NON DUBITO · 映画を読む · 1 / 3
刑務所の外で死んだ老人
1954年、メイン州ポートランド。スーパーマーケット、フードウェイ。
レジの先で老人が買い物袋を詰めている。手は震え、動作は遅い。客が待っている。近づいてきた店長の口調は、怒鳴るほどではないが、丁寧ともいえない。もっと早く。老人は「はい、わかりました」と答える。
ブルックス・ヘイトレン。50年前、ショーシャンクに入ったとき、彼はまだ若者だった。刑務所では図書係を務め、台車を押して独房の並ぶ区画を回っていた。誰がどの本を欲しがっているか、誰にペンが必要か、誰宛ての手紙が来たか。すべてが彼の手を通った。皆が彼を知り、皆が彼を必要としていた。あそこでは、彼は一目置かれる人物だった。
今は袋詰めをしている。けれど誰も、彼に詰めてもらう必要はない。袋を詰めるだけなら、代わりはいくらでもいる。
ほどなく、彼は借りている部屋で椅子を蹴り、梁から首をつって死ぬ。
この映画を思い出すとき、多くの人の頭に浮かぶのは、下水管を這い出たアンディが雨の中で両腕を広げる、あのショットだ。たしかに、いい場面である。しかし、この映画はいったい何を描いているのかと問うなら、答えはあの雨の夜ではなく、この老人のほうにある。『ショーシャンクの空に』が描くのは、一人の人間がどうやって刑務所を脱出するかではない。使われ続けた人間が、ついには何かの役に立つこと以外に、生きるすべを失ってしまうまでだ。
一 自由に適応できなかったのではない
よく聞く説明は「施設に慣れきってしまった」というものだ。レッドが食堂で語る言葉なら、誰もがそらで言えそうだ。最初はあの高い塀を憎み、やがて慣れ、最後には塀なしで生きられなくなる。間違ってはいない。だが、あまりにすんなり腑に落ちるので、皆うなずいて、その先を考えなくなる。ブルックスは、いったい何を手放せなかったのか。
塀ではない。外には部屋があり、仕事があり、ベッドもある。殴る者もいなければ、何時に寝るかを決める者もいない。必要だったのが四方を囲む壁なら、外の暮らしに戸惑うだけで済んだはずだ。死ぬところまで行く必要はない。
手放せなかったのは、必要とされることだ。
ショーシャンクでは毎日何十人とも話した。何十人もの人間に、彼を訪ねる用事があったからだ。彼の押す台車次第で、本を読めるか、たばこを手にできるかが決まった。老いてはいても、役に立っていた。50年も人に使われているうちに、必要とされているときだけ自分は存在するのだと、本人まで信じるようになってしまった。
だから出所後、本当に彼を死に追いやったのは孤独ではない。役に立たなくなったことだ。手紙には、夜眠れないこと、悪夢を見ること、自分が落ちていく夢を見ることが書かれている。さらに重い一文もある。あのスーパーで強盗をすれば、また刑務所へ戻してもらえるのではないか、と考えたというのだ。
この話の途方もなさを見過ごしてはいけない。70代の老人が、犯罪を起こして自分を牢に送り返すことを、本気で考えている。中には自分の持ち場があり、外にはないからだ。懐かしいのは刑務所ではない。自分を必要としてくれる、あの場所なのである。国は彼を50年間閉じ込め、それから外へ出した。そのとき、彼が存在する唯一の理由まで取り上げてしまった。
二 カラスのジェイク
映画の中で最も目立たず、同時に最も重要な場面の一つが、ブルックスがカラスを放すところだ。
ジェイクは、ブルックスがひなから育てたカラスである。ポケットに隠し、食事に混じっていたうじ虫を与えていた。この鳥は、彼にとって何の役にも立たない。たばこと交換できず、仕事も手伝わず、刑務所での地位を上げてくれるわけでもない。映画に描かれるブルックスの関係のうち、働きや役割を土台にしていないのは、これだけだ。誰かに奉仕しているのでも、誰かを利用しているのでもない。ただ、一つの生き物を世話している。
仮釈放が認められ、ジェイクを放さなければならなくなる。両手に鳥を包んで「お前は連れていけない」と言い、手を開く。鳥は二度ほど羽ばたき、飛び去る。彼はその場に立ち、いつまでも空を見上げている。
この場面が自殺の場面より重いのは、その後に起こることを、先に言い尽くしているからだ。ジェイクを放した瞬間、彼に残されていた最後の「誰かに使われるのではない営み」も終わった。あとに残る50年分の経験は、すべて、与えられた持ち場で役に立つためのものだ。だが外の世界には、彼の持ち場がない。
その後、公園のベンチでハトに餌をやりながら、ジェイクが飛んでくるかもしれない、と彼は言う。飛んではこない。
三 画面が映す人と居場所
この映画がブルックスを映す画面には、二つの型がある。
刑務所の中では、必ずそばに誰かがいる。台車を押す彼の両側には、独房があり、廊下があり、本を受け取ろうと伸びる手がある。画面は人や物で埋まり、ひしめいている。彼の周りに人が集まるのは、誰もが彼に用事を持っているからだ。
出所後の彼は、ほとんどいつも空いた画面の中にいる。道端に立てば目の前を車が流れ、歩道に立てば両脇を人が通り過ぎる。一人で階段を上り、一人で扉を開け、一人でベッドに座る。誰も彼に触れず、かといって彼を避けもしない。そもそも彼は、誰の通り道にもいない。
ここで撮られているのは孤独ではない。孤独は感情だから、泣くこともできる。画面にあるのは、もっと冷たい事実だ。必要とされなくなった人間は、どこにも場所を占めていない。画面の中にはいる。だが、その世界を成り立たせる仕組みの中に、彼の場所はない。
四 梁に刻まれた一行
首をつる前、ブルックスはテーブルに上がり、ナイフで梁に一行を刻む。
BROOKS WAS HERE.
遺言でも、告発でも、死後の始末を頼む言葉でもない。ただ、「ブルックス、ここに来た」と、それだけだ。
映画でいちばん悲しい一筆だと、多くの人は言う。たしかに悲しい。しかし、何が悲しいのかは、しばしば逆に理解されている。「私はこんなにみじめだ」と訴えているのではない。生涯使われ続けた人が、最後の最後に、何の役にも立たないことを一つしたのだ。
字を刻んでも何も得られない。大家は彼を知らない。次の借り手は気にも留めないだろうし、警察が追及することもない。誰にとっても価値のない一行。それでも彼は刻んだ。
50年間、道具として使われた人が、それでも去る前に、何の用途にも属さないものを少し残したかったからだ。何をしたかでも、いくらの値打ちがあったかでもない。ただ、ここにいた。この部屋にはかつて人間が一人いて、その名はブルックスだった。誰かに、それを知ってほしかった。
50年使い続けても、それだけは奪えなかった。命の最後の一分になってようやく姿を見せ、小さなナイフと一本の木材という形で現れた。けれど、それはずっと彼の中にあった。
だから、あとから同じ部屋に来たレッドは、その一行を見て、自分の言葉を下に刻む。敬意を表すためではない。生涯使われてきた二人が、最後に同じことをしたのだ。
五 彼の死を彼のせいにしない
最後に、はっきりさせておかなければならない。多くの解釈が、まるで逆の結論へ行ってしまうからだ。ブルックスが死んだのは、「本人が弱すぎた」「強さが足りなかった」「適応力がなかった」からではない。
彼をあの梁の下まで運んだのは、一そろいの仕組みである。50年閉じ込め、その中に持ち場を与え、自分は役に立つと信じさせた。年を取ると外へ出し、袋詰めの仕事と安い部屋と仮釈放の出頭カードを渡して、あとは放っておいた。50年もこのように使われた人に何が残るかを、その仕組みは一度も考えなかった。初めから終わりまで、彼への関心は「使えるか」のところで止まっていたからだ。
使える間は使う。使えなくなれば社会へ返す。社会もまた彼を必要としない。誰も彼を殺していない。憎んでもいない。ひどいことをした者すらいない。店長は一度、急げと言った。それだけだ。ここがいちばん冷たい。一連の出来事のどこにも悪人を見つけられないのに、人が一人死んでいる。
続く二篇では、アンディとレッドを考える。そこで見えてくるのは、アンディがここで安全に生きられたのも、同じ理由によるということだ。役に立ったのである。それが見えてしまえば、屋根の上のあのビールは、違う味がしてくる。
本稿が扱うのは、フランク・ダラボン監督の1994年の映画『ショーシャンクの空に』である。中国語原文の作品名と台詞は、一般に流通する中国語字幕に基づく。本版の台詞は原文の記述から独自に日本語にしたもので、公式日本語字幕の引用ではない。