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Non Dubito
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NON DUBITO · 映画を読む · 2 / 3

あの嘘の役目はただ一つ、息子を明日まで生かすこと

Han Qin (秦汉) · 日本語版公開:2026年10月7日

この篇の目次

中国語原作をもとに、日本語で独立して書き直した版

日本語独立リライト版(中国語原文に基づく) · 中国語原文:簡体字/繁体字

コンクリートの部屋に、数十人が立っている。ドイツ軍の将校が入ってきて、ドイツ語で収容所の規則を怒鳴り始める。

ドイツ語のできる者はいないか。前へ出て通訳しろ、と言う。

やせた男が手を挙げた。ドイツ語はひと言も分からない。

将校がひと言怒鳴るたびに、男もひと言ずつ「訳す」。

将校が告げているのは規則だ。男が告げるのは、ゲームが始まったということだ。最初に千点を取った者には、本物の戦車が一台もらえる。

将校が収容所での禁止事項を怒鳴る横で、男は減点の条件を数え上げる。お母さんに会いたがったら減点。おなかがすいたとおやつをねだったら減点。泣いたら減点。

怒鳴り終えた将校が出ていく。部屋の大人たちは、顔を見合わせる。五歳の子どもが一人だけ、その話を本気にしていた。

一 生き延びることを、子どもにもできる行動にする

規則を一つずつ見ていくと、どれもひどく単純で、同じことを目指しているのが分かる。

泣いてはいけない。お母さんに会いたいと言ってはいけない。おなかがすいたと言ってはいけない。

ゲームの中では、この三つは減点の条件だ。収容所では、それによって子どもが静かにして、隠れ場所を離れず、大人や監視兵の前へ走り出さずに済む。

後にはもう一つ加わる。大声で怒鳴る人たちに見つかってはいけない。見つかったら失格だ。こちらはもっと直接的で、要するに、しっかり隠れていなさいという指示である。

この嘘は、子どもに歴史を説明しない。ただ、いま生き延びるということを、五歳の子にも分かり、ときには実行もできる行動へと訳している。

誰を憎めばいいのかをジョズエに教えるわけではない。どんな人間になれとも言わないし、大人になってからの彼の世界を決めようともしない。ただ次の点呼、次の捜索、次の夜を切り抜けてほしいのだ。

二 現実が突き破ってくるたび、その場で繕う

ゲームは、一度説明してしまえば安泰というものではない。毎日ほころび、グイドは毎日それを繕っている。

息子が走って戻ってくる。自分たちをボタンや石鹸にする、人を焼いてしまう、そう言っているのを聞いたという。

その噂を通して、子どもは真相に触れかけている。ここは自分たちが殺されかねない場所なのだ。

グイドは笑い出す。誰からそんなことを聞いたんだい。笑いながら、さらに大げさな話をつくる。「明日の朝、僕はバルトロメオで手を洗って、フランチェスコで上着を留めるんだ」。ボタンが一つ落ちると、今度はそれをジョルジョだと言ってみせる。

深刻な顔で否定して、その話がどれほど危険かをかえって裏づけることはしない。もっと途方もない話へと膨らませてしまう。子どもはひとまず、それを「大人のばかげた作り話」の仲間に入れる。

さらに危うい別の場面もある。子どもたち全員に、シャワーへ行くよう命令が出る。ジョズエは行こうとしない。もともと風呂が嫌いな彼は、このときも隠れてしまう。

シャワーへ行った子どもたちは、戻ってこなかった。

映画は殺戮を子どもの視界には入れない。だが、観客がそれを理解することまで妨げてはいない。

ジョズエが生き残れたのは、父親の作り話と、五歳の子どものわがままと、偶然のおかげだ。グイドは万能ではない。何もかも防げるわけではなく、現実が突き破ってくるたびに、急いでもう一枚、覆いを重ねるしかない。

三 放送で語った言葉は、ゲームの一部ではない

グイドのすることが、すべてあのゲームに属しているわけではない。

収容所の放送室を見つけた彼は、ジョズエを連れて中に飛び込む。マイクをつかみ、収容所全体に向かって呼びかける。「おはよう、お姫様」

昨夜、二人で映画を見に行く夢を見たよ、君はピンクの服を着ていた、とドーラに語る。子どももマイクに顔を寄せ、「ママ」と呼ぶ。

女子収容区では、ドーラが仕事の手を止め、顔を上げる。

この言葉には、戦術上の価値が何一つない。誰かの食事をひと口増やすことも、一日分の労働を減らすこともできない。ゲームの点数が一点増えるわけでもない。

ただ一つ、夫と息子がまだ生きていると、一人の女性に知らせることができる。

後に、将校たちの集まりで皿を運んでいたグイドは、蓄音機のラッパを窓の外へ向け、オッフェンバックの舟歌をかける。かつてドーラと一緒に聴いた曲だ。

音楽が収容所を渡っていく。向こう側でドーラがそれを聴いている。

人間を人数と労働時間と処理量で数える場所で、グイドは見つかる危険を冒す。ただ、この一人の人に、あの一人の人がまだここにいると知らせるために。

四 レッシング医師が見分けたのは、一つの機能だけだった

レッシングはドイツ人の医師だ。戦前、グイドが働いていたホテルに客として滞在し、二人はよく一緒に謎解きをしていた。彼はグイドの頭の回転の速さを気に入り、天才だと褒めていた。

収容所にいるレッシングは、罪のない傍観者ではない。収容所の仕組みに組み込まれた医師として、囚人の診察と選別を担当している。誰を生かしておくかを決める装置の中にいるのだ。

昔の謎かけをきっかけに、彼はグイドだと気づく。グイドの中に希望が灯る。この人は自分を知っている。ドーラを見つける手助けをしてくれるかもしれない。一家をここから連れ出してくれるかもしれない。

ようやく将校たちの晩餐会で機会をつかんだレッシングは、グイドを脇へ呼ぶ。焦りきった顔で、ずっと自分を悩ませていることがあると切り出す。

彼が話したかったのは、どうしても解けない謎かけだった。

アヒルの出てくる謎だ。長いこと考え込んで、夜も眠れない。何としてもグイドに答えを見つけてもらいたい。

この場面のいちばん冷たいところは、レッシングがグイドを忘れていたことではない。むしろ、誰であるかは実に正確に分かっている。自分のために謎を解いてくれる賢い給仕だとは分かる。けれども、その給仕がいま殺されつつある一人の人間であり、妻を捜す夫であり、子どもを隠そうとする父親でもあることは、見えていない。

役に立つ機能を見分けることと、人間そのものが見えないことは、いくらでも両立する。グイドの顔を忘れる必要はない。その顔の奥にあるすべてを、自分がまだ利用できる一つの能力にまで縮めてしまえばいい。

五 霧の中の山

ある夜、眠った息子を背負ったグイドは、収容所の中で道に迷う。

霧が深い。前方に少しずつ、山が姿を現す。積み上げられた死体の山だ。

グイドは立ち止まる。その顔から、喜劇を演じる表情が消える。そして向きを変え、ひと言も発さず、子どもを背負ったまま立ち去る。

子どもは眠っていて、何も見なかった。観客には、もう十分に見えている。

この場面で、ゲームの届く範囲がはっきりする。ゲームは、映画が観客に差し出す収容所の姿ではない。ある登場人物が、一人の子どものまわりに、一時的に張りめぐらせている覆いだ。カメラは繰り返しその外へ立ち、私たちもそこに残す。

子どもがいまは背負わなくてよい知識を、観客が背負っている。ジョズエが何百点かを獲得するたびに、私たちは、その点数が現実の装置には何の効力も持たないと知っている。子どもの理解と観客の理解との距離は、苦しみを軽くするためのものではない。グイドが毎日、何を保ち続けているのかを、私たちに見せるためのものだ。

六 このゲームには終わりがある

このゲームにはゴールがある。千点を取って、戦車を一台もらったら、終わりだ。

規則は、この場所、この切迫した状況に結びついている。世界を説明する永遠の理論になるつもりはない。ジョズエに、ある信念を一生守り抜けと求めてもいない。

だからといって、嘘はそれ自体で無害なのだということにはならない。まして、恐怖が子どもに何の痕跡も残さなかった証拠にはならない。確かに言えるのは、もっと限られたことだ。グイドが組み立てたのは仮設の仕組みであり、そこではっきり示された役目は、隠れる必要がなくなれば終わる。

人の未来を占領する嘘もある。信じ続けることを要求し、その人が何者であるかを書き換え、後から疑問を口にすれば罰する。グイドのゲームはそういうものではない。求めるのはいま必要な、いくつかの具体的な行動だ。その行動で時間を買い、ゲームをもう続けなくてよくなる時を目指している。

そして、その時が本当に来たときに起こるのは、単に嘘がばれるという出来事ではない。

ジョズエはまだゲームを信じている。ところが、約束されていた賞品は本当に現れる。

嘘が役目を終えたとき、子どもはそれが嘘だったとまだ知らない。次稿で考えるのは、この時間のずれを守り通すためにグイドが何を支払ったのか、そして、あの戦車は何を本当にかなえたのか、ということだ。

本稿が扱うのは、ロベルト・ベニーニとヴィンチェンツォ・チェラーミが共同で脚本を書き、ベニーニが監督・主演を務めた1997年の映画『ライフ・イズ・ビューティフル』である。

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