第二篇 アレクサンドロスとヘレニズム――構は輸出できるか
紀元前334年の春、二十一歳のアレクサンドロスが、マケドニアとギリシアの連合軍およそ四万人を率いてヘレスポントス海峡を渡り、小アジアに入った。マケドニアとペルシアの全面戦争の始まりである。十一年後、彼は三十二歳でバビロンに死ぬ。海峡を渡ってから死ぬまでのあいだに、その軍はインダス川に達し、支配はヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸にまたがった。
ユーラシアの歴史でも、きわめて速い鑿の一撃だった。
中国の帝王を扱ったシリーズにも、これに似た一撃があった。秦は十年、紀元前230年から221年までに六国を滅ぼした。統一から秦の滅亡までは十五年である。どちらの征服も、十年ほどの時間で数えられる。地図の境界線はすぐに変えられる。その内側に入った人々と制度を、一緒にとどめておけるかどうかは別の問題だ。秦が崩れたのは統一者の死後だった。アレクサンドロスの帝国は、統一者が生きているうちから持続できない兆候を見せていた。オピスの反乱、遠征軍の疲弊、マケドニア中枢の有力者たちに対する粛清。三十二歳での死は、すでに緊張を抱えていた試みを途中で打ち切った。
秦とアレクサンドロスを並べると、鑿と構の周期に繰り返し現れる現象が見えてくる。きわめて速い破壊のあとに、脆い構が残る。破壊なら十数年でも終えられる。壊す速度は速くできるからだ。構を築くには、もっと長い時間が要る。新しい政治体に帰属するという感覚、慣れ、制度として動く仕組みを育てなければならない。征服者は十数年で敵をすべて倒せる。だが同じ時間で、征服された人々が進んで支配に従い、その帝国を自分の故郷と思い、その法律を当然のものとして受け入れるようにはできない。
これが、鑿と構の根本的な非対称である。
しかしアレクサンドロスは、征服者であるだけではなかった。帝国の規模でヘレニズム的な政治の構を本格的につくろうとした、歴史上最初の人物だった。ギリシアの都市国家の要素と東方の伝統の要素を結び、新しい政治形態を生もうとした。その努力は一部で失敗し、一部で成功した。後継者たちは帝国を分けたが、その支配のもとでヘレニズムの構は展開を続ける。紀元前323年の死から、最後のヘレニズム王国であるプトレマイオス朝エジプトがローマに併合される紀元前30年まで、ほぼ三百年が過ぎた。
この三百年は、ユーラシア史の重要な時期である。ギリシア都市国家の制度と文化が、はるかに広い地域で帝国の統治と長く結びついた。アレクサンドリア、アンティオキア、セレウキアのように文化が交わる大都市は、その結びつきが形になった場所だった。ギリシア語、美術、哲学、ギリシア式の貨幣は、新しい都市と支配の網を伝い、地中海からインダス川までの広い地域へ運ばれた。都市、市民、王権をめぐる難問は、のちのローマ、キリスト教、イスラームの世界でも、それぞれの状況のもとで繰り返し現れる。
この篇の問いは、ギリシアの都市国家の構は輸出できるのか、ということだ。都市国家に合わせてつくられた政治の構を、帝国の大きさに広げたら何が起こるのか。
答えは単純ではない。ギリシアの都市国家が、そのまま大きくなって帝国になったわけではない。民会、抽籤による官職、直接参加は、ヘレニズム帝国全体の統治方式にはならなかった。一方、ヘレニズム諸国が、ただ東方的な専制へ戻ったわけでもない。王権とともに相当程度の都市自治、ギリシア式の法、市民資格の制度を残した。都市国家でも東方帝国でもない、新しい複合体ができた。その内部の緊張が、ヘレニズム時代全体を形づくった。
一 征服した土地を動かす――継承、分権、責任追及
ここでアレクサンドロスを理解する鍵は、「ギリシア文明を東方へ運んだ」文化の使者ではなく、精緻な統治の技術にある。直面した問題は具体的だった。ペルシア帝国を征服した。だからこそ、帝国を動かし続けなければならない。ペルシア人官僚をすべてマケドニア人に替えれば、行政は即座に崩れる。全員をそのまま残せば、実際の統制を失う。彼の答えは権限の分割だった。民政、軍事、財政を切り離し、それぞれ別の人間に渡す。
紀元前331年のバビロンを見ると、その仕組みがよくわかる。都市はアレクサンドロスに門を開いた。彼はペルシア貴族マザイオスを総督に任命し、軍をアポロドロスに、収入の管理をアスクレピオドロスに任せた。三つの名、三つの職。ペルシアの貴族が引き続き地方を治める。ただし、その土地の兵と金まで、一緒に渡されたわけではなかった。
総督と王の守備隊を分ける仕組みは、何もないところからの発明ではない。ペルシアの統治経験にも、すでに同種の配置があった。バビロンで彼が行ったのは、既存の職を引き継ぎ、そのあいだの関係を組み直すことだった。地方行政を預かる者が、その資格だけで守備隊を動かすことはできない。軍の指揮官が、その資格だけで収入全部を引き取ることもできない。地方は動かさなければならない。しかし一つの職に就いたというだけで、機械全体を自分のものにはできない。
バビロンだけではない。ペルシア本土のペルシスでは、ペルシア貴族フラサオルテスを総督とし、軍と財政を別に配置した。メディアではアトロパテス、ヒュルカニアではアミナペスを用いた。いずれもペルシア人である。小アジアではマケドニア人を総督としながら、ギリシア諸都市の相対的な自治を保った。都市は自分たちの民会と役人を持ち続ける。ただし、税はアレクサンドロスに納める。
「取り替えずに使う」と呼べる方法である。ペルシア帝国が築いた行政の骨格を使い、分権とマケドニア軍の監督によって、新しい最高権威のもとで動かす。彼は行政機械を壊したのではない。その接続を変えた。
紀元前324年、インドから帝国の中心部へ戻った彼は、もう一つの作業を始めた。監査である。東征中に職務を怠り、汚職や権力濫用を行った総督を、組織的に調べ上げた。アブレテス、オクサトレス、オルクシネスらが処刑、あるいは処罰された。責任を問うと同時に、警告する行為でもあった。王は総督の仕事を見続けている。何をしているか、忘れたわけではない。
バビロンの任命とスサの処罰は、支配を維持する二つの方法を示している。古い行政を働かせること。そして地方官に、最高権威は戻ってきて追及する、と知らせること。ただし古い機械を使えば、抵抗なく接収できるわけではない。ソグディアナではスピタメネスがマラカンダの守備隊を包囲し、王の送った援軍が大きな打撃を受けた。征服者は引き返して戦わなければならなかった。任命は届けられる。服従まで任命と一緒に届くとは限らない。
ここには皮肉がある。ペルシアを引き継ぐために、彼はまずペルシアをギリシアに変えたのではなかった。古い行政を動かし、その上に新しい最高権威をつないだ。都市国家の設計図を広げる前に、総督、徴税、守備隊はすでに持ち場に就く必要がある。征服者が最初に必要としたのは、純粋な新制度ではない。明日も動く土地だった。
帝国を引き継ぐことは、その構を丸ごと取り替え終えることではない。アレクサンドロスはまずペルシアの王座に座った。そこから、望んだヘレニズム的な政治体をどうつくるかは、まだ宙に浮いていた。これが本当の緊張である。彼はギリシア世界の出身だった。正確には、その周縁のマケドニア、本土の諸都市から半ば野蛮と見られていた王国の出身である。軍はマケドニアとギリシアの連合軍だが、統治される人々の大半はペルシア人など東方の諸民族だった。ギリシア式の王になるのか、ペルシア式の王になるのか。
征服の初めには、それほど切実ではなかった。マケドニア王であり、同時にアジアの征服者であることは両立した。支配が深まるにつれ、二つの顔は衝突する。ペルシア人には、ペルシア王らしく見える必要があった。衣服、儀礼、貴族との婚姻、貴族の子弟を近衛に入れること。マケドニア人には、マケドニア王らしく見える必要があった。故国の服装、自由な戦友同士の平らな関係、ペルシア式の屈従の礼を受けないこと。
どちらを選んでも、片方の支持者が不満を持つ。彼は両方を同時に行おうとした。後半生の「融合政策」は、この状況から生まれた。
二 融合の理念か、支配の技術か
紀元前330年、ダレイオス三世の死後、アレクサンドロスはペルシア王の外見を組織的に取り入れ始めた。ディオドロスによれば、王の鉢巻状の冠、白い衣、帯を着ける一方、ズボンと長袖の上着は着なかった。その二つはギリシア人の目に、あまりに「東方的」だった。クルティウスは、友人や高位の将軍にもペルシアの服装を求めたと記す。選び方は細かい。王権をもっともよく示す冠と白い衣は使う。しかしギリシア人が強く嫌うズボンは避ける。
これは自己の入れ替えではなく、政治的な演出である。ペルシアの臣民に正統な王と認められるため、王の衣を着る。同時にマケドニア人としての姿を全部捨てるわけにはいかないので、その一部を残す。細部の一つ一つが計算されていた。
さらに争いを呼んだのが、プロスキュネシスというペルシア式の屈従の礼だった。王に向けて口づけを送るものから、全身を地に伏すものまである。ペルシア人にとって、この礼は必ずしも王を神とすることではない。宗教的な崇拝ではなく、政治的な従属を表す。同じ礼も、マケドニア人とギリシア人の前では別の意味に読まれうる。カリステネスの反対は、人間に与える栄誉と神に与える栄誉は違う、という点から始まった。誰が誰の前で身をかがめるかは、もはや単なる宮廷儀礼の問題ではなかった。
紀元前327年ごろ、その問題が宮廷で先鋭化する。アッリアノスが伝える議論では、王に神聖な栄誉を与えようとする者に対し、カリステネスが人と神の礼は分けるべきだと主張した。別の宴会の話では、金の杯が彼に回ってくる。酒を飲み、身をかがめず、そのまま王に接吻しようと進み出る。礼を一つ飛ばした、と誰かが告げる。王は接吻させない。カリステネスは、口づけを一つもらい損ねただけだ、と言う。
同じ部屋にいるのに、同じ動作の意味が違っている。アッリアノスによれば、争論のあとマケドニア人にはこの礼を促さなくなったが、ペルシアの高官は順番に身を伏せた。アレクサンドロスは二つの集団を同じ宮廷に集められる。それだけで、王を同じ仕方で理解させることはできない。服は混ぜて着られる。礼は、まだ縫い合わされていない箇所を露わにした。
集団結婚も、その試みの一つだった。紀元前324年の春、スサで盛大な婚礼が開かれる。アレクサンドロスはダレイオス三世の娘スタテイラと、アルタクセルクセス三世の娘パリュサティスを妻とした。もっとも親しい友人ヘファイスティオンは、ダレイオスのもう一人の娘ドリュペティスと結婚する。ほかにもおよそ八十人のマケドニアの側近が、それぞれペルシアやメディアの名門の女性を迎えた。プルタルコスは宴の客を約九千人とし、一人ずつ金杯が贈られたと記す。式はペルシア式で行われた。
融合政策の頂点だった。婚姻による血縁で、マケドニアとペルシアの有力者を永続的に結びつける。もしその論理が続き、マケドニアの側近とペルシアの妻の子供たちが新帝国の指導層になっていたなら、ギリシアとペルシアの混ざった新しい構が、本当に成立したかもしれない。
だが婚礼は、帝国を一つの家族には縫い上げなかった。王の死後、後継者はそれぞれ同盟を組み替え、スサの取り決めを維持する一人の主はいなくなる。ただし、婚礼が残した結びつきまで、すべて失われたわけではない。セレウコスの妻アパマは、のちに王朝の地図に入った。シリアのアパメイアは彼女の名を取る。婚宴は帝国をつながなかった。それでも一つの関係は、別のかたちで残れた。
なぜ婚礼は帝国を縫い合わせられなかったのか。クルティウスはマケドニア軍の内輪の声を伝えている。兵士たちは、戦争で得たものより勝利の中で失ったもののほうが多い、と感じていた。王はもはやマケドニア王ではなく「ダレイオスの総督」だ、とこぼす。彼らには、王が故国の伝統に背き、東方に堕落させられたように見えた。この感情は紀元前324年、オピスで爆発する。王は一万人のマケドニア老兵の帰国と、ペルシア人の軍中枢への組み込みを告げた。兵士たちは集団で反乱を起こす。鎮めるまでに数日を要した。
この反乱は問題の所在を示している。マケドニア軍は帝国の本当の土台だった。その軍がなければ、ペルシアの征服も帝国の維持もできない。しかし、その軍は融合を受け入れない。兵士は命を賭けてペルシアを征服した。望んだ報酬は、ペルシアを支配することであって、ペルシア人と一つになることではない。彼らを対等に扱うのは、勝者にとって、得るはずの報酬を取り上げられることだった。
ここに融合政策の根本的な難しさがある。征服者と被征服者を一体にしたい。だが征服者の側がそれを望まない。欲しいのは征服者の地位と利益であり、被征服者との平等ではない。
近代以降の歴史家は、この政策をどう読むかで分かれる。古い読み方は理想を見た。アレクサンドロスは時代を超えた世界市民主義者で、民族の違いを超える統一帝国を夢見たのだ、と。十九世紀から二十世紀初め、とくにイギリスの研究者に広まった見方である。彼らはしばしば、大英帝国の理想の古代版を彼に重ねた。後の研究はその像を修正する。A・B・ボズワースの代表的な研究では、「融合」は一貫した綱領ではなく、段階ごとに使われた統治技術である。新たな征服地の安定化、イラン貴族の取り込み、マケドニアの旧貴族による制約の弱体化。個々の措置には具体的な目的があった。それを一つの「融合政策」にまとめたのは後世であり、王自身が同じ統一概念を持っていたとは限らない。
ピーター・グリーンの読みは、さらに鋭い。彼は晩年の振る舞いに、演劇性、疎隔、激しい暴力の増大を見る。マケドニアの仲間から遠ざかり、ペルシアの従者を頼り、自分を普通の人間以上の存在として演出する。グリーンはロマン化された解釈を退ける。晩年を理想主義者の悲劇ではなく、権力によって人が変形される過程として読む。
二つの読みを重ねると、融合政策の実態はその中間にあるのかもしれない。王は確かに融合を試した。しかし文化的な理想より、統治の必要のほうが大きかった。イラン貴族の支持が要るから、宮廷の地位を与え、婚姻を結び、子弟を近衛に迎える。マケドニアの中枢に過度に権力を制限される必要はないから、イラン貴族を引き上げて旧貴族の影響を薄める。これは権力の駆け引きであり、文化的使命ではない。
それでも駆け引きから、新しい政治構想が生まれた。民族をまたぐ有力者の共同体である。アレクサンドロスの時代には完成しなかったが、ヘレニズム諸国で別々のかたちを取って部分的に実現する。エジプトではギリシア・マケドニア人とエジプトの祭司が協力する。セレウコス朝では、ギリシア・マケドニア人にイランの在地貴族とバビロニアの祭司が加わる。各国が自分のやり方で、征服者と被征服者の関係を処理していく。王はその仕事を終えなかった。ただ、その問いを開いた。
三 アレクサンドリア――地図に並ぶ七十の都市
アレクサンドロスの死から数百年後、プルタルコスは彼を擁護する文章で、七十以上の都市を建てたと書いた。征服の道に沿って、七十の都市が並ぶ。記憶に残りやすい景色である。地図は軍がどこを通ったかだけでなく、ギリシア文明がどこに根を下ろしたかまで示すように見える。
だが、一句の頌辞だけをもとに、その地図を描くことはできない。
一つの都市を地図に戻すには、まず生まれ方を問わなければならない。新しく築く。古い街に移住者を加える。守備隊の居住地を拡張する。もとの名を王の名に変える。それらは同じではない。後からできた都市が、自分の来歴をアレクサンドロスに近づける場合もある。名は残った。最初の鍬を誰が振るったかは、同じほど明瞭とは限らない。
P・M・フレイザーは1996年の著書『The Cities of Alexander the Great』で、都市と建設伝承を調べ直した。彼についていく意味は、響きのよい総数から別の総数へ走ることではない。一つ一つの場所へ戻ることにある。古い集落はどこか。新住民は誰か。征服者の仕事はどの部分で、後継者の仕事はどの部分なのか。
地図に残る都市が少なくなっても、問題が単純になるわけではない。要塞には穀物が要る。穀物には耕作者が要る。守備隊には道と市場が要る。軍事拠点から都市の生活が育つこともある。王権下の都市にギリシア式の劇場が建つこともある。「文明を広める」と「支配を保つ」のどちらかを選ぶ必要はない。一つの都市で、二つが同時に起こりうる。
最大のアレクサンドリアは、エジプトのナイル・デルタ西端に紀元前331年に建てられた。この都市は、この篇が何度も立ち戻る中心の一つになる。出発点は典型的なギリシア式の計画都市だった。格子状の街路、二つの港、給水の運河。ただし当初の役割は文化の中心ではなく、商業と行政の中心だった。のちにプトレマイオス朝の首都となり、古代最大級の都市に成長する。最盛期には五十万人に達した可能性もある。図書館、ムセイオン、灯台が名高い。しかしそれらの施設を整えたのは後の王朝で、アレクサンドロス本人ではない。彼が決めたのは場所と基本構造だった。
中央アジアとアフガニスタンへ目を向けると、地図にはほかにもアレクサンドロスの名を受け継いだ都市がある。アレイアのアレクサンドリアは現在のヘラート付近、紀元前330年の建設で、中央アジアとイランを結ぶ交通の掌握を主な役割とした。アラコシアのアレクサンドリアは現在のカンダハル付近、アケメネス朝の旧要塞の上に築かれ、南東への通路を押さえた。もっとも遠いアレクサンドリア、アレクサンドリア・エスカテは、現在のタジキスタンのホジェンド付近に紀元前329年に建てられた、明確な国境要塞である。
そこには誰が住んだのか。アッリアノスや後代の資料からは、主に三つの集団が見える。退役した、あるいは負傷したマケドニアとギリシアの兵士。軍についてきた傭兵。そして在地の住民。王はギリシアから大量の移民を東方へ運んだのではない。それだけの人口資源はなかった。すでに軍にいたギリシア・マケドニア人と、土地に住んでいた人々を組み合わせた。「ヘレニズム都市」には、しばしば初めから異なる来歴の住民がいた。兵士、移住者、地元の人々が同じ城壁の内側で出会う。ただし、その人数も力関係も、どの都市でも同じだったわけではない。
この構成は、城壁の内側に一つの問いを残した。別々の土地から来た人々は、同じ都市でどう暮らすのか。通婚、言葉の行き来、共に使う市場や建物が、移住者と地元の人々を近づけた。だが近づく先は一つではない。現地の言葉を覚えるために、ギリシア語を忘れる必要はない。土地の暮らしに加わるために、まずギリシア式の教育や祭祀を捨てる必要もない。片方が消えてからでなくても、異なるものは一人の中で混じり合える。
都市ごとに、異なる組み合わせが育っていった。アレクサンドリアではギリシア語の文化が長く活力を保ち、中央アジアの都市ではギリシアの伝統が別の土地の暮らしにつながった。距離は伸びても、文化が一世代ごとに薄れるとは限らない。エーゲ海から遠く離れた場所でも、劇場、ギュムナシオン、碑文は、そこから来た伝統を伝え続けていた。
アイ・ハヌムでは、その共存を目で見ることができる。二十世紀の六〇年代と七〇年代、フランスの調査隊が現在のアフガニスタン北部でこの都市を発掘した。劇場、ギュムナシオン、ギリシア語の碑文が、エーゲ海の形を遠くまで運んでいる。だが宮殿と神殿を、まとめて「ギリシア式」の一語に収めることはできない。建築はギリシアと東方の形式を結び、王朝や時期をまたいで変わり続けた。ここにあるのは、ギリシアから丸ごと移した都市国家ではない。王廷、移住者、土地の暮らしが共に入った都市である。
ただし、この都市にも固有の断絶があった。紀元前145年ごろ、アイ・ハヌムは破壊を受け、ギリシア人の支配下での都市生活が途切れる。その後も跡地は使われたが、かつての王の都市には戻らなかった。劇場と碑文は、伝統がどう保たれたかを物語る。廃墟は別の問いを残す。都市を支えていた統治が断たれたとき、何がその先も残れるのか。
建設伝承とアイ・ハヌムの遺跡を並べると、地図上の名は一つずつ複雑になる。都市は守備隊を養うが、住民には住民の生活もある。制度、言葉、建物は、遠方で使われ続けるうちに変わる。途中で途切れた場所もあれば、当初とは違う姿で残った場所もある。すべてを「文明の伝播」と呼べば支配が見えない。すべてを「ただの統治の道具」と呼べば、その中に暮らした人が見えない。
構は輸出できるのか。少なくともアレクサンドロス自身の規模では、答えは「部分的にできる」だった。運ばれたのは都市国家の構全部ではない。都市計画、行政機構、上層の共通語としてのギリシア語といった、移植可能な要素である。新たな土地の条件に合わせて組み直され、ギリシアでも在地そのままでもない複合体になる。
完全な都市国家の構が、都市と一緒に原形のまま輸出されたわけではない。民会、抽籤官職、直接参加、市民兵は、共同体が実際に組織されて初めて動く。ヘレニズムの君主は、帝国全体の決定権をその共同体に渡さなかった。都市に何人住んでいるかと、市民共同体に何人入れるかは、別々の帳簿に属する。都市は議事、司法、官職を保ちながら王権下に置かれうる。城壁と一緒には移らなかったのは、自分の運命を全面的に決める権限だった。評議会、役人、法はギリシア式のまま残ったが、王のもとで働くのであって、最高の政治権威ではなくなった。
これが時代の核心にある。都市国家の構の形式は残り、内実が変わった。
四 後継者たち――構はいくつにも分かれる
紀元前323年六月、アレクサンドロスは原因の明らかでない熱病でバビロンに死んだ。現代の医学的な推測には、マラリア、腸チフス、大量飲酒の合併症などがある。明確な後継者を決めてはいなかった。妻ロクサネは妊娠していたが、子はまだ生まれていない。異母兄アリダイオスには知的な障害があり、独力で統治できなかった。病床を囲んだ将軍たちが、誰に帝国を渡すのか、と問う。伝説によれば、王は答えた。最強の者に。
その言葉が実際に発されたかどうかは別として、後に起きたことを正確に描いている。続く四十年はディアドコイ、すなわち後継者たちの戦争だった。ペルディッカス、アンティパトロス、アンティゴノス一世、プトレマイオス一世、セレウコス一世、リュシマコス、カッサンドロスらが、残された土地を奪い合った。同盟は何度も組み替わり、勢力は伸びては縮んだ。紀元前280年代になると、比較的安定した形が現れる。三つの主要な後継王国、その周りの小王国と都市同盟である。
この分裂そのものが、鑿と構の周期にとって重要な出来事だった。アレクサンドロスは統一された帝国を残そうとした。だが死後の継承の取り決めも、将軍たちの戦争も、一つの中心を保てなかった。全体をなお争う将軍もいたが、最後に残ったのは別々の王朝だった。統一帝国を持続させるという目標から見れば、失敗である。帝国は王が死んだその日に砕け散ったのではない。しかし、王が生前につないでいた権力を、次の統治者へ安定して渡すこともできなかった。
典型的な人治の問題である。創始者の能力と威望だけに依存する構は、創始者の死後には続かない。秦もそうだった。始皇帝個人への依存が強く、その死後に急速に崩れた。アレクサンドロスの場合は、制度を整える時間がさらに短い。始皇帝は統一後十一年生き、郡県制を整え、文字、度量衡を統一し、道路を築いた。アレクサンドロスには、ペルシア本土の征服を終えた紀元前330年から死去の323年まで、七年しかない。その大半は中央アジアやインドへの遠征に費やされた。安定した制度を征服地に根づかせる時間が足りなかった。この仕組みも、最高権力者による調整に大きく依存していた。アレクサンドロスの死後、継承をめぐる取り決めと将軍たちの戦争を経ても、共通の中心は維持されなかった。その過程で、権力の配分も変わっていった。
後継王国は、王が解かなかった問いへの複数の答えと見られる。誰もがほぼ同じ課題を持つ。複数の民族を含む領土に、どう持続的な支配をつくるか。答え方は違っていた。
プトレマイオス一世はエジプトを選んだ。数千年の中央集権の伝統があり、砂漠と海に区切られ、人口の文化的な構成も比較的均質だった。最上層にギリシア・マケドニア人を置きながら、エジプトの祭司と地方統治を残す。きわめて文書化された官僚国家をつくった。
セレウコス一世はアジアを選んだ。メソポタミア、イラン、小アジア東部、バクトリア。旧帝国でもっとも大きい部分だが、地理的に分散し、住民も多様だった。ギリシア・マケドニアの移民、イランの在地貴族、バビロニアの祭司、ユダヤ人、アラブの部族、中央アジアの人々。移動する王廷と「王の友人」の網を組み合わせ、柔軟な交渉で管理する戦略を取った。
アンティゴノス一世が争ったのは、アジアの広い領土である。息子デメトリオスもエジプトへ戦争を運んだ。孫のアンティゴノス二世になって、王朝の重心はマケドニアとギリシアの側へ落ち着いていく。そこはアレクサンドロスの故郷だったが、彼自身はギリシアを征服したあと、本格的に治めたわけではない。外で戦い続けていた。王朝の課題は、諸都市へのマケドニアの支配をどう保つかだった。要塞、守備隊、いくつかの都市との盟約が答えとなる。
三つの戦略は、三つの構の設計だった。ここからはまずエジプトとセレウコス朝を見て、さらに遠いバクトリアへ進む。アンティゴノス朝は、君主の神格化をめぐる問題で再び登場する。その前に、一点を押さえたい。初めから各自が一片で満足していたのではない。紀元前306年、アンティゴノスとデメトリオスは王を称し、陸と海からプトレマイオスのエジプトを攻めた。紀元前301年、アンティゴノスはイプソスで敗死し、その領土は勝者たちに分けられた。後の地図に残る王国は、出発時に合意された境界ではない。互いに奪い、互いに阻んだ結果である。
帝国が分かれても、すべての土地がゼロから出直すわけではない。総督区、都市、軍、税は、それぞれ別の王廷に引き継がれた。一つの中心で処理するはずだった関係が、いくつかの中心へ分かれる。規模の問題は消えない。解き方が複数になった。
一つの統一帝国は残らなかったが、いくつかの王国は残った。アレクサンドロスの統一という目標にとっては、やはり失敗である。領土を引き継いだ王朝にとっては、自分の手にある部分をどうつなぎ止めるかが問題になった。もとは一つの中心へ向かっていた都市、軍隊、税収が、いくつもの王廷へ向きを変える。鑿と構の周期から見れば、構の規模が組み直されたのである。だが新しい地図のどの部分も、同じように治めやすいわけではない。ナイルの谷と、アジアにまたがる領土は、この先で異なる難問を突きつける。後継者たちは、先に適切な規模を話し合い、それから境界を引いたのではなかった。領土を奪い合い、その結果として残った範囲を治めることになった。
五 プトレマイオス朝――文書国家を突き詰める
プトレマイオス一世、紀元前305年から282年の王が築いたエジプトは、ヘレニズム諸国でも特異な存在だった。ユーラシア史でもっとも深く文書化された国家の一つであり、ギリシア・マケドニアの支配層が東方の在地構造に乗る、という方式を鮮明に見せる。
紀元前四世紀のエジプトには、すでに数千年の中央集権の伝統があった。ファラオ、祭司、官僚、賦役、税、土地配分。その仕組みは三千年以上動いてきた。プトレマイオスはそれを壊さず、頂点のファラオを自分に置き換えた。自らファラオを称し、エジプトの伝統で戴冠する。上層官僚にギリシア・マケドニアの移住者を入れながら、エジプトの祭司組織と地方統治は残した。
国土はおよそ三十のノモス、州に分かれ、その下に地区と村がある。どの段階にも役人、文書、記録があった。多くはパピルスに書かれ、乾燥した気候のおかげで、相当量が現在まで残った。エジプト学者はそれを使い、ほかのどのヘレニズム国家よりも細かく、この国家の働きを復元してきた。
プトレマイオス朝エジプトは「文書国家」だった。土地の測量、人口の名簿、種子の貸借、収穫と納税の記録が、農村を一層ずつ王室の文書につないでいく。どの土地を誰が耕すのか。種をどれだけ借り、何を植え、いくら税を納めるのか。役人が知ろうとしたのは、そうしたことだった。だがパピルスが暮らしのすべてを包んだわけではない。小さな取引は、口約束と証人に支えられることもあり、そのつど契約書を残す必要はなかった。王廷は農村経済を、問いただせる帳簿にしようとした。村の暮らしは、帳簿の中だけにあるのではなかった。
王の手は経済の奥まで伸びた。紀元前259年の油料作物の規定には、買い手が村長に封印付きの受取証を残すことまで書かれている。この規定によれば、受取証がなければ荷は村を出られない。王廷の要求が、一荷の油料が村境を越える仕方にまで届く。ただし土地のすべてが王領ではなかった。神殿領、兵士の割当地、相続や売買のできる不動産もある。持つ人、耕す人、税を取る人は、必ずしも同じではない。王権は一筆残らず自分の名にすることより、どの種類の土地も、何を納めるか把握することに現れた。油料、岩塩、パピルス製造、一部の輸出入品は王室の独占分野だった。貨幣制度も閉じていた。外国の銀貨は、国内で使う前にエジプトの銀貨へ替えなければならない。交換は王室の利益になり、国内の貨幣量をより細かく統制する手段にもなった。
合わせて見ると、驚くほど現代的な意味での行政国家になる。専門官僚、詳細な文書、計画経済、貨幣統制、産業の独占。ある点では、中世ヨーロッパの国家よりも「現代的」だった。
だが中核を動かしたのは、ギリシア・マケドニアからの移住者である。とくに財政、軍事、王廷に直接かかわる上級官僚の大半は、ギリシア人かマケドニア人だった。中下層にはエジプト人も入れたが、ギリシア語を話し、ギリシア語の文書を書けるという、ヘレニズム化が必要だった。言語と文化、二重の敷居である。ギリシア語は政府、商業、上層文化の言葉になる。しかしエジプトの文字は、神殿の中だけに残ったのではない。民衆文字のデモティックで、不動産の契約も書かれ続けた。家は持分に分けられ、持分は相続され、譲られた。行政にギリシア語が入っても、エジプト人の家産や取引が、自分たちの文字を失ったわけではない。
祭司層は特別な位置にあった。王朝は初めから彼らと協力した。一世と二世は祭司に土地、特権、免税を与える。代わりに祭司は、王こそ正統なファラオでありエジプトの神々の代理だと人々に語り、その支配を支える。ロゼッタ・ストーンはこの関係を石に刻む。紀元前196年、メンフィスに集まった祭司が、プトレマイオス五世への栄誉を増すと決議した。碑文はまず神殿に対する王朝の恩恵を挙げ、続いて王の像の祀り方や祭日の祝い方を定める。エジプト語とギリシア語という二つの言語を、神聖文字、民衆文字、ギリシア文字の三種類で記した。同じ石の上で、王の恩恵と祭司が王に与える神聖な栄誉が、前後に接続されている。
さらに王朝崇拝を制度にした。都市はそれまでも生者に神聖な栄誉を与えてきた。プトレマイオス朝は、それを国家の祭祀と紀年に組み込む。一世はアレクサンドロスの遺体をエジプトに運び、その神殿を国家最高の祭祀の中心にした。二世は亡父の「救済神」と在位する王家を国家祭祀に加える。アレクサンドロスと王家の祭司の名が、文書の日付に入った。この書式を用いる文書は、王の在位年と紀年祭司の名を、日付に並べて記す。
この仕組みでもっとも重要な女性は、二世の姉であり妻でもあるアルシノエ二世だった。死後、紀元前270年に神格化され、その崇拝は全土へ広められた。アルシノエ神殿が中心となり、新しい州に名が与えられ、毎年の特定の税収が祭祀に充てられる。姿は貨幣、神殿、美術品に現れた。死んだ王妃が、税を受け取り、専属の祭司と自分の神殿を持つ神になった。
大きな転換である。ギリシアの都市国家では、市民共同体が最高の政治権威だった。ヘレニズムのエジプトでは王家が頂点に立ち、神格化によって異議を差し挟めない存在になる。市民共同体が消えるわけではない。アレクサンドリアはなおギリシア式の制度を持ち、市民登録とギリシアの法を保っていた。だが最高権威ではない。その上に、ファラオ、王、神の三つを一つにしたプトレマイオス王家が立つ。
これが時代の中心にある逆向きの運動だ。ギリシアの相転移は、人を政治の構の中心に置いた。ヘレニズムのエジプトは、神格化した王をそこへ戻した。ある意味で、アレクサンドロス以前の近東、ファラオを神の子あるいは神とする方式への部分的な回帰である。ただし単純な回帰ではない。ギリシア語、ギリシア式の都市、法、役人の制度が大量に残る。東西の複合体であって、以前の形への復元ではなかった。
この国家は紀元前30年まで動いた。最後の支配者クレオパトラ七世がローマの征服の中で死に、ほぼ三百年の王朝が終わる。三百年は長い。中国のシリーズの前漢、紀元前202年から紀元8年までの二百十年よりも長い。ギリシア・マケドニアの支配層、土地に深く根づいた官僚制度、王朝の神格化による正統性。この組み合わせが持続しうることを、プトレマイオス朝は示した。
だが、この結びつきにも代価があった。ギリシア語とギリシア・マケドニア系の出自は、王廷、高位の官職、資源の分配でなお有利に働いた。しかし、その優位が人々の暮らしを、行き来のない二つの世界に隔てたわけではない。家族の文書には、ギリシア語とデモティックのエジプト語が共に残る。一人が二つの名を持つことも、移住者と地元の人が家族をつくることもあった。文化の境界は越えられても、官職や資源への敷居まで一緒に消えるわけではない。紀元前三世紀末から二世紀にかけて、王朝は各地で長く続く抵抗にも直面した。交わりと混合は現実にあった。統治の中の不平等と衝突もまた、現実にあった。
プトレマイオス朝は、もっとも文書化され、もっとも深く在地構造に結びつき、もっとも長く続いたヘレニズムの一形態だった。だが唯一の形ではない。
六 セレウコス朝――伸び縮みする帝国の限界
エジプトがもっとも安定した版なら、セレウコス朝はもっとも大きく、複雑で、管理しにくい版だった。
セレウコス一世は紀元前312年にバビロンの支配を回復した。後に使われる王朝の紀元は、この帰還を起点とする。王号を用いたのは紀元前305/304年になってからで、統治は紀元前281年まで続いた。彼が次第に掌握した領土は、アレクサンドロスの帝国の最大部分だった。小アジア東部からシリア、メソポタミア、イラン高原を通り、中央アジアとインダス川流域へ至る。横幅は約四千キロ。ギリシア語、アラム語、ペルシア語、バビロニア語、ヘブライ語、中央アジアの複数の言語がある。数十の民族、数十の宗教伝統、数百の都市や村の共同体が含まれていた。
この領域を治める、決まりきった方法はない。セレウコス朝が生んだのは、弾力的な帝国のモデルだった。移動する王廷と「王の友人」のネットワークを核にする。
王廷は動く。しかし権力を、行く先々で初めから建て直すのではない。アンティオキアやティグリス川沿いのセレウキアは、長期にわたって整備された中心だった。王はそこを行き来し、さらに遠くへ足を運ぶ。都市は残る。王廷は、それを必要とする場所に姿を現す。王廷がある場所が、その時の権力の中心である。緊急事態に王自身が対処でき、各地の有力者に注意が向いていると感じさせ、特定地域の有力者に長く囲まれ、影響され、支配されることを避けられる。
見る統治であり、見せる統治だった。現代的な通信のない時代、遠方の総督は実質的な独立君主になりやすい。中央から統制するのは難しい。そこで王自身が中央にとどまらず、見に行く。もちろん全領域の隅々を絶えず巡ることはできない。それでも、どの地域も「王は来ない」と決めてかかれなくなる。
王廷の核にはフィロイ、「王の友人」がいた。軍の将帥、行政官、外交使節、文化人から、王が自分で選ぶ有力者の輪である。友人の地位は世襲ではない。新しい王は自分の友人を選び直す。先王の友人が次の王の友人とは限らない。必要に応じて中核の人員を組み替える、大きな柔軟性があった。
地方では、ペルシアの総督制を基本的に引き継ぎ、帝国をおよそ三十の総督区に分けた。アレクサンドロスの分権配置はさらに細分化され、民政、軍事、徴税にそれぞれ比較的独立した担当者が置かれ、相互に牽制した。その上から、移動王廷と友人網を通じて王が監督する。
ギリシア式都市の扱いはもっと複雑だった。王国内には、アレクサンドロスの建設都市、後継者の建設都市、さらに古いギリシアの植民市が多数あった。理論上は自治し、民会、評議会、役人、法律を持つ。王朝は折衷を選ぶ。自治の形を残し、王の「恩恵」と書簡で行動を誘導する。王の好むことをすれば、免税、土地、交易の特権を得る。好まぬことをすれば、その恩恵が消える。
この恩恵の政治は、都市管理の重要な道具だった。ジョン・マの『Antiochos III and the Cities of Western Asia Minor』は、その動きを詳しく追っている。王は忠誠、兵、税を求め、都市は特権と保護を求める。残された王の手紙と都市の碑文によって、この行き来を文字でたどることができる。現在も遺跡に残る碑文は、王権と地方自治が絶えず折衝した物的な証拠である。
片方には忠誠、兵員、収入が欲しい王。もう片方には保護、土地、特権が欲しい都市。往復するのは命令だけではない。要求、約束、弁明もある。対等な往復ではない。王は軍を使える。都市はその圧力の下で、自分の条件を言葉にする。それで王廷が民会になるわけではない。だが都市も、ただ聞き従うしかない存在ではなかった。議論をし、使者を送り、自分たちの要求が王の決定の中に入るよう働きかけ続ける。
この組み合わせにも脆さがあった。国土が広すぎ、構成部分が多様すぎて、一つの中心が本当の意味で統合できない。イラン貴族は自分で決めたがり、バクトリアのギリシア・マケドニア人は自分の国を欲し、ユダヤ人は宗教自治を求め、都市は特権を広げようとする。王は交渉、恩恵、威嚇、鎮圧を続けるほかない。王が十分な強さを欠くか、どこかの戦争に王廷の力が取られれば、遠心力は独立へと変わり始める。
後期には実際にそうなった。紀元前三世紀半ば、バクトリアの総督が自分の名で貨幣を鋳造し始める。独立化の明確な徴であり、やがてバクトリア王国となった。イラン北部のパルティアも同様に離れ、イランを横断するパルティア帝国、のちのローマの敵となる。小アジアの諸地域も順次独立した。紀元前二世紀半ばには、セレウコス朝の実質領域はシリアとレヴァントへ縮小し、かつての「アジア帝国」は分割されていた。
最後は紀元前64年、ローマのポンペイウスの征服で終わる。一世の出発を紀元前312年とすれば、約二百五十年である。エジプトよりやや短いが、管理の難しさははるかに大きかった。二百五十年という持続は、それでも相当なものだった。
二つの帝国は、異なる戦略を示す。プトレマイオス朝は、比較的小さく、境界が明瞭で、文化的に比較的均質な核を深く治めた。セレウコス朝は、大きく、地理的に分散し、文化的に極端に多様な領域を柔軟に扱った。どちらも部分的には成功し、代価を払った。前者の代価は、文化が混じり合っても消えなかった、権力や地位を得る機会の不平等だった。後者の代価は遠心力と領土縮小の連続である。
こうした代価から、ヘレニズムの構が抱えた緊張が見えてくる。征服者の子孫は、現地の言葉を覚え、地元の人と結婚し、土地の暮らしに加わりながら、統治の上ではなお有利な位置を占めることができた。協力し、混じり合っても、権力が自動的に配り直されるわけではない。どの王朝も同じ問いに向き合う。地方社会の参加を必要としながら、参加する人々をどこに置くのか。統治に必要な関係へ人を組み入れることと、その関係を対等に決めてもらうことは、別のことである。
七 もっとも遠い端――バクトリアとメナンドロス
東端は中央アジアとインド北西部だった。ギリシア・マケドニアの征服が届いたもっとも遠い場所であり、ヘレニズムの構が土地からもっとも強い圧力を受ける場所でもあった。
バクトリアは現在のアフガニスタン北部とタジキスタン南部にあたり、もとはセレウコス朝の総督区だった。紀元前三世紀半ば、王朝が西方の内戦と危機に巻き込まれると、総督ディオドトス一世は自分の名で鋳貨を出し始めた。およそ紀元前255年である。古代の鋳造権は主権を表す。これが独立への第一歩となり、のちに王を称してグレコ・バクトリア王国を建てる。次の世代のエウテュデモス一世、在位はおよそ紀元前230年から200年は、しばしば実質的な建国者と見なされる。紀元前208年、アンティオコス三世による再征服の遠征を退けたからだ。
特殊な王国だった。ユーラシアの中心に位置し、シルクロードが十分に開かれる前から、東の中国西部と西のペルシア、地中海を結ぶ交易があった。住民はギリシア・マケドニアの移民、イランの在地住民、中央アジアの遊牧民、インドからの移住者の混成である。公用語はギリシア語でも、日常には多くの言語があった。貨幣にはギリシア語を刻み、その図像はしばしばギリシアと東方の神々を組み合わせる。
紀元前二世紀半ば、この王権が南のインダス流域へ広がり、インド・ギリシア諸王国を生む。もっとも名高い王は、紀元前165年から130年ごろのメナンドロス一世だった。その貨幣には注目すべき点がある。ギリシア語と、カローシュティー文字で書かれたプラークリット語という、二つの言語をしばしば使っている。帝国の二言語貨幣の早い例である。ギリシア語の側はギリシア・マケドニア系とヘレニズム化した住民に、カローシュティー文字の面はインドの住民に向いていた。一人の王、二つの言葉、二つの受け手。
便利なだけではない。政治的な表現である。王権は、ヘレニズムとインドという異なる文化共同体に、同時に向かわなければならない。一つの言語しか使わない王は、もう片方の受け手を失う。メナンドロスは、難しいがより包摂的な道を選んだ。両方を向くことである。
彼はインドの文学にも入った。仏教の『ミリンダ王の問い』は、インドでの名ミリンダを用い、高僧ナーガセーナとの対話を描く。成立年代と歴史的な確かさには議論がある。王の死後数十年、あるいはもっと後に書かれ、対話は記録ではなく文学的構成かもしれない。だが作品が存在すること自体、重い事実である。ギリシア・マケドニア系の王が仏教の経典に入り、教えに関心を持って僧に問う王として描かれた。
構が土地の文化と接触し、逆に形を変えられる例である。ヘレニズムの構はインドに入った。インドはその王を、自分の物語の中に取り込んだ。記憶されたのは「ギリシアの征服者」ではなく、「仏法を問う王」だった。征服された側の文化が、征服者の話を自分の話に書き換える。影響は逆方向にも深く及ぶ。
それは、王が本当に仏教へ帰依したかという問題とは別である。政治と文化の観点で重要なのは、本人が信じたか、ナーガセーナと本当に話したかではない。王の代表する構が、インドでこのように吸収されたことだ。外来政権がそこに根を下ろすには、何らかの形でインドの文化体系に受け入れられなければならない。その一つの方法が、支配者を宗教の文献に書き入れることだった。
インド美術へのヘレニズムの影響も、この逆向きの造形に属する。ギリシアの彫刻技法と仏教の題材を結ぶガンダーラ美術は、一般にギリシア・インド融合の産物とされる。ただし時期を置き去りにはできない。成熟したガンダーラの仏教美術は主に紀元前一世紀末から紀元後の数世紀、メナンドロスより後に現れる。彼の時代やインド・ギリシア王国期には、まだ完成していない。それでも条件は準備された。彫刻技法、ギリシア語、ギリシアとインドの職人の移動、文化を横断する宗教環境である。
逆向きの影響は、ヘレニズムの政治の構の内部にも及んだ。アイ・ハヌムに立ち戻れば、ギリシア語の碑文と東方の配置を持つ宮殿が、同じ都市にある。インド・ギリシアの貨幣を見れば、異なる言葉が同じ王を指している。通婚や二言語での暮らしが、どちらか一方の帰属意識を失うことにつながるとは限らない。土地に根を下ろしながら、ギリシアの伝統を自分のものとし続けることもできる。地方の暮らしはヘレニズム世界を変えたが、その世界を「外はギリシア、内は地元」という二層にきれいに分けたのではなかった。
最遠端で構が書き換えられることは、ギリシアの名前だけが残ることではない。一つの都市がギリシア語を使い続け、ギュムナシオンやギリシア式の官職を保ち、その一方で土地の建築形式を取り入れ、在地の祭祀に加わることもできる。残るものと変わるものが、同じ都市の中で交差する。混合とは、ギリシアの形式に、すべて在地のものとなった中身を詰めることではない。形式そのものも、土地の暮らしの中で使い直されていた。
紀元前二世紀の半ばから後半にかけて、王国内部の争い、領土の喪失、北方の遊牧集団の進出によって、バクトリアのギリシア人支配は段階的に終わっていった。南方のインド・ギリシア諸王の統治は、それとは別の時間を歩んでいた。一部の王名と貨幣は紀元一世紀初めまで続き、その後、別の支配者が鋳造と統治の場所を引き継いだ。ヘレニズムの影響も尽きなかった。月氏が紀元一世紀に築いたクシャーナ朝の貨幣には、ギリシア、イラン、インドの神々とブッダが現れる。ギリシア語とギリシア文字のその後も、同じではない。クシャーナの時代、ギリシア文字はバクトリア語を書くためにも用いられた。文字の形は残り、読み出されるのは別の言語になった。都市計画と建築技術も、中央アジアとインド北西部に考古学的な痕跡を残した。
最遠端へ構全体が輸出されたわけではない。しかし土地の文化が吸収し、再利用できる要素は運ばれた。吸収の過程で、それは土地の美術、都市、貨幣を変える。同時に土地の文化も要素を変え、新しい内容と意味を担わせる。構と構が長く接触したあとの、双方向の形成である。
この現象はまた現れる。第十篇の十字軍期のヨーロッパとイスラーム世界の相互作用、第十九篇の植民地の有力者がヨーロッパの言葉で植民地支配を反駁する動き。いずれも長い接触の中で、構が逆向きにも形を与えられる例である。メナンドロスは、ユーラシア史の早い先例だった。
八 神となる君主――都市国家の構の逆運動
ヘレニズム時代には、大きな政治的な新機軸があった。ただしその向きは、ギリシアの都市国家とは逆だった。君主の神格化を制度にしたのである。
生きた人間は、神に向けられていた栄誉をどこまで受け取れるのか。その境界は、アレクサンドロスの後に初めて動いたわけではない。プルタルコスによれば、ギリシアの都市はリュサンドロスに供犠と頌歌を捧げ、サモスではヘラの祭りさえ彼の名に改められた。祭暦の名を入れ替える時、栄誉を与えていたのはまだ都市である。王朝はやがて、その栄誉をもっと長くつなぐ。一度の救援や勝利を祝うだけでなく、翌年へ、次の王へ。
ヘレニズムの時代は、その栄誉を王朝の日常につないだ。
この過程の最初の転換は、アレクサンドロス自身に起きた。神と崇められようとして、部分的にしか成功しなかった。紀元前331年、エジプトのシワ・オアシスで、アモンの祭司から「アモンの子」とする神託を受ける。神の子として、エジプトでの正統性を得た。マケドニアとギリシアにも似た配置を広めようとしたが、異なる人々に同じ神聖な地位を認めさせることには抵抗があった。カリステネスのプロスキュネシス拒否が、その徴である。死後の神格化はギリシアの伝統でも認められ、王の崇拝はヘレニズム世界の大きな現象となった。
後継者はそれを異なる程度に制度化した。もっとも遠く進んだのはプトレマイオス朝である。一世は王の崇拝をアレクサンドリアに定着させ、その後、自分も神格化された。生前か死後かは議論がある。二世は亡父の「救済神」と在位する王家を一つの国家祭祀に入れた。ここから王朝崇拝が国家最高の祭祀となり、アレクサンドロスと王家の祭司が、文書の日付に王朝を入れる。この書式を用いる文書は、王の在位年と紀年祭司の名を、日付に並べて記した。アルシノエ二世の死後の神格化によって、その祭祀中心は新しい州の政治と経済の中心になった。
セレウコス朝の王朝崇拝はやや遅く、規模もやや小さい。セレウコス一世とアンティオコス一世は主に死後に神格化された。紀元前193年、アンティオコス三世は、王妃ラオディケの崇拝を既存の王の崇拝に並べた。書簡で新たな高位の女性祭司を置くよう命じる。彼女たちの金冠には王妃の像を載せ、女性祭司の名を高位の男性祭司のあとに、契約の紀年に記す。冠に載るのは王妃の顔。文書に書かれるのは祭司の名。王朝は祝祭に現れるだけでなく、人が出来事に日付を与える仕方にも入った。
アンティゴノス朝では事情が違う。マケドニア本土には、常態化した王朝崇拝は本格的に成立しなかった。王は伝統的に「第一の市民」であり軍の指導者であって、神格化された存在ではない。だがギリシアの都市は、ときに王へ一時的な神聖な栄誉を贈った。デメトリオス・ポリオルケテス、攻城者デメトリオスは、紀元前307年から290年にかけてアテナイで際立った栄誉を受ける。救済神ソテルとして祀られ、アテナの神殿パルテノンに住まいを与えられ、「生きた神」と呼ばれた。初期ヘレニズムの君主神格化を代表する出来事である。
このアテナイの例は、君主の神格化が一方通行ではなかったことを示す。王が要求し、都市が強いられて受け入れた、という話ではない。都市の側から栄誉を差し出し、政治的な帰属を表し、恩恵と交換する。王はそれを正統性として受け取る。両方が動いていた。
アンゲロス・ハニオティスの研究は、重要な区別を示している。ヘレニズムの神格化は、単純に王を神と同一視することではない。生きた王をテオス、神と呼ぶ例は比較的少なく、より多いのは「神聖な栄誉」の授与だった。専用の祭司、供犠、祭日、神殿。それは象徴的に王を神へ近づけても、必ずしもオリュンポスの神々と同じ本性を持つとはしない。正式な神格化は、死後のほうが行いやすい。生前に主として受けるのは、完全な神性ではなく神聖な栄誉だった。
区別が大事なのは、これが「王は神である」という東方的な専制への単純な復帰ではないからだ。その傾向はあっても、実際には混合である。英雄崇拝、特別な栄誉、神殿祭祀など、ギリシア宗教にあった資源を使い、生きた王という新しい政治対象へ向けた。
しかし混合であっても、都市国家の伝統にとって大きな逆運動である。最高権威は市民共同体にあったはずなのに、それが君主個人へ移る。生前に完全な神でなくても、神にこそふさわしい祭祀や栄誉を受ければ、政治的権威は神聖さを帯びる。その神聖さは、死すべき人間の市民共同体には持てない。
相転移の部分的な後退である。「人は目的である」という相転移は、都市国家では市民共同体を最高権威とする形を取った。ヘレニズム期には、その権威が神格化された君主に集められる。アテナイとスパルタの時代にあった、人を政治の構の中心に置く動きが部分的に押し戻され、神となった支配者が中心へ戻る。
ただし全部ではない。ヘレニズム国家には都市国家の要素が数多く残る。アレクサンドリアには市民制度があり、アンティオキアとセレウキアには民会と評議会がある。ギリシア式の法は各ヘレニズム都市で動く。君主崇拝が頂点に達しても、市民共同体は都市の段階で存在し、市民資格は法的な意味を保った。
ここにもっとも深い緊張がある。大陸にまたがる帝国では神格化された王が最高権威だが、都市の規模では市民共同体が意味のある政治体として残る。二層は共存する。全面的に衝突するわけでも、完全に調和するわけでもない。都市に住むだけで市民にはならない。一方、市民であっても王朝の支配下にあることがある。都市の中の権利と、王廷に対する別の義務。同じ人に二層が重なっても、同じ一つの身分へ自然に溶け合うわけではない。
帝国の規模で都市国家の要素を残すにはどうするか。この二層構造がヘレニズムの答えだった。完全な答えではない。帝国全体の段階では都市国家の構をなくし、都市の段階だけに残したからだ。それでも答えであり、相当の持続性を持った。ローマでは、地方の共同体と、より大きな支配の範囲との関係が、別の形で展開する。市民権を広げることで、誰がその共通の資格を持てるかを変えていく。それは共和政と帝政をまたぐ長い道だった。第三篇は、まず共和政から始める。
九 構は輸出できるか
冒頭の問いに戻ろう。ギリシアの都市国家の構は、輸出できるのか。
三百年の実験のあとなら、層を分けて答えられる。
完全な構は、地図を拡大するだけで原形のまま輸出できない。民会、抽籤官職、直接参加、市民兵を組み合わせるには、ギリシア語の名前を並べるだけでは足りない。共同で決め、その結果を共同で引き受ける政治共同体が要る。ヘレニズムの君主は、帝国全体をそのような一つの大きな都市国家にはしなかった。都市を王国へつなぎ、帝国の戦争、継承、統治の中心は王廷に残した。
部分は輸出できる。上層の共通語としてのギリシア語、都市計画、法、市民資格という法的概念、ギリシア式の官職制度。これらは広く保存され、使われた。ヘレニズム文化の印となり、地中海からインダスまで影響を及ぼした。運ばれたあと土地の要素と混ざり、アレクサンドリア、アンティオキア、アイ・ハヌムのような複合体を生んだ。
もっとも深い相転移は、消されなかった。このシリーズの言葉で言えば、「人は目的である」という相転移は、ギリシアの都市国家で限定的な制度表現を得ていた。ヘレニズム時代の王権は、その表現を一部押し戻した。都市にはなお市民資格と法があり、教室と書物では理性、徳、一人の人間がどう生きるかが論じられ続けた。都市が自らの運命を決める力は小さくなった。だが、人の位置を問う言葉まで、共に沈黙したわけではない。
ここに鑿と構の周期の深い発見がある。一度起きた相転移は、具体的な表現を変えられ、抑圧され、歪められる。しかし核となる命題は、一度語られると消えない。違うかたちを取り、文化の中を伝わり続ける。この枠組みからヘレニズム時代を振り返ると、制度の後退と文化の拡散は同時に起きていた。ギリシア哲学の言葉と問いが、ギリシア語とともに地中海からインダスへ広がった。王廷は都市の力を制限しながら、新しい都市、道、支配網を通じてギリシア語を遠くへ送る。帝国の運命を決められることと、その言葉でなお人の位置を問えることは、同じ問題ではない。
伝わったのは、理性、徳、よい生き方をめぐる議論であり、市民資格や共同体への責任を語る言葉だった。現代的な尊厳と権利について、すでに完成し、誰もが同意する宣言ではない。ローマの著述家はギリシア哲学を借り、書き換えた。キリスト教の思想家は、その問いの一部を自らの神学へ持ち込んだ。異なる時代には、ギリシア語の著作がシリア語やアラビア語にも訳され、新しい読者がそれを使って新しい問いを立てた。これらの道を通ったのは、一字一句変わらない宣言ではない。使い直し、論じ直すことのできる思想の資源だった。
ヘレニズム時代の歴史的な意味は、ここにあるのかもしれない。ギリシア文明の終わりではなく、その拡散。このシリーズの言葉で言えば、相転移の死でもない。都市国家の政治的実践は王権に圧縮されたが、それと結びつく概念、文献、教育の伝統は、より広い世界へ入っていった。代価のない拡散ではなかった。制度への参加は減りうるし、広まった言葉を統治者が使い直すこともある。それでも後の人々は、その資源を手に取り、共同体の中で自分がどこに立つのかを問い続けることができる。
次の大きな試みはローマだった。帝国の規模で、市民という概念と広大な領域をどう両立させるか。ヘレニズム諸国の未解決の問題に、ローマは市民権の拡張という別の答えを出す。アテナイの市民は都市国家内の少数者だった。いったん時を紀元212年へ進めよう。すでに帝政期である。カラカラの勅令は、帝国内のほぼすべての自由民にローマ市民権を与えた。一つの都市の資格が、ほぼ帝国全体に届いた。だが次の篇では、まず時計を共和政へ戻す。この拡張の道がどこから始まったのかを見るために。
次篇 ローマ共和政――一つの点に依存しない構。