鑿構の周期律 · 古生物 · あとがき · 理論をさらに読みたい方へ

梯子はエレベーターではない:DD 序列に沿って三十億年を振り返る

本文だけでも読書は完結します。著者のDD枠組みから振り返りたい方は、こちらへ。哲学的な読み方であって、生物の序列表ではありません。

秦漢 · 読了の目安:約23分 · 公開日

一 二つの順序

このシリーズは、時間の順に並べた二十三篇からなる。第一篇では三十数億年前の岩の上に立ち、そこに生命はもうあったと言えるのか、と問うた。第二十二篇では、後期中新世の森で足を止めた。そこにはいくつかの種類の類人猿がいて、その大半は後の世に子孫を残さなかった。そのあいだの各篇は、おおむね地層を下から上へたどっていく。膜、酸素、真核細胞、性、多細胞、カンブリア紀、陸への進出、石炭。そして、何度も繰り返される一掃と埋め直し。

これは一つの順序、時間の順序である。この篇では別の順序に持ち替えて、同じ二十三篇をもう一度並べ直してみる。

持ち替える先は、このシリーズの背後にある枠組み、そのものの骨格だ。DD 序列という。全部で十六段。その手前には、混沌と呼ばれる 0DD がある。まだ、いかなる区別も成り立っていないところだ。1DD から先は、一段ごとに法則が一つ立ち、線が一本増える。 先に断っておこう。これは著者の哲学的枠組みであって、生物学で認められた進化段階表でも、種を上下に並べる尺度でもない。本文だけで読書は成り立つ。この任意のあとがきでは、背景の考え方を表に出し、何を照らし、何を照らせないかを試してみる。

第一巡、1DD から 4DD までは、同一、矛盾、間隔、因果。第二巡、5DD から 8DD までは、複製、自己維持、分化、生殖。第三巡、9DD から 12DD までは、選択、感知、記憶、予測。第四巡は 13DD の自己主体から始まり、14DD は目的。それより上は、この篇では書かない。

どの巡りも、三足す一でできている。初めの三段がそれぞれ一つの法則を立て、四段目がその三つを合わせる。因果は、同一と矛盾と間隔を合わせて、方向を持つ世界にする。生殖は、複製と自己維持と分化を合わせて、もう一度、初めから育ち直せる生命にする。予測は、選択と感知と記憶を合わせて、過去から未来を導き出せる頭脳にする。

この梯子は、もともと生物学から組み上げたものではない。出発点はごく簡単だ。どんな法則も前提にせず、ただ一つ、否定だけを行う。「これは、あれではない」。その言葉が残した隙間で、もう一度、「これは、あれではない」と言う。そうして一段ずつ伸びていく。十六段になってから、四掛ける四になっていると分かった。先に升目を描いて、そこへ埋めたのではない。

古生物シリーズも、この梯子を実演するために書いたものではない。二十三篇を書いているあいだ、その本文に DD が現れたことは一度もなかった。いま、どちらも形になった。ここで一度、横に並べ、どこが重なり、どこが重ならないのかを見てみよう。

結論を先に置いておく。重なるところは多い。第二巡と第三巡の八段は、ほとんど欠けることなく、このシリーズのなかにある。第一巡は岩石のなかにはなく、岩石を読む人の手のなかにある。第四巡については、このシリーズはその入口で止まっている。

重ならないところも、同じくらい大事だ。なかでも一つのことが、この篇を最後まで貫く。梯子の順序は構造の順序であって、時間の順序ではない。そして、梯子にはモーターがついていない。 このシリーズでもとりわけよく書けた数篇は、まさにそれを示している。

二 第一巡:岩石を読む人が持ち込む四本の線

1DD は同一。これはこれであって、あれではない。

第一篇には、本当に数えた人が出てきた。生命の定義を集めると、百二十三もあったという。どの定義も、していることは同じだ。連続した化学の世界に線を一本引き、こちら側は生命、向こう側は生命ではないと言う。第一篇では、この動作を鑿と呼んだ。「ふつう、鑿と言えば、鑿を握る人がいる。この一刀には、いない」。

同一律とは、この最初の一刀の形式である。刃をどこへ入れるかには関わらない。刃を入れたあと、その両側がもはや同じではないことだけを定める。百二十三の定義が食い違うのは、同一律がうまく働かないからではない。同一律が渡すのは刃であって、刃を下ろす場所ではないからだ。その場所に根拠が与えられるのは、さらに何段か先である。そして線の上には、いつも何かが立っている。ウイルス、プリオン、第一篇の冒頭に出てきたあの円錐体。見る向きを変えると、もう生命とは数えられなくなる。同一律の余項とは、刃の上に立っているものたちだ。

2DD は矛盾。一つのものが、同時に A であり、A ではない、ということはできない。

この段の余項をいちばんはっきり見せるのが、第九篇のエディアカラ生物群だ。ディッキンソニアは動物か、地衣類か。カルニオディスクスはサンゴの親戚なのか。数十年にわたり、どれもいくつもの升目へ入れられ、そのたびにまた取り出された。分類表は、一つの生物が入る升目は一つだけだ、と求める。まさしく矛盾律の要求である。だが、エディアカラの生物の体は、その表どおりには育たない。

第九篇は箱と樹を対比した。箱は選んだ形質で分け、樹は祖先とその子孫をたどる。異なる無矛盾律に従うのではなく、分類の基準が違うのだ。ある枝の初期成員でも、見慣れた形質の箱には入らないことがある。論理的な整合性は、分類が世界を尽くしたという保証ではない。

3DD は間隔。ここと、そことのあいだには距離がある。

第二十三篇の鋲は、間隔を具体的にする。世界各地で境界を対比するため、地質学者は基準点を選ぶ。百を超える位置には定義が必要で、承認の手続きもある。点自体に厚みはない。両側の地層にはそれぞれ年代名があるが、共通の名だけで、その中で起きたすべてを語り尽くすことはできない。

この枠組みで間隔が因果より先なのは、構造上の順序であり、宇宙が時間より先に空間を作ったという主張ではない。古生物学も積み重なる地層から出発する。逆転などのない堆積順序なら、普通は下が先にできる。上下を前後と読むのは出発点であって、まだ時計ではない。厚さを年数にするには堆積速度や同位体年代などの較正が必要で、分子差にも速度モデルが要る。第十九篇のずれは、その換算や記録の隙間から生じる。

4DD は因果。前にあるものが後のものを制約し、しかも元には戻れない。

第四篇の大酸化は、この段の原型である。シアノバクテリアが放った酸素は、もとは光合成の廃棄物だった。それが海と大気にたまり、惑星まるごとの化学を書き換えた。これは元に戻せない。酸化した鉄は海底へ沈み、幾層もの縞状鉄鉱層となって、いまもそこにある。第十三篇の石炭も同じだ。森にあった炭素が地中へ埋まり、数億年たってから人の手で掘り出された。 巻き戻せないのは歴史全体であり、化学反応ではない。鉄は再び還元され、酸素量も減りうる。

因果という段は、前の三段を一つにする。同一があり、区別があり、距離があり、そこへ方向が加わって初めて、世界は「以前」が「以後」を制約する世界になる。だが、第十八篇はこの段の余項を語っていた。白亜紀の終わりには、一つの小惑星がメキシコ湾へ衝突し、インドでは広大な範囲で玄武岩が噴き出していた。どちらも起きた。どちらも十分に大きかった。起きた時期も、すぐ近くだった。因果律は、あの絶滅に原因があったことを保証する。原因を切り分けられることまでは、保証しない。方向は明らかでも、寄与には不確かさが残る。新しい記録やモデルで範囲は狭められる。第二の地球がないからといって、永遠に判断不能とは言えない。

この四段をまとめて見ると、このシリーズのなかで共通するところが見えてくる。どれも岩石のなかにはない。岩石を読む人の手のなかにある。石は「これは生命だ」と言わない。自分を升目に分類しない。自分の体に鋲を打たない。「衝突だ、火山ではない」とも言わない。

第二十三篇には、こんな一文があった。「意図を持たない鑿の担い手がつくった構を、意図を持つ一群の鑿の担い手が記述している」。第一巡とは、その一群が携えている四つの道具である。これらが先験的だというのは、誤らないという意味ではない。化石から学び取ったのではなく、化石を手にする前から、すでに握っていたという意味だ。

三 第二巡:線が初めて自分自身に引かれる

第二巡の四段、複製、自己維持、分化、生殖は、このシリーズの前半を支える骨である。第一巡の線は、読む人が引いた。この巡りから、生命が自分で線を引き始める。

5DD は複製。この型が消えないこと。

第二篇の最終共通祖先に、この段の姿がある。いま地球にいるすべての生命、細菌、古細菌、ナラの木、人間は、少数の変型を伴う、ほぼ普遍的な遺伝暗号、同じエネルギー通貨、同じ種類のリボソームを使っている。その共通点が、一つの共通祖先を指し示す。しかも、その祖先は不在から復元された。当人は化石を一つも残していない。そのすべての子孫に共通するものから、逆向きにたどり、輪郭を描き出したのだ。

複製律が言うのは、型が消えないということだ。コピーが一つ残らず同じになる、とまでは保証しない。第二篇で、細菌どうしのあいだを横へ渡っていく遺伝子は、生命の樹の根元をかき混ぜ、網の目にしていた。一方、子孫を残さなかった初期の生命には、逆向きにたどってもらう機会すらない。複製の余項とは、複製されて後へ渡らなかった、すべてのものだ。

6DD は自己維持。衰えに能動的に抗うこと。

第三篇の膜は、自然が引いた最初の線だった。一枚の脂質の膜が、化学物質の小さなかたまりを包む。内側の濃度は、外側と違っていてよい。しかも、その違いを保てる。これが自己維持の最小の姿だ。何もかもが均一へ向かう世界で、一つの不均一を守る。このシリーズで「構」を定義するとき、わざわざ「線は自然が引いてもよい。たとえば、一枚の膜」と書き添えたのは、この段のことだった。

第一篇の実験は、この問いに迫る。2016年、設計・合成・削減を重ね、特定の培養条件で育つ473遺伝子の細胞が作られた。全生命に共通する絶対的な最小値ではない。発表時には149遺伝子の具体的機能が不明で、その後も研究が続いた。動く小さなシステムを作れても、なぜ各部品が要るのかをすべて理解したことにはならない。

ここに複製と自己維持を並べて置くと、第一篇に出てきた古い論争もほどける。生命の起源では、複製が先だったのか、代謝が先だったのか。自分を複製できる分子が先か、自分を維持できる化学の循環が先か。第一篇には七つの道を挙げた。どの道にも歩いている人がいる。そして、最後の一行はどれも空白だった。

梯子では、複製は 5DD、自己維持は 6DD に置かれている。けれども梯子の順序は、構造の順序だ。言っているのは、生命がひと通りそろうには、この二つが同時に必要で、片方が欠ければそうとは言えない、ということである。歴史のなかでどちらが先に現れたかは、言っていない。この論争がいつまでも終わらないのは、双方とも構造の順序を、時間の順序の証人にしようとするからでもある。

7DD は分化。同じだったものが、違うものになること。

第八篇の多細胞性は、この問いを具体化する。広く数えれば少なくとも45回の起源があるが、細胞が集まることと、生殖とその他の役割を分けることは同じではない。糸状や塊のまま長く続く系統は、失敗した半製品ではない。複雑な分業は動物、陸上植物、一部の大型藻類や菌類など、より少ない枝に集中する。

第十六篇の巣は、別の尺度での分化を思わせる。女王と働き蜂が共有するのは遺伝的な道具立てで、DNAが一字一句同じという意味ではない。幼虫の栄養などが発生の道筋を変える。普通は女王が主に産卵し、働き蜂の生殖は抑制されるが、条件によっては働き蜂も卵を産む。強い分業は群れをある面で体に似せるが、蜂が文字どおり細胞になるわけではない。

第二十一篇は、この段を逆向きにたどった。寄生するフジツボは、体のほとんどを手放し、生殖構造と栄養を吸収する根状の網を残す。洞窟の魚は眼を失う。分化は、増える一方とは限らない。

8DD は生殖。ある世代が自分を、あらためて次の世代へ渡すこと。

この段は、前の三段を一つにする。一個の受精卵が、再び複製し、自分を維持し直し、あらためて一つの体全体へと分化していく。どの世代も、初めからもう一度育つ。有性生殖は、この一歩にさらに一つのことを加える。異なる二個体の情報を、組み替えるのだ。第六篇では、これを「偶然を制度にする」とまとめた。世代が替わるたび、二倍の勘定を払わなければならない。無性生殖だけをする雌なら、子はすべて、子を産める娘になる。有性生殖では、子の半分が雄になる。無性の系統は一度も消えたことがない。それでも、複雑な生命では、組換えはほとんど至るところにある。 この「二倍」は、性比がおよそ一対一で、父親の追加的な育児がなく、ほかの条件が等しいというモデル上の比較だ。有性生物すべての固定の請求額ではない。

ここでちょうど、梯子と時間が重ならない箇所にぶつかる。梯子では分化が 7DD、生殖が 8DD だ。だが時間の上では、真核生物の有性生殖は、複雑な多細胞の体より早く現れた。このシリーズでも、第六篇の性を先に書き、第八篇で多細胞を書いている。

重ならないからといって、間違いではない。梯子が問うのは、ひと通りそろった生殖が成り立つには、その前に何が必要か、ということだ。分化する体を、世代ごとに初めから育て直す。それが、生殖が分化を取り込んだあとの姿である。地球ではどちらが先に起きたのか。それは時間の話で、梯子のあずかるところではない。構造の上で前にあるものが、歴史の上でも先に来たとは限らない。

第二巡では、第一巡にはなかったことも起きた。第五篇では、ある細菌が別の細胞にのみ込まれ、消化されずにミトコンドリアになった。第八篇では、細胞が集まって、一緒に生殖する一つの体になった。第十六篇では、働き蜂が集まり、全体が一つの単位として選択を受ける巣になった。この三回、選択される単位が、別の階層へ移っている。このシリーズでは、こういうことを相転移と呼んだ。 これは高度に統合された系で、より大きな全体が重要な選択単位になるという話だ。社会性昆虫すべてに同じ転移があるわけでも、下位の選択が消えるわけでもない。

相転移は、一段上へ登ることではない。同じ段の内側で起きる。線を引く、その「自分」が、一個の細胞からもっと大きな一個の細胞へ、一個の細胞から一つの体へ、一つの体から一つの巣へと替わる。梯子は変わらない。梯子に立っているものが替わったのだ。

四 第三巡:ふるわれることから、見ることへ

第三巡は選択、感知、記憶、予測だ。前二者は化石に残る結果や器官から論じやすい。後二者の過程は直接保存されにくいため、ここでは研究者が記憶し予測する側へ視点を移す。証拠の窓の違いであって、古代の動物に記憶や予測がなかったという主張ではない。

9DD は選択。残る子孫もいれば、残れない子孫もいる。

このシリーズには、選択のもっとも荒々しい姿を語る篇が、丸々三つある。第十四篇のペルム紀末。もっともよく知られた数字では、海洋生物の種の九十六パーセントが絶滅したという。その数字はどう計算されたのかを、篇のなかで考えた。第十八篇の白亜紀末。恐竜のうち、向こう側へ渡れたのは鳥という枝だけだった。第二十篇の新生代。空いた生態的地位を、哺乳類が埋めていった。

選択律は、このシリーズが繰り返し守ろうとしてきた段である。いちばん書き誤りやすいからだ。第十四篇では、ラウプのあの薄い本の題名を引いた。『絶滅:悪い遺伝子か、不運か』。生き残ったものが、ふだんもっとも優れていたとは限らない。第二十篇の結びには、席を待っていた者はいないし、誰かを待っていた席もない、と書いた。ふるいには眼がない。何をふるい落とし、何を残すかは、その瞬間の条件による。そしてその瞬間が過ぎれば、条件はまた変わっている。

10DD は感知。能動的に環境を感じ取り、それに反応すること。

この段が化石のなかでもっとも鮮やかに光るのは、第十篇のカンブリア紀だ。三葉虫の複眼をつくる小さなレンズは、一つ一つが透明な方解石の粒で、その結晶の光軸は、光が入ってくる向きにきちんと合っている。石で世界を見る動物たちだ。カンブリア紀のあの爆発を、眼の出現と結びつける説明がある。見ることのできる捕食者が現れれば、見られることが生死を分ける。殻も、とげも、隠れることも、擬装も、一度に役に立ち始める。第十篇では、これをいくつかある説明の一つとして扱い、答えとはしなかった。

第十七篇の恐竜の色は、感知を別の向きから見せた。色の意味は、しばしば、ほかの眼に見られることにある。求愛、警告、隠蔽。だが、今日の研究者が一頭の恐竜の色を復元するとき、頼るのは自分の眼ではなく、顕微鏡で見るメラノソームの形である。第十七篇では、結論を二度読むよう読者に促した。二度目には、もし当時、鮮やかな黄色があったなら、この方法には見えただろうか、と問うてほしい。研究者の感知と、当時の動物たちの感知は、別々の層にある。そのあいだには一億年と、主にメラニンに関わる色を捉え、全色を見渡せない代用指標が挟まっている。

11DD は記憶。過去の感知をとどめておくこと。

ここが、まず気をつけなければならないところだ。第十一篇では、化石記録はふるいであって、一覧表ではないと書いた。森で鹿が一頭死んでも、ほぼ間違いなく何も残らない。地層はいくらかのものを保存する。だが、地層は何も覚えていない。記憶律が言うのは、生命が自分の過去の感知を残し、未来の自分が使えるようにしておくことだ。岩石のなかには、そのような「自分」はいない。

地層は痕跡を保つが、生物のように記憶しない。読む人が岩に自分の記憶を貸すのだ。石炭や礁には蓄積と保存の条件が要る。攪乱は記録を途切れさせたり削ったりするが、その後何も積もらなくなるわけではない。第十五篇が問うのは、大きく持続的な系の回復の遅れであり、小さな礁や局地的堆積の否定ではない。「連続が欠ける」はその範囲で読む必要がある。

12DD は予測。過去の型から未来を導き出すこと。

この段が、第三巡を一つにする。選択があり、感知があり、記憶があって初めて、頭脳は、すでに起きたことから、これから起きることを導き出せる。古生物学は全体として、この段を逆向きに使っている。いまある型から、過去へさかのぼるのだ。

第十九篇の分子時計は、その逆算をもっとも純粋な形で示している。二つの種の DNA がどれほど違うかを見て、おおよそ一定の変化速度から、いつ分かれたかを計算する。第十二篇には、その逆算が外れた例を記した。生命の樹に従えば、魚から四肢動物への移行型化石が先で、四肢動物の足跡は後のはずだった。ところが、ポーランドの採石場から、その移行型化石よりも古い足跡が現れた。推測は算数を間違えたのではない。記録の前後が、そのまま出来事の前後であると、暗黙に決めてかかっていたのだ。

第一篇の最後の節の題は、まさしくこの段の余項を指していた。「標本数は一。しかも道具は、その一つに合わせてつくられている」。私たちが見たことのある生命は、一種類だけだ。生命を見分けるために使う道具も、すべてその一種類に合わせてつくられている。予測がどこまで行けるかは、過去がいくつの型を渡してくれたかによる。生命については、過去は一つしか渡してくれなかった。

この巡を合わせると、語りの視点の移動が見える。選別された群や眼や色から、断片を記憶し予測する研究者へ。これは本篇が選んだ視角であり、化石が確定した動物と人間の認知の境界ではない。

第二巡では主に生命の組織を見た。第三巡の後半では、生命を読む人も画面に入る。ここで初めて生命が記憶を持つのではない。読む私たちが画の外にいるふりを、もうできないのだ。

五 第四巡の入口

第四巡は13DD、自己主体から始まる。単に予測が起こるだけでなく、「私が予測している」と経験を自分のものとして認めることだ。

第二十三篇では、カメラをこのシリーズそのものへ向け直した。シリーズの書き出しでは、鑿の担い手を人から切り離そうとした、と書いた。自然選択が形態空間を切り分ける。目的も偏見もない。それでも構は閉じきらない。第一の層では、そのとおりだ。けれども第二の層で鑿を担うのは、初めからずっと人だった。分類する人、投票する人、図を描く人、この二十三篇を並べる人である。

ゴールデンスパイクをめぐる投票は、ごく小さな 13DD の場面だ。人々が岩壁の前に集まり、同じ石のどこに鋲を打つか、挙手で決める。そのとき彼らは、ただ地層を予測しているだけではない。予測しているのが自分たちだと知っている。この線を引くのが自分たちだと知っている。だから投票し、その理由を書き残す必要がある。13DD の線は、初めて、線を引く人をも画面のなかへ引き入れる。

第二十二篇は中新世の類人猿で止まり、その後のヒトの枝を展開しなかった。このあとがきの読書順では、そこで自己の問いの入口に立つ。これは叙述の境界であり、自己の起源に化石年代を与えたり、ほかの動物の関連能力を否定したりするものではない。「どう自分になるのか」と問うなら、読者はいっそう画の外に隠れられない。

14DDは自己目的主体だ。「私」を認めるだけでなく、自分の方向と価値を見いだし、引き受ける。有限の生でなぜ行動するのかと問うのは一つの入口だが、主体の資格試験ではない。その問いを表現できない人も、目的としての地位を失わない。

振り返れば、本文が警戒した書き方も分かる。後の到達点を過去へ押し戻してはいけない。働き蜂の生殖上の分業に道徳的犠牲を仮定する必要はなく、魚の肢の変化は未来の陸地という終点のためではなかった。コストや機能は論じられるが、結果だけから生物や系統全体の意図を書き込むことはできない。

ここでの目的は、主体が自分の生を自分のこととして引き受ける意味であり、生物学のあらゆる機能や目標指向行動のことではない。後知恵は、人間の目的を進化史にかぶせ、変化がすべて今日への準備だったように描きやすい。この枠組みで警戒する「植民」とは、そのことだ。私たちの物語が、当時まだ開かれていた可能性を呑み込んでしまう。

種の絶滅と個体の死は、同じ出来事の大小版ではない。一方は系統の終わり、他方は一つの生の終わりだ。死を考えることはさらに別の経験だが、考えられなくても死の重みは失われない。このシリーズが主に追ったのは絶滅と存続であり、主体が自分の有限さに向き合う問題はまだ展開していない。

14DD より上は、この篇では書かない。言えるのは一つだけだ。このシリーズには、初めから終わりまで、どの篇にも書き入れなかった対象が一つある。

六 梯子にはモーターがない

さて、冒頭に置いた一言へ戻ろう。梯子はエレベーターではない。

一段ずつ上へ並べたものは、一段ずつ上へ進む過程として読まれやすい。複製から自己維持へ、分化から生殖へ、選択から感知へ、記憶へ、予測へ、そして「私だ」と言える、あの動物へ。第二十三篇で解体した行列の図、類人猿が少しずつ背を伸ばして一人の人間になるあの図は、この読み方を絵にしたものだ。

このシリーズには、まさにその読み方を食い止めるための篇が、いくつかある。

第七篇、「退屈な十億年」。粗い地球化学曲線と少ない化石では静かに見えても、真核生物の新機軸が止まったわけではない。解像度が低ければ多くの変化は見えない。梯子の比喩が役立つなら、まず歴史のどの区間にも上昇を要求してはいけない。

第八篇。多細胞性は繰り返し生まれ、分業の程度は大きく異なる。糸や塊の生活は長く続きうる。登る義務のある段の下で立ち往生しているのではない。そのまま続くことにも、一つの完全な歴史がある。

第二十一篇、単純化。丸々一篇を使い、下へ向かう系統を書いた。寄生虫は消化管を失い、洞窟魚は眼を失う。複雑な体を持っていたのに、数個の細胞だけにまで戻った動物もいる。

第十五篇、空白期。絶滅後の数百万年間、多くの調査地域には広い石炭層や大きく複雑な礁系が乏しい。世界中の石炭一粒、小礁一つまで皆無という意味ではない。生命は残り、長い安定期間を要する蓄積や組織の一部が、ゆっくり回復したのだ。

この四篇を合わせると、梯子のある構造的な性質が見えてくる。各段の余項は、次の段のために場所を空ける。それを上へ押し上げるのではない。

この枠組みで 3DD から 4DD を語るとき、こういう言い方をする。間隔の余項が、因果のための空間を押し開いた。空間のなかの距離は閉じきれず、前後という問題を残し、そこに因果が立ち上がる。同じ筋道で、その先の段を読んでみる。複製は閉じきれない。コピーには間違いが生じ、環境に削り落とされることもある。そこに自己維持の足場ができる。

場所が開くことは、推進力が生まれることではない。枠組みに複雑さを置けても、歴史が必ずそれを作るとは限らず、作った後に簡素化や消失もある。三十億年は比喩に制約を置く。梯子は依存関係を整理できても、進化にモーターを取り付けられない。これは資料に制約された哲学的読解であり、化石によるDD理論全体の証明ではない。

これは梯子に課される制約であり、梯子を守るものでもある。もし梯子にモーターがあったら、14DD の目的は、5DD の時点から到来を約束されていたものとして読まれてしまう。梯子全体が、一つの目的論になる。だが、この枠組みが初めに行うのは否定だけだ。その上にあるどの段も、生えてきたのであって、呼び寄せられたのではない。

七 このシリーズも一本の線である

最後に、このシリーズそのものを梯子に戻してみよう。

シリーズがしていることは、第一巡にある。線を引き、除き、間隔を測り、因果を見定める。語っているものは、第二巡と第三巡にある。複製、自己維持、分化、生殖、選択、感知、そして化石が私たちのために残した、ごくわずかなもの。書くという動作は、第三巡の最後の段に属する。過去の型から、過去そのものを推し量る。そしてシリーズが自分自身を振り返った第二十三篇は、すでに 13DD に立っている。

どの段にも次の問いがある。同一には境界例、分類には古い箱に入らない生、間隔の名には尽くせない地層、因果には検証すべき帰属が残る。複製には伝わらなかったもの、自己維持には未解明の遺伝子、分化には長く単純な系統、生殖には条件で変わる負担がある。選択は偶然を消さず、感知は代理を使い、保存は痕跡をふるい、予測は限られた証拠で進む。余項は万能の「分からない」ではなく、次の具体的な問いの入口だ。

これは、このシリーズの失敗ではない。この枠組みには、核となる判断がある。構に余項があることは、その欠陥ではない。構が閉じきれないのは、線を引くという動作そのものが、線の両側にそれぞれ何かを残すからだ。 梯子が一段伸びるたび、線が一本増え、余項も一つ増える。十六段のあとも、それは変わらない。

第二十三篇の結びには、このシリーズは梯子の外に立って書いたが、次のシリーズで古人類を書くときには、外に立つことはできない、と書いた。いまなら、もう少し正確に言える。このシリーズが書いたのは第二巡と第三巡であり、それを書いた人も読む人も、すでに第三巡より上にいる。次のシリーズで書くのは、一種類の動物が、このシリーズを読めるところまで、どうやって来たのかということだ。13DD まで書き、14DD まで書き、自分が線を引いていると知っている鑿の担い手に出会うことになる。

そのとき、このあとがきで書かなかったあの段が、別の形でそこに現れるかもしれない。けれどもその前に、ここまで読んだ人は、第四巡でしかできないことを一つ、すでにしている。この二十三篇が一つの構であり、人が線を引いた構であると知ったうえで、その先も読み続けると決めたのだ。

全段を暗記する必要はない。石、羽毛、歯に戻り、それが何を見せ、何をまだ見せないかを問うてみよう。次の問いは、あなたが選んでいい。

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