アテナイとスパルタ――同じ相転移への、二つの初期解答
中国の帝王をたどるシリーズは、堯・舜・禹から始まった。中国の政治的な語りにおいて、禅譲は世界の始まりに置かれている。そこには、すでに閉じたかのように見える一つの秩序がある。その秩序は、その後二千年にわたり、政治を思い描くときの重力の範囲を定めた。
ユーラシアのシリーズは、ギリシアから始める。大陸の端にあるから、そこから順に進むという意味ではない。メソポタミアやエジプトより古いからでもない。ギリシアのポリスの時代は、チグリス・ユーフラテス両河やナイル川の流域に最初の国家が生まれた時代より、はるかに遅い。ここを出発点にする理由は、別のところにある。
ギリシアでは、王でも祭司でも特定の家系でもなく、市民を中心に据える政治的な構が、次第に形を取っていった。ここでいう構とは、人、制度、資格、資源を組み合わせて成り立つ秩序のことである。そして市民とは、抽象的な身分だった。ある家の子孫だから、神に選ばれたから、個人として特別な徳があるから政治的権利を持つのではない。出生、年齢、性別、財産、登録という資格条件を満たすから持つ。同じ条件を満たす者は、その共同体のなかで、政治的に対等な者となる。
大した変化ではないように聞こえる。だが紀元前八世紀から四世紀のユーラシアへ目を戻せば、政治はさまざまな顔を持っていた。ペルシア、エジプト、新バビロニアの王権。西周の礼楽の秩序から、諸侯が争う春秋へ移る中国。インドのクシャトリヤ貴族と、ヴァッジ人の集会。ギリシアの多くのポリスでは、政治はさらに具体的な問いに答えなければならなかった。市民として名簿に載る人々は、何ができるのか。彼らは命令を聞くだけの者ではない。議論し、投票し、自分たちの共同体のことを決める者でもあった。
市民もまた、共同体を治める側に立つ。
より正確には、その考えを制度として実行した。哲学者も市民について考えた。しかし特異なのは、哲学ではなく制度である。数百のポリスのかなりの部分が、市民を、名簿に載せ、数え、投票に呼び出せる具体的な法的身分にした。この身分が、西洋の政治的伝統の種となった。二千年以上のち、近代の政治が市民を語るときも、これらのポリスへ立ち戻る。誰に入る資格があり、入った者は何ができるのか。
だから、ここから始める。ギリシアは、人間そのものを政治的な構の中心に置く相転移の出発点だった。中国編では、第七篇から「人間は目的である」という隠れた背骨を明示した。ユーラシア編では、最初の一篇からそれを表に出す。
ただし、相転移は始まると同時に分岐した。ギリシアには一つのポリスがあったのではない。数百あった。それぞれが、誰を市民とするのか、市民に何ができるのか、市民は何を引き受けなければならないのか、という三つの問いに答えていた。そのなかで、最もまとまりがあり、最も対照的で、最も長く影響を残した二つの答えがあった。
アテナイとスパルタである。
両者の違いは、ふつう民主政と寡頭政の違いとして語られる。間違いではないが、それだけでは浅い。民主政のポリスも寡頭政のポリスも、ほかにいくらでもあった。なぜこの二つだけが、後世二千年にわたる対比の原型となったのか。単に政体が違ったのではなく、「人間は目的である」という同じ相転移を、別々の方向に読み解いたからだ。アテナイにとって、市民とは参加する権利だった。公共の事柄について発言し、投票し、決めることが核となる。スパルタにとっては、成員であり続けることだった。強く結びついた共同体のなかで、対等な者としての位置を保つことが核となる。
どちらも市民を構の中心に置いた。そこから、一方は開放、流動、騒がしさ、不安定へ、他方は閉鎖、緊密さ、静けさ、硬直へ向かった。一方は拡張することで余項を取り込み、他方は排除することで余項を押さえ込んだ。余項とは、その秩序の説明や資格では収まりきらないもののことである。
本篇が追うのは、二つの構が三世紀にわたって展開していく過程と、それぞれが終わりに至る仕方である。
一 相転移はどのように起きたか
ギリシアのポリスが形づくられたのは、おおむね紀元前八世紀から六世紀にかけてだった。この二百年間に、ギリシア半島、エーゲ海の島々、小アジア沿岸、南イタリア、シチリア、黒海沿岸に、数百の独立した政治共同体が現れた。たいていは小さい。人口は数千から数万ほど。五世紀の最盛期のアテナイは、総人口三十七万から四十万と推定されるが、これはギリシア世界の上限に当たる例外であり、多くのポリスはずっと小さかった。
この小ささ自体が、相転移の物質的な基礎となった。数千人の共同体であれば、成人男性はほかの成人男性を知っているか、少なくとも名前を聞いたことがある。政治は抽象的なものではない。今日の投票が、明日には隣人や姻戚、顔見知りの暮らしを変える。この規模なら、集まって直接決めるという方法が、実際に使える。代表制は規模の問題に対する解答だ。全員では集まれないほど人が多くなったとき、代表を選んで権利を行使する。ギリシアのポリスには、まだその解答を必要とする問題がなかった。
しかし、小さければ市民が生まれるわけではない。同時代の近東にも、数千人規模の都市はあった。それでも市民という考えは成立しなかった。ギリシアでは、規模の条件に、もう一つの条件が重なった。重装歩兵の登場である。
紀元前七世紀から、戦争の主役は貴族の騎兵から重装歩兵の密集隊形へと移った。重装歩兵は市民兵だった。青銅の兜と胸甲、大きな盾、槍、短剣を自分で用意し、列を詰めて戦う。強さは個人の武勇だけでなく、規律と協同から生まれた。自分の盾は、自分だけでなく左隣の仲間も守る。一人が退けば隙間ができ、列全体が崩れかねない。どの持ち場も、ほかの持ち場にかけがえのない仕方で依存していた。
戦場で身体が知った依存関係は、城内に戻ると政治的な要求になった。戦場で私たちが対等であり、私の命があなたの命と同じだけ重要なら、共同体のことを決める場で、私たちはどういう関係にあるべきなのか。
ポリスは二百年をかけて、少しずつ答えを出した。政治生活でも、私たちは対等である。装備を自弁できるだけの財産を持つ成人自由男性、すなわち農民や職人が政治共同体を構成した。最初の境界は狭く、農民の上層に限られていた。やがて一部のポリスでは広がり、アテナイは最終的に、市民の家系という資格を満たす成人男性を含むようになり、貧しい者も財産の少なさを理由に参加から除かれなくなった。別のポリスでは厳しく固定され、スパルタは拡大しない小集団のなかに市民資格を封じ込めた。境界の位置は違っても、その内側では皆が対等だという命題は変わらなかった。
これはまだ、洗練された相転移ではない。普遍的でも、徹底的でもなかった。奴隷、女性、外国人、子どもはすべて除かれる。社会の少数を占める自由な男性市民だけが、自分たちの事柄をきわめて濃密に直接統治した。それでも、後世が繰り返し立ち戻る核心は、すでに含まれている。政治的権威は統治される者の同意に基づかなければならず、その者たち自身が、決定する権利を持つ主体なのである。
アテナイもスパルタも、ここから出発した。その後、道が分かれた。
二 アテナイ――参加することが市民の核心となる
アテナイの市民制度は、一度の発明ではない。何度かの改革が重なってできた。しかも、そのすべてが同じ方向を向いていたわけではない。
最初の大改革は、紀元前五九四年のソロンによるものだった。アテナイは内戦の瀬戸際にあった。貴族が土地の大部分を持ち、債務を返せない平民は奴隷として売られ、社会の緊張は限界に近づいていた。ソロンは負債を帳消しにし、人身を担保にした貸借を禁じ、市民を財産に応じて四つの階級に分けた。五百石級、騎士級、双牛級、そして最下層のテテスである。上位の階級は重い政治的・軍事的負担を引き受け、最高位の公職に就くことができた。テテスの権利は限られていたが、それでも市民共同体の一員だった。民会に参加し、陪審員を務めることができた。
革新の中心は平等ではない。ソロンは全市民を等しくしたわけではなかった。「市民であるか」と「どの公職に就けるか」を、別の問いにしたのである。自由な身に生まれたアテナイの男性は市民であり、そのうえで財産階級ごとに異なる政治的役割を担う。市民資格そのものが、実際にどれだけの権力を持つかという問題から切り離され、抽象的な法的範疇となった。小さな区別に見える。だが、血縁と貴族同士の関係でできていた共同体を、法的身分に基づく共同体へ変えるという意味で、構造は根底から動いていた。
次の大改革は、紀元前五〇八〜五〇七年のクレイステネスによるものだった。ソロンが市民資格を独立させたとすれば、クレイステネスはそれを組織した。従来、アテナイには血縁に基づく四部族があった。彼はその構造を新しい行政地理に置き換えた。アッティカを海岸部、内陸部、市街周辺の三地域に分け、各地域をデモスと呼ばれる村や区に分ける。そして三地域からデモスのまとまりを組み合わせ、十の新部族を作った。
狙いははっきりしている。血縁共同体をほどき、地理的な混成によって編み直すことだ。市民は居住するデモスに登録され、同じ新部族の仲間でも家系の背景はまったく違うということが起きる。政治的な自己紹介は、「どの家の者か」から「どのデモスに登録されているか」へ変わった。市民を編成する骨組みは、もはや氏族ではない。デモスが新しい行政の出発点となる。各部族は五十人ずつを出し、五百人評議会を構成した。民会を支える常設の機関である。
この改革の深い意味は、市民資格を行政が扱える対象にしたことにある。デモスには名簿がある。名簿は照合できる。資格は与えることも取り消すこともできる。市民であるという主張を、その家の言い伝えだけに任せず、公的な機関で確かめられる。アテナイは、そのための市民登録制度を持つことになった。
第三の大改革は、紀元前四五一〜四五〇年のペリクレスの市民権法だった。今度は、父母の双方がアテナイ市民でなければ、市民資格を認めないと定めた。それまでは父が市民で、母が自由人であれば、母が外国人でも子は市民となれた。以後は母にもアテナイ市民としての身分が必要になる。明らかな引き締めだった。
なぜ門を狭くしたのか。この問いは二千年以上、論じられている。よく挙げられるのは政治経済的な説明だ。海上帝国となったアテナイでは、市民資格は帝国の資源を分け合う権利を意味した。公的な分配、政治参加への手当、海外植民地の土地。その受益者を厳しく限る必要があったというのである。より深い構造を指摘する説明もある。市民の参加で成り立つポリスは、誰が市民なのかを明確にしなければならない。外国人の流入が多い都市で、その輪郭を曖昧にしたままにすれば、市民資格自体の価値が薄まる。
どの理由を重く見るにせよ、効果は同じだった。アテナイの市民資格は、血統にいっそう依存し、閉鎖的で排他的になった。相転移のなかに逆向きの運動が生じたのである。参加権の実質を保つために、成員になる入口を狭くする。
三つの改革を重ねたあとも、アテナイの制度は育ち続けた。紀元前四世紀になると、『アテナイ人の国制』が、より細かな姿を描き残す。その記述をたどれば、一人の人間が市民共同体へ入り、その運転に加わっていく道筋が見える。市民資格には、なお両親ともアテナイ市民であることが求められた。青年は十八歳でデモスの登録審査を受ける。年齢、自由な出生、両親の身分を確かめられ、通過したあとには二年間の訓練と守備任務が待っていた。陪審員や多くの公職は三十歳から認められた。人数は時代によって大きく動く。戦争が始まる四三一年には成人男性市民が約六万人、戦争の終わりには約二万五千人、四世紀には約三万人で安定した。
参加の場は三層あった。第一が民会である。成人男性市民が直接出席し、戦争、講和、その他の公共の事柄を決める。『アテナイ人の国制』の描く四世紀の制度では、十回ある議事当番の任期ごとに四回、年におよそ四十回の民会が開かれた。出席には手当も付くようになった。紀元前四〇三年の民主政復活後に、次第に加わった制度である。第二が民衆法廷である。毎年六千人の陪審員候補をくじで選び、大きな事件では数百人の陪審団を組んだ。第三が公職である。大半の官職はくじで割り当てられ、任期は通常一年、連続して務めることはできない。専門的な能力が必要な一部の職、なかでも十人の将軍は選挙で選ばれた。
肝心なのは、政治参加が少数の市民だけの特権ではなかったことだ。多くの市民が、一生のどこかで自分も経験するものとして見込めた。モーゲンス・ハンセンの研究によれば、十全な市民が二万〜三万人なら、普通の男性も三十歳から六十歳までの三十年間に、少なくとも一度は評議員に、一度は陪審員に、さらに何度か抽選による公職に就く可能性が非常に高かった。政治は眺めるものではない。自分が席に着き、自分の声と票を差し出すものだった。
これが、アテナイによる「人間は目的である」の読み方である。共同体の事柄を決める過程に、市民自身が直接加わる権利を持つ。核心は身分そのものではなく、その身分によって可能になる参加にあった。
ただし、代償があった。
第一は排除である。四三一年の総人口三十七万〜四十万人のうち、完全な参加者である成人男性市民は約六万人、全体の一五〜一六パーセントだった。残る約八五パーセント、すなわち市民身分を持つ女性、未成年者、在留外国人であるメトイコイ、奴隷は、政治参加から除かれた。市民の内側では非常に広い。社会全体に対しては非常に狭い。この広さと狭さは、同じ構造の二つの面だった。
第二は不安定さである。民会は重要なことを決め、自らの決定を覆すこともできる。決定はたちまち全市の動員に変わる。だが思い直したときには、すでに出た命令を追いかけなければならない。四二七年のミュティレネをめぐる審議がよく知られている。民会は最初、町の男性を皆殺しにし、女性と子どもを奴隷として売ると決めた。ところが翌日、再び集まって決定を撤回し、最初の船を追わせるために二隻目を出す。物語の緊張は、二隻目が虐殺の始まる前にミュティレネへ着けるかどうかにある。最初の船はすでに着き、命令も読まれていた。そこへ二隻目が撤回の決定を届けた。間に合った。だが、いつも間に合うわけではない。
第三の代価は、参加する権利の背後に回ってくる、帝国の請求書だった。紀元前五世紀、アテナイの民主政と帝国は互いを支えていた。植民地の土地、貢納金、海軍の仕事が、市民の暮らしを帝国に結びつける。陪審員の日当、漕ぎ手の給金、艦隊の運用には金が要る。この規模の支出を続けるなら、それに見合う収入を保たなければならない。こうして、都市の内側の参加権は、外側の同盟者に脱退を許さない仕組みと絡み合った。
三つの代償は、五世紀後半に重なり合った。そしてアテナイを破局へ向かわせた。
三 ソクラテスの死――構と余項の正面衝突
破局の経過を追う前に、その終わり際に起きた一つの出来事を見ておきたい。
紀元前三九九年。アテナイは四〇四年にペロポネソス戦争に敗れ、三十人政権による短い寡頭支配を経験し、四〇三年に民主政を取り戻していた。復興の途上にあり、傷だらけで、責任を負わせる相手を探していた。その時期に、七十歳のソクラテスが告発された。若者を堕落させたこと。国の認める神々を認めず、新しい神的なものを持ち込んだこと。訴えたのはメレトス、アニュトス、リュコンという三人の市民だった。
裁判は通常の手順で進んだ。正確な人数は確定できないが、数百人の市民からなる陪審団が、まず有罪か無罪かを投票する。有罪なら、訴える側と訴えられた側がそれぞれ刑を提案し、陪審団が一方を選ぶ。ソクラテスは有罪となった。告発者は死刑を求めた。彼はまず皮肉をこめて、国の公会堂であるプリュタネイオンで終身給養を受けるべきだと提案した。オリンピアの勝者や功労者に与えられる栄誉である。その後、友人たちの支援を受けて罰金を提案したが、陪審団は死を選んだ。
西洋はこの出来事を、二千年以上語ってきた。民主政が哲学者を裁いた。多数が真理を押し潰した。アテナイが最も偉大な息子を殺した。そういう悲劇としての読み方は間違いではない。しかし道徳的な物語だけにすると、衝突の形が見えなくなる。鑿で既存のものを開き、そこから構が組み上がり、また余項を生むという周期から見れば、ここで起きたのは、アテナイの構とその内部の余項が、正面からぶつかった出来事である。
アテナイの核心的な仕組みは、市民共同体を最高の権威とすることだった。民会の決定がポリスの意志となり、市民法廷の判決が、ポリスの認める司法上の裁きとなる。多くの場合、この仕組みは働いた。何世紀もの政治的な争いを処理し、数多くの法的・軍事的な決定を下してきた。その正統性は、参加の広さから来ていた。一人の君主が決めたのではない。市民がともに決めた。だから、それはポリスの決定なのである。
だが、暗黙の前提がある。公共の事柄を判断する市民は、共同体の倫理的な枠組みを受け入れていなければならない。個々の政策では異論を述べてよい。ただし、何を正しいと考えるかという大枠は共有する。もしそこから出て、共同体には理解できない基準で判断し始める者がいたら、その人は構の余項になる。
ソクラテスがそうだった。
プラトンの『ソクラテスの弁明』では、「青年を堕落させる」という告発は、日々の問いかけと絡み合っている。若者たちは、知者を自認する人を彼が問い詰めるのを聞き、自分でもまねをする。答えに窮した者は、その恨みをソクラテスへ向けた。彼のほうは、問い続けることを神から授かった務めだと語る。デルポイの神託も、幼い頃からある行動を制止してきた神的なしるし、ダイモニオンも、その弁明に現れる。彼は仮定を最後まで押し進める。もし問いをやめることが釈放の条件だとしても、受け入れない、と。
ここで構と余項がぶつかる。市民共同体の裁決が、一人の人間の手放せない神聖な務めに出会う。良心という言葉でこの衝突を捉えるなら、問いはこうなる。ポリスに人を裁く権利があるとして、その人が何を守り抜くべきかまで、代わりに決める権利があるのか。
アテナイの制度はソクラテスを裁判にかけられた。しかし、一度の投票で問いを捨てさせることはできなかった。量刑の場には罰金という別の案も出ていた。陪審員が最後に選んだのは死刑だった。構は、問いを発した人間を処理した。問いは、処理されずに残った。
しかし、ここに深い皮肉がある。ソクラテスは死んだ。それでも、ポリスの裁決は最後の裁決にはならなかった。その死は後世に、道徳的には正しく、政治的には敗れる一人の人間の姿を残した。ポリスは命を終わらせられる。しかし、その判決への問いまで終わらせることはできない。判決には従い、その判決の道徳的な正しさは認めないということができる。友人の用意した脱獄を拒み、毒杯を飲んだソクラテスは、従うことと同意することを分けた。
この分離は、のちの西洋政治思想の中心的な構造となった。個人の良心は政治的権威から独立して存在しうる。自分の基準で権力を判断することは、正当な知的態度でありうる。カエサルに属するものと神に属するものを分けるキリスト教の言葉、自分の理性によって判断する権利を主張する啓蒙、人間を手段ではなく目的として扱うカント。その早い種がここにある。
ソクラテスはアテナイの余項だった。構は彼を消した。ところが、消すという行為そのものが、余項の価値を増幅した。彼の死は、個人の良心と政治的権威が対峙する原型の物語となり、二千年を生きた。押さえ込んだものは消えず、言説のなかで、いっそう強い形を取って戻ってくる。中国編で何度も現れた主題が、ユーラシアの第一篇にすでに現れている。
時期にも目を留めたい。三九九年は、敗戦、寡頭政のクーデタ、民主政の復活という激動の直後だった。共同体の結束を損なうと思われた人に重い罰を科すことは、傷ついた共同体の反応でもあった。繁栄と自信に満ちたペリクレス時代、紀元前四五〇年のアテナイであれば、ソクラテスは訴えられなかったかもしれない。構は、自信があるときには多くの余項を許容する。傷つくと硬くなり、排他的になり、暴力的になる。これは、あらゆる構に共通する性質である。
四 スパルタ――成員であり続けることが市民の核心となる
スパルタは、もう一つの道を進んだ。
市民制度の中心にあったのは、政治参加ではなく、共同体の成員資格を維持することだった。スパルティアタイと呼ばれる市民、別名ホモイオイ、すなわち「対等な者たち」の資格は、一度認められれば生涯有効という法的地位ではない。複数の条件を満たし続けて初めて保たれるものだった。
まず、両親ともスパルタ市民である家に生まれなければならない。次に、七歳から二十歳まで続く厳しい軍事教育、アゴゲを修了する。三十歳までには共同食事の集団、シュッシティアに受け入れられなければならない。そして毎月、穀物、酒、チーズ、オリーブ、肉など、決められた食料の分担を納める。日々その共同食事に加わり、軍事訓練を受け、重装歩兵としての義務を果たす。ほぼ満たしている、では足りない。すべてを満たす必要がある。
途中で教育を離れれば、資格を失う。共同食事への加入を拒まれても失う。家の土地が足りなくなったり奪われたりして食料を納められなくなっても、やはり失う。そうして地位を落とした者は、ヒュポメイオネス、「劣位の者」と呼ばれた。自由人であることに変わりはなく、スパルタに住み続ける。しかし対等な者の一員ではない。政治的な決定にも、軍の指揮にも加われなくなる。
きわめて精密な仕組みである。静的な身分を、継続する過程に変えている。市民に「なる」のではなく、市民で「あり続ける」。そのための条件を一つでも支えられなくなった日から、もはや十全な市民ではない。
政治制度全体も、市民共同体の内側を固く結ぶように組まれていた。王は二人いる。二つの王家が世襲し、互いを牽制し、戦時には軍を率いる。長老会、ゲルーシアは、六十歳以上の終身の長老二十八人と二王からなる。監督官であるエフォロイは五人。市民から毎年選ばれ、一年の任期中、行政、司法、監督に広い権限を持ち、王を訴追することさえできた。完全な資格を持つ市民は民会に出席したが、その権限はアテナイほど大きくない。主に長老会や監督官の提案を承認するか、退けるかを決めた。
王には君主政、長老会には寡頭政、民会と監督官には民主政の要素がある。混合政体だった。アリストテレスは、異なる集団が権力を分かち合うことで政体が保たれる面を見ていた。同時に、監督官、長老会、財産制度の欠陥も批判した。混合は安定を支えうるが、制度を失敗から免れさせるわけではない。紀元前七世紀から四世紀まで、大きな構造変化がほとんどない。ギリシア世界でも例を見ないほどの安定だった。
だが、その安定を支える地面は狭かった。
完全な市民は、初めから少なく、しかも減り続けた。ペルシア戦争の時期、紀元前四八〇年には約八千人。四一八年のマンティネイアの戦いの頃は二千五百〜五千人とされるが、この数字には研究者間の大きな隔たりがある。三七一年、レウクトラでテバイに敗れる頃には、千人を下回った。紀元前四八〇年から三七一年まで、約一世紀の間に、完全な市民の数は大きく減ったのである。
なぜそこまで減ったのか。スパルタ史の最も深い構造的な問いである。現代の研究が挙げる説明は、互いを排するというより、重なり合っている。
第一は戦争による消耗だ。完全な市民は戦闘の大きな負担を担い、一戦ごとに死者を出す。その損失が積み重なる。第二は自然災害である。紀元前四六四年の大地震では、多数のスパルタ人が亡くなったとされる。地震をきっかけにヘイロタイの大反乱が起き、鎮圧までにほぼ十年を要した。
第三が、構造上は最も深い。土地と富の集中である。もともと市民には一人ずつ、クレーロスと呼ばれる土地の持分が与えられた。ヘイロタイが耕し、その生産で家族と共同食事への拠出を支える。理論上、土地は均等で、市民は対等であるはずだった。しかし相続、持参金、贈与を通じて、土地は少しずつ集中する。スティーヴン・ホドキンソンの研究が示すように、四世紀には少数の家が広い土地を持ち、多くの市民の家は共同食事の負担をまかなえなくなっていた。その人々は、劣位の者へと落ちていく。
第四は、家族が続いていくための条件だった。プルタルコスは、若い夫が仲間と暮らし、妻にひそかに会いに行く姿を書いている。家庭生活と共同生活は、互いに押し合っていた。ただ、その記述だけでは通常の結婚年齢はわからず、市民数の減少も説明しきれない。アリストテレスが指摘したのは、子を増やす奨励と土地配分の矛盾だった。土地が少数者に集中したまま子どもが増えれば、次の世代は市民資格を維持しにくくなる。
重ねて見ると、一つの原因が浮かび上がる。市民であり続けるための費用が高すぎた。土地の基盤、家の継承、軍事訓練、食料の拠出、政治的義務を、同時に保つ必要があった。どれか一つの失敗で降格する。しかも必要な資源を少しずつ切り詰めてしのぐことができない。今年だけ少なく納める、という選択肢はない。全額を納めるか、外へ出るかだった。
アテナイとの違いはここにある。アテナイの構は拡張的で、市民資格の条件は相対的に緩く、より多くの人を抱えられた。ペリクレスの時代に入口を狭めたとはいえ、スパルタに比べればはるかに広い。スパルタの構は収縮的だった。条件は厳しく、新たな人を入れられず、市民共同体は縮む一方になる。
アテナイは、広がることで余項を取り込もうとした。スパルタは、排除して余項を押さえた。最下層にヘイロタイを置き、その上に、自由だが市民ではないラコニアとメッセニアの周辺住民、ペリオイコイを緩衝層として置く。頂点には、永遠に少数の精鋭である完全市民がいる。この三層構造は物質的にはよく働いた。ヘイロタイが農耕を、ペリオイコイが手工業、商業、地域の統治を担い、市民は戦争と政治に専念する。だが人口の面では脆い。頂上が縮み始めれば、ピラミッド全体が揺らぐ。
市民資格を保つ圧力は、一人ひとりの市民の身体と家計に載せられた。秩序を保つ暴力は、ヘイロタイの身体に載せられた。高密度な構の二つの面である。内側の成員にはきわめて多くを要求し、外に置く者にはきわめて強い暴力を向ける。
ヘイロタイについては、別に立ち止まる必要がある。ヘイロタイは奴隷状態に置かれていた。ただし、その奴隷制には固有の決まりがあった。ストラボンの伝える規定によれば、保有者は彼らを独断で解放することも、国外へ売ることもできなかった。人を好きに処分できないからといって、その人に自由を返したことにはならない。解放されていないヘイロタイは、なお土地に縛られ、収穫の半分を、その土地を持つスパルタ人に渡さなければならなかった。数は市民をはるかに上回り、七〜十倍ほどと推定される。ラコニアと、紀元前八世紀に征服されたメッセニアに集中的に暮らしていた。
支配の土台は、絶え間ない暴力だった。監督官は毎年の就任時、ヘイロタイに正式な宣戦を行う。そうしておけば、ヘイロタイを殺しても、宗教上の殺人の穢れを負わずに済む。国内の人口の大半を占める人々への殺害を、国家が手続きにし、宗教的に整え、合法化するという極端な例だった。
具体的な装置の一つが、クリュプテイアである。若いスパルタ人は成人への訓練の一環として、短刀を持たされ、田野に送り出された。強すぎる、賢すぎる、人を率いる力がありすぎると見えるヘイロタイを、ひそかに殺す。反抗を指導する者が育たないよう、指導力そのものを体系的に取り除く仕組みだった。
トゥキュディデスは、一つの出来事を記している。スパルタ人は、戦功を立て、自由に値すると自分で思うヘイロタイに、選抜を受けるよう告げた。約二千人が選ばれ、花冠をかぶり、神殿を巡って、自由を得たことを祝った。まもなく、スパルタ人は彼らを殺した。トゥキュディデスは彼らの死を書き残したが、一人ひとりがどのように死んだかという答えは残さなかった。
さらに不穏なのは、選び方である。トゥキュディデスの説明では、真っ先に自由を求めて名乗り出る者ほど、反抗にも立ち上がりやすいと見なされた。戦功はこの人々を守らなかった。かえって、選び出される理由になった。だが同じ書物には、ブラシダスとともに出征したヘイロタイが、のちに実際に自由を得て、別の土地に住まわされたことも記されている。二つの集団は、同じ結末を迎えたのではない。残酷さはすぐに見える。さらに問うべきは、あの選抜で、なぜ自由を求める勇気が、危険な者である証拠になったのかということだ。
鑿と構の周期という観点では、ここにも構とその内部の余項との衝突がある。ヘイロタイは共同体を支える労働を担いながら、対等な者たちの共同体からは締め出されていた。スパルタは一群の人々を解放できる。それでも、多数が下層に押しとどめられるかぎり、裂け目は残る。ピラミッドの上層がもとの場所にとどまるには、下層をもとの場所にとどめ続けなければならない。
少数の完全市民からなる、純度の高い共同体を維持したい。しかし、その物質的な基盤は多数への持続的な暴力にある。二つは互いを前提とする。成員の純粋な結束は、外への純粋な排斥によって支えられる。これがスパルタの構の逆説だった。
どれだけ続けられるのか。数世紀は続けられた。ただし一年ごとに、内側を消耗する。資格を保てずに落ちる市民が増える。ヘイロタイとの人数の比率が、市民に不利な方向へ傾く。秩序のための暴力が、次の暴力を必要とする怨恨を積む。変わらないように設計された構のなかで、人間は変わる。内側にいる者も、外に置かれた者も変わり続ける。
紀元前三七一年、千人に満たない完全市民を抱えたスパルタは、レウクトラでテバイのエパメイノンダスに敗れた。テバイはその後メッセニアのヘイロタイを解放し、四百年の抑圧を終わらせた。スパルタはギリシアの覇者の座から落ち、二度と戻らなかった。都市としては、その後も何世紀か存続する。だが一つの政治的構型としては、レウクトラの日に終わったのである。
五 ペロポネソス戦争――二つの構の正面衝突
アテナイとスパルタの対立は、すでに長い歴史を持っていた。それが二つの構型の決戦となったのが、紀元前四三一〜四〇四年のペロポネソス戦争である。
原因は複雑だった。ポリス間の個別の争い、アテナイのデロス同盟とスパルタのペロポネソス同盟の対峙、海上帝国の拡張が生んだ恐怖、ケルキュラ、ポティダイア、メガラへの禁輸令をめぐる危機。その重なりの下に、トゥキュディデスは構造的な原因を見た。アテナイの力が増し、それを恐れたスパルタが、戦争を避けられなくなったというのである。
後世の国際関係論は、新興勢力と既存の覇権国がどのように戦争へ進むのかというこの問いを、「トゥキュディデスの罠」と呼ぶようになる。その見方は近代以降、繰り返し引かれてきた。だが、鑿と構の周期から見るこの戦争の深い意味は、「勢力の移動」ではない。二つの構型が、戦争によって互いの対立を処理したことにある。
アテナイは開かれ、流動し、拡張する構だった。紀元前五世紀、その参加の規模は海上帝国の資源と結びついていた。デロス同盟の仲間の多くは、加入を強いられたか、脱退を許されなかった。自国の自由な市民という理念との矛盾は明らかだ。都市の内側の自由と外側の服従が、同じ財政と軍事の仕組みにつながれていた。
スパルタは閉じ、硬く、防御に向いた構だった。重心にあったのは、いまある市民共同体と支配秩序を守ることだ。同盟者がアテナイへなびき、ペロポネソス同盟の結束が緩めば、その秩序が脅かされる。現状を守る軍隊も、境界を越えて進む。互いの勢力圏に収まるかぎり、二つは共存できる。一方が他方を自分の圏内へ巻き込もうとすれば、その条件が失われる。
アテナイの海上交易路が広がり、各地に同盟者が増え、スパルタ自身の仲間まで動揺し始める。スパルタには包囲されていく感覚があった。トゥキュディデスは、スパルタが開戦を決めた理由を、アテナイの力の増大への恐れに求めた。もとの世界を守ることが、軍を出してその世界を変える理由になった。
戦争は曲折に満ちている。ここでは、二つの構の働き方が露出する節目だけを追う。
第一段階、四三一〜四二一年は、互いに消耗しながら決着がつかなかった。そこに予想外の災厄が加わる。四三〇〜四二六年のアテナイの疫病である。病原については、発疹チフス、天然痘、出血熱などが提案され、いまも議論がある。政治的な影響は明確だった。多数の住民が死に、四二九年にはペリクレスも亡くなった。アテナイは最も優れた指導層を失った。クレオン、アルキビアデス、ニキアスはそれぞれ力を持っていたが、ペリクレスのように市民の異なる力を一つにまとめることはできなかった。政治は、いっそう不安定になる。
第二段階の決定的な出来事が、四一五〜四一三年のシチリア遠征だった。アテナイは西地中海の掌握を目指し、シュラクサイへ大艦隊を送った。賭け金も、得られるはずの利益も大きかった。トゥキュディデスの叙述には悲劇の緊張がある。アルキビアデスの言葉に動かされた民会が遠征を決め、出発前には神像の破壊という宗教上の凶兆が現れ、遠征の途中で彼は裁判のために召還され、スパルタへ逃れる。
結末は壊滅的だった。アテナイの艦隊はシュラクサイで決定的に敗れ、陸軍は退却中に崩壊し、ニキアスとデモステネスは処刑された。トゥキュディデスは、捕虜は七千人を下らなかったと見積もる。採石場には身を覆うものがない。昼は日に焼かれ、秋の夜は冷え込み、生者と死者が押し合う。飢えも渇きも終わらない。およそ七十日後、一部の捕虜は売られ、ほかの者は残された。この遠征へ出ていった者は多く、帰った者は少なかった。
シチリア遠征の失敗は、アテナイの構の弱点をはっきりとさらした。二度目の会議がなかったわけではない。最初の決定から五日後、民会は再び開かれ、ニキアスはなお遠征をやめさせようとした。トゥキュディデスによれば、説得が実らないと、今度は膨大な兵力と物資を要求し、その大きさで人々が思いとどまることを望んだ。彼の演説は同時に、本当に出発するなら安全を支えるだけの備えが要るとも訴えていた。アテナイ人は思いとどまらなかった。その大がかりな準備が、かえって聞き手に自信を与え、もっと多くの船と人を出す気にさせた。アルキビアデスの鼓舞は止められず、反対者の警告が遠征の装備に組み込まれた。説得できたことは、判断が正しいことではない。このとき再審議は、誤りを止めなかった。誤りの装備を、さらに整えた。
第三段階、四一三〜四〇四年に決定的な変数となったのがペルシアである。スパルタはペルシアと秘密の協定を結んだ。艦隊を造る資金を受け取る代わりに、小アジアのギリシア諸都市に対するペルシアの支配を認める。ギリシアの自由の擁護者を名乗ってきたスパルタにとって、大きな譲歩だった。だが金が必要だった。その金によって、初めてアテナイの海軍に対抗できる艦隊を持った。
最後の決戦は四〇五年のアイゴスポタモイだった。リュサンドロスが、現在のダーダネルス海峡に当たるヘレスポントスで、アテナイ艦隊を破壊した。黒海方面から穀物を運ぶ道が断たれた。数か月の包囲ののち、アテナイは四〇四年に降伏した。
降伏条件は、アテナイと港のペイライエウスを結ぶ長城を壊すこと、海外領を手放すこと、艦船の大部分を引き渡すこと、ペロポネソス同盟に加わることだった。そして民主政が倒され、スパルタの支える三十人の寡頭政権に置き換えられた。
しかし三十人の支配は数か月しか続かなかった。四〇三年、民主派が立ち上がり、政権を倒して民主政を回復した。スパルタが介入しなかったわけではない。リュサンドロスとパウサニアスは、アテナイをどう扱うかをめぐって方針が異なっていた。パウサニアスは出兵したのち、両派の和解も進めた。アテナイの民主政は、スパルタがまったく手を出さなかったから戻ったのではない。軍事介入、スパルタ内部の方針の相違、そして政治的な調停が交錯するなかで回復したのである。
アテナイは戦争に敗れた。それでも構は死ななかった。四〇三年に戻った民主政は、マケドニアによって独立性が失われる三二二年まで、さらに八十年以上続いた。スパルタは戦争に勝ち、ギリシアの覇者となった。だが覇権は三十年余りしか続かず、三七一年のレウクトラで終わった。こちらの構は、その敗北から立ち直れなかった。
勝った者がなぜ失い、負けた者がなぜ残ったのか。
アテナイが失ったのは戦争であって、構を作り直す可能性ではなかったからだ。市民の参加、抽選での公職、民会、民衆法廷は再建できる。約三万人の成人男性市民という比較的安定した人口と、農業、海上交易、銀山という回復可能な物質的な基盤が残っていた。国は小さく、貧しくなった。それでも、より小さな規模と異なる資源の条件のもとで、その内側の論理を動かし続けることができた。
スパルタが得たのも、戦争の勝利であって、構の再生ではなかった。完全市民の共同体は戦争で一挙に壊れたわけではないが、もともと減りつつあった人員を、戦争がさらに消耗させた。一勝ごとに数十人の市民を失う。その損失を補えない。外の者はスパルタ市民になれないからだ。勝つことで、内側の縮小が速まった。
レウクトラに送られた重装歩兵のうち、完全市民は千人未満で、それ以外はペリオイコイや解放されたヘイロタイだった。市民共同体を代表して戦う軍の大半を、非市民が占めている。その姿自体が、構の内部が空洞になっていたことを示す。
構の強さは、一時の勝敗では測れない。持続できるか、損失を受け止められるか、再建できるか、規模を変えても働けるかで測られる。アテナイにはそれができた。スパルタは精密で、閉じていて、脆かった。成功するたびに、ただでさえ乏しい資源を使ってしまう構だった。
六 相転移が残した二つの遺産
紀元前四世紀の末には、独立したポリスの時代は実質的に終わっていた。フィリッポス二世とアレクサンドロスのマケドニアがギリシア半島をまとめ、大きな君主制の帝国のなかへ組み込んだ。ポリスは政治的な単位として、その後も何世紀か生きる。しかし独立した政治主体ではない。マケドニア、プトレマイオス朝、セレウコス朝、ローマといった、より大きな構の一部になる。
時代は終わった。遺産は終わらなかった。二つの異なる仕方で、生き残った。
第一は、言説としての生存である。アテナイとスパルタは、二つの構型の原型として、二千年以上、繰り返し引用され、比較され、比喩として使われた。プラトンは『国家』でスパルタ的な政体を論じた。ただし、自らの理想国家をスパルタと同じにしたわけではない。アリストテレスは『政治学』で、両都市を政体分類の重要な事例とした。共和政期のローマ人も、両者を鏡に自分たちを見た。規律や公共の徳を重んじる点ではスパルタに近く、同時にアテナイ的な開放性も持つと考えた。
ルネサンス期のフィレンツェやヴェネツィアは、自らをギリシアのポリスの新しい継承者と見なした。アメリカ建国期の人々は『ザ・フェデラリスト』で、アテナイの直接民主政の弱点とスパルタの安定の代価を論じた。フランス革命のジャコバン派は、近代のスパルタ人として自分を思い描いた。十九世紀のヨーロッパの歴史家は、この二都市を何度も書き直した。
なぜこれほど長く、対比としての力を失わなかったのか。市民を政治の核心に置くなら、どちらへ向かうのかという二つの基本方向を示したからである。参加を広げ、開き、流動を受け入れるのか。その代わりに騒がしさと不安定さを引き受けるのか。あるいは成員資格を絞り、結束と秩序を保つのか。その代わりに閉鎖と硬直を引き受けるのか。すべての政治体制が二つの端点にぴたりと重なるという意味ではない。二つの端点が、共同体の境界を開くか、広げるかという、避けられない緊張を示している。
後世の市民と共同体をめぐる想像は、何度もこの緊張へ戻ってくる。第三篇で扱うローマ市民権の拡大は、アテナイ方向の極限版である。都市の内側だけでなく、帝国の全域へ広げる。キリスト教の魂の平等は、別の開放性だった。政治的境界を越え、すべての信徒へと「人間は目的である」を押し広げる。中世都市の市民身分は、スパルタ方向の縮小版となる。閉じた成員資格、厳しい審査、外来者の排除。近代国家は、この緊張を別の規模へ持ち込む。市民資格を広げることはできる。しかし資格を得る条件は、なお法律が区切る。誰が市民になれ、誰が門の外に残るのか。開放と排除が、同じ身分制度に書き込まれている。
その緊張が再び作動するたび、アテナイとスパルタの名が戻ってくる。独立都市としての寿命は尽きても、言説の寿命は尽きない。
第二は、哲学としての生存である。ソクラテスの死が残した、あの裂け目だ。
アテナイの民主政は戻せる。ソクラテスの命は戻せない。制度が再び動いても、あの判決の残した衝突はそこにある。個人の良心と政治的権威は分かれうる。同じ一人のなかでも分かれうる。道徳的に正しいまま、政治的に敗れることがありうる。
弟子のプラトンは、この分裂を著作全体に刻み込んだ。その哲学の底には、一つの問いが動いている。ソクラテスが正しく、アテナイが誤っていたなら、何を物差しとして政治制度を判断するのか。哲人王、イデア論、『国家』。彼の答えはアリストテレスによって修正され、キリスト教に取り込まれ、啓蒙によって再び動かされる。だが、どの答えも同じ前提を持っていた。政治制度そのものを、政治を超える基準で判断できるという前提である。
ソクラテスが裁かれるより前、アテナイの舞台には、すでに別の不服従が現れていた。『アンティゴネ』の主人公は、兄を埋葬してはならないという王の命令を知りながら、埋葬した。彼女が守ったのは、書かれざる神聖な法だった。王の命令も、その務めを彼女から取り去ることはできない。政治的な権威は違反した者を罰せる。だが命令を出したというだけで、もう一つの物差しを消すことはできない。
「人間は目的である」という相転移の最深部はここにある。人間を政治的な構の中心部品にするだけではない。人間そのものを、構を評価する基準にする。どれほど強く、効率がよく、安定した秩序でも、人間を目的ではなく手段として扱うなら、それは誤っている。その誤りを告げる権威は、さらに強大な政治権力から来るのではない。理性と良心と尊厳を持つ存在としての、人間自身から来る。
ソクラテスは、この言葉を使わなかった。のちにカントは、人を目的として扱うという要求を、一つの原則にした。自分であれ他者であれ、人をつねに同時に目的として扱い、決して単なる手段としてはならない。この原則をソクラテスの物語に戻すと、問いは具体的になる。自分の判断を手放さない人を、共同体はどう扱うのか。一つの死と一つの原則が、二千年以上を隔て、ここで同じ裂け目を照らしている。
ギリシアの段階では、それはまだ粗く、限定され、排除に満ちていた。成人の自由男性市民にしか及ばず、奴隷、女性、外国人、子どもは外に置かれた。境界が狭まるのは、危機が来てからとはかぎらない。ペリクレスが市民資格を厳しくしたとき、アテナイはまだ、のちのペロポネソス戦争と疫病を経験していなかった。戦争に敗れ、民主政が復活したあとには、ソクラテスが法廷に送られた。スパルタによるヘイロタイの抑圧は、共同体を日々保つ営みを貫いていた。拡張と排除は、順番に上演される二つの幕ではない。同じ構のなかに、ひしめいている。
だが、相転移は始まっている。市民、成員、判断する権利という問いをたどっていくと、ローマ、キリスト教、ヘレニズムの君主、後期ローマ、絶対王政が、この緊張を異なる規模へ運ぶ。イスラームのウンマ、ルネサンス、啓蒙、ソヴィエトは、さらに形を変える。迎え入れられる者がいれば、締め出される者もいる。人が自分を判断することを許す構もあれば、従うことを求める構もある。共同体は人をどう組織し、その人に共同体を判断する余地をどれだけ残すのか。これからの各篇が、繰り返し追う問いである。
このためにギリシアから始めるのであって、「西洋文明の起源」だからではない。その語り方は、あまりにも民族主義的である。ここでは市民が政治的な構の中心となり、ソクラテスの物語が、一人の人間の判断を政治の裁決に向き合わせたからだ。欠陥も、暴力も、代償もあった。それでも、取り消せない何かが始まった。その後二千年以上の歴史は、ある意味で、この相転移が異なる条件の下で展開し、広がり、逆流に遭い、それでも戻ってくる過程なのである。
七 次の問い――構は輸出できるか
紀元前三三八年のカイロネイアの戦いで、マケドニアのフィリッポス二世は、アテナイとテバイを中心とするギリシア連合軍を破った。ポリスの時代は実質的に終わる。ギリシア半島はマケドニアの覇権下に入り、都市の独立は名目だけのものとなった。
その息子アレクサンドロスは、三三四年に東征を始める。十二年のうちに、軍はマケドニアから小アジア、シリア、エジプト、メソポタミア、ペルシア本土、中央アジアを通り、インダス川まで達した。エーゲ海からインダスまでの広大な土地を征服したのである。
鑿が進む速さは、途方もなかった。では、鑿で開いたあとに何を組むのか。
アレクサンドロスは、新しい構を作ろうとした。ギリシア語、神殿、都市の設計というポリスの要素と、ペルシアの王権、行政、地域の貴族という東方の伝統を合わせる。自分の名を持つ都市をいくつも建て、ギリシア・マケドニアからの移住者と土地の人々をともに住まわせた。自らペルシアの服をまとい、ペルシア貴族と婚姻を結び、宮廷ではペルシア式の礼を求めた。
それは、ギリシアのポリスの構を、はるかに大きな規模へ輸出する試みだった。しかし、構は輸出できるのか。数千から数万人のためにできた秩序を、大陸を横断する帝国へ広げることはできるのか。
次篇は、アレクサンドロスとヘレニズム――構は輸出できるか。