NON DUBITO · 映画を読む · 3 / 3
この出来事の重みを決めたのは、人だった
この篇の目次
『HACHI 約束の犬』は、犬に見えている世界そのものを私たちに見せてもいる。カメラは何度かハチの目に近い高さまで下がり、画面から色の大半が抜け落ちる。人の脚、開閉する扉、ボール、駅、そして帰ってくるパーカーの姿。それらが、ハチの視野だとはっきり示された画面に入ってくる。
だが、カメラが視線を共有できることと、心のなかを翻訳できることは別だ。映画はハチに内面の独白を与えない。人間の言葉を借りて説明させることもない。パーカーがいなくなったことをどう理解しているのか、確定させる一言も与えない。
私たちはハチと一緒に見ることを許される。だからといって、代わりに語る権利まで得たわけではない。
一 見えることと、自分のものにすること
ハチが毎日駅へ行くのは、パーカーが帰ってくると信じているからだ。パーカーを忠実に覚えているからだ。死を理解できないからだ。観客はよくそう語る。どの説明も、ハチの行動と矛盾しないかもしれない。しかし映画のなかで、決定的に確かめられる説明は一つもない。
解釈を控えるとは、ハチに心などないふりをすることではない。証拠を読むことと、その心を自分のものにすることを区別することだ。毎日たどる道、いつもの場所、パーカーを前にした興奮、たった一度ボールを取ってきたこと、ほかの場所にとどまろうとしない行動。それらには、確かにある方向が見える。だが、その方向を余さず言い尽くす一文までは与えられない。
だから、犬の視点は秘密を漏らすためにあるのではない。ここには、私たちとは別に世界を感じ取る中心がある、と観客に気づかせる。その中心が自分の世界をどう組み立てているのかは、なお一部、人には開かれていない。
二 自ら動き、認められることは人に委ねられる
ハチは受け身ではない。抜け出し、道を覚え、進む道を選び、戻ってくる。閉じ込めようとする人の手立てに抵抗し、待ち、それを何度も繰り返す。その行動は、周りの人々の暮らしをつくり変える。
けれども、社会に向かって何かを主張することはできない。駅の規則に異議を唱えられず、待つ理由を記者に説明できず、「忠犬」という見出しを許可することもできない。送られてきた金を管理できず、治療を要求することもできない。制度のなかで何が起こるかは、すべて、言葉、財産、規則、新聞、貨幣を扱う人間が、目の前の行動をどう分類し、どう応えるかにかかっている。
ここに、この映画の中心にある非対称がある。人間ではない存在にも自ら行動する力があることは、はっきり見える。それでも、社会での位置は人間を介してしか得られない。ハチが訴訟に勝ったのではない。ここには応えるべき出来事があると、ほかの者が決めたのだ。
三 証明がなくても、無視してよいかは決めねばならない
カールは追い払い続けることができる。ジェスは食べ物を与えなくてもよい。アンディは門を閉じられる。ケイトは二度と戻らなくてもよい。記事を読んだ見知らぬ人たちも、珍しい話があったものだと済ませられる。ハチには、そうした選択に代償を負わせる手段が一つもない。
だが、それぞれの人は、内側で何を意味しているか定かでない行動に、いくらかの重みを与えた。ハチは死を理解しているのか、自分から忠誠を選んでいるのか、あとから付された道徳の言葉に値するのか。その証明がそろうまで、待ったわけではなかった。
これは、人の解釈がいつも正しいということではない。人が責任を避けられないということだ。ある命が自分の立場を弁護できないとき、不確かさは謙虚であることを求めうる。だが、それだけで無関心の弁護にはならない。
四 世話が、待つことの形を繰り返す
駅の共同体の応答は、一度心を動かされれば終わるものではない。何度も新たに引き受ける行動だ。次の食事、次の冬、次の出費。そして、どの列車が来てもこの物語を終えられない、もう一日。
人々は、自分を動かした時間の形に、少しずつ倣っていく。ハチは戻ってくるが、パーカーには会えない。人々は世話をするが、結論には出会えない。ハチの行動はなお見通せないままだが、人々の行動は責任を引き受け始める。
したがって、重みを与えるとは、この話は大切だと感じることだけではない。その判断に従って、自分の持つ資源の使い方を組み直すことだ。食べ物、そこにいてよいという許し、身を寄せる場所、気にかけるまなざし、語り継がれる記憶。そのなかで、意味は現実の形を得る。
五 雪のなかの再会
ハチの最後の夜、映画はパーカーを再び登場させる。駅の扉が開く。パーカーがしゃがむ。若い姿のハチが駆け寄る。それまでの、彩度を落とした視点の映像とは違い、この場面は、誰かの知覚を示すだけではない。願いがかなうところを思い描いている。
編集はこの再会を、死にゆくハチの幻として受け取るよう私たちを誘う。だがそれは、どの犬についても、死の間際の経験を証明するものにはなりえない。ここには観客の願いもある。映画が自ら生んだ悲しみに贈る、一つの贈り物なのだ。
この区別をしたからといって、場面が損なわれるとは限らない。フィクションは自分の願いを認めながら、それを知識と呼ぶことを拒める。再会は、映画が育ててきた関係に、感情のうえでは忠実である。ただし、ハチが私たちに提出できる経験の報告ではない。
六 ロニーが受け継いだヒーロー
映画の始めと終わりをつなぐのは、教室でのロニーの発表だ。パーカーが亡くなったとき、ロニーはまだ赤ん坊だった。母方の祖父との記憶はなく、パーカーとハチを知るのは、写真と家族の語る話を通してだけである。それでもロニーはハチを自分のヒーローと呼ぶ。この話から忠誠を学び、愛する人を忘れないことを学んだと言う。
最後の解釈がなされるとき、物語の中心にいた二つの命は、もうこの世にない。ロニーは、もともと何を意味していたのかとハチに問い直すことはできない。それでも、受け継いだ物語がこれからの自分にどんな生き方を求めるのかは、自分で決められる。
実在のハチ公にも、さらに大きな規模で同じ広がりが起きた。1932年の新聞記事によって全国に知られ、1934年には、生きているうちに渋谷駅前に銅像が建てられた。死後も物語は、記念物、博物館、本、映画へと受け継がれていく。2009年のこの翻案自体も、後世の人々が出来事を残し、形をつくり直そうと選んだ、一つの行動なのである。
一つの行動は、最終的な意味まで携えて私たちのもとに届くわけではない。その重みは、見た人たちの応答から生まれる。人は解釈し、理解が不完全である危うさを引き受け、目にしたものによって、それからの自分の行動を変えていく。
本稿が扱うのは、ラッセ・ハルストレム監督、スティーヴン・P・リンゼイ脚本による2009年の映画『HACHI 約束の犬』である。史実の年次は、大館市のHACHI100プロジェクトおよび渋谷区立図書館の資料に照らして確認されている。