らかにカンブリア紀とわかる堆積層から、典型的な葉状化石が報告された。2000年にも、カリフォルニアの前期カンブリア紀から似た化石が報告されている。カナダの5億800万年前のバージェス頁岩にも、葉状の化石の一種があり、アヴァロンの葉状体と同じ筋のものだと考える研究者がいる。

三つの答えは、それぞれが別の仲間の一部を説明し、同時に部分的に成り立っていてもよい。続くカンブリア紀には、動物が一気に殻や目や脚を備える。それは次の篇の話だ。エディアカラの体たちは、そのにぎわいの入口に立っている。

最後に、いちばん大きなマスを見る。「エディアカラ生物群」という名前は、何十年も使われてきた。2014年、ある研究者が書いた論文の題名は、『「エディアカラ生物群」などというものは存在しない』だった。

その指摘によれば、この言葉は、ときには一つの時代を指し、ときには肉眼で見える大型化石の一群を指し、ときには砂岩の型取りに残る、あの奇妙な軟らかい生物だけを指す。同じ時代の藻類、微生物、骨格をもつ動物は、しばしば外される。外される理由は、血縁でも形態でもない。ただ、砂岩の型取りで見慣れたあの姿をしていないからだ。

この名前が囲っているのは、あの時代に、あの方法で保存されたものだ。一つの条件は時間の側にあり、もう一つは私たちの側にある。だから「エディアカラ生物群はどの界に属するのか」という問いは、もしかすると、一つの寄せ集めを相手にしているのかもしれない。ただし、保存の条件で括った集合が、そのまま一つの単系統群になるとは限らない。

今回の構、リンネから受け継いだあのマスに戻ろう。どのマスにも、判定表が一枚ずつ要る。その表は、今生きている成員に合わせて書かれている。構に収まらず、しかも消してしまえない部分を、このシリーズでは「余項」と呼ぶ。今回の余項は、この生物たち全体だ。記載された大型生物は約200種。確かな位置づけを得たものはごく一部で、その多くも、「動物」「左右相称動物」の段階にとどまる。

前の篇の余項は、座標軸の中にあった。何十回もの多細胞化の起源は、はっきり見えている。ただ、自然な単位をもたない一本の物差しによって、後ろのほうへ並べられていた。今回の余項は、マスの形そのものの中にある。

これらの生物は、はっきり見えている。博物館の引き出しに入っている。標本は何千、何万とあり、形を数値で表せる。成長を復元できる。行動の跡を残したものさえいる。

足りないのは、その分類のどのマスも要求してくる、一組の形質だ。 「まだそろっていない」と言うと、本当はその形質があったはずで、たまたま残らなかっただけのように聞こえる。実際は、もっと単純なのかもしれない。そもそも、その生物たちには一式がそろっていなかった。そろうのは、後のことだったからだ。マスは、そろった後の姿に合わせてつくられた。その生物たちは、そろう前を生きていた。

判定基準は、今もふるいにかけている。属名は、今もまとめられ、分けられている。すべてを囲うあのマスそのものにも、もう使うのをやめようという声が上がった。

関連研究・確認に用いた資料