この版について
原文の版について:原作は中国語で、元のページでは簡体字と繁体字を切り替えられる。中国語の底本には、来院順、511キンダーハイムの暴力の性質、双子の記憶、ルーエンハイムでの手術場所などの事実関係と表現を校訂済みと記されている。以下、作品全編のネタバレを含む。
1986年、西ドイツ、デュッセルドルフ。
その夜、アイスラー記念病院に一人の子供が運び込まれた。頭を撃たれ、命に関わる危険な状態にある。名前はヨハン・リーベルト。一緒に来たのは双子の妹で、恐怖のあまり口もきけない。二人の両親は殺されたばかりだった。東ドイツから逃れてきた両親だった。
執刀する医師は決まっていた。天馬賢三、二十八歳の日本人脳外科医。この病院で最も腕の立つ男だ。
手術を始めようとしたところへ、命令が下る。
デュッセルドルフ市長が倒れ、こちらへ搬送されている。まもなく着く。ハイネマン院長は、子供をほかに任せ、市長の手術に回るよう天馬に命じた。
天馬は命令を拒み、来院順に従ってヨハンの手術をやり遂げる。
ヨハンは助かった。市長は死んだ。
この一篇では、その夜と、その後に起きた、天馬が手を下してはいない出来事を扱う。
病院の序列は誰もが知っていた
まずハイネマン側の言い分を十分に書いておきたい。そうしなければ、この文章は成り立たない。
アイスラー記念病院には優先順位がある。それは隠されてもおらず、言葉で説明でき、毎日そのとおりに運用されている。有名人は無名の人より先に、権力のある人はない人より先に、病院に何かをもたらせる人はそうでない人より先に扱われる。
しかも、この仕組みを動かしているのは縁故や腐敗ではない。制度として定着し、経営陣が真剣に守り、明確な理由によって支えているものだ。
その序列には一通り筋の通った理由がある。荒唐無稽な理由ではない。
病院を動かすには金がいる。設備も、研究費も、政界とのつながりも、次の予算会議で味方になってくれる人もいる。市長が助かれば、それらが次々に入ってくる。市長がこの病院で死ねば、同じものが別の形で病院に跳ね返ってくる。それらは結局、何になるのか。よりよい設備になり、より多くの病床になり、救える人の数になる。
つまりハイネマン側の計算は、その先まで進められる。しかも、答えはプラスになる。
この病院の序列は秘密ではない。日々の仕事そのものに書き込まれ、誰もが従っていた。その夜までの天馬も含めて。
ここははっきりさせておく必要がある。天馬は外から来たばかりの人間ではない。この病院で順調に出世し、院長の娘と婚約し、外科部長、その先には院長の椅子まで見えていた。彼はずっとこの序列の内側にいて、その恩恵を受け、そのとおりに仕事をしてきた。
胸のどこかには引っかかるものがあった。それでも深く考えなかった。作品はそう描いている。医師としてある種の板挟みを感じながら、掘り下げず、次から次へと手術をこなし、研究に没頭していた。
この点は重要だ。あの夜より前の天馬は、異論を抱いて立つ人ではなかった。流れに沿って進む人だった。しかも、たいていの人よりうまく進んでいた。
もう一つの立場もある。院長の娘エヴァと婚約している。序列の頂点は、いずれ自分が座るはずの場所だった。彼はこの仕組みの外に立つ人ではない。その後継者だった。
使ったのは同じ病院にあるもう一つの規則
あの夜の行動は、普通なら「院長の命令に逆らった」と要約される。
その要約では、一つ抜け落ちる。
天馬は病院の序列が間違っていると宣言したわけではない。何かを主張したわけでも、廃止を求めたわけでも、新しい原則を持ち出したわけでもない。
彼がしたのは、この病院に以前から明記されていた別の規則を、一度そのまま使うことだった。誰が先に来たか、という規則を。
その夜の正式な手順では、誰が先に到着し、誰がすでに治療を受け始めているかは、もともと病院自身が採用する通常の順序だった。普段それが目立たないのは、権力による序列と正面衝突する機会が少ないからだ。実際のトリアージでは緊急度も考えなければならず、機械的な先着順にはできない。ただ、この場では二人とも緊急手術が必要で、ヨハンが先に到着し、すでに天馬の担当する手術の手順に入っていた。
その夜、この順序は別のものと衝突した。
天馬はこちらを選んだ。
この規則には、一つ取り出しておきたい特徴がある。その人が誰であるかを見ない。
来院順は、名があるか、金があるか、病院に何をもたらせるかを問わない。問うのは、いつ着いたかだけだ。人の身分に関しては、徹底して何も見えない規則である。
だからこそ、あの夜には、何もかも見分けるもう一つの規則に対抗できた。
これは小さな行為だ。立場と呼べないほど小さい。後になっても、天馬は自分を説明する整った理屈を持っていない。ただ、そのとき手術室には先に来た子供が横たわり、自分は器具を握っていた。
もう一つある。その子供の手術は、ほかの医師にはできなかった。天馬以外に救える者はいないと、作品は明確にしている。だからあの夜、彼の前にあったのは単に「誰を救うか」ではない。「一人を救うこと」と「一人を見捨てること」だった。二つの選択肢の差は、あの部屋では具体的なものだった。抽象的な倫理の設問ではなかった。
代償は計算どおりだった
結果はすぐに出た。あの序列の論理に、きちんと沿っていた。
天馬は外科部長への道を断たれる。院長の娘エヴァとの婚約も破談になる。この病院で進むはずだった道は閉ざされた。
それを行ったのはハイネマンで、天馬に代わって地位を得たのは、院長の側にいた二人の医師だった。
徹底した、予想どおりの報復だった。誰の想像も超えていない。天馬自身の想像さえも。
あのベッドの傍らで口にしたこと
失脚してからある日、天馬はヨハンの病室に入る。
子供はまだ目を覚まさない。頭を包帯に包まれ、横たわっている。天馬が自分の手で死の淵から連れ戻した子供だ。
天馬は眠ったままの子供に向かい、院長たちへの思いを口にした。要するに、あんな連中は死んだほうがましだ、と。
ひどく打ちのめされた人なら、口にすることもある言葉だ。しかも、誰にも聞かれないはずの場所で言った。部屋には意識のない子供しかいない。
その後、ハイネマン院長とほかの二人の医師が死んだ。誰かが菓子に毒を入れていた。
同じ頃、ヨハンと妹が病院から姿を消す。
警察は長く捜査したが、結論は出なかった。殺人と双子の失踪がどうつながるのかも、解明されなかった。
一方で、天馬が失ったものはすべて戻ってきた。
ハイネマンが死んだから、彼の道を塞ぐ者はいなくなった。彼に代わった二人が死んだから、その地位が空いた。やがて天馬は、この病院の外科部長になった。
これは判定のやり直しでも、名誉回復でも、何らかの埋め合わせでもない。あの夜の判断を見直した者はいない。彼は正しかったと言った者もいない。
序列のほうも、一文字たりとも変わっていない。それを運用する顔ぶれが入れ替わっただけだ。
失ったものは全部戻ってきた。だが、それを戻したのは天馬ではない。
あの言葉は聞かれた
作品はここで、長いあいだ答えを宙に浮かせておく。
あのとき子供には意識がなかった。聞こえたのかどうか、作品はずっと言わない。三人が死んだことと、双子が消えたことが並べられる。間をつなぐ言葉はない。
言葉を口にすることと、その言葉が誰かに聞かれることは、別の出来事だ。
誰にも聞かれていないつもりで人が吐き出す言葉は、多くの場合、主張ではない。感情だ。実行されることも、記憶されることも望んでいない。言い終われば消えてよかった。
ところが、この言葉は消えなかった。
この構造は、後にも繰り返し現れる。ある場所で誰かが、自分では気にも留めない一言を口にする。それが別の人のところに届き、別のものになる。あの夜の天馬の手術も、あの愚痴も、同じことだった。
では、「その言葉を口にした」ことと「あの三人が死んだ」ことの責任を、どう考えるべきか。ヨハンは後に、自分が殺したと認める。だが、それで天馬に代わって答えが出るわけではない。失意の中で口にした言葉を、別の人が行動に変えたとき、言った人はどこまで引き受けるのか。この連作は、読者に代わってその判断を下さない。
利益から計算した男
最初から天馬に目をつけた人物が、一人いる。
連邦刑事局、BKAのルンゲ警部だ。彼はあらゆる動機と利益を並べ、どの筋が最も自然につながるかを見る。
この計算なら、答えは明快だ。三人の死で最も多くを得たのは天馬である。その三人に奪われたものが、その三人の死によってすべて戻ってきた。彼ほど得をした者はいない。
だからルンゲは彼を疑い、その後も何年ものあいだ疑いを捨てない。
ここははっきりさせておきたい。ルンゲの計算方法は間違っていない。捜査する者なら誰でも使う方法を、たいていの者より徹底して使っている。偏見に振り回された人ではない。むしろ本作で最も偏見に左右されない一人だ。人の言い分を聞かず、勘定だけを見る。
出した結論は間違っている。
なぜそうなったか。彼の計算には、一つの可能性を置く場所がない。人は何もしなくても、他人がしたことから、すべての利益を受け取ってしまうことがある。
利益だけを数える方法からは、どんな方法であれ、この可能性は読み取れない。
九年後
1995年。天馬はアイスラー記念病院の外科部長だ。仕事をこなし、暮らしは平常に戻っている。
彼の患者に、ユンケルスという男がいる。鍵開けの名人で、ある連続殺人事件と関わっている。
被害者たちには共通点があった。裕福で、子供のいない中年夫婦だった。
ある日、一人の青年が病院に現れる。整った顔に静かな物腰、声も穏やかだ。どんな部屋に入ってきても、人に警戒されないような男だった。
その後、病院の外で、青年は天馬の目の前でユンケルスを撃ち殺す。
ためらいも、前置きも、作品は描かない。殺人犯が決意を固める過程ではない。いつもしていることを、人が一つ片づけるように見える。
ヨハン・リーベルトだった。
彼は天馬に過去のことを、死んだ三人の医師のことを、あの夜のことを話し、自分が殺したと認める。
この瞬間から天馬は、1986年のあの夜に手術台から救い出したものは、自分の責任なのだと考え始める。
これが、作品を通じて天馬のあらゆる行動の出発点になる。その後にすることすべて、職を捨て、逃亡し、銃の撃ち方を覚え、ドイツとチェコを渡り歩き、まるで縁のなかった人々と関わることは、この認識から始まっている。
だが、その認識が成り立つのかどうかは、大きな問題だ。
一つの決断をした後、そこから枝分かれして生まれる出来事は、すべて決断した人のものなのか。
そうだとすれば、人を救うたびに賭けをすることになる。賭け金は、救われた人が残りの人生でするすべてのことだ。当人さえ、するとはまだ知らないことまで含まれる。それでは「救うか、救わないか」には、その場で答えられなくなる。先に未来を知る必要があるからだ。
そうではないとすれば、1986年のあの夜以降に死んだ人たちについて、誰一人として何も引き受けなくてよいことになる。
作品は残りの十七巻を使い、この問いを何度も動かしてみる。答えを渡すのではなく、新たな材料を次々に加えることで。
この一篇では、まだ言い終えていないことがある。
1986年のあの夜、手術台に横たわっていたのは十歳の子供だった。天馬が見たのは、頭を撃たれ、死にかけている幼い子だった。
けれども、その子は病院に着く前から、すでにいくつかのことを経験していた。
では、九年後のヨハンを理解するために、1986年のあの夜より前へさかのぼろう。何があったのか。
答えの一部は、もう存在しない場所にある。建物の窓はすべて割れ、壁は落書きで埋まっている。多くの書類はベルリンの壁が崩れる前に焼かれた。それでも後に、録音や研究資料の断片が姿を現す。
511キンダーハイムという場所だ。
次の一篇へ。
浦沢直樹『MONSTER』。1994年から2001年まで小学館『ビッグコミックオリジナル』に連載、単行本全十八巻。本連作では原作漫画を基準とし、テレビアニメ版(マッドハウス制作、2004〜2005年放送、全七十四話)を参照する。