Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · ユーラシア帝王シリーズ — 第03篇、全22篇

第三篇 ローマ共和政――権力の一点集中を避ける構

Han Qin (秦汉) · 2026年

紀元前三世紀から前一世紀にかけて、ヘレニズム諸国は少しずつ縮んでいった。プトレマイオス朝エジプトは中核地域を保ったが、文化が交わっても、身分や資源への入口にある壁は消えなかった。セレウコス朝は遠心化を続け、最後にはシリア周辺にまで後退した。ギリシア本土はマケドニアの覇権のもとで独立を失った。ヘレニズム時代は、ギリシア文化を帝国の広がりにまで運ぶ方法を示した。だが、ギリシアの政治的伝統の核心を、その規模でどう残すかという、さらに深い問題には答えなかった。都市の自治は各都市の内部に部分的な仕組みとして残った。帝国の水準では、神格化された君主の権力に席を譲ったのである。

紀元前三世紀になると、地中海の西側でローマ共和国が海の向こうへ力を伸ばし始める。生まれたばかりの国ではない。それでも、前篇の問題には別の答えを持ち込むことになる。

ローマは、目立たない一都市から突然、地中海の覇者になったのではない。まずイタリア各地を同盟網に結びつけ、その後に海を越える戦争を継続した。ローマの伝統的な年代では、紀元前509年に王政を終え、共和政を始めたことになる。前450年ごろに十二表法を制定し、前三世紀初めにはイタリア半島の大部分を同盟体系に取り込んでいた。およそ二百年の過程である。着実ではあったが、目を見張るほど急ではなかった。

ところが前264年から前146年までの百年余りに、ローマは三度のポエニ戦争を戦い、それまで西地中海最強の海上勢力だったカルタゴを破った。同じ時期にヘレニズム世界の紛争にも介入し、マケドニア、セレウコス朝、ギリシア諸都市の同盟を次々に打ち破る。前146年にはカルタゴとコリントスをともに破壊した。この年からローマは地中海世界全体の覇者となる。

一つの都市国家が帝国の大きさになった。ギリシアではスパルタがそれを試みて失敗し、アテナイも試みてスパルタに敗れた。マケドニアは成功したが、それを支えたのは都市国家の制度ではなく君主制だった。ローマは拡大の途中で都市の構の基本枠を捨てず、ヘレニズム王国にもならなかった。少なくとも前一世紀までは、ローマで執政官、元老院、民会が働き続けていた。そこで決めることだけが、イタリアを越えて地中海全体に及んだ。版図はもう、一つの都市から見渡せる範囲ではない。それでも決定を担うのは、都市の官職と会議だった。

どうしてそんなことができたのか。本篇はその問いを扱う。

答えには二つの面がある。一方では、ローマは拡大しても共和政の官職と会議を使い続け、ヘレニズムの王に直接統治を委ねなかった。一都市の政治の言葉が、海の向こうの事務を処理するようになった。他方、共和政も最後まで持ちこたえたわけではない。前133年のグラックス改革から構は急速に変形し始め、前27年にオクタウィアヌスが元首政を成立させたころには、帝国の水準で実質的に別の構へ置き換えられていた。

ここでは共和政の成熟期から崩壊の前夜までをたどる。次篇では、オクタウィアヌスが政治の言葉の上で妥協を組み立て、君主制をローマに戻していく過程を扱う。

ローマ共和政の構の核心を、ごく簡単に言えば、権力を一点に集めないことである。官職、任期、拒否権は、ある日に一枚の設計図から生まれたのではない。対立のなかで積み重なった。本シリーズの読み方では、それはアテナイとスパルタに始まる「人は目的である」という相転移に、新しい表現を与えた。その特徴は直接民主政の徹底ではなく、一人の人間が長く権力を独占することへの体系的な防御にあった。この角度から見ると、ローマはギリシアの都市が十分には答えなかった問いに答えている。数十万の人口を抱え、イタリア全体から地中海全域へ広がる政治体で、市民共同体を最高の政治的権威として働かせ続けるには、どうすればよいのか。

一 王政のあと

ローマの伝承は、ロムルスが前753年に都市を建てたとする。この建国年は後世の計算であり、確かな考古学的裏づけはない。ただし前七世紀後半から前六世紀には、テヴェレ川沿いにかなり大きな都市があったことは、考古学上はっきりしている。初期のローマは王政だった。伝説では七人の王がいて、最初がロムルス、最後がタルクィニウス・スペルブス、すなわち「傲慢王タルクィニウス」である。ローマの伝統は、その追放、王政の終結、共和政の成立を前509年に置いている。

王政を終えるという行為は、出発点をはるかに越えて効いた。共和政の構の底にある論理を決めたからだ。ローマ人は王という観念そのものに深い反感を抱き、それは五百年続いた。市民の政治の言葉では、「王」は名誉ある称号ではない。もっとも重い告発だった。王になろうとしていると疑われれば、政治家はただちに市民全体の敵意に直面する。この反感はカエサル暗殺のときにも働いた。暗殺者の中心的な理由は、カエサルが王のように振る舞い、人間にはふさわしくないほどの栄誉を受けている、というものだった。

共和政の仕組み全体は、王政の体系的な否定として理解できる。王は終身だから、共和政の官職には任期を設ける。王は一人で決めるから、最高官職には同僚を置く。王はどの機関にも制約されないから、官職を元老院、民会、護民官の重なり合う監督に服させる。ただし、この反王政の線が権力配分を永久に固定したわけではない。緊急時には独裁官に一時的に権力を集中させる。どう集め、どう取り戻すかも制度の一部となった。

しかし、「王はいらない」だけでは国は動かない。王を追放したあとには、実際に働く構が必要だった。前五世紀から前三世紀にかけて、ローマはおよそ二百年をかけてそれを築いた。最大の内部対立は、平民と貴族、プレブスとパトリキの身分闘争である。前494年、平民は初めて聖山へ退き、ローマを出て別の都市を作ると迫った。貴族は平民の政治的保護として護民官職を認めざるをえなくなった。前450年ごろの十二表法はローマ最初の成文法であり、貴族の祭司が口伝していた法知識を、市民が参照できる公開の文章へ変えた。前367年のリキニウス・セクスティウス法は、従来貴族に限られていた執政官への道を平民に開いた。前300年のオグルニウス法は神祇官団と鳥占官団の席を開いた。前287年のホルテンシウス法は、平民会の決議が全ローマ人民を拘束すると定めた。

一つずつなら、ばらばらの改革に見える。積み重なると、出自と権力の関係を変えていた。平民は貴族が占めていた官職と祭司の席に入れる。自分たちの会議で決めたことを、すべての市民に及ぼせる。成人男性市民は民会を通じ、選挙と採決に加わる。だが、扉が開いたことと、誰にとっても入りやすいことは同じではない。家柄、財産、政治的つながりはなお機会を配分した。同じ市民でも票の重さは違う。この差は、あとで見る民会に現れる。

共同体内部の平等化は、数世紀前のアテナイと似ている。どちらも貴族の特権から出発し、政治的権利をより広い市民層へ延ばした。しかしローマはアテナイ型の直接民主政を発達させなかった。民会はより大きく、組織は複雑で、意思決定にはより多くの媒介が入った。政務官は主に選挙で選ばれ、アテナイのように大規模に抽籤されなかった。初めから政治を専門に担う階層があり、元老院という常設の上級政治機関が、民会には担えない継続的な政策調整を行った。

これが最初の大きな違いである。アテナイは全市民の直接参加へ、ローマは貴族の集団指導と人民による選挙・承認の組み合わせへ進んだ。市民共同体を最高の政治的権威とする前提は共通している。具体的な動き方は大きく異なった。

前二世紀半ば、ギリシア人の政治思想家ポリュビオスは、ローマの成功に有名な説明を与えた。『歴史』第六巻では、共和政を混合政体としてとらえる。ギリシアの理論には、一人が治める君主政、少数者が治める貴族政、多数者が治める民主政の三つの基本形がある。それぞれに長所と弱点があり、君主政は僭主政へ、貴族政は寡頭政へ、民主政は衆愚政へ退化しやすい。ローマは三つを混ぜた。執政官が君主政的要素、元老院が貴族政的要素、民会が民主政的要素を受け持ち、互いに抑えるため、一つの政体の坂をそのまま滑り落ちにくい。ただしポリュビオスは永遠を保証していない。同じ巻の末尾では、繁栄、富、官職をめぐる競争がこの共和国をどう変えるかを問うている。

ギリシア人がギリシアの政治概念でローマの達成を理解した。ヘレニズムの理論をローマの現実に当てた、成功した試みだった。影響も大きい。ルネサンスのイタリアの政治思想家、十八世紀のモンテスキュー、アメリカの建国者たちは、ポリュビオスを起点に混合政体を考えた。しかし説明には限界もある。ローマが調和しすぎ、理論模型に似すぎている。実際の共和政の構は、もっと雑然として、矛盾し、脆かった。

では、その主要な部品を順に見よう。

二 執政官――同僚と一年

ローマ共和政の最高常任官職は、二人の執政官、consulesである。ケントゥリア民会によって選ばれ、通常一年務めた。政務と戦争を分担し、二人とも外地で軍を率いることもあった。一人が留守番、もう一人が出征と固定されていたわけではない。同僚の権限が及ぶところでは、一方の命令に他方が待ったをかける。執政官には権威がある。しかし決められるのは自分だけではなく、在任中の行為を退任後に問われることもあった。

この配置自体が一点集中を防ぐ。権力を丸ごと一人に渡せば、その人は濫用できる。二人に渡せば、一方の濫用を他方が拒める。二人とも賛成したなら、少なくとも二つの独立した判断が支えている。官職のなかに二重の点検が組み込まれていた。

一年任期も集中を防ぐ道具だった。年末には権限を選挙と引き継ぎへ戻す。政策を続けたい人は、後任、元老院、政治的同盟者の協力を求めなければならない。だが、官職の一年は影響力の一年ではない。ローマは軍事指揮権を延長し、退任した執政官や法務官がそのまま指揮することも認めた。肩書は変わった。軍の指揮官は、変わっていないことがある。

再任の制限は少しずつ加えられ、危機のなかで例外に出会った。前180年のウィリウス年齢法、lex Villia annalisは、官職を求める年齢の下限を定めた。連続在任、間隔、昇進の順序も、時期ごとに制約を受ける。マリウスという一つの名に、この緊張が集まる。前107年に初めて執政官となり、前104年から前100年には五年続けて当選した。八年のうち六回、そのうち五回が連続している。選挙は毎年行われた。選ばれる人が何度も同じだった。

執政官の権力には、都市内部のimperium domiと、軍事領域のimperium militiaeという違いもあった。ローマ市内では多くの制約を受ける。軍を自由には使えない。市内への軍の進入は認められず、判断には護民官が拒否権を行使でき、人民の裁定も拘束する。軍を指揮する場では重心が変わる。兵を動かし、軍紀を執行し、戦場で即断できる。ただし聖なる市境、pomeriumを越えたら一切の制約が消えるわけではない。軍は補給を要し、指揮権は延長を要し、勝利のあとにも交代と責任追及がある。ローマの制約は戦場から遠くなったのであって、すべて消えたのではなかった。

内と外の区別には政治的な意味がある。都市内部の権威は分散し、制限され、何重にも監督された。外の軍事権威は集中し、柔軟で、比較的監督が薄い。戦争では軍事判断を集中させ、平時には市民共同体の均衡を保てる。しかしこの区別こそ、のちの変形の重要な緊張点になる。ガリアや東方への戦争が遠く長くなるほど、将軍が外で権力を集中させる期間も長くなる。ローマの政治的均衡から独立した力が蓄積され、それがカエサルとポンペイウスでは直接の政治的脅威になった。

執政官の下には他の官職があった。司法を主に担当する法務官praetorは、初めの一人から前一世紀の八人へ増えた。造営官aedileは道路、市場、祭礼など都市の公共事務、財務官quaestorは財政を担う。五年ごとに選ばれる監察官censorは人口・財産登録、元老院名簿の審査、公的な道徳の監督を行った。多くの常任官職は同僚制と一年任期を採るが、人数は変わり、監察官の選出周期と任期は別の仕組みである。互いにつながっていても、全部が同じ型ではなかった。

この官職体系は、手続きが細かく、権限が広く分散していた。政策を動かすには複数の政務官の協力がいる。影響力を翌年へ持ち越すには、家の網、政治集団、個人的な保護関係、patronageがいる。共和政に権力の集中がなかったのではない。家、派閥、保護関係という非公式な仕組みで集中し、官職という公式な仕組みのほうは反集中に作られていた。

公式には分散、非公式には集中。この構造は共和政の初期と中期には安定していた。貴族の家に政治を動かせるだけの非公式な力を与えつつ、どれか一つの家や個人が絶対優位に立つことを公式の制約で防いだ。末期になると、軍の個人化、富の格差、地理的膨張が非公式の調整能力を越え、この構造は崩れ始めた。

三 元老院――助言の機械

元老院senatusは、共和政でもっとも力があり、形式の上ではもっとも目立たない機関だった。議員はおよそ三百人、スッラの時代には六百人へ増えた。主に財務官以上の官職を経験した貴族から成る。元老院議員になるための選挙はない。監察官が名簿に登録する。一度入れば、五年ごとの名簿審査で素行や財産を理由に除名されない限り、身分は終身だった。

元老院は通常、民会のように人民の採決で法律を作る場所ではなく、あらゆる政務官を直接選ぶ機関でもない。senatus consultumと呼ばれる決議を政務官へ示し、資金、任務、国家の案件を処理する。それは人民の法律とは違う。しかし「助言」と呼ばれるからといって、政務官が聞き流せる一言ではなかった。次の資金が出るか、次の遠征を誰が引き継ぐかが、その言葉にかかっている。

実際には元老院が共和政の運用の核心を握っていた。ポリュビオスは第六巻で詳しく記す。国庫aerariumを管理し、年間支出の方向を決める。イタリアの重大刑事事件、とくに公共の安全に関わる事件を扱う。外国使節を迎え、ローマからの使節派遣を決め、戦争と和平に至る手続きを方向づける。執政官や法務官にprovinciaeを割り当て、総督の担当範囲を決める。さらにtriumphus、凱旋式を認め、どの勝利にローマ最高の軍事的栄誉を与えるかを決める。

外交、財政、属州の配分、軍事的名誉。重要な領域がまとまっていた。執政官が戦い続けるには、資金を出し、軍需を送り、指揮の継続を認める人が要る。そのつなぎ目を握る元老院は、将軍にローマがまだ背後にいると感じさせられる。支持を得ても白紙委任ではない。その先には別の政務官、護民官、人民の採決が待っているかもしれない。

形式上は助言、実際には決定的。この緊張は共和政の核心だった。三百から六百人のエリート集団に権力を集中できるが、一人の議員が専断できないから集中しすぎない。常設機関なので素早く会議を開けるが、互いを説得する必要があるから独断にならない。終身の議員が経験を持ち越せるが、定期的な名簿審査で一部は入れ替わるから硬直しない。

しかし、それも不安定だった。共有された政治文化が必要だったからである。貴族たちは自らを、元老院議員の別名でもあるpatres、「父たち」と考え、公共の利益への責任を負うと理解していた。成熟期にはその文化が実在し、元老院は共通の政治判断をもつ集団として動けた。末期に保守派、改革派、各派閥へ深く割れると、一体として動く能力が消えた。元老院は派閥を調停する機関ではなく、派閥が争う舞台になる。

タキトゥスは後世、『年代記』冒頭でこの変化を振り返り、権力を集める別の方法を書いた。官職、財産、地位が、生き残った貴族を新しい秩序につなぐ。元老院、官職、法律に分かれていた働きが、次第にアウグストゥスへ集まる。共和政の言葉はまだ語られていた。権力は、かつてのようには分かれなくなっていた。

こうした馴致の可能性は、元首政だけのものではない。共和政の内側にすでにあった。貴族集団が内部の多様性と本当の独立を保てば、元老院は真の協議機関になる。一人の勝者や一派が集団を支配すれば、その道具になる。この脆さから、元老院という制度は自力では逃れられなかった。

四 民会――人民の複数の通路

最高の政治的権威としてのローマの「人民」は、一つの統一機関を通して表れるのではなかった。複数の民会があり、組織、投票単位、議長を務める政務官、扱う事務がそれぞれ異なった。

もっとも古く軍事色の強いのは、ケントゥリア民会、comitia centuriataである。原型が市民兵の集会なので、聖なる市境の外、カンプス・マルティウス、マルスの野で開かれた。投票単位はケントゥリア、百人隊で、一単位一票。初期の伝統的編制では百九十三単位とされ、その後に組織や投票順が変わった。財産等級は一貫して編成の重要な手がかりである。大勢の貧者が、ごく少数の投票単位に詰め込まれることがある。それだけ富者の票は重くなる。民会は執政官、法務官、監察官を選び、戦争と和平を決め、死刑に関わる上訴を審理した。

トリブス民会、comitia tributaは地域区分で編成された。成熟期には三十五のトリブスがあり、都市部が四、農村部が三十一、それぞれ一票だった。百人隊のように財産等級で票を配分はしない。それでも各トリブスの人口は違い、一つに一票は一人に同じ重さを与えることにはならない。主な仕事は立法、罰金を伴う公的訴追、財務官や造営官など完全なimperiumをもたない官職の選挙である。ローマの法律の大半はここで可決された。

平民会concilium plebisに参加できるのは平民だけで、貴族は入れず、護民官が議長となった。投票単位はこちらも三十五のトリブスだが、それぞれの平民だけを数える。決議はplebiscitaと呼ばれた。投票に加わっていない貴族にも効力が及ぶかは、長く争われた。より早いローマの伝統にも平民決議を全人民に及ぼす立法が記され、前287年のホルテンシウス法でその効力が確認された。平民が自分たちの会議で決めたことは、貴族も従う法律になる。平民会は最重要の立法機関の一つになった。

つまり「人民の意思」は複数の通路を通った。同じ市民でも、ケントゥリア民会では財産によって重く扱われたり周縁に置かれたりし、トリブス民会では所属地域ごとに数えられ、平民なら平民会で護民官のもとに集まる。動き方が違えば、政治的な傾きも違った。

人民は、異なる投票の列に組み直された。だが好きな会場へ移ればよいわけではない。誰が招集し、何を扱えるかには境界がある。法律を進めるには賛成者だけでなく、提案権をもつ政務官と適切な手続きが必要だった。だから政治の競争は採決前にも起こる。何を、どんな形で、先に人民の前へ出すのか。

さらに大きな制限があった。民会は自分で集まれない。ケントゥリア民会とトリブス民会なら執政官や法務官、平民会なら護民官という、権限をもつ政務官が招集する。議題も招集者が決める。普通の市民が個人の名で正式に会議を開いたり、自分だけで議案を採決にかけたりはできない。正式な投票の入口は政務官の手にある。市民は要求し、支持し、反対し、ときには政治家に予定を変えさせることもできる。それでも意見を法的効力のある採決へ変えるには、招集と提案の権限をもつ人を通る必要があった。

ここはアテナイの民会の伝統と大きく違う。ローマで投票する市民が向き合うのは、政務官が正式に出した議案である。その場で各人が自案を採決に追加するのではない。公開の演説、意見を聞く機会、正式の投票にも手続き上の区切りがある。声は人々の間から出てくる。しかしそれを議案に書き、採決へ出す力は、誰の手にも等しくあるわけではない。

この仕組みは市民の政治力に敷居を設けたが、票を無意味にしたわけではない。政務官は選ばれねばならず、法は可決されねばならず、戦争と条約も決定を要する。いずれも人民が必要だ。問いを出す人は何を尋ねるかを決められる。しかし欲しい答えが来るとは限らない。議題と票は、異なる場所にある二つの力だった。

共和政末期、貴族間の競争はこの敷居を何度も横切った。元老院の権威を頼る者、人民の支持を求める者、場面によって使い分ける者がいる。オクタウィウスの罷免、マリウスの再三の当選、カエサルへの終身独裁官権力の授与にも政治的動員があった。しかし支持者は、指導者が携えて歩く所有物ではない。ガイウス・グラックスはやがて知る。一つの問題でついてきた人は、次の問題では離れていく。

五 護民官――共和政の非常ブレーキ

護民官tribuni plebisは、ローマ共和政の構のなかでもっとも異例の官職だった。

起源には伝説が伴う。前494年、貴族の圧迫に不満を抱いた平民が集団で聖山mons sacerへ退き、ローマを去って別の都市を作ると迫った。貴族は譲歩し、平民を特に守る官職を認めたという。後世の歴史家は細部をさまざまに飾っており、すべてを確実とは言えない。ただ、平民と貴族の争いから生まれた特殊な官職であることは確かだ。

初めは二人、後には十人となり、平民会が毎年選び、一年務めた。だが普通の官職ではない。いくつもの特別な属性があった。

第一はintercessio、拒否権である。政治手続きの場で護民官は前に出て政務官の行動を止め、別の護民官が進める案件にも待ったをかけられる。一人の反対で進行中の手続きが止まる。大きな力だが、遠方の軍団に何を命じても即座に従わせる権力ではない。そこに居合わせ、介入し、他の人がその制止を認めることによって働いた。

第二はauxilium、個人への保護である。政務官から不当な扱いを受けていると考える市民は、護民官に助けを求められる。護民官は自ら介入して処置を止める。個人に即し、その場で働き、裁判手続きを待たない保護だった。

第三はsacrosanctitas、神聖不可侵である。護民官の身体は神聖とされた。ローマの伝統では、その身体を傷つけた者は合法的に殺され、その殺害者は罪を負わない。宗教的な力を伴う防護であり、護民官を害することは共同体の禁令を越えることだった。ただし、禁令は鎧ではない。

三つを合わせると、護民官は構のなかの非常ブレーキとなる。職権の範囲で政務官の行動を止めるintercessio、市民への処置に割って入るauxilium、その介入を守るsacrosanctitas。ポリュビオスは、一人でも護民官が反対すれば、元老院は会議を開くことすらできないと記した。

ブレーキには二つの働きがあった。一つは平民の保護。貴族集団が元老院と執政官を通じて圧迫しようとすれば、護民官が止める。もう一つは急進的な決定の抑制。拒否権が使える事項では、提案者は権限をもつ相手にどう思いとどまってもらうかを考える。変更には、より多くの調整が要ることになる。もっとも、拒否されないことは全員の賛成を意味しない。

強さが、そのまま脆さにもなる。護民官が大筋で平民の利益に沿う、という前提が必要だからだ。貴族の一派や個人に買収されれば、拒否権はその相手の道具になる。共和政末期にはそれが日常化した。特定の貴族に仕える護民官、いわば貴族派閥の護民官が現れ、平民ではなくその貴族の利益を守るために拒否権を使った。

もっと深い緊張は護民官同士にある。一人が改革を進めれば、別の一人が止める。その件で割れていても、別の案件は進められる。同じブレーキが、政務官の処置も、同僚が不可欠と考える法律も止める。末期には内部分裂が繰り返され、平民を代表する非常ブレーキは、貴族派閥間の争いの道具へと劣化した。

最大の弱点は、その拒否権自体が群衆動員によって押し切られうることだった。前133年のティベリウス・グラックス事件の本当の意味は、そこにある。

六 ティベリウス・グラックス――手続きを越える先例

前133年、護民官ティベリウス・センプロニウス・グラックスは土地改革法案を提出した。

背景には深い社会的不平等があった。ローマはイタリアと西地中海の征服で大量の公有地ager publicusを得た。それは分配され、占有され、耕され、放牧に使われた。古代の叙述で繰り返し出てくる上限は、私的な公有地占有を五百ユゲラまでとするものだ。ユゲラiugeraはローマの面積単位である。しかし富裕な貴族や騎士は長く土地を集め、上限を大幅に越えていた。一方、地中海戦争で兵役が長引き、大農園との競争や穀物輸入に圧迫された貧しい市民は、自分の土地を徐々に失い、都市の貧民になっていた。

ティベリウスは超過占有地を取り戻し、土地のない市民や少ない市民へ分けようとした。古い上限は援用できる。だが、変えねばならないのは目の前の実際の占有である。プルタルコスによれば、最初の案には占有者への補償まであったが、対立の激化とともにその譲歩は撤回された。紙にある古い規則を再び土地へ下ろせば、そこで暮らし、経営し、収益を計算している人にぶつかる。

改革を進める手続きが、惨事へ変わった。

ティベリウスは平民会に法案を出し、採決で土地分配を進めようとした。もう一人の護民官マルクス・オクタウィウスの拒否権が、それを止めた。ローマの伝統では一人の拒否で足りる。ティベリウスには法案も支持者もいた。しかしオクタウィウスが退かなければ、支持者は票によって法律にすることができない。

膠着のなかでティベリウスは調停も受け入れ、元老院に協議へ出向いた。プルタルコスもアッピアノスも、この実らなかった試みを記している。会議の場所を変えても、対立は会議の外には置いていけなかった。なお有効な拒否権へ戻ったとき、ティベリウスはそれを受け入れるべきだった。改革を断念するか、オクタウィウスを説得するか、翌年にもっと好意的な護民官がそろうのを待つかである。

彼は第四の道を選んだ。オクタウィウスの罷免を提案した。

拒否権を使っている護民官を罷免する。それによって争点は移動した。本来、官職はその保持者を守り、他の権力に「否」と言えるようにする。いま決めるのは、「否」と言う人を官職に残すかどうかである。ティベリウスの法理は、その職責から始まった。護民官は平民を守る。平民に有利な法律を拒むオクタウィウスは職責に背く。ならば平民は罷免できる、というのだ。

ティベリウスの働きかけで、平民会はオクタウィウスの罷免を可決した。そのあと土地改革法案が通った。

プルタルコスは『ティベリウス・グラックス伝』に論争を記した。元老院は衝撃を受け、多くの平民支持者も行きすぎと感じた。それでも法案は成立し、土地委員会は動き始めた。

その夏、ティベリウスは護民官再選を目指す。直後の再任を認めない慣例のもとで、これも争いのある一歩だった。選挙当日、元老院側の議員と支持者が会場へ突入した。混乱のなか、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカが先頭に立って襲った。ティベリウスと約三百人の支持者は棒と石で殺され、彼の遺体はテヴェレ川に投げ込まれた。

前133年は、後世に共和国の危機を語る分水嶺となった。現職護民官が政治集会で殺され、川へ捨てられた。その後にはガイウスと支持者の死が続き、さらにマリウスとスッラ、カエサルとポンペイウス、オクタウィアヌスとアントニウスの戦争が、市民間の紛争へ軍を持ち込んだ。一歩ごとに激化することが決まった直線ではない。しかし武力が繰り返し政敵への対処になれば、共和政の手続きは、外にとどめようとしていた力と何度も向き合うことになる。

なぜ前133年が分水嶺なのか。事件が共和政の構の二つの重要な前提を傷つけたからだ。

第一は、手続きを勝手に踏み越えないという前提である。構の価値は手続きによる権力制限にあった。護民官の拒否、元老院の助言、人民の採決は、気軽に迂回してよいものではない。オクタウィウスの罷免はこれを破った。拒否した人は説得されず、その官職から外された。通せんぼする人を先にどかし、それから塞がれた法案を通す。その道はもう歩かれていた。残ったのは援用できる先例であって、以後すべての手続きが押せば倒れるようになった、ということではない。

第二は、共同体が認める手続きのなかで政治対立を扱うことである。当日、権力者の全員が暴力を選んだわけではない。プルタルコスによれば、執政官スカエウォラはナシカの要求する武力行使を断り、ナシカが自分で人を率いて飛び出した。護民官殺害は、争いのある採決への自動反応ではない。別の行為だった。手続きの議論がまだ終わらないうちに、ある者たちは実力行使に踏み切り、武器を手に、議論を起こした当人を殺すことを選んだ。

二つの突破は、後の政治家が使える先例になった。手続きは働き続け、票、官職、法的根拠を求める必要も残る。しかし今回は規則で止まるのかが、紙だけではますます分からなくなる。規則には従う人が要る。自分の目標が塞がれたときにも立ち止まる人が要る。その必要は前133年に突然消えたのではない。その年の死によって、より深い亀裂を残した。

プルタルコスは、あの殺戮では剣で死んだ者はいなかった、とわざわざ記す。凶器は棒、石、そして群衆の逃走で壊れた長椅子の脚だった。会議で座るためのものが、人を殺すものになった。

七 ガイウス・グラックス――改革の拡大と破滅

ティベリウスの死から十年後、弟ガイウス・センプロニウス・グラックスが護民官になった。前123年、前122年と続けて務め、改革を土地から穀物、司法、兵役、同盟者の資格へ広げる。兄が残した一つの問題は、弟の手でもっと多くの暮らしにつながった。

土地改革は続いた。停止していた兄の分配委員会を再び動かし、貧しい市民へさらに公有地を与える。海外植民市、とくにカルタゴ付近のユノニアもその延長だった。兵士の衣服は軍給から差し引かず国が無償で支給し、十七歳未満を徴募しないと定めた。

しかし改革は土地にとどまらない。穀物を市民へ一定の安値で販売する制度を進め、買う価格を政治生活の継続的な仕組みにした。司法権力も配分し直す。元老院身分ではない富裕層、騎士equitesが、属州官吏の収奪などを裁く陪審で重要な地位を得た。被告が元老院から来ても、判断するのはもう同じ仲間だけではない。アシア属州の徴税請負をローマの徴税会社publicaniへ渡し、事業上の利益を守ろうとする政治勢力も生んだ。さらにラテン人や他のイタリア同盟者の資格と権利を広げ、市民身分の境界を外へ動かそうとした。

範囲は兄よりはるかに広い。貴族と平民、ローマとイタリア、都市と農村の関係を組み替える体系的な改革だった。兄の失敗を理解していたように見える。一つの争点だけでは孤立させられ、敗れやすい。異なる利益集団を結ぶ幅広い連合が要る。

その幅広さも失敗の原因になった。平民、騎士、イタリア同盟者を同時に満足させようとすれば、元老院、保守的な執政官、既存のローマ市民の利益を守る人々と必ず衝突する。敵は兄より多い。戦線も兄より広い。

ガイウスはいくつか戦術を誤った。もっとも致命的なのは、前122年に同盟者の政治的権利拡大を試みたことだった。市内の多くの平民は、新しいローマ市民が増えれば自分たちの影響力が薄まると恐れて反対する。別の護民官マルクス・リウィウス・ドルススは、実際には元老院が置いた対抗者であり、三千人ずつの新植民市を十二か所作るなど、より急進的な「民衆迎合」の提案で支持者を奪った。連合は崩れ始めた。

前121年、ガイウスはすでに退任していた。三度目の護民官選挙に勝てず、官職の神聖不可侵にも守られていない。改革をめぐる争いは終わらなかった。新執政官ルキウス・オピミウスと同盟者が一部の法の廃止を進め、カルタゴ付近の植民計画も攻撃された。ガイウスと仲間のフルウィウス・フラックスは、すでに得た改革を守るため支持者を再び集めた。

プルタルコスによれば、法を撤回しようとした集会の日、双方は朝からカピトリヌスの丘に集まっていた。執政官の犠牲祭儀のあと、従者アンティリウスが供犠の内臓を運びながらフルウィウス側を挑発し、ガイウス側の者に刺殺された。ガイウスは自分の支持者を叱責し、オピミウスは死者への復讐を求めた。雨でその日の集会は散った。争いは終わらなかった。

翌日、オピミウスは元老院を招集した。アンティリウスの遺体は担架に載せられ、フォルムを通り、元老院の会場の前を運ばれた。泣き声が前日の流血を、協議中の議員の前へ持ってくる。元老院は、通常「元老院最終勧告」と呼ばれる緊急決議senatus consultum ultimumを可決し、執政官に国家の保全を求めた。強制力の行使には政治的な後ろ盾ができた。それでも「国家を守る」という理由で市民殺害の責任を免れられるのかは、なお争われる問題だった。

オピミウスはただちに武装勢力を動かした。ガイウスと支持者は平民の伝統的拠点アウェンティヌスの丘へ退き、武力衝突が起こる。ガイウスは逃走し、最後にはテヴェレ川近くの林で奴隷に自分を殺させた。支持者約三千人が処刑され、あるいは命を奪われた。

ガイウスの死は政治対立を深め、人民の支持を求める方法と元老院の権威を守る方法を、いっそう鋭くぶつけた。のちに用いられるpopularesとoptimates、民衆派と閥族派は、こうした姿勢や結びつき方を指す。この日二党が発足し、以後ずっと同じ顔ぶれで続いたのではない。次の争点では、昨日の仲間が離れることもあった。

より重要なのは、「国家が危機にある」が繰り返し使える理由になったことだ。緊急決議は国家の保全を命じる。しかし政務官にはまだ、誰の国家を保ち、どの行動をその名で弁護できるかという問いが残る。オピミウスも後に市民殺害で訴追された。救国という名は法の問題を消さず、法的論争の一部になった。

兄弟の事件は、さらに深い構造問題を示した。共和政全体は、自制できる統治層としての貴族集団を前提にしていた。同僚制、一年任期、護民官の拒否権。反集中の仕組みはどれも、特定の政策より共和政の持続を重く見る貴族が、自発的に制限を引き受けると想定した。

兄弟の運命はその自制を対立のなかに置いた。ティベリウスは拒否する同僚を罷免し、ナシカは人を率いて殺害し、オピミウスは国家保全を名目に武力を用いた。同じ種類の行動ではない。それでも一つの問いを残す。誰もが共同体を守っていると言うとき、いま起きていることを誰が止められるのか。

権力を持つ人が制限を認めることに依存する構は、その人たちが拒めば傷つく。だが兄弟の死後も、ローマの選挙、立法、協議は止まらなかった。難しさはそこにある。それらは働き続け、同時に迂回し、圧倒する方法にも先例ができていた。この先の物語は、とうに止まった機械の話ではない。人が使い続け、また新しい限界へ押していく話である。

八 マリウス――軍隊の個人化

グラックス兄弟の死後、ローマには比較的静かだが底流のある時期が来た。前113年から前101年まで続いた、北方のゲルマン系集団キンブリ人とテウトニ人の危機は、軍事制度の重大な問題を露わにする。前二世紀後半のヒスパニアでの戦争、有名なヌマンティア包囲なども多くの人員を消耗した。財産をもつ市民が装備を自弁する伝統的兵役は、長く遠い戦争を支えにくくなっていた。

この時期の鍵となるのがガイウス・マリウスである。伝統的な元老院貴族ではなく騎士階層の出身で、軍事的な力量から台頭した。前107年に執政官へ選ばれ、北アフリカのユグルタ戦争を任された。

その遠征準備で、マリウスは志願者を募った。サルスティウスによれば、財産等級によらず募集し、大半はcapite censi、財産がごく少なく、主として頭数で登録される市民だった。この名簿の変化によって、ほとんど財産のない人もその遠征に加わった。

これが後世のいう「マリウスの軍制改革」の核心である。ただし、一貫して全面的な改革という像は近代の歴史学が構成したもので、古代史料が一度の体系的改革として明記しているわけではない。先のサルスティウスも後のプルタルコスも、貧しい市民の募集を記している。説明は一致せず、後世の「改革一覧」を同時に発布した文書をどちらも提示しない。装備統一、軍団編成変更、鷲旗の採用なども、異なる時期に徐々に起きたことで、マリウス本人の一貫した綱領とは限らない。

この変化は、兵役が終わったあとの生活を目立つ位置へ持ち出した。財産の乏しい志願兵には、戦利品と土地が帰郷後の暮らしを変えうる。有産の兵士も損失と報酬を計算する。市民の義務が軍営から消えたのではない。生活への期待によって、別の問いが具体的になった。軍を去ったら、何で食べていくのか。

では、土地はどこから来るのか。将軍の約束は、それだけで兵士の手に渡る畑にならない。提案し、仲間を得て、採決を取り、実施する。ローマの政治手続きが要る。マリウスの退役兵への土地も、護民官サトゥルニヌスの立法に入った。戦場の外で期待をかなえるには、将軍がローマに戻って何を取りつけられるかが問題だった。

そこで将軍と兵士の間に、恩を与える人と受ける人の関係が重なることがある。国家と市民を一筆で消すのではない。その間に、特定の人が入る。従ってきた人、いま約束を果たすのを待っている人である。その人がローマの他の権力と衝突すると、兵士自身の将来も巻き込まれうる。

個人化とは、前107年に線を引き、こちらは全員市民、向こうは全員私兵とすることではない。長期指揮、共にした戦争、報償と定住への期待が、一度の引き継ぎでは切りにくい関係を作る。スッラの内戦、さらにカエサルのガリア戦争を経て、共和政が問われるのは誰を任命するかだけでなく、任命した人がその軍を本当に引き継げるかとなる。

マリウス自身は前107年から前100年に六回、すなわち前107、104、103、102、101、100年に執政官となった。前104年からの五年連続在任が、一年交代と継続指揮の緊張をもっとも明瞭にする。戦争の危険、以前の勝利、政治動員が、同じ名前を何度も投票へ戻した。危機を語るなかで、共和政の手続きの制約は繰り返し踏み越えられた。

前88年、争いは一つの具体的な指揮権へ集まった。ミトリダテスに対する東方戦争をスッラに任せるか、マリウスに任せるか。ローマは交代を決めたが、スッラは集結済みの軍団をローマへ向けた。海の向こうへ行くはずの軍が、誰に命令する権利があるのかを決めに戻ってきた。

九 スッラ――致命的な先例

ルキウス・コルネリウス・スッラは、共和政最後の段階でもっとも複雑な人物だった。

没落した貴族の家に生まれ、ユグルタ戦争でマリウスの部下として働くなど、軍事能力と巧みな政治活動で台頭した。前80年代にマリウス派との対立が表面化する。前88年、執政官としてミトリダテス六世との東方戦争の指揮を任されたが、護民官スルピキウスは指揮権をマリウスへ移すよう働きかけた。休会、提案、採決をめぐって、すでに街頭では暴力が起きている。統帥交代は人民の手続きを通った。その手続きをどう動かしたか自体が、双方の争点でもあった。

スッラは交代を認めなかった。アッピアノスによれば、兵士は東方戦争の収穫を期待し、マリウスが別の兵を使うことも恐れていた。兵士たちはローマへ連れていけと求める。一方、高級将校は財務官一人を除いて彼を去った。六個軍団が都市へ進むとき、軍の内部にも線が引かれていた。同じローマのもとにいるのに、統帥に従う者も、自分たちの都市へ軍を戻すことを拒む者もいた。

ローマを占領したスッラはマリウスを含む反対者を国家の敵とし、一連の法律で自らの法的地位を整えてから東方へ出た。前87年にはマリウスとキンナの勢力がローマへ入り、殺戮の向きが変わる。マリウスは前86年に死去した。スッラがイタリアに戻るのは前83年、新しい戦争に勝つのが前82年である。帰ってきた彼を迎え撃つのは、もう生きている老マリウスではなかった。

前82年、スッラは前例のない形で独裁官dictatorに任命された。従来は特定の緊急事務、たとえば戦争指揮や反乱鎮圧のため、最長六か月の任期で置かれる官職だった。スッラには期限がない。最善と考える法律を制定し、国家を整える任務が与えられた。それは無期限の絶対権力を与えるに等しかった。

彼はその力で二つを行った。まず粛清。プロスクリプティオ、粛清名簿を公開し、掲載者を公然と追跡・殺害させ、殺害者には賞金を出した。財産は別に没収・処分される。プルタルコスが記す懸賞は、一人につき二タラントンである。名簿に名前が載ると、命は受け取れる金額に換算された。制度化された政治的粛清はローマ史上前例がなく、数千人、とくに騎士とマリウス派の元老院議員が殺された。次に改革。共和政を「修復する」と称し、元老院を約三百から約六百へ増やし、護民官を自分の法律で制限してほぼ政治的行き止まりにし、裁判の支配を元老院階層へ戻した。

スッラは死ぬまで独裁官に居座ったわけではない。前80年には執政官を務め、公職を去って私人として暮らし、前78年に死去した。軍で秩序を書き換えた人は、やがて公職を退いた。残した仕組みは、一緒には退場しなかった。

表面だけなら「共和政の救世主」という話になる。共和政への脅威とされたマリウス派や騎士を非常手段で排し、元老院を強め、進んで権力を返した。スッラを共和政の忠実な奉仕者として描く伝統も残った。

しかし実際には、その破壊は「修復」より深かった。

彼が残した致命的な先例は、将軍がまず軍で国家を占領し、その後に「旧秩序の回復」を掲げて旧秩序を書き換えられることだった。カエサルとオクタウィアヌスもそれを繰り返す。繰り返されるたびに、先に軍で占領し、あとで合法手続きに承認させるという道筋が、より通常の政治手法となる。

元老院の「強化」は、実際にはスッラ派の支配する機関を作った。新たな三百人は主に彼の支持者で、騎士階層や軍から選ばれた。以前の元老院は内部に多様性のある貴族集団だった。グラックス兄弟後に分裂していたとしても、その分裂は多様性の証拠でもある。スッラ後の元老院は長く、勝者に馴らされた機関だった。

護民官の弱体化にも反動が起きた。権限を大きく制限し、上位の官職へ進めない袋小路にしたため、共和政の非常ブレーキが弱まった。しかし弱まった護民官は、消えた護民官ではない。前70年、ポンペイウスとクラッススの共同執政官任期に権限が回復した。スッラが塞ごうとした道を、新しい政治連合が再び開いた。

もっとも深い損傷は言葉にあった。「共和政の回復」という宣言は、共和政を道具にした。権力を奪いたい者は誰でも回復を名乗れる。特定の制度ではなく、勝者が解釈し直せる標語になる。オクタウィアヌスはこの柔軟さを存分に使った。元首政全体は「共和政の回復」の言説に立つが、その回復は実際には新しい構の成立だった。

スッラの死から約十八年、前60年ごろ、カエサル、ポンペイウス、クラッススが、のちに第一回三頭政治と呼ばれる政治連合を組む。新しい内戦はまだ先にある。具体的な経過は次篇で扱うが、道具はいくつもすでに残されていた。将軍は軍を都市へ入れられる。勝者は粛清名簿で敵を消せる。共和政の回復はあらゆる変更の正当化になり、緊急時の非常権力は正式官職にできる。スッラからオクタウィアヌスへの五十年余りは、それらが繰り返され、さらに精緻になっていく過程だった。

十 共和政の構の限界

冒頭の問いへ戻ろう。ローマはどうやって都市の構を地中海の規模へ広げたのか。

答えは二層ある。

第一は制度の巧みさである。同僚制、一年任期、混合政体、護民官の拒否権、官職歴cursus honorumの手続き化、常設の元老院が組み合わさり、貴族集団の多様性を取り込み、一人や一派の長期独占を防ぎ、しかも速く決める政治機械となった。成熟期、ほぼ前三世紀から前二世紀半ばに、これはよく機能した。三度のポエニ戦争とヘレニズム世界への介入の間も、ローマは一つの政治主体として内部の協調を保てた。戦争を終えた将軍は共和政の内側へ戻り、ヘレニズム式の個人君主にはならなかった。

第二は文化の内面化である。構の働きは制度だけでなく、深く身についた政治文化に依存した。その核がmos maiorum、祖先の慣習だった。貴族は、自分を独立した個人ではなく、祖先から現在へ延びる鎖の一つとして教えられる。政治行為は祖先に恥じず、子孫によい遺産を残さねばならない。共和政の手続き、元老院の権威、王への反感は外からの規則ではなく、子どものころから刻み込まれた価値だった。それが長く貴族の自制を可能にし、特定の政策より共和政の持続を優先させた。

この二層によって、ローマは前三世紀から前二世紀半ばに、イタリアの覇者から地中海の覇者へ広がれた。都市の構が外へ出て働いた重要な例である。ただし、その限界も同じだけ重要だ。

仕組みの前提は都市の大きさだった。同僚制は二人の執政官の継続的な意思疎通を要する。ローマならできても、遠い属州で別々に戦えば難しい。官職は一年で替わるが、戦争は以前から年を越え、指揮権延長はもともと継戦の方法だった。ガリアや東方で同じ人が長年率いれば、交代はローマで名を書き換えるだけではない。遠方の軍がその後任を受け入れねばならない。元老院の助言も定期的な会議を要するが、返事を待たず即断しなければならない将軍の実権は、その助言の届く範囲を越える。

地中海規模がもたらすのは軍事問題だけではない。征服の富は不均等に分配された。一部は属州統治から貴族へ、一部は徴税請負から騎士へ、残りは市民への給付を含むローマの公共支出へ流れる。格差は深まり、失地した市民が都市へ入る。穀物供給、土地分配、暮らしの安全は切実な政治問題だった。その必要が人を動員可能にするとともに、自分の要求をもたせた。ガイウスは穀物と土地では支持を得たが、同盟者の権利拡大には一部平民が反対した。支持は一度得れば永久に所有できるものではない。普通の市民にとって、穀物価格、土地、市民資格は共和政と無関係な私事ではなく、共同体への要求が生まれる場所である。物質的な境遇は判断に影響する。判断そのものを消しはしない。難しいのは、その要求を法的効力ある決定にするには、政務官の提案、政治的同盟、利益の交換をなお通ることだ。その入口を握る人には、結果を左右する仲介の力も生まれた。

市民共同体が大きくなれば、古い組織方法も多くの人を受け入れねばならない。同盟市戦争とその後、イタリア各地のさらに多くの住民がローマ市民権を得た。どのトリブスに入れ、既存の票の配分がどう変わるかが、すぐ次の争点となる。名簿に名が載ることは、ただちに同等の政治的位置を得ることではない。共同体は広がった。声の配り方は、まだ交渉し直さねばならなかった。

限界をまとめればこうなる。都市の大きさでは非常に有効で、イタリアの同盟規模でも動く。しかし地中海をまたぐと深刻な緊張が起こる。執政官を替える、新法を通すだけでは足りない。遠方で指揮を継続しながら、ローマがそれを取り戻せるようにする。市民を増やしながら、その声を決定へ入れる。これらの要求は互いを引っ張る。構造的な緊張はそこにあり、歴史が全員のために唯一の出口をあらかじめ選んだことにあるのではない。

グラックス兄弟、マリウス、スッラの出来事は、その緊張が具体的な政治対立によって動き出した過程と読める。対立は何度も限界を見せ、目先の解決が次の協議を難しくすることもあった。スッラが死んだ前78年、形式はまだある。内部の協調機構は深く傷ついていた。

ここで近代の二つの歴史判断に触れておきたい。エーリヒ・グルーエンは『ローマ共和政の最後の世代』(1974年)で、アウグストゥスの結果から逆算して末期共和政の必然的崩壊を決めつけないよう強調する。前一世紀も言葉と手続きは生きており、政治家はその枠内で行動していた。共和政の死を目撃しているとは考えていなかった。ロナルド・サイムは『ローマ革命』(1939年)で逆の方向から、アウグストゥスの「回復」を、個人的関係網、政治的結合、勝者による再編が中心となる革命としてとらえた。

両者を合わせるなら、前一世紀の構は、形式として有効でありながら、実質的な負担をますます支えにくくなっていた、と読むほうが妥当だろう。言葉は真剣に使われ、官職歴に沿う昇進、元老院会議、民会選挙は続く。手続きは部分的に守られ、破る人も事後の合法化に労力を払う。だが協調機構と政治文化の土台は深く傷つき、その運営は制度の安定より、特定の有力者同士の妥協にますます依存していた。

この状態は長く続きうる。前60年代から前50年代の第一回三頭政治のように、カエサル、ポンペイウス、クラッススが私的に権力を分け、表では共和政が続く仕組みさえ作れる。構の歪みであって、まだその死ではない。

前44年以降の内戦から前27年の政治的取り決めへ、オクタウィアヌスはローマの権力の中心に進んだ。王号の復活は宣言しない。執政官、元老院、共和政という名を残し、古い名称の内側に新しい権力関係を置いた。後の継承も家の取り決め、養子、政治的授与を通り、できあがった王冠をそのまま息子へ渡すのではなかった。ローマは共和政という言葉をやめなかった。名は残り、かつて分かれていた力が、ますます一人を中心に回った。

次篇:カエサルからオクタウィアヌスへ――共和政から帝政への相転移。